パンチの独り言

(2002年11月4日〜11月10日)
(傾聴、盛り、遠慮、紅葉、寒風、危機管理、現場主義)



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11月10日(日)−現場主義

 教育を考えるシンポジウムやテレビのプログラムが非常に多くなっている。教育評論家などという職業があるがごとく、多くの人々の肩書きにくっついて、厳めしそうな雰囲気を漂わせている。しかし、議論の中身を聞いていると、どうにもならないおかしな印象を覚えるのはなぜだろうか。目の前にある問題に対する批判ばかりで、その度ごとに違う意見を出し、まるで朝令暮改といった感じがするからなのかも知れない。
 こういう会で特に問題にされるのはどう教えるかである。まるで教え方の問題が今の教育問題の筆頭の課題のようだ。もしそうだとしたら、なぜ教育システムがかなり異なる諸外国でも同じような問題を抱えているのだろうか。米国は日本のある算数塾のシステムを有効なものとして採用したし、日本では米国の様々なシステムを真似ようとしてきた。また、どの国もパソコンを教育の現場に導入して、早期学習による習熟度の向上を図っている。ところが、現実には教育の現場では問題の本質的な解決にはなっていない。国によって様々なレベルの違いはあるが、教えられる立場の子供達の学習態度に以前とは違ったものが見られるようだ。これは一言で言えば、受け身の態度である。すべての知識を懇切丁寧に、本人の努力無しで身に付くような教育というのが理想のものと言われ、その線に沿ってあくまでも受け身の体勢で待ち続けるというものだ。この考え方に一番合致しているのがおそらく受験術と言われるものだろう。受験問題を解くためのノウハウを教える場合には、それを見せることによって、自分自身で問題解決するよりもずっと手軽に素早くテクニックが身に付くと言われる。本に関しても最近ノウハウもの、ハウツーもの、マニュアルものが流行っているのはそういうところに原因があるのであろう。しかし教育現場では教える立場だけでなく、一方に教わる立場の人たちがいる。この人たちにとって、何が必要か、何をすべきか、という問題も議論すべきだろう。きちんと教えればちゃんと理解できるという論法はいかにも正しいもののように思えるが、その気のない者を動かすほどの力を持つのは容易なことではない。だからそういう超人教師を育てるための方策を論じるよりも、受け手である児童、生徒、学生に何をさせるべきかを論じるほうが有効な場合もあると言えるのではないか。一つ参考になった話は、ある地方の民謡に関して師匠に尋ねたら、現場に行って自分で調べてこいと言われ、行って調べて報告をしたら、「うん、おれもそう思っていた」と言われたというもの。ただ、これには続きがあって、「それなら始めから教えてくれればいいのに」と聞いたら、「行ったことで疑問に思っていたこと以外にも色々と知ることができただろう。自分でその場に行って調べることの意味はそこにあるのだよ」、と言われたそうな。受け身的に教わることで楽をすれば、その人からの限られた情報しか得られず、失うものも多い。これが教わる立場にとって大切なことなのかな、と思った次第。

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11月9日(土)−危機管理

 独り言のデータの引越しもやっと終了である。これが意外に大変で、結局手作業をしていることと、この際以前に書いたものをちょっと手直ししていたために、かなりの時間を必要とした。特に一週間以上の期間の文章を読み直し、手直しするというのは、それほど簡単なことではない。まあ、それでも、サイト全体が正常に動いていてくれるので、そこに関してはまずは一安心といったところである。
 それにしても、便利になればなったで、こういうちょっとしたことに不便を感じるもののようだ。たとえば、みんなの掲示板などは一日も止まっていなかったが、そこに表示されないというだけで心配になったり、不便に感じたりする。こういうときのために、伝言板やチャットを別のところに設置しているのが、今回は大いに役立ったと思う。結局、突発的な障害に対処するためには特に一点集中ではなく、いろんなところに分散させて管理することが大切なのだと感じたが、今回は特に作業が予定通りに進んでいないことで、心配が大きくなってしまったこともあったようだ。作業の始まりが予定通りに起きなかったことで、どうしたのかなと心配になり、終了が予定通りにならないことで、大丈夫なのかなと心配になる。まあ、ただ心配しているだけで、それ以上のことはサイトの管理者とて何もできないわけだから、どうしようもないことは判っているのだが、やはり何となく気になってしまうわけだ。これが社会的にはさほど影響のない個人の愉しみのためのホームページだから心配もごく小さくて済むのだろうが、公のサービスや銀行のサービスに関わるものがこういった問題を生じたら、こんな程度では済まないだろう。たとえば、証券会社のシステムなどは良い例で、今までにもいろんな会社で障害が起きて、かなりの数の利用者が被害を被ったようだ。こういうシステムではサブシステムをどのように設置しておくのかが最も大切になるのだろうが、データの損傷ならまだしもソフトのバグなどといった障害ではサブも同じ問題を抱えることになり、何の解決にもならない。しかし、ネットシステム、コンピュータシステムにこれほど依存しているわけだから、できないという一言で片付けることもできないだろう。はたして、そういった危機管理がどの程度できているのか、知ろうとしている人はどのくらいいるのだろうか。

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11月8日(金)−寒風

 立冬ということで、もう冬なんだと感じた人たちも多いのだろう。暦の上ではと断った上でのことが多いのだが、今年の立冬はまさに冬の始まりを言い表していると言えるのかもしれない。ついこの間まで、秋らしくない暖かさと言っていたのに、あっという間に冬に突入するかのごとくの寒さがやってきて、特に風の強くなった地域では、その効果も加わってかなり寒くなったと感じられたようだ。
 風が強くなるとなぜ寒く感じられるのか。体の周りの空気が動くと、それによって熱を奪われるからという説明が正しいかどうか、そんな話を聞いたことがある。風速というのも中々実感のわかないものだが、よく使われているのでこれを例にすると、風速が1メートル増すごとに体感温度が1℃下がっていくのだそうだ。ちょっとしたそよ風のように、暖かいときだったら感じられるような5メートルの風速で、5℃下がったように感じられるわけだから、ちょっと怖い感じがする。日本では赤城下ろし、伊吹下ろしなど風の強い地方ではそれを表す言葉があり、冬の冷たい風に悩まされることも多いが、アメリカではシカゴがwindy city(風の町)として有名である。なにしろ天気予報でwind chilling factor(風の冷却効果因子)なるものが紹介されるほどなのだから。これとは別に気温そのものへの影響という意味で紹介されるのが標高である。山に登る人たちはなんとなくわかっている場合が多いようだが、こちらの効果もかなり大きいようだ。こちらの方は大体100メートル標高が上がるごとに1℃ほど気温が下がると言われている。正確な値は色んな要素があるので、これと言うことはできないと思うのだが、0.6℃と書いてあるところもある。この気温の低下に加え、山の上では風も強くなるから、当然体感気温としてはもっと下がることになる。こういうところが服装に注意せよと言われるところなのだろう。また年齢を重ねると、体温調節が上手くいかなくなる人も多いので、これまた注意しなければならない。まあ、いずれにしても、急激な気温の変化についていけないのは、若くても、年をとっていても同じことで、季節の変わり目には要注意となる。そんなことを言っていても、風邪を引いていたのでは何の意味もない。どうも治りが遅いのは年のせいかなどと言いたくなるのも、困ったものだ。

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11月7日(木)−紅葉

 先日の夕方、職場の周りを歩いていたら、木々の葉が色づいていた。秋も深まってきたといったところだろうが、今年はどうも不安定で急に気温が下がり、場所によっては紅葉の時期もあっという間に過ぎ去って、雪が降り始めているようだ。季節の移り変わりはちゃんと進んでいくものの、その進み方は年毎にかなり違うようだ。
 この時目に付いた樹木はアメリカハナミズキである。あのほわんとした感じの花が咲く木だが、名前からして外来種である(花子さんに指摘されたので、この際書き加えておくが、アメリカヤマボウシあるいはハナミズキというのが正式の名前のようだ。ただ、園芸店や公園の名札でもアメリカハナミズキというのを見かけるので、ここではこの名を使った)。この木の葉もやはり赤く色づくのだが、よく見るとそこにもう一つの赤が見える。赤い実がなっているのだ。遠くから見ていてはまったく気がつかないが、近づいて見るとちゃんと真っ赤な実がついている。少し紅葉の時期がずれていれば、実の方にも目がいったのかも知れないが、こうなると葉っぱの赤に隠されて目立たなくなってしまう。ヒヨドリなどの野鳥がこの実をついばむかどうか、見たことがないので判らないが、今年はカモフラージュが徹底してしまい、食べてもらえないのかも知れない。そろそろこの辺りも紅葉が山の方から降りてきて、これが済めばいよいよ冬の到来かなどと暗い気持ちになってしまう。このところ冬型の気圧配置になり、等圧線も混んで縦に並んでいるから、日本海側は雨か雪、太平洋側は晴れという天気が続いていた。その上風も強くなっていたから、急に寒くなった上に風の効果で体感温度はかなり下がってしまったようだ。数字的には10℃前後だから、真冬に比べればそんなに寒くはないが、体の方は変化の大きさを感じ取るので、寒く感じて震えている。もう少ししたら、やはり冬になるのだろう、いつもの年のごとく。この時期にぴったりの俳句を一つ、ある人のものだが有名ではない。

断崖の上の断崖 照紅葉

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11月6日(水)−遠慮

 自分達の職に直接関係のある集まりに参加する時は大部分が知り合いばかりでお互いにそれほど意識することもない。しかし、一般に公開されている集まりに参加する時はどんな人が来るのだろうかと期待と不安の入り交じった感覚になることが多い。また、講演会などでは話の内容に関しても同じことが言えて、何が起きるのかわからないという期待でワクワク、不安でそわそわといった感じになる。
 地方の市町村などが主催する講演会などはテレビで有名になっている人が来れば一杯に、そうでなければ閑散といった具合に結果がはっきりとしていることが多い。本来はどんなテーマなのかという方が重要なはずなのだが、集客能力は有名人が来るかどうかにかかっているといっても過言ではない。それでも、たとえば狂牛病や原子力発電、不況などの時の話題を取り上げるようなものであれば、なんとか形になるだろうし、それなりの数が集まるだろう。いくら科学が一般に知れ渡っているとは言っても、数を集めることには困難を伴う。もう何年も続いているのだろうが、「大学と科学」シンポジウムというシリーズがある。文部省の時代に始められたもので、大学で行われている研究をあるテーマに絞って紹介するものだ。おそらく大きな研究グループから提案されたものなのだろうが、年に5つくらい開催されているようだ。以前は東京のみの開催だったが、最近は関西などの地方都市でも開かれているらしい。一度だけ見に行ったことがあるが、話の内容よりも参加者を見ていた方が面白い感じがした。平日に開かれるから、働き盛りの人の数は極端に少なく、これから専門家になろうとする学生と余生を楽しく学びながらという高齢者が大部分であった。その会はたまたま参加者の数も多く、賑やかな雰囲気だったが、皆熱心にメモをとっているなど、感心する点も多かった。参加のためには事前申し込みが必要で、返信された葉書を持参した人だけが入場できるシステムになっていたが、それでも会場からの質問は質問用紙に記入したものだけを受け付けていた。どうも、変な活動家の発言を未然に防ぐ意味があるそうなのだが、一方で挙手しての質問というストレスのかかることを嫌う参加者には好評のようだ。確かに、口頭での質問は不慣れな人にとってはかなりのストレスだろうし、書くのならば落ち着いてできるから意味の通る質問ができる。そんな副産物もあって、その会でもなかなか活発な質疑応答がなされていた。引っ込み思案とかそういったことだけでなく、話すことよりも書くことの方がまとめやすいという事情もあるのだろう。

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11月5日(火)−盛り

 盛りがつくなどと言うと、別の意味になってしまうが、その意味も含めて勢いがある、元気のある時期のことを「盛り」と言う。男盛り、女盛りと区別するところを見ると、どうも対象とする部分が違うようにも見えるし、当然ながら時期も男と女で違っているようにも思える。ただ、勢い、元気などと聞くと、最近ではちょっと話題にしにくい面もあるようだ。
 この「盛り」の話題をラジオの特集が取り上げ、街頭でそれぞれの人が自分が何歳の頃を男は男盛り、女は女盛りと考えるのかを聞いていた。当り前のことだが三つに分かれる。これから先に「盛り」が来ると思う人、今が「盛り」と思う人、もう過ぎ去った過去が「盛り」だったと言う人。この三つの区分が年齢によるのなら簡単に理解できるが、実は年齢にはよらなかった。さすがに20代前半より若い人たちは将来にやって来ると言っているが、ごく近未来だと主張する場合が多かった。せいぜい10年後までのことで、それ以上先のことが想像できないからなのではないかという解説がついていた。この辺りは画一的な印象を持つが、調査の数が少ないから、これだけですべてを語るわけにもいかないだろう。一方30代以降になるとその人のおかれている状況によって、かなり意見が分かれてくる。子育てに疲れている主婦はその前が「盛り」だったと振り返っていたが、これも人によってはもっと先に子供が手を離れた後にやって来ると期待を込めて考える場合もあるだろう。ストレスがかかっているとさすがに今を主張する人は少なく、どうしても過去を懐かしむか未来に期待を抱くしかないようだ。これが40代だとすると、それ以降は今、それも進行形の今を答える人が増えてくるようだ。今が「盛り」、それも今だからこそ、明日になれば明日の今、ということなのだろう。大阪ではおばちゃんが元気と言われるのも、この辺りが理由なのかも知れない。でも、今を楽しく生きているという実感があればこその答えに違いない。こんな中で以前紹介した民謡のコーナーのアンカーがなるほどと思うことを言っていた。「盛り」には二度の山がある。一度目は子供を作ったり、育てたりという体力的な意味での「盛り」、盛りがつくという方の意味に近いものだ。二度目はそれからずっと後の人間として落ち着いてきた頃の精神的な意味での「盛り」、いろんな知識や知恵などが身につき、その上に新たな興味などが加わったときに第二の盛りがやって来るというもの。一人だけで何となく納得しながら聴いていたのだが、その後にさらりと、でも二度目を迎えられない人たちもいますけどね、という一言が続き、だめを押された気分になった。確かにその通りだ。それにしても二度目を迎えつつある人、真っ只中にいる人、そういう人たちは確かに元気だ、声にも張りが感じられたもの。

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11月4日(月)−傾聴

 こういうものを書いているぐらいだから、当然話をするのも好きである。元々自分の思っていることを話したり、書いたりすることが好きだったが、一方で人の話を聴くのも楽しいと思う。ただし、若い人たちの話はものによっては遠慮したくなることもあるのだけれども。中でも特に好きなのは年寄りの話、意外に参考になることが多い。そうは言っても、酔っぱらって説教だけになった目上の人の話は御遠慮申し上げるが。
 年寄りの話を酷評する人たちがいる。昔は良かった、最近の若い者は、など懐古主義的で、自分達にとって何の役にも立たないものだ、というのがその主旨のようだ。特に何か目的を持って話を聞く場合には余計な話ばかりに聞こえるのだろう。確かに、齢を重ねた人にとって昔を思い出すのは懐かしいことだし、大体人間は悪い思い出の描かれたキャンバスの上に良い思い出を塗り重ねるという作業によって、更に楽しく生き長らえることができるものらしい。だから、どうしても今目の前にある悪いものに対しても、それを更に塗り重ねるよりも、昔のものを思い出すことによって消し去ってしまおうとするのだろう。まあ、そんなことはさておき、その気になって聴いていると、昔は良かったという思い出話にしろ、ちょっと説教じみた話にしろ、いろいろと参考になることが多い。別に自分にとって役に立ちそうな話を期待しているわけではないが、聴いているうちにこちらの気になっていたことのヒントになるような話が出てくるのだ。たぶん直接関係のあるものではなく、単に自分の方が気になっているから無理矢理結び付けている場合が多いようだ。だから、こんな悩みがと相談した時よりも、まったく関係の無い話を年寄りの方が勝手にしているのを聴いている時の方が、自分にとって印象に残る話が出てくることが多い。こんなことを言っていても、実際にどのくらいの割合などと考えたこともないから、ひょっとすると印象の度合いの違いからそんな気がしているだけかもしれないが、それにしても強さが違うのだからそれで良いのではないか。年寄りと強調してきたが、別に70、80代の人じゃないといけないわけではなく、40、50代でも面白い話が聴けることもある。ただ、その頃はまだまだ思惑が前面に出ていることが多いから、その辺りを注意せねばならない。いずれにしても、結局、聴きたくないと思えば聞こえて来ない話も、聴きたいと思えば聞こえてくることがあるということだろうか。話している方も話したいことを話し、聴いている方も聴きたいことだけ聴く、それでいいのではないか。

(since 2002/4/3)