パンチの独り言

(2002年11月18日〜11月24日)
(待機、改悪、寸描、数字魔術、音頭取り、労り、楽園)



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11月24日(日)−楽園

 都会に住んでいても、いろんな野鳥を見ることができる。たとえば、スズメやヒヨドリなどはどこにでもいるだろう。可愛い野鳥などと言いたくもないものもいて、その代表格はカラスだろうか。あれも嘴の大きさにより、ハシブトガラスとハシボソガラスがいる。もう少し注意して見ていると、夕方群れを成してねぐらに帰るムクドリや川の側で尾をリズミカルに動かしているハクセキレイなども都会で見ることができる野鳥の代表格だ。
 これらの鳥は渡りをせずに、その土地に一年中暮らすので、留鳥と呼ばれる。その一方で、ツバメなどの鳥は渡りをする。ツバメは春に南の方から移動してきて、日本各地で子育てをして、秋には南へと帰る。これとは別に秋から冬にかけて北の方から渡ってくる鳥の代表格はツルとハクチョウだろう。ツルにもハクチョウにもいろんな種類がいるけれど、野鳥の会に入っているわけでもない者にとってはそんなに色々と覚えられるはずもない。ツルは鹿児島の出水平野が渡りの地として有名になっており、毎年何万羽ものいろんな種類のツルが渡ってくる。ハクチョウの飛来地として有名なところも色々とあるが、今年はどうも渡りの時期の冷え込みのせいか、いつもより南の方にやって来たものがいるらしい。鳥の渡りは毎年正確に行われて、ちゃんとコンパスと地図が内蔵されているのではないかと聞いていただけに、そんなのありなのかと思えてしまうが、その程度の間違いは気にするほどのこともないのかも知れない。これらの冬に渡ってくる冬鳥は大きなものばかりだが、これとは別にもっと小さな鳥も北の方からやって来る。先日見かけた鳥はスズメより少し小さく黄色い背中を見せていたのでちょっと調べたが、ジョウビタキなのかキビタキなのか判然としない。どちらもヒタキの類だからちょっと見ただけで素人が区別をつけるのは難しいのかも知れないが、いずれにしてもどちらかだったと思う。それは体の色が黄色いことからオスで、ビルの入り口のドアのステンレス部分を覗き込んでいた。たぶんそこに映っている自分の姿を仲間と見間違ったのかも知れないが、近づくと飛んでいってしまった。この時期縄張をもつかどうかわからないが、もしそうならば同じ仲間の同じ性別であれば追い払わねばならない。ひょっとしたら、その瞬間だったのかなと思ったが、時期がずれていれば的外れとなる。いずれにしても、鳥や動物にとっては鏡のようなものはとても不思議に思えるのではないだろうか。自分の行動とまったく同じことをする仲間が目の前にいるのだから。また透明なガラスも特異な存在だろう。空中に見えない壁があり、突然行く手を遮られてしまう。よく衝突して死んでいる野鳥もいる。そういうものに対しても徐々に学習されていくのかも知れないが、どこにも危険がありそうなのに、食べ物の豊富な都会は、彼らにとっては天国なのかも知れない。

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11月23日(土)−労り

 ちょっと疲れがたまってくると、食べるものにも注意したくなる。まあ、疲れのせいなのか、単に年齢のせいなのか、その時の気分で使い分けているだけなのかも知れないが、いずれにしても、あまり重い食べ物を食べようとは思わなくなるようだ。重いか軽いか、軽食と呼べば軽いわけではなく、また大量に食べるから重いわけでもない。
 ここでいう重いというのは脂っこいもの、血の滴るようなステーキとか、脂ののったトンカツとかといったものだ。昔、話し相手も若かったが、彼は元気が出ないときはステーキを食べると回復するなどとよく言っていた。即座にエネルギーに変わるような気分だったのだろう。今、同じ思いかどうか確かめたことはないが、たぶんちょっと違った気分になっているのではないかと思う。やはり代謝の速度が落ちるとともに、消化や吸収といった能力も徐々に落ちているのだろう。そんなことはない、という反論も聞こえてきそうだが、内臓系が丈夫な人はそういう気分の変化には接しなくて済むのかも知れない。とにかく、そんなこんなで疲れたときには、なるべく体にやさしい食べ物を食べたほうが良いのかも知れないと思う。その状態を称して軽いものを食べるという場合があるわけだ。では、どんなものが考えられるか、大体和食と呼ばれるものはそういった範疇に入れられる。でも、中には和食でもちょっとしつこいなと思えるものもあるのでご注意を。最近は豪華な食事ということで色々と消化に手間取りそうなものも増えている。いつ頃からかよく聞こえてきたのは中華粥である。和食のお粥も、確かに風邪などで消化器系がやられてしまったときなどに、よく食べる。さつまいもを入れたものなど中々の味で、ついつい食べ過ぎて、何のための病人食だったのかわからなくなることもあるが、それこそ回復した証拠だったのだろう。中華粥の場合は、具が色々とあって楽しめるという点も良いところだ。野菜、鶏肉、海鮮など、中華料理は元々いろんな食材を使うことで有名な料理法だから、なんでもありのところがある。具によっては、ちょっと消化に良いとは言えないものもあるが、そういうものさえ避ければなんとかなりそうだ。それにちょっと軽い点心などがついていれば、元気なときでも歓迎してしまいそうになる。ただ一方で、本当に美味しいものは少ないとも聞く。あまり経験したことがないので何とも言えないが、本場中国で食してきた人たちは総じて病みつきになるところをみると、やはり独特の魅力があるのだろう。何かの機会にぜひお試しあれ。

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11月22日(金)−音頭取り

 働き盛りの人が突然死亡することがある。突然死と一般に呼ばれているものだが、実際の死亡原因としては色々ある。長期間療養するものではないから、中枢的な働きをしている器官に異常が起き、死に至るほどの重症であった場合である。その意味で脳と心臓が対象となることが多い。脳ではクモ膜下出血が非常に多くなっているし、心臓では心筋梗塞などが多い。
 脳の場合は意識を失っていても運良く回復することがあるが、心臓の場合は元気そうに見えて回復しないことがある。昔、心臓外科で有名な医師が心臓病の恐ろしさをこんな形で表現していた。心筋梗塞と併発する場合もあるのだろうが、それとは別に致死的な病気と言われているのが心室細動である。これは不整脈と呼ばれる症状の一つだが、心室が正常に収縮せず、そのために血液が体内に排出されず、結果として死に至るものである。心室細動と呼ばれるのは、心室の筋肉細胞が細かな部分でバラバラに収縮を繰り返し、そのために全体として収縮できなくなるからで、本来ならば全体がうまく同調して収縮することであのきれいな動きをするのに、それができなくなる。こうなれば、体内に循環されなければならない血液を送り出せないわけだから、それぞれの器官の細胞は酸素供給がなく、機能できなくなる。特に脳細胞はこういう状況になれば数分の間に死んでしまうそうだ。ずっと昔のことだが、心筋細胞の培養を紹介していた番組があった。心筋細胞は一つ一つの細胞がそれぞれ単独で収縮する能力をもっている。ただ、その収縮の周期は細胞ごとに微妙に違っていることが多い。ところが二つの心筋細胞を一緒にして接触させると、どちらか一方の収縮周期に揃ってくることを紹介していた。つまり一方の周期がもう一方の周期に合わすことになるわけだ。この仕掛けがあるお陰で、沢山の細胞が集まったときにも全体として一定の周期で収縮することができるのだそうだ。しかしそれでも全体としては、違った動きをする細胞も必要だから、これだけで心臓がちゃんと機能できるわけではない。全体のペースを保つために、いわゆるペースメーカーが必要になる。一部の心臓病の患者が心臓の近くに埋め込んでいる機械のペースメーカーではなく、心臓の中にある細胞の一種で搏動のペースを作り出す役割を果している。心臓全体としては、ペースメーカーの号令一下、あの規則正しい搏動とバランスのとれた収縮パターンを作り出すことができる。そういう意味ではリーダーと呼ぶべき役割をペースメーカーは果たしているのだろう。この機能に異常が起きれば、リーダーのいなくなった集団と同じように心臓の搏動もリズムを失い、不整脈を起こす。その最も重い症状が心室細動となるわけだ。こんなことを書いていたら、何処かの国の政治状況に似ているような気がしてきた。リーダーが機能していないかリーダーがいないかの如く、小さな部分がバラバラに動いている。かなり危機的な状況のように見える。外からペースメーカーを埋め込むくらいの荒療治が必要なのだろうか。

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11月21日(木)−数字魔術

 景気の悪い話ばかり書いているようで、ちょっと自分でも嫌になるけれども、実際には悪いと思っているわけではなく、どちらかというと単に心理的なものだけなのではないか、と思っている。まあ、そんなことをガタガタ言っていても、数値が示しているではないかと厳しい反撃が返ってきそうだが、そんな数値も選び方次第、どんなに良く見せようとしてもすべて良いという時もないし、どんなに悪く見えるときでも良い指標はあるものだ。
 そんなことを言っていても、やれ失業者の数がこんなに増えた、やれ銀行が国営化されるかも知れない、やれ団塊の世代の退職金はどうなるのか、などと悪いニュースが巷にはあふれている。結局悪く感じられれば感じられるほど、少なくとも現状維持をして欲しいと思うようで、政治家や官僚の保守的な考えを批判することなどできそうにもない。こういう中で、もうずいぶん長いこと就職難の話題が取り上げられている。リストラなどによる失業者の急増が始まる以前に、既に問題視されていたが、最近この話題に関して、気になることが幾つかあったので、少し紹介しておこう。まず、ずっと以前から問題になっていたが、大学の格、賛否両論あると思うが、もしもあるとしたらだが、それによって、就職に有利不利が出るという話。これの典型は資料請求で、一流大学であればほとんどの会社から資料が送られてくるが、三流となると二三割しか戻ってこないと言われている。そこが格の違いだと片付ければそうなのかも知れないが、これは同じレベルの会社に請求した場合の話だ。以前から努力を怠っておいて、その実感がないなどと言うときつい意見になるが、そうとしか思えない場合もある。下のレベルの大学で努力した人はまた違った将来があるのかも知れないが、そうでない人はまあ仕方がないのではないだろうか。これと似ているのかも知れないが、高卒者の就職難も数字的にはかなりのものだ。ところが、これは単に選り好みの結果だと言っている人がいた。求人倍率の数値は確かに厳しい状況を示しているが、それも求職者の態度から来るものと言えなくもない。まあ、簡単にその人たちが悪いのだと決めつけるわけにはいかないが、もう一つそれと関連した話を聞いたから、あながち間違いでもないのかな、と思うようになった。一時、就職したくない条件として、3Kなるものが話題になった。「きつい」、「汚い」、「危険」の三つのKである。すべてが当てはまるわけではないが、職人などはこの範疇に入るのではないだろうか。先日、菓子職人と話す機会があったが、彼は中学卒業以来50年勤めているそうだ。同世代の人たちは豆腐屋などの職人になった人が多く、皆独立して商売をしているとのこと。一つのことをこれだけ長く続けるのも大変なことだなと思ったが、彼によれば最近はこの店に就職しようとする人がいないらしい。就職難だからどこでも良いのかと思えるが、そういうわけでもなく、選ぶ権利はあるというのが理由の一つらしいが、ほんのちょっとしたこととはいえ、こんな所にもチャンスがころがっているのに、と思った。楽で、便利な生活を享受した世代にとって、苦労して、怒られるような生活はかなわない、ということなのだろうか。こんな所を見ると、数字だけでは語れないものがあるような気がしてならない。

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11月20日(水)−寸描

 ある日曜日の朝、なにげなくテレビをつけたら、そこにきのこの絵が映しだされていた。何処かで見たことあるような、などと思いながら、画面を見ていたら、次から次へと、食べられるきのこ、毒きのこ、などが、交互に紹介されて、何だか混同してしまいそうで、危なっかしいなあと思っていた。ただ、そこで紹介していたのはテレビには珍しく絵であり、写真や画像ではなく、何となく不思議な感じがした。
 そんなことを思っているうちに昔聞いた話を思い出した。きのこは時期が過ぎると溶けてしまうという話だ。普段食べているしいたけやエノキだけ、シメジなどは、ちょっと時間が経っても乾いてしまうくらいで変化がない。しかし、自然に生えているきのこの類はある日どっと出ていたとしても、数日以内、ひょっとするともっと短い時間で、消えてしまうのである。これは誰か食いしん坊が食べたというわけでなく、自分で自分を溶かしてしまうということだったと思う。そう考えると、テレビの取材だからと言って、自然に生えているきのこが長持ちしてくれるわけでなく、また目的のきのこがパッと見つかるわけもないから、取材だけでどうにかすることもできない。また、写真の方にしても、短命のきのことなれば中々撮影することもかなわず、形くずれしたもので我慢ということになったりするのだろう。その点、スケッチであれば、イメージを長持ちさせることによって、いきの良いところを再現することも可能なのかも知れない。まあ、とにかく、そんなきのこの絵がズンズンと続いていくうちに、それらの絵を描いた画家が画面に出てきた。名前は以前から知っている。読んだ本のところでも紹介したからだ。でも、イメージとしては、ちょっと違っているかな、などと思いながら眺めていた。しかし、何を話していたのか、さっぱり思い出せない。なぜだかよくわからないのだが、まあ、そんなところで、他に気になったのは、この人がきのこが好きなために、きのこにまつわるいろんなグッズを集めているという話だった。前に書いたと思うが、フクロウに凝って、全国どころか全世界のフクロウグッズを集めている人がいる。これはどうも日本国内に一人や二人ではないらしいのだが、知りあいにも一人いる。こういう所を見て共通点を探ると、どうも好きになるとそれにまつわるグッズが集めたくなるのは人の常らしい。ものを集めるのはそれぞれに目的が違うのかも知れないが、いろんなものを手に入れたいという子供の頃の気持ちがそのまま長続きしたものなのかも知れない。それにしても、何でもかんでも、よく集めるあるいは集まるものである。その人が集めているということを聞いただけで、グッズを土産にする人も多くなる。こうなると、そういう人たちにとってはしめたものなのだろう。はてさて、どこまでいくのやら。名前は思い出せないがフクロウの人の自宅の一室を改造した「フクロウ博物館」があるから、次は「きのこ博物館」になるのだろうか。絵を飾ったりしたら、人気がでそうな感じだな。

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11月19日(火)−改悪

 運も実力のうち、と言ったりする。スポーツでも天候、くじ運など、いろんな運が味方をしてくれたり、敵になったりする。天候には得手不得手があって、それによって雨が降って良かったと思う人もいれば、そうでない人もいる。しかし、どちらにしても条件は同じ、心理的な要素はあるが絶対的な要因とはならないだろう。
 この運を考えるときに思い出すことがある。スポーツは全般に欧州に始り、米国で更なる発展を遂げてきたが、それはルールを決めたことによるところが大きい。一定のルールを一つの競技に課すことによって、それぞれの競技者が混乱なく競技を行うことができるようになる。異なるローカルルールによって混乱することもなく、いかにも合理的な方法である。しかし、これにはそうとも言えないことがある。最近、アジア大会水泳の平泳ぎで日本人選手による久しぶりの世界新記録が達成された。前に記録されたのはミュンヘンオリンピックで優勝したバタフライの青木まゆみだったそうだが、その時のもう一人の優勝者が平泳ぎの田口信教という人。彼はドルフィンキックによる失格で苦しめられたが、足の蹴りが縦か横かなどという判断しにくい指標で違反かどうかを決められたのが理由だったと思う。人それぞれの癖があるにしろ、こういうものはまだ何とか修正できるのかも知れない。しかし、田口の後継者と評された高橋繁浩はもっと厳しい状況に追い込まれた。水没事件というのを覚えている人がいるだろうか。当時の平泳ぎでは飛び込みとターンの直後を除いて、体の一部が常に水面より上に出ていなければならないというルールがあった。高橋はスピードを誇っていたが、時々水没してしまうという致命的な欠点を持ちあわせていた。一度そういう違反で失格になってしまうと、次からもそういう目で観察されるから余計に違反とされやすくなる。泳ぎ方を変えることによって克服しようとするとスピードが落ちて勝てなくなり、元へ戻せば水没して失格というジレンマに陥っていた。彼の場合、水泳選手には珍しいほど体脂肪率が低く、食生活の改善でもそれを高めることができなかったそうだ。体質的なものと言ってしまえばそうなのだろうが、運が悪いとしか言い様がない。水没をルール違反としたのは、たぶんメルボルンオリンピックの頃か、平泳ぎに潜水泳法なる手法を編み出した日本人がいて優勝をさらっていってしまったことによる。50メートルプールの端から端まで浮かび上がらずに泳いで、ターンの時だけ息継ぎに水面に出ていたらしいが、簡単には真似できない代物だったらしく、いつの間にか禁止泳法となった。誰がルールを決めたのか考えてみると、事情が理解できるような気もする。但し、今はこれもルールが変わっていると思う。同じような例が卓球にもある。ラケットに貼るスポンジを極端に厚くした日本人選手が優勝すると、これも禁止となった。同じ道具を使いこなせる人が欧米には誰もいなかったからだとも言われている。ルールを作るものの強み、受け手でしかないものの弱みといったところだろうか。最近は日本発祥のスポーツにまでがんじがらめのルールが適用されているようだ。どうにも解せないところであるけれども。

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11月18日(月)−待機

 このところの株価の下落、特に銀行株の下げはかなりきついようだ。不景気、不景気と言っても、金貸しは元気というのはもう昔話となったのだろうか。今どきの銀行を金貸しと呼ぶ方がどうにかしているのかも知れないが、どうも気になるところだ。中でも、一番気になるのは今回の下げが心理的なものに起因することで、確固たる証拠がないから否定するのも難しいということになる。
 不景気となると必ず指標として出てくるのは、タクシーの運転手の景気観である。商売柄景気の動向が一番現れやすいところと思われているためだが、本当のところはどうか判らない。でも、こちらもそんな噂を聞けばつい聞いてみたくなるものだ。タクシーに乗るときには必ず聞いてみる、「景気はどうですか」と。まあ、このところの状況からすれば、返事は九分九厘、「駄目ですね」と返ってくるわけだが、そこでおしまいにしては面白くない。もう少し色々と聞いてみると面白い話も聞こえてくる。たとえば、こちらの知らなかったこととしては、法人タクシーより個人タクシーの方が割安だとか、不景気というのに法人タクシーの乗務員の数が増えているとか、タクシー券を利用する客が激減したとか、そんな話である。割安は消費税の扱いによるものらしいが、詳しいことは忘れた。その個人タクシーの運転手にとっては大切なことなのかも知れないが、まあ、ほんのちょっとした違いだったと思う。乗務員の増加は失業者が増えたことで、以前なら希望が少なかった乗務員の希望者が増えたことによるものらしい。二つの個人タクシーで、同じ話を聞かされた。彼らにとっては商売をさらにやりにくくする要因となっているようだ。タクシー券は簡単に想像がつくだろうが、個人でタクシー券を購入する人などほとんどいないだろう。会社から支給されるものを接待などの機会に使っていたものだそうだ。そうでない時でも気軽に使った人もいたようだが、これはちょっと困ったものだ。いずれにしても、接待の機会も減り、会社も財布の紐が堅くなって、支給されるタクシー券の数も激減したようだ。利用限度額を設けているところもあるようだが、そうでなければかなりの長距離でも利用できるから、客の方だけでなく、タクシーの方にもタクシー券の利用はありがたいものだったらしい。そういうものがなくなると、個人的な飲み会も早々に切り上げて、公共交通機関を利用して帰宅となったらしい。健康のためにも良いから、今後もこういうやり方を継続すればいいのに、などと言ったら、怒る人がいるのかも知れない。どっちみち、勝手な使い方をしていただろうに、という気もするのだけれども、この意見もあっさり拒絶されるのだろう。ある高層オフィスビルの下では毎夜客待ちの長蛇の列ができている。あれでいつ頃客が拾えるのだろうか、二時、三時、それとも、まあ心配することでもないが。

(since 2002/4/3)