並外れた体躯の持ち主というのは色んな意味で損得入り交じった生活を送っているのだろう。ごく普通の体格の当方としては想像することができないものがある。相撲取りのように背だけでなく、体重も大きいとなるとそれを保つことさえ難しいらしく、引退後はかなり痩せてしまう、と言ってもまだまだ人並み以上だが、人が多いようだ。体格が勝ち負けを決める世界だからこそ、無理をしてでも保とうとするのだろう。
背の高さを活かせるものといったら、何を思いつくだろうか。一般にある仕事で活かせるとしてもそんなに大したものはない。やはり職業として考えたらプロスポーツの世界ということになるだろう。日本では一部のスポーツを除いてプロではなく、実業団に所属して会社の看板としてスポーツを行うというやり方が盛んだった。それでもこの頃、サッカーにしても、バレーボールにしても、会社が支えられなくなるとともに、プロスポーツとして成り立つかも知れないということで、いろんなスポーツがプロ化、あるいは個人的にプロを宣言するような形が導入されている。話を元に戻して、背が高いことで有利になりそうなスポーツといえば、バスケットボールかバレーボールといえそうだ。特に、バスケットの方が高さを要求されているような印象を受ける。日本は世界でもそれほど強くないのでバレーボールほど注目を集めたことはないが、米国に行けば野球、アメフトと並んでトップスポーツとなる。以前よくテレビで観ていた頃は、プロリーグのNBAのトップ選手といえば、アブドゥール・ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バードと、観たことのない人にとっては何の意味も持たないだろうけど、すごい名前が並んでいた。ある時、ある大学でバードの所属していたチームの練習をたまたま観ることがあったが、比較的背の低い人がするガードというポジションの人たちでも見上げるような高さだったのでびっくりしたことがある。ちょうどその頃、シカゴにマイケル・ジョーダンが入ったばかり、すごいプレーを見せていたが、もうあれから20年ほど経過する。ちょうどその頃だろうか、知り合いから聞いた話だが、西海岸にある有名私立大学に日本のバスケットボールチームが来ると話題になった。そんな弱いチームが来ても普通は話題にならないが、その時は、身長2メートル30センチの選手がやって来るので話題になったのだ。いかなNBAでも当時の一流選手で一番背の高い選手が2メートル20センチほどだったから、注目されたわけだ。しかし、その時の件の選手のプレーぶりを見て、こりゃだめだと思ったとのこと。あまりにも動きが緩慢すぎて、プロの試合についていけないことが明らかだったからだ。結局ドラフト指名は受けたが入団は実現せず、そのまま日本でセンターとして活躍したそうだ。なぜ、こんな話を始めたのか、それはついこの間東京の地下鉄の駅で彼を見かけたから。○山選手、当時は○○金属に所属、そういえばその駅の近くに系列商事のノッポビルがあったなあ。
芸術と聞くと身構えてしまう人が多いのではないだろうか。自分も、音楽を聞くことは昔から好きだったし、写真もよく撮ったり見たりした。ただ、絵画となると、ちょっと難しくなって、特に抽象画は理解に苦しむというか、まったく受け付けないでいた。これがさらに伝統芸能などとなると、もうお手上げである。能や狂言など、テレビでちらっと見ることはあっても、劇場などに足を運んだことはない。
仕事仲間でも、芸術に興味を持っている人たちは多い。そういう人は国内でも外国でも旅行をすると、地元にある美術館や博物館を訪れるのだそうだ。そりゃ、パリやらニューヨークやらへ行けば、世界的にも有名な美術館があるわけだから、知っている絵画なども「本物」が展示してあり、楽しいのかも知れない。しかし、地方都市の美術館となると中々そうはいかない。国内のものはバブル期にかなりの名品を収拾したという事情もあり、そういったところには良いものがあるのかも知れないが、そんなところばかりじゃない。まあ、当たり外れがかなりありそうだ。そんなに沢山のところを訪れたことがあるわけではないが、良いなと思ったのは、倉敷の大原美術館と笠間の日動美術館だろうか、公的施設ではなく、それでもきちんとしたものを揃えているというのは担当した人の審美眼によるところが大きいのだろう。こんなことを書いているが、絵画のことに関して判っているわけではなく、ただ自分の印象を書いているだけだ。個人の美術館では個人的趣味が前面に出てしまうことが多く、自分の感覚とうまく折り合いがつけば良いと思えるが、逆になるとどうしようもない。美術といえば、日曜の朝と夜にNHK教育で「新日曜美術館」という番組が放送されている。アシスタントの女性が毎年変わり、中々面白い人選だなと感心しながら見ているが、内容的にも参考になることが多い。先日は狩野探幽の話で、彼の天才的なところとその後の狩野派の退廃を結びつけながら、その時代の新しい試みがどのように出てきたのかを解説していた。中のコメントで、探幽が江戸時代の画風を切り開き、その後の道筋を決めていたと言われていたが、それほど革新的な試みをした人であることを分かり易く説明していた。しかし、その後の狩野派は探幽が築き上げた世界を守ることに躍起になり、何もあたらしいことを出せずに現状維持のみを目標にして時間の経過を見守ってきたとのこと。伝統を守り続けることも重要なのだろうが、一方で打ち破ることも重要な場合もあり、そのバランスたるや中々難しいものがありそうだ。狂言役者や歌舞伎役者がそれぞれの伝統芸能とは異なる分野に進出するというのは、そんな事情からくるものなのかも知れない。まあ、そんな話を思い浮かべながら、画期的な人が出てくれば、いつの時代もどこの世界もこんな展開になるのかと、納得しながら見てしまった。彼の遺した作品で特に注目されているのは、草花などのスケッチなのかも知れない。どんなものか一度は見てみたいと思いつつ、さて今回の特別展はいつまでなのやら。
日本人ほど麺類好きな人種はいないという話を聞いたことがあるだろうか。ビジネス街にある蕎麦屋ではお昼時ともなれば、ズルズルとすすっている音が絶えないようだし、わんこそば、稲庭うどん、白石温麺、信州そば、味噌煮込みうどん、きしめん、伊勢うどん、三輪素麺、出石蕎麦、博多うどん、皿うどんなどは古くからある部類だし、札幌、喜多方、東京、高山、和歌山、尾道、博多、久留米、熊本、それぞれの地方独特の味を出したラーメンなどは比較的新しいものなのかも知れない。
麺類が好きと言っても、味に関しては、それぞれかなり違っているようだ。まあ、美味しければそれでいいといった感じなのだろうが、それにしても、西と東との温かいうどんや蕎麦のだしつゆの見た目の違いはかなりのものだ。特に大阪を中心とした関西ベースのつゆの作り方と、東京を中心とした関東ベースの作り方には大きな違いがありそうだ。これを最近、前面に出してきたのが、カップ麺と呼ばれるインスタントのうどんや蕎麦ではないだろうか。以前から、関東で売っているものと関西で売っているものではスープの味付けを変えていたそうだが、最近は違いを強調して消費者に知らせるようになってきた。関東で育った人は関東の味で、関西で育った人は関西の味で、などという古い考えは何処かに吹っ飛んでしまい、美味しいと感じるものを選べるようになったということなのだろうか。こういう流れがあったからというわけでもないのだろうが、最近関東方面に讃岐うどんの店が増えているらしい。特に、駅の中の立ち食い蕎麦の店がいつの間にか立ち食いうどんの店に変わっているという話にはちょっと驚いてしまった。関東に住んでいるとなぜだかよくわからないが関西風のうどんが恋しくなる。あの黒々としたつゆの中に真っ白だったはずのうどんが浮かび、すくってみたら茶色く変わっていたなどという話は、関西のうどんに慣れた者にとってはかなりの抵抗をもって迎えられる。そういう中で讃岐うどんはそのこしの強さだけでなく、つゆに関しても関西風のものが多く、薄い目のだしつゆの中から白いうどんが出てきて救われたような気持ちになる。まあ、こんなことを書いていると東京育ちの人たちに怒られてしまうかも知れないが、これが率直な気持ちというものだ。10年ほど前には、讃岐と暖簾をかけているところでさえ、どうも怪しげな讃岐風としか思えないものが多かったのだが、最近開いている店はそうでもないらしい。特に強調されているのは、うどんを温めたり、具を載せたりを自分でやる形式で、本場に行ったことがないので経験はないが、テレビなどで見るかぎり、讃岐、香川県、ではそのようにしている店が多いとのことだ。だからこそ、早くて安くて美味いうどんが食べられるのだというのが人気の秘密らしい。今度試してみなくてはと思いつつ、まだその類いの店を見つけていないのが残念なのだが。
どのくらい前のことだろうか、ラジオで学校教育に関する特集をやっていたのをここで取り上げたことがある。その特集の中で、その時取り上げたこととは別に気になることがあったので、ちょっと書いておこうと思う。何度も話題にしていることだから、もう止めてという声も聞こえてきそうだが、またまたしつこく、算数・数学のお話である。
大学の先生の中でマスコミに登場する回数が多いのは、おそらく経済学を専門とする人たちだろう。特にこのごろは、政府による経済の立て直しがうまく進んでいないので、批判一辺倒の人でも登場することができる。これが調子の良い時代だとそうはいかない。こういう見方をすると、彼らにとっては、景気の良し悪しが逆の形で現れてくるのかも知れない。その次によく登場する人たちは、と考えると、はてさてまあどの分野の人たちもほぼ均等だろうか。文学や芸術関係の人たちの話は、面白いし、気楽に聴くことができる。一方、情報の受け取り手の人たちが一番苦手にしているのは、数学なのではないだろうか。数学を専門とする人たちは研究を主に行っている人も多いが、教育、啓蒙などに力を注ぎ、さらにエッセーなどの書き物をしている人たちが多いのも特徴の一つだろう。なぜそういう方向に進んでしまったのか、説明を聞いたことはないが、エッセーを数多く書いている京都の大学にいた人の場合、どうも30代前半で自分の力を見切ったような雰囲気が感じられる。でも、逆に言えば、それだけ才能豊かな人々なのだろう。数学の人たちの言葉の中には、よく「美しい」という表現が出てくる。理論が美しいとは、論理の展開がすっきり整理されていて、非の打ち所がないといった感じなのだろうか。とにかく、そんなことばかりか、数学そのものに対しても「美しい」という称賛の言葉を使うことがある。こういう人たちの中には、数学はすべての学問の源でこの世の中のすべてのことを含んでいると断言する人さえいる。これに対する賛成、反対を論じるつもりはないが、どうもこういった考えの人が多いのには不思議な感じがしてしまう。ラジオの特集の時も、数学は日常のことに関連していると強調し、地図、整理棚、分類などが数学から出てきたといろんな例を挙げていた。確かに、そこで取り上げられていた話題だけでなく、身の回りの多くのことを数学と関連づけることができる。このことから、数学はすべてのことを、と言いたくなる気持ちもわからないではない。しかし、それは含むではなく、説明できる、に過ぎないのではないか、とも思う。人間の思考をすっきりとした形にまとめたものが数学の基本だとすれば、当然ながら身の回りのことを考えるときにそれをまとめるのも数学である。しかし、数学から身の回りのことが出てきたわけではない。すべてを含む、という言葉に含まれる意味を取り違えると、とんだ誤解を生む場合もあるから気をつけて欲しいな、と思いながら、その人の話を聴いていた。自分達の関わっているものを意義のあるものにという気持ちもわかるが、大きく見せることで近寄りがたくする場合もあるのだということに気がつかない人も多いようだ。
このところ突然死の話題をよく聞く。仕事の最中よりも、運動をしているときの方が多いような気がするけれども、本当にそうなのかはわからない。人間はどうしても情報に重さの違いをつけて、それによって記憶の中で分類したりするから、ある篩いを通してしまえば同じ程度の確率もまったく違ったもののように思い込んでしまうことが多いからだ。この場合は運動は良くないという先入観がそうさせているのかも知れない。
運動が良くないなどと言うと、素早く反論が飛んできそうだが、当然ながら程度の問題である。考えるのを頭を動かすことと思えば、考えることも運動の一つと言えるかも知れないし、普段移動しているときに歩くことも軽い運動である。しかし、世間一般に運動と言ったときには、ゴルフをする、テニスをする、水泳をする、ジョギングをする、などといった立派な運動のことを指している。そして、これらの運動を始めるきっかけとなるのが、健康のためということが多い。しかし、過ぎたるは及ばざるが如しというように、これらの運動も自分の能力を越えてしまうと、かえって体に悪いことになる。たとえばゴルフの腰痛、テニスの腱鞘炎、ジョギングの関節炎などは、体の耐久性を越えたときに起きるもので、過度な運動か不十分な準備運動が原因であることが多い。水泳ではどんな症状が考えられるのか、すぐに思いつかないが、これも無理な速度で長時間泳げば、何処かに異常が生じるだろう。ジョギングはどちらかといえば嫌いな運動の一つで、何で無理矢理走らねばならないのかと思ってしまう。脳科学者の久保田竸は、走っているうちに気持ち良くなるというランナーズハイという現象を脳科学の立場から研究していたが、彼自身もジョギングにはまっていたようである。そういう人たちの気持ちが理解できないし、少し走ると膝に痛みが来るというのも敬遠している理由の一つだろう。ランナーズハイでは、脳の方は大変気持ち良くなり、それにひたっていられるのだろうが、エンジンである心臓の方が同じような状態であるとは限らない。脳の恍惚感が高まれば高まるほど、心臓の方は無理を強いられるかもしれないからだ。この時、二つの器官のバランスがとれていれば、体全体として幸福感を味わうことができるのかも知れないが、脳の方に少しずれてしまうと一気に危ない状況に追い込まれる。自分に合ったペースで走っている人に何かが起きる確率は低いだろうが、マラソン大会などで目標を定めて普段にも増して努力すれば、確率はかなり高くなるのではないだろうか。特に、秋から冬にかけて気温が下がってきたときの方が体にとっての危険度は増してくる。体が冷えているために車でいう暖機運転でエンジンなどを暖めることが必要となるからだ。だから、ストレッチングなどの準備を怠ると、筋肉、関節にとって厳しい事になるし、心臓にとっても負担が大きくなる。健康のために始めたことで、体に異常をきたして不健康になったのでは何にもならない。要は、自分にとっての適度を弁えておくことが大切ということか。
国会やその委員会の中継があるとせっかくのラジオが聴けなくて、つまらない思いをしながらドライブすることになる。二つの逃げ道があるが、どちらも決定的とは言えない。一つはカセットテープに吹き込んだ音楽を聴くという方法で、こちらは聞き慣れた曲だから安心していられるが、慣れているだけに新鮮さに欠けたドライブになる。もう一つはFM放送を聴くもので、こちらは都会ではいろんな局の放送があるから楽しみもあるが、田舎ではほとんど入らない。また、総じてやかましい音楽が多いのも敬遠したくなる理由の一つだ。
この間たまたま、以前聴いていた民放局に合わせてみたら、団塊の世代に向けての懐かしのメロディーみたいな特集をやっていた。60年代はほとんどわからないが、70年代となると少し苦しいところもあるが、ずっとましになり、幾つか懐かしい曲が流れていた。特に面白かったのは、外国の曲で本国では流行らなかったのに日本で流行ったという曲の紹介。マーク・レスターと聞いて懐かしいと思う人には理解できるかも知れないが、小さな恋のメロディーという題名だったろうか、日本では大人気になった映画の主題歌もその範疇に入る。どうも日本で流行る曲は短調の曲が多く、メロディーが美しく、覚えやすいものが多いらしい。それらが本国で流行らない理由は、歌詞の内容が貧弱で、面白みに欠けるといったものだったらしい。そんな具合に流れていた曲の中で、落ち葉のコンチェルトという曲を懐かしく聴いていた。下の方にリンクを張っておくので、思い出せない人はそちらで聴いていただきたい。この曲も日本とカナダだけで大ヒットとなったと小林克也が特集の説明の中で言っていたが、別に曲にまつわる話に興味があったわけではない。落ち葉という言葉に思い出すことがあっただけだ。東京の赤い門で有名な大学では、今頃黄色い葉の落ち葉掃きを大学職員総出でやっているのではないだろうか。去年の今頃構内を散策していたら、すごい量の落ち葉をかなりの人数で片付けていた。黄色い葉は銀杏から落ちてくるもので、いろんな所で街路樹として植えられているから、見る機会も多いと思う。ついでにギンナンという美味しいおまけもつくから、人気があるのかも知れない。といっても、あの臭いはちょっとと思う人も多いだろう。先日、近くで車を走らせていたときに、街路樹に銀杏が植えられている道を通ったが、どうも葉の数が少なく、枝が剪定されているように見えた。後で聞いてみると、落ち葉の片付けに手間がかかるから、黄葉の季節が始る前にさっさと枝を切り落とすのだそうだ。実に合理的なやり方、と思う人もいるかも知れないが、合理とはことわりに合うという意味で、ことわり=理としては黄葉を経て葉が落ちるのがそれではないか、と思える。これでは、合理的ではなく、合利的あるいは功利的とでも言ったほうが良さそうな気がする。自然の摂理というものをこういう形で都合よく解釈し、変更していくことが人間の営みであり性であるのかも知れないが、どうも、やり過ぎに思えて仕方がない。なぜだかこんなことをラジオから流れてくる曲を聴きながら思い出したわけだ。
別に性差別とは思わないが、誤解を受けそうなものに「おばちゃんパワー」なる言葉がある。特に、大阪を中心にして、40代、50代の女性のバイタリティーに対して使われる言葉で、同じ年代の男性が会社でリストラを恐れながら、小さくなっているのと対照的に、元気であることを表している。これとは違うが「老人力」という言葉も最近よく耳にする。どちらもある年齢、ある性の意欲ある人々を表現しているものだろう。
会社を定年退職してから、子供達が皆家を離れた後、そんなときに、今まで抑えていた意欲が頭をもたげ始め、何か新しいことを始めようとする人が増えている。それは、登山や水泳などといった運動系のものから、新しいことを学ぼうという勉学系のものまで、人それぞれ、様々なものに興味を持ち、躊躇なく始めるという形のものだ。新しいことを始める場合に、カルチャースクールのようにカリキュラムが用意され、それを単にこなすやり方を好む人もいれば、独学で独自の道を切り開き、自分なりの形を作り出そうとする人もいる。どちらも意欲という意味では価値のあるものだろうが、用意された遊びをすることを好むのと自分勝手に遊びを作り出すのを好むのとの違いなのかも知れない。いずれにしても、何かに興味を持ち、それに関わってみたいという心の力は何にも増して、意欲に繋がるのだろう。特に、いろんな理由から一時的に抑えられていた欲望が解き放たれるのだから、中々に凄まじい力となるようだ。一方、そういう好奇心を持てずにただ漫然と過ごす人もいるようだが、持っている人たちの目が輝いていることが多いのに対して、どうも冴えない印象を受けるのは、単なる思い込みによるものだけではなさそうだ。好奇心は年齢によらず、どんな人でも持ちあわせているはずなのだが、それを前面に出せない人も多いようだ。老人と呼ばれる人たちに比べると、中年の人たちは好奇心がないのではなどと言われることもある。仕事に忙しい世代だから仕方がないのかも知れないが、人によるところを見るとそれだけが理由でもなさそうだ。さらに年齢が下がり20代くらいまで来ると遊んでいるように見えて、ただ目の前の問題を避けているような印象を持つのはこちらが齢を重ねたせいなのだろうか。これは、一部には学校教育によって自分なりの興味を持つことが抑えられたために、興味が示せなくなったためだという意見があるが、どうも納得できない面がある。小さい頃から周囲に興味を抱くことが役に立たないと教えられたからなどと言っても、本当にその程度のことで興味を持つという生き物特有の性質が完全に抑えられるのだろうか。学校にいるときにはそういう型にはまった行動をしていても、卒業したら全然違うやり方をする人は多い。なのに好奇心に関しては、そうでないと言うのはちょっと苦しい。それが大学に行っても、会社に行っても、何の変化も迎えないのは、実はもっと違ったところに原因があるのではないのかなと思う。そんな人もちょっと待っていたら、いつか眼が開いて、なんか興味のもてるものを見つけるかも知れないのだ。結局、見つけるのにかかる時間の違いだけで、大きな違いなどないのではなかろうか。もし、まだなら、焦らずもう少し待ってみたらどうだろう。