パンチの独り言

(2002年12月2日〜12月8日)
(迷信、別れの曲、絆、骨抜き、顧慮、互譲、丸投げ)



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12月8日(日)−丸投げ

 自分達で手に負えないような仕事を外に頼むことはずっと以前からあったと思う。外注する、という言葉もあったはずなのだが、どうもそういう範疇では括れないようなやり方が最近横行しているようだ。特に、依頼主からの注文をそのまま外の組織に流してやらせることから、まるまま投げるとなり、丸投げという言葉が出てきたようだ。日本語の投げるという言葉の意味を考えると、嫌な印象を持ってしまうのは仕方のないところだろうか。
 いつ頃から、どんな業種で、こんなことが行われ始めたのか知らないが、少なくとも官庁ではこれに近いやり方がずいぶん長いこと行われていたような気がする。ある程度の指示を出すにしても、それほど細かいものでもなく、ほとんど上から降りてきたものを申し送る程度の場合があった。それでも世の中が順調に動いているときは表面上何の問題もなく片付いていたが、最近では問題山積といった感じになってしまった。表面上とは実際には目をつむるということを意味しており、やっていたことは今と何ら変わりなく、違法行為も横行していたようだ。鉄道やトンネルのコンクリートの強度の問題は、丸投げが原因ではないけれども、緩んだ気持ちから出てきたことは確実で、その上で現状があるのだと思う。さて、最近ではゼネコンの丸投げなど、日常茶飯事になっているし、業界の仕組みがそうなっているのだから変えようがないなどという意見まで出てくる。しかし、このままでは単なる仲介料を取るばかりの組織となり、何も仕事をしない第三次産業的な第二次産業が多くなる。それで、結局のところ金の無駄になるだけでなく、技術の喪失が危惧されるまでになっている。そんな危機感があるのかどうかわからないが、マスコミもこぞって丸投げ問題を取り上げる。特に、政治の世界の一番上にいる人間の行為となるとさらに音量が上がっていくようだ。しかし、目を転じて、マスコミの世界を覗いてみると、まったく同じ図式ができ上がっているのを御存知だろうか。テレビの番組の制作は特に民放では案を出すところまでがいわゆるテレビ局の役目で、後は制作会社と呼ばれる小さな会社に託される。悪質な番組が制作されようとも、それは局の責任ではなく、制作会社の責任となる。方針は上から投げられて来るので変えようもなく、しかし現場の雰囲気にはまったくそぐわないとなることも多いだろうが、そのまま流されてしまう。だから、テレビ局には既に直接的な製作能力はないとまで言われている。さらに、雑誌の世界もそろそろそんな感じが出てきた。それぞれ別々の部署が担当するというところまでは良かったのだろうが、社内の部署ではなく社外に担当を移し始めるともう止まらなくなる。ある記事に関してわかる人が誰もいないなどという事態も出ているのかも知れない。では、新聞は大丈夫なのか、ちょっと心配になってくる。最近話題になっているのは新聞の中にある不自然な空白で、これが印刷最終段階で不穏当な文章を削除したために起きたものであることは容易に想像がつく。記者だけでなく、編集長の能力の低下がこんな事態を引き起こしているのかも知れない。そういえば、ニュース配信会社からの配信をそのまま裏をとらずに新聞に載せることも多くなったと聞く。○同通信とさえ書いておけば自分達の責任が回避できるかのごとく、こりゃ逆の丸投げじゃないかと思う。もうすぐニュース記事を書くのも外の人のお仕事となったりして。

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12月7日(土)−互譲

 日本人は競争が好きなのだろうか、それとも競争よりも互いに協力して何かを成し遂げることが好きなのだろうか。こういう話題に対して一括りにどちらかというのは難しいし、おそらくいろんな場合があって一つの結論を出すこと自体が馬鹿げたことだろう。同じような話題で個人主義か全体主義かという括りも日本人と欧米人を比べるときに使われたりするが、個々の場合による違いや自分達の持っているイメージとの乖離によってすっきりしないことが多い。
 日本人は島国に生まれ育っているから、周囲の状況を窺いながら、上手く取りまとめる能力に長けており、独自の道を歩む能力は劣ると言われることが多い。しかし、いろんな面から見ていくとそうでもないという分析が出てくるから不思議だ。つまり、表面的には周囲との軋轢を避け、上手く調整を図るという図式が浮ぶのだが、実際に個々人に様々な質問をぶつけ、それらに対する反応をみると、かなり強烈な個人主義で、自分の思い通りになるように周囲を動かそうと画策する姿勢が見えてくるらしい。こういった考え方は、大きなことを実現しようとする場合にも大きな障壁となることがあり、周囲と協力して上手く事を進めようとするときにも、結局協力関係が破綻することを避けるためにお互いに口出しせず、個人に任せるという形態をとることが多い。その結果、チームの構成員が勝手な方向に走り、一切調整が図られないまま仕事を進めることになり、何も実現しないことになる。一見協力しているように見えるし、互いを信頼するという見方からは強力なチームのように見えるが、実際には個人の間の関係を上手く保つということに腐心して、事業の実現が犠牲になってしまうという何とも不思議な結果を生み出すことになる。これに対して、個人主義を前面に出している米国では共同作業などうまくいくはずがないと多くの日本人が思っているが、実際にはまったく逆の結果が生まれている。個人主義を尊重するがゆえに、個々人の能力を正当に評価し、それをどう繋ぎあわせればより大きなことが実現できるのかを、お互いに考えることで大きな事業も実現にこぎつけられる。個人主義を犠牲にするのではなく、それを尊重することで協力関係を結びやすくするのだとも考えられる。日本では個人の考えなど相手にしないなどと言いつつ、自分の中では自分の考えに固執するがために、相手との調整ができずに何も発展しない寄せ集めの方式だけが生き残り、そこからさらに上を目指すための譲歩や調整が図られることがない。これが逆の意味での個人主義に繋がるのだと、こういった分析は示しているのだろう。しかし、誰とも協力しないという姿勢がどんな分野でも悪いことに繋がるわけでもないだろう。たとえば芸術の分野では極端な表現を使えば唯我独尊という気持ちが重要になることもある。わが道を貫くことによって成功した人も多いはずだ。そういえば、日本の音楽家、画家で成功した人は数多くいる。彼らの中にも周囲との調整をうまく図っていた人もいるのだろうが、特に画家のように独自の道を切り拓いた人には周囲からの刺激を一切受け付けない人も多いのではないだろうか。こういう人たちの中での個人主義はそれなりに評価がついてくるが、そうでない世界で同じようなことを違った形で行っているようでは、成功には結びつかないような気がしてしまう。結局、周囲の批判に終始して、何も生み出すことのない集団ができ上がるだけだから。

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12月6日(金)−顧慮

 人の話を聴いていると疑問に思うことが出てきて、ちょっと質問したくなることがある。講演会などの席では大勢の人たちの前で、心理的な圧力から躊躇することも多いが、一対一で話しているときなどはその心配がない。どちらにしても質問された相手の反応にもいろんなものがあって、お話そのものよりもそちらの方が楽しみになったりする。
 まるで自分のことのように書いているが、誰しも経験があるのではないか、またこんな楽しみを持っている人も多いのではなかろうか。人前で喋っている人は十分に準備をしてきて、滞りなく事を進めていく。上手く聴衆の心を掴んで話しているように見える人でも、いざ質問を受ける段になるとその正体が露になることがある。種々雑多な質問をひらりとかわしながら、質問者を納得させる答えを引き出す人がいる一方で、しどろもどろになり何を言っているのか判らなくなる人もいる。自分の中で十分に熟成した話をする分には上手くできるが、質疑応答のような瞬間芸の類いは苦手とする人も多い。別にこの人の能力が低いわけではなく、じっくりと考え込まねばならないという条件がこんな結果を生んでいる場合もある。そんなやりとりも面白くて、自信たっぷりで威厳のあるお話をしていた人物が馬脚をあらわすこともあり、その人の本当の姿を見た気がして中々のものだ。こんなやりとりだけでなく、人の性格を現すものの一つに質問に対する受け答えの仕方がある。質問者の聞き方にもよるのだが、質問が終わらないうちに先を想像して答え始めてしまう人、うまくいけばリズミカルに話が進むのだが、いつもそうなるとは限らない。質問者が違いますと否定することによって、流れが途切れて、気まずい雰囲気になったりする。一方でじっくりと質問を聞き終えた後、まったく違った話から答え始める人、その中にもいろんなタイプがいるが、気をもませた後にきちんとした答えが返ってきて、違った話から始めた理由を聴衆に知らせ、その組み立てに感心させられる。たぶんこれにも色んな意味があって、単に時間稼ぎとして使う人もいれば、相手におやっと思わせて集中力を高めさせ、それを上手く利用する人もいる。後者はかなりの強者だろう。しかし、この時相手が悪いとせっかくの作戦も台なしにされる。質問者が違う話と判断した途端に割って入ってくる場合だ。特にしたり顔で、いかにも短気な雰囲気の漂う人にこんな人がいる。相手が自分の話が終わるまで待っていたのに、自分は待てないのである。こうなると配慮も何もなくなってしまうから、困ったものである。話は違うけれども、ラジオの相談室で、介護の時間があった。様々な質問が寄せられていたが、電話に出ている相手に向かって、回答者は必ず現在の介護の状況から聞き出していた。誰がどのように介護に携わっているかを聞き、相手が主に一人でやっている場合には、労いの言葉と共に無理のないようにと助言していた。ほんのちょっとしたことだし、質問内容とはまったく関係のないものだが、これ一つで雰囲気は和らぎ、親身になった受け答えという印象を受ける。社会的に弱い立場に立つ人たちに対してはこんな気配りが必要なのだな、と妙に納得したものだ。受け答えというものは相手の気持ちを汲みつつできるのであればそれに越したことはない。これは何も介護とかそんな特殊な環境に限らず、ごく普通の場面でも大切なことかも知れない。

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12月5日(木)−骨抜き

 頭が良くなるとか、目が良くなるとか、コレステロール値が低いとか、その他様々な効用が主張されるようになったから、だけでもあるまいが、魚が人気を回復しつつあるようだ。このほかの原因として考えられるのは、例の病気による牛肉の敬遠と「さかな、さかな、さかな・・・」と連呼するスーパーでかかっている例の曲のヒットだろうか。
 世界で最も魚を消費している国の一つである日本が、最近はその影が薄くなり、その代わりにマグロ、エビ、カニの消費が最も多いという形で特別な魚が強調されてしまい、何だかへんてこな具合になりつつあるな、と思っていた。特にマグロは世界中で獲られるのだが、そのほとんどが日本に輸入されている。そうでないものでも、世界中に広がりつつある日本料理店、というより寿司屋に行き渡っているのだろう。これはすごい食欲といった感じで、本当に不況なのかなと思えてしまう。そんな魚の話題では、マグロの完全養殖、イワシの不漁といった漁獲の話題から、ごく最近話題になってきた骨無し魚の販売まである。完全養殖は今年成功したというより、ここ十数年の研究の成果として、卵から親魚までの一周期を人間の手で行ったというものだ。イワシの不漁はかなり深刻なようだったが、最近はその話題が聞こえてこない。どうなっているのか、少々心配だが、話題性のないものは何処かに消し去られているのだろう。最後の骨無し魚は、初めて聞いたときには、何のことかさっぱり判らなかった。何しろ、面倒だと思っていたが、必要であるとは微塵も思わなかったからだ。おそらく、このことを批判している人たちもその程度の気持ちで反対しているし、せいぜい箸の使い方や行儀の問題や器用さの問題くらいしか思いが及んでいないようだ。じゃあ、他に何があるのか。何にもないのではないかと思う。つまり、問題視する必要もないということ。箸やら行儀やら器用さなどと、そんなところで鍛えられるわけじゃない。もし必要なら、鍛える方法などいくらでもある。以前から馬鹿げたことだと思ったものに、先割れスプーン問題がある。学校給食でこれを使ったために、箸が使えなくなった子供が激増したという主張があった。これを信じている人がどれくらいいるか知らないが、三回の食事のうち、一度だけで、これだけの効果を上げられるのなら、そんなにすごい訓練はない。箸の使い方くらい「学校」で教えてくれと言う親がいたり、まして校長が教育学部の先生に同じことを言ったという話もある。どこから、そんな話を思いつくのか判らないが、自分達のすべきことが判らないで、人のことをとやかく言うものではないと思う。もし、この話題と同じように、こういう食材が問題を産むと考えるなら、使わなければいいし、もし便利でいいと思うのなら、使えばいい。考え方の問題だけで、それ以上何もない。躾けや箸の使い方など、骨無し魚を食べたらできなくなるというのなら、これまた強力な反教育の武器が登場ということなのだろう。さばいてある魚が店頭に並び、魚を三枚に下ろすことができない人が増えたからと言って、それらが消えたこともない。便利は便利、失われるものは失われる。そういう流れの中に生きているのだということを忘れないようにすることが大事。

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12月4日(水)−絆

 教育の現場が荒れていると聞いても驚かなくなってから、どのくらい経つのだろうか。高校に始まり、中学へと降りるまでは、校内暴力やイジメという話題が多かった。最近は、小学校にもそういった雰囲気が蔓延るようになり、場所によっては授業が成り立たないとか、登校拒否改め不登校とか、そんな問題が表面化しているようだ。
 こんな状況が続くと原因はどこにあるかと考える人も多い。先日読んだある臨床心理学者の本では、その主な原因は家族関係にあるとしていた。著者は元々一刀両断に切るタイプではないから、あくまでも傾向としてとか、そういう場合が多いといった慎重な発言を繰り返していたが、本質的には家族がその形式だけを追及する存在になっていることを指摘していた。ただ、そこで不思議に思えたのは、その際に対照として挙げていたのが欧米の家庭で、そこでは家族を大切にする気持ちが強く、それにより絆が結ばれると紹介していたことだ。以前にも書いたが、若い世代の人々の抱える問題は、日本に限らず欧米でも同じような傾向が見られている。あくまでも荒れることに主眼をおけば、日本特有の文化やこのところの変化を追いかけるだけですむのかも知れないが、この場合にその程度の指摘で良いのかどうか、かなり疑わしいと思えた。強調されていたのは学生に対する質問で、欧米では休みを家族で過ごすことを一番楽しいとしているのに対して、日本ではそういう人がほとんどいないことである。これが、欧米の家族に対する気持ちの現れだというのだが、そうなのだろうか。彼らとて、一緒に過ごすことを嫌っている人も沢山いるし、全体の流れとしてそれを示すことの重要性を考えての発言かも知れない。日本の家族が「仮面家族」であることを取り扱ったものも多いが、その源となっている考えはどこにあるのだろうか。たとえば、今子供を育てている世代にとって、家族を初めて意識したのは、自分が子供のころである。もし、ここからの影響だとしたら、そんなに簡単に原因は家族に対する考え方と、親の世代である学者から聞きたくないのではないか。話は違うが、大学の入学式に親がついていくことを子離れ、親離れしていない証拠と指摘する人たちにとって、欧米の親達が子供の大学の卒業式に列席することはどう映るのだろうか。どうも、こういう所の指摘の仕方に、結論先にありき、の感が否めない。さらに、子供達は未熟なのだから、親や教師の方が変わらなければならないという主旨の指摘もあったが、どちらにしても変わることは難しいこと。片方が変わればすむなどという安易な考えも困ったものだと思う。変化は何処かに引き金があるはず、ということは確かだと思うが、みんなが変わろうという気持ちが大切なわけで、一方的なものは困難を大きくするだけなのだと思う。なんでも、マニュアル化するのは良くないと思いつつ、指摘をするとついそういう形になってしまう。誰しも同じ悩みを持っているのだが、結局は自信とか信頼とか形にならないものを取り戻すために決定的な方法などないと知りつつ、そこへ話題をもっていけないから仕方がないのだろうか。信頼と自信には、さて、何が大切なのやら。

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12月3日(火)−別れの曲

 この世との別れの儀式、と言っても、本人は普通の場合もう死んでいるわけだから関係ないのだろうけど、そういうものの一つとして葬式があるのだろう。死ぬ間際にああしてくれ、こうしてくれと、事細かに指示を出して、それでも足らずに子細にわたる指示書まで遺していく心配性の人もいれば、一切を遺された人たちに任せて死んでいく人もいる。かと思えば、急な死のために、何も考えられずに数日が過ぎてしまう遺族もいるだろう。
 しかし、改めて考えてみると、この儀式は誰のためにあるのだろうか、はっきりしないところもある。元々は仏教で言えば、死から通夜、本葬を経て、その後初七日、49日(宗派によっては35日)という具合に段階を追って進んでいくはずのもので、葬儀だけですむ話ではないのだろうが、やはり一番大きな出来事として葬式は重要な役割をはたすのだろう。遺族がその人の死を皆に知らせるための儀式と考えればそれほど問題はなさそうだが、死とはもっと家族的なものであり、生前関係のあった人々すべてに知らせる必要などない、という考えの人もいるようだ。そういう意図からかどうか判らないが、故人の遺志により家族だけで、という添え書きがあったりもする。一方で、葬儀などというのは死んだ人のためのものだから、生きているうちにやっておいた方が良いと生前葬なる儀式を行う人もいるそうだ。どうにも理解しがたいけれども、本人は真面目にみんなからメッセージを受けておきたいと思うらしい。弔辞は本人がいないからこそ吐ける言葉であるとも思うのだが、知りたい欲がおさまらないらしく、どうしても聞きだそうとする。まあ、本人の勝手といえばそれまでだが、借り出されるほうはたまったものではないような気もする。そういう自由形式のものがある一方で、以前として昔からのしきたりを守っているところもある。病院で死を迎えた途端に、葬儀屋がやって来て、パックの説明をする。この宗派の場合は、こんな具合、戒名が必要であれば、こんな値段、みたいな調子で、まあ、至れり尽くせりというのだろうか。死を悲しんでいる暇もないと思う人もいれば、動転しているときに助かったとふりかえる人もいるのだろう。そういう業界の人の話によれば、最近は葬儀の際にかける音楽に対する希望を出す遺族や故人もいるらしいし、他とは違った形式を希望する人たちもいるらしい。この場合は、どんなに斬新なものでも一応助言をするくらいで、希望者のことを尊重して実行するとのことだが、音楽も曲名は忘れたがかなりやかましいタイプのものもあったそうでびっくりする。自由といってもそういうものを押し通すことが難しい環境もあるだろう。たとえば、集落などで隣組の組織のしっかりしたところではあまり無茶なことはできないようだ。当事者がやりたいのだからという意見もあるが、そういうものが通らない場合も多いらしい、いかにも日本的に思えたりする。しかし、もう一度書くけれども難しいことは、この儀式は誰のためにあるのだろうか、ということ。「死」というものに対する特別な思いもあるはずだから。

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12月2日(月)−迷信

 普段から論理的な話ばかりをしているわけではないが、なるべく話の筋が通るように気を配っているつもりだ。そうは言っても、やはり普通とは違った見方を紹介したほうがいいだろうし、時には思い込みかも知れないがそちらの方が面白そうだと思って、ここで披露することもある。所詮は独り言だから、自己満足で構わないと言ってしまえば簡単なのだが、実際にはそこまで酷くはなっていないと思う。さて、どうだろうか。
 こんな書き出しで来るときには、かなり酷い話が始りそうだという予感がするかも知れない。今回は、非科学的な話をしようと思って、こんな始め方をした。電磁波という言葉を御存知だろうか。あまり簡単な言葉ではないが、電波とか磁力線とかが関係ありそうだと思う人がいるだろう。実際には、電磁波となると光も放射線も電波も入ってくる。結局波だから、その波の長さ、波長によって、この区別がなされているのだ。レントゲン撮影で使われるX線は非常に短い波長の電磁波で浴びすぎれば障害を生じる。これより長くなるが人が見ることのできる可視光より短い波長の紫外線も最近は皮膚ガンの原因として警告が出されている。しかし、可視光より少し波長の長い赤外線は害よりも、益の方が強調されているかも知れない。では、電波とかはどうなのだろうか。中波ラジオの電波は振動数が1000キロヘルツだから、一秒に100万回振動する。これから波長を計算すると、光と同じように一秒間に30万キロ進むとすれば、波長は300メートルとなる。光は500ナノメートル(ナノメートルは1/1000000000メートル)だから、約10億倍違う。まあ、そんなことはさておき、自然界では雷など電気現象で電波がでていたり、宇宙から電波が飛んでくるのだろうが、それほど多くはない。しかし人間はラジオやテレビなどの通信でこれを使っているだけでなく、電子レンジなどでも使うことで、世の中にかなりの量の電波というか電磁波を生じている。これらの電磁波は人体に影響を与えるものだろうか。この話は世界保健機関からは一応否定的な報告が出されたので、決着がついた形になっているが、いまだに高圧線の悪影響を報告する人たちがいる。実際のところきちんとした結論を出すことは難しいから、いつまでも決着がつかないのかも知れないが、その間にどんどん使う機会は増えている。最近では、携帯電話と電磁調理器がその代表となっているだろう。ここまでは非科学的でも何でもない。しかし、携帯電話の人体に対する影響を考えるときに、こんな経験を話したら、人はどう思うだろうか。一時期不整脈の兆候があると言われていたのだが、今はなんともない。その時期、胸ポケットに携帯電話を入れていると、何となく心臓が気持ち悪く感じていた。しかし、医者に不整脈は正常の範囲と言われてからは何ともない。これは電磁波の影響か、心理的な影響か、と聞かれたら、答えは決まってしまいそうだ。また、ペースメーカをつけている人でも携帯電話を使っている人がいる。でも、だから大丈夫とは言えないだろう、なにしろ心理的な影響もありそうなのだから。まあ、こういう世界を科学的に分析するのは、そんなに簡単ではないことだけは判る。

(since 2002/4/3)