パンチの独り言

(2002年12月9日〜12月15日)
(文化とは、史上初、賄い、星霜、シテとワキ、比類、類似品)



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12月15日(日)−類似品

 夏場に話題にしたほうが良いのだろうが、その時思いつかなかったので、この辺で話しておこう。ドイツを旅行したとき、どこのレストランでも三種類のビールがメニューに載っていた。ピルスナー、ケルシュ、ヴァイツェンである。それぞれかなり違った味がして、その時の気分で変えたりして楽しむことができた。それにしても、あちらの人はビールが本当に好きなようである。
 そんなことを書いているが、日本人もかなりのビール好きである。最近は懐が寂しいせいもあって、自宅では発泡酒、飲み屋ではビールと区別しているようだが、ある事柄を除けばほとんど同じ代物である。そこで税金が違うなどと答えるようでは、まだまだ修業が足りない。原材料によってそういう区分があるのだそうだ。発泡酒とビールの違いについては、あとで少し触れるとして、ではビールにはどのくらいの種類があるのだろうか。全世界で作られているいわゆるビールと呼ばれるものが何種類あるのかという質問に、正確に答えるのはおそらく難しいだろう。ちょっとした違いで呼び名を変えようと思えばできないこともないからだ。でも、まあ大体どのくらいあるのかと思って、検索をかけてみたら便利なサイトが出てくる。下に紹介しておくので、後で覗いてみて欲しい。そこには世界の主なビールというだけで13種類のビールが紹介してある。上で紹介したピルスナー、ケルシュ、ヴァイツェンだけでなく、他にも聞いたことがあるものとしては、エール、アルト、スタウトなどがある。ライトなどはビールの種類なのかと思えるが、肥満が問題になっているアメリカならではのものだ。それにしても、原材料も色々、作り方も色々で、こんなに違うのかと思えるほどだ。ピルスナーは元々ドイツ人から造り方を学んだチェコ人が編み出したもので、現在では世界中どこでもこの類いのビールが造られている。そんな事情からビールの本場ドイツが面目を失ったなどと言われることもあるものだ。ヴァイツェンは南ドイツに行くとどこにでも置いてあるもので、瓶の中で醗酵させることからおりが沈んでいたり、濁っていたりするが、ちょっと甘味があって口当たりの良いものでピルスナーなどのほろ苦いタイプのビールの嫌いな人には向いているかも知れない。一緒に行った日本人がドイツ人から聞いたところによれば、甘いものが好きな蜂も寄ってくるので飲むときには刺されないように注意せよとのこと、笑い話なのか真剣な話なのか確かめなかったが、どうなのだろう。アメリカでは日本食レストランには日本のビールがおいてあるが、ドイツにはおいてないという噂を聞いた。日本のビールはあちらではビールと呼べない代物だからだ。原材料の項目を読めばわかるが日本のビールには米が入っている。ドイツでは麦芽、ホップ、水以外の副原料の入ったものはビールとは認められていないから、日本のビールをビールと呼んではいけないことになる。これとは事情が違うが、日本のドライと呼ばれるビールがアメリカに輸入されたときも税制上ビールとは認められなかったそうだ。アルコールの含有率が5%を越えていたためらしい。伝統を守るため、法律を制定するため、いろんな理由があるのだろうが、それにしても国ごとに同じものを違った名前で呼ばなければならないとはおかしなものだ。いやいや、同じじゃなくて違っているんだな、微妙に、発泡酒は副原料の含有率でビールと区別するのだから。

ビールの種類

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12月14日(土)−比類

 先週の続きというわけでもないが、また話題になっていたので、競争について取り上げたいと思う。今回は、科学の分野では最も権威のある賞にまつわる話だ。世俗のことに疎い科学者とはいえ、この賞に対しては特別な思いがあるのだろう。受賞者が発表されるたびに、その選考の過程が取り沙汰される。一番大きな理由は受賞者の数が各賞3人までと決められているからだ。
 毎年ある特定の功績に対して賞が授与されるわけだが、ある特定の分野のある特定の成果と言っても、関わる人の数は3人に限定されることは少ない。多くの場合、主要な功績をあげた人を選び出すことによって3人までに落ち着かせるのだが、場合によってはそうすることができなくて一人だけの受賞となることもある。多数の中から少数を選び出すのは何か決まったやり方や基準があるわけではなく、相対的に見て誰の功績が大きいのかといった数字では表せない判断基準を設けている場合が多いのだろう。ということは、文句を言いたくなる人も沢山出てくるというわけだ。毎年受賞者が発表される度に、なぜこの人が、なぜあの人が、と業界の中では話題になるらしいが、一度決められたものが覆されるはずもない。せいぜい、関係者達が自分達の功績の正当な評価を求めるといったことで時間が過ぎてしまい、次の年の発表となる頃にはすっかり忘れ去られるものである。今年の場合も、案の定というか、製品化に最も功績のあった人たちが選に洩れたことに対する不満がニュースとなっていた。選考は結局その方法の最初の発見者を重視したとあるから、的外れなものとなるように思えるが、この辺りはそう簡単に片付けられるものではない。彼らも論文の中ではフェアに言及していたが、実際にはその成果は重要ではなかったと、今更言われても困るというものだ。まあ、そんなこんなの時間をやり過ごせば、何もなかったかの如くと結末はなるのだろうが、今のところは一部で盛り上がりを見せているようだ。こういうものを喜んで取り上げるこの国のマスコミにも困ったものだと思うし、取り上げるにしてももう少し意見を持ってやって欲しいと思う。科学の分野では数字が常について回るような印象が持たれているが、ことほどさように結局は数字では測れないようなものを指標にして判断しなければならないことが多い。それに対して、芸術の分野では端から数字などは相手にしていない。賞に関しても審査員の印象などといった数字には変換できないものを頼りにしているわけで、それが多数決という形で最終的に数字に置き換えられているだけである。そんなわけだから、受賞者とそうでない人たちの区別もはっきりとしていないし、させられるはずもない。芸術では他のものと比べられない突出性や独自性を大切にしているのに対し、科学ではたとえ独自性を主張しようとも対象が同じであるがためにどうしても比較できてしまう。そんなところから科学では競争相手に対して厳しい見方をするのが常であるのに対して、芸術では比べようがないから競争相手に対しても寛容さが出てくるのかも知れない。まあ、寛容さなどと言っても、そんなにたいそうなものではなく、単に相手にしていない、つまり無視しているだけとも言えそうなのだが。人間としては競争をしていても、作品としては競争にならないといった感じだろうか。どちらの世界が良いとか悪いとかではなく、そんなものだというだけだが。

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12月13日(金)−シテとワキ

 いよいよ冬本番といった感じだが、また少し寒さが緩みそうな気配もある。しかしそんなことはさておき、冬の食べ物といえばやはり鍋ということになりそうだ。ラジオでも今週の特集は鍋とかで、全日本鍋研究会やら鍋奉行の話題で盛り上がっていたようだ。今回は時間の都合であまり聴けなくて残念だったが、皆さん一癖も二癖もあるようなので、楽しい話になっていたと思う。
 こんな具合に鍋の話題から始ったから、今回は鍋料理の話かというとそうはならない。鍋料理では、話題が散らばってしまって、収拾がつかなくなるのが明らかだからだ。じゃあ、何を始めるのかって。まずは材料の方から始めていこうかと、と言ってもそれだけで主役もとれるもの。ということで、今回の話題は豆腐にすることにした。豆腐料理というと、冬になれば、まずは湯豆腐となる。これがどうもこだわりのある人もいるらしく、あるところの湯豆腐じゃないといけないということになったりする。そんなところなのかも知れないが、京都では南禅寺の辺りに店が集中している。以前、ある老舗に入ったが、でかい鍋に豆腐がたっぷり入ってきた。たぶん、一人前二丁ぐらいではないかと思えた。こりゃ、豆腐好きじゃないと困るだろうなと、湯豆腐を食べに来る豆腐嫌いがいるとは思えないが、何となく心配になったりして。豆腐というのは不思議なもので、何処かにするすると入っていくもの、いつの間にか目の前から無くなっていた。しかし、湯豆腐主体の食事で、三千円はちょっとね、などと思っていた。その帰り、久しぶりに祇園の辺りを歩いて、昔行ったことのある画廊に寄ったら、たまたま主人がいて湯豆腐にそんな金使ったらアカンと言われてしまった。まあ、そんな気もするが、たまには良いのかも知れないと無理矢理納得させた。他の豆腐料理となると思い出すのが、全国チェーンになっている店の引き上げ湯葉である。豆乳を温めて、表面に出てきた湯葉を自分の箸で引き上げるというもの。当然ながら出来立ての湯葉で中々の美味である。これもセットとしてはかなりのお値段だったと思うが、こういう出し物があるとついもう一度と思ってしまうから不思議なものだ。もう一つは郷里の町にある菜飯田楽の店。大根の葉を炊き込んだ御飯と八丁味噌をつけた豆腐田楽を食べさせるところだ。何とも質素な感じだが、中々いい味が出ていて好きな料理の一つである。最後に紹介するのは地元の豆腐専門店のお話。元々、県の中部で豆腐屋をしているお店らしいのだが、豆腐料理の専門店を開いて、創作料理も含めていろんなものを出していると評判のところだ。何度も予約を入れようと挑戦していたが断られ続け、先日やっと実現した。中味はもうほとんど忘れてしまったが、豆腐づくしである。一度だけ生麩が出てきたが、それ以外はすべて豆腐あるいは豆乳を材料にしたもので、良く工夫がされていて、人気のあるのも頷けた。ざる豆腐を天然塩でいただいたものは、ほんのり甘味がして美味しい。やはりしょっぱい味を加えることで、甘味を強く感じさせているのだろうなと納得してしまった。湯葉、はさみ揚げ、豆乳で煮た湯豆腐、等々と、やはり全部は思い出せないのだが。お昼ということもあり、値段も手頃で、まあ満足といった感じだった。それにしても、豆腐本来の味を生かしたり、豆腐の味を隠して料理したりと、材料としての使い勝手の良さを見せてもらった気がする。

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12月12日(木)−星霜

 寒くなってくると美しく思えるものがある。人それぞれにそう思えるものがあるのだろうが、パンチの場合は冬の星がそれである。夏の星座は夏の大三角形と呼ばれるベガ、アルタイル、デネブのそれぞれが属すること座、わし座、白鳥座と南天に赤く輝くアンタレスのあるさそり座くらいだろうか。それよりも、大三角形を横切るように横たわる天の川の方が印象深いだろう。と言っても、ちょっと明かりのある所では見えないので何のことかわからない人も多いだろうが。
 冬になると空気も澄んできて、星の輝きが増したように感じることが多い。寒空にキラキラ輝く星を見ていると、何となく気持ちが落ち着くものだが、過ぎると凍えて風邪を引いてしまうので要注意だ。ここ数日冷え込みが厳しく、そのせいもあって冬の星座がくっきりと見えている。冬の星座といえば、やはり何と言ってもオリオン座ということになるだろう。長方形の中に三つ星が輝く、何ともバランスのいい星座だ。これは夏の星座のさそり座が沈むころに上ってきて、さそり座が上ってくるころに沈んでいく。神話ではオリオンはサソリに刺されて死んでしまったので苦手にしていて、サソリを避けているのだと、プラネタリウムで小学生の頃に聞いた覚えがある。こんな所にも神話の楽しみというものがあるのかも知れない。他にも明るい星があって、オリオン座の下の方に全天で最も明るい恒星であるシリウスが輝いており、これはおおいぬ座に属している。あとはプレアデス星団のある牡牛座だろうか。プレアデス星団は日本ではすばると呼ばれていて、枕草子の中にも「ほしはすばる」と出てくる美しい星の名前として有名だ。目の良い人であれば、10近くの星が見えるはずだが、眼鏡をかけているようだとちょっと無理かも知れない。双眼鏡で覗いてみると多くの星が並んでいるのがわかって、びっくりするほどだ。こんな星を眺めながら、やはり冬の星座は良いなと思ってしまう。一つにはオリオン座のようにバランスの良い配列があること、次には話題に上げられる星ぼしが並んでいること。最後に、夏だと目を奪われてしまう天の川が冬のこちら側は薄くてあまり見えないから、たとえ空気の澄んだところでも邪魔をされずに、星座の形を見極めやすいということもあるのかも知れない。そんなことを思いながら、オリオン座の長方形の一角にあるのはペテルギウスだったが、その対角にあるのは何という名前の星だったろうかとか、牡牛座の牡牛の眼にあたる一等星はアルデバランというんだったっけとか、記憶の奥底にしまいこんだものを引っ張り出したりしている。そう簡単に引き出してこれるわけではないが、そんな名前を思い出したり、星座にまつわる話を思い出したり、中々楽しいものだと思っている。そういえば、ペテルギウスの対角はリゲルだったか。インターネットで調べれば、すぐに出てきて確かに便利だ。その方が寒空の下で悩んで、風邪を引いてしまうよりもいい。

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12月11日(水)−賄い

 久しぶりで本物の温泉旅館に行ってみたが、色々とおかしいなと思ったことがある。そこは世界で一番古い温泉街と称しているようだが、本当のところはわからない。温泉はいろんなところに湧いているのだろうが、それを客を迎える施設とともに運営したところは実際にはそれほど多くなかったようだし、それほど古い話でもないらしい。そんなことを言っても、歴史をひも解いたわけではないので、はっきりしないことばかりだが。
 変だなと思ったことは、たとえば、温泉旅館なのにお風呂に入っている人の数が極端に少ないと思えたことである。さすがに歴史のある旅館らしく、大きなお風呂が三ヶ所もあり、そのうち二ヶ所には露天風呂がついていた。これだけ整備されているところも多くはないと思うのだが、実際にそういう大浴場に入っている人の数はあまり多くなかった。宿泊客の数が少ないかどうか、朝食をとっている人の数からしか想像がつかないが、少ないとも思えなかった。さて、では温泉に入らずに温泉旅館に来る意味があるのか。それは、ないだろうなと思うので、となると、やっぱり内風呂だろうか。なんとその旅館には各部屋に木の風呂桶がある風呂がついているのだ。最初に見たときは驚いたが、ひょっとしたら、他の人と風呂に入った経験のない人がそういうものを利用するのかも知れない。どうも、この想像は外れているような気もするが、ホントに不思議に思えた。もう一つの不思議は食事である。朝食はまあ適当に用意されたものが出されるからあまり気にならないが、一泊二食つきだと夕飯も用意されている。こちらの方は、大抵の旅館で豪華で食べきれないほどの量が出されるが、此処の場合ちょっと考えさせられるところがあった。どうも旅館の中で準備されたのではないのかもしれない、と思える節があった。まあ、細かいことはおいといて、出される料理の温度や出し方におやっと思えるところがあったというだけだ。ひょっとしたら単なる考えすぎかも知れないし、大きな旅館だから料理を出すだけでも大変な労力だから仕方がないのかも知れない。そんなことを考えていたら、以前旅行先の運転手の話として、最近の温泉旅館やホテルでは自分のところで料理せずに、仕出し屋を利用していることを書いたのを思い出した。実は、今回も昼間は料理がでないから、外の蕎麦屋に行ったのだが、そこの主人が話し好きらしく、いろんなことを話してくれた。その中で面白いと思ったのは、その蕎麦屋は以前は仕出し屋をやっていて、戦前は旅館に料理を運んでいたとのこと。それが温泉旅館の当時のやり方で、泊る場所と温泉を提供するのが役目で、料理は外から取りよせるということだった。それを聞いたとき、なんだ今の姿は先祖返りなだけかと思ったが、よく考えたらその周辺の旅館も既にそうなっているかも知れないのだ。たぶんもっと近代的な設備を持った仕出し屋が何処かにあって、そこからなどと考えると、なんだか楽しみも半減してしまった。まあ、温泉旅館の料理はどうにも量ばかりで、今一つこれという決め手がないのもよく聞く話だが、その辺りもこういう事情によるものかも知れない。カニとか伊勢エビとか、名物のあるところなら話は別なのかも知れないが。

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12月10日(火)−史上初

 新聞に観測史上初という文字が並んでいる。週明けでただでさえ鬱陶しい日に、出かけるのが鬱陶しくなるようなあまり嬉しくないプレゼントが天からもたらされた。関東地方に12月としては異例の大雪が降ったというニュースである。所によっては積雪量が観測史上最大となっていたが、それ以上に最高気温が史上最低だったことのほうが印象に残った。
 首都圏での雪というと思い出すことがある。3年ほど前だろうか、ある会に出るために都内に行っていたのだが、その日は二日続いた大雪の初日でかなりの雪に見舞われていた。積雪がどの程度だったのか覚えていないが、様々な公共交通機関が止まっていたことから考えてもかなりのものだったと思う。その年の初めは何度も大雪が降っていて、合計三回ほど交通マヒのニュースが流れていたように記憶している。当日はまず宿泊のチェックインを済ませ、そこから会場まで地下鉄とJRを乗り継いで出かけていった。その時間にはまだ雪の量も少なく、行きの電車はどれも正常通り運行されていた。その会は夕方の6時から始まるもので、もうその時間には雪の勢いが増していたから、遠くから出かけてくる人はおそらく断念していたのではないかと思う。しかし、会場に来ていた人たちの中で、その後どんなことが起きるのか、予想していた人はほとんどいなかったと思う。会はいつものように盛り上がり、大体予定通りに9時前に終わって、参加者はどっと引き上げていった。もう、その時にはJRの一部路線は不通になっていたのだと思う。それでも会場のある五反田は都営地下鉄も通っているから、大丈夫だという読みもあった。結局、いろんな話をしているうちに10時を過ぎてしまい、さて皆で帰ろうという段になって、困ったことが起きた。山手線が止まっているのである。内回りは動いているが、外回りは動いていない。その時の宿は営団地下鉄日比谷線の中目黒にとってあったので、五反田からは山手線外回りで二つ向こうの恵比寿まで行き、そこから地下鉄に乗り換えればいいと思っていた。しかし、外回りが不通である。まさか内回りで一周近くするわけにも行かず(これは正常ダイヤでも一時間ほどかかるが、たぶんその時だともっとかかっていたはずだ)、JRは断念して地下鉄を利用することにした。しかし、今度はもう一つの驚きのニュースに迎えられることになる。なんと、地下鉄も雪のため不通になっている区間があるとのこと。地下に雪が降るのかと思ったら、都内の地下鉄の多くは地上を走る区間をもつのでそこで問題が起きているとのこと、何とも笑うしかなくなってきた。それでも浅草線五反田から三田で三田線に乗り換え、日比谷でさらに日比谷線に乗り継いでやっとのことで恵比寿まで戻って来た。中目黒は次の駅なのだが、そこまで来るとホッと安心したのか、行きつけの飲み屋のことを思い出した。さすがにこの大雪ではやっていないかと思ったが、行ってみると暖簾はしまわれていたが中に客がいる。ちょっとだけ寄って行ったが、他の客は皆籠城覚悟といった感じ、まったく雪とは困ったものだ。ところで、困ったときのタクシー頼みという手が使えると思うかも知れないが、その時タクシーはほとんど動いていなかった。何の準備もしてなければ、タクシーとて危険は同じ。都心とはそういうところなのである。

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12月9日(月)−文化とは

 文化というと何を連想するのだろう。文明とはちょっと違って、精神活動に重点がおかれているような気もするから、そういう意味で美術や音楽などの芸術活動が一番近いものに思えるのかも知れない。しかし、文化とは何かという定義には人それぞれ違ったものがあってもいいはずだ。
 いろんなところを渡り歩いていたが、その中に科学研究を主な活動として建設された都市があった。そこには、いわゆる研究者と呼ばれる人たちが産官学すべての領域で存在しており、そこで働く人たちのかなりの割合を占めていたと思う。そういう特殊な環境にあると、人はいろんなことを考えるようだ。施設を集中させた元々の目的は、研究者の交流にあったようだが、肝心の人々は四六時中そういうものと接するのを避けるようになり、普段とは違うものを求めるようになっていた。電車で一時間ほど行けばなんでも揃っている大都市があるのだから、そういうところへ出かけることによって日頃の憂さを晴らせばいいと思うのだが、どうも手近なところに同じようなものを置きたくなるらしい。憂さを晴らしたいと思っている人たちだけが考えていたわけでもないのだろうが、当時よく聞かされた言葉に「ここには文化がない」というものがあった。始めに書いたようにここで言う「文化」とは、芸術に関するものである。こういう人々は、音楽、美術に始り、さらに多岐にわたる芸術活動に接することができるような施設の必要性を説いていたのだと思う。確かに身近にあれば便利なものかも知れないが、一時間ほどのところにもよく似た、しかしさらに規模の大きい施設があるのである。自分達のものという感覚が文化を考える上で重要なのかも知れないが、同じようなもののミニチュア版を作ることにどれほどの意味があるのか、疑問に思ってしまった。それに、彼らに言わせれば、科学などというものは文化にはなりえないものらしい。一体全体どんな見識からそんなことが言えるのかさっぱりわからないのだが、科学とは精神活動とは無関係で人の生活に役立つものであり、それで精神という見地からは芸術よりも低い位置にあるものとなるらしい。自然博物館などはぎりぎりのところで文化的と見なされるようだが、科学技術ははるかに下の方にあるもので、文化的なものにはなりえないわけだ。ちょっと言い過ぎになるが、役に立たないことを誇りにしている芸術から見れば、役に立とうと躍起になっている科学などは足下にも及ばないと思うのだろうか。ただ、これを芸術家ではなく、科学者の発言として受け止めるのは、かなり辛いものがあるのではないだろうか。研究において精神活動はかなり重要な役割を果していることは明らかだし、科学を文化として捉えること自体に問題があるとは思えない。単に日頃接しているものに対して愛着が浮かばないというだけなのかも知れないが、だったら、文化ではないという発言は馬鹿げたものだし、もっと違った形で表現すべきだろう。どうもこういうところにも度量の狭さが出ているようで、嫌な思いがよぎったものだ。

(since 2002/4/3)