長距離の旅行になるとやはり飛行機を利用することが多い。まして、海外旅行となれば飛行機以外を使うことはほとんどないだろう。まあ、よほどのお金持ちであれば、豪華客船に乗って優雅な旅をとなるのだろうが、そんなことが実現するとも思えないし、こういう旅行が仕事に関わるものであれば、なおさら不可能というものだ。
飛行機での旅行では、当然空港を利用する。小さな地方空港であれば空港ビル内の移動も徒歩で済ませることができるが、ちょっと大きな国際空港になると何キロも歩くことになって大変である。空港内のビルの配置にもよるが、たとえばロサンジェルス空港ではシャトルバスを利用するのが便利である。一方、関西空港では出国手続き後あるいは飛行機から降りた後モノレールのような乗り物を利用する。驚いたのはアトランタ空港の場合で、空港内を地下鉄が通っていた。外から眺めたことがないので、実際の大きさはわからないが、それぞれの航空会社が使用するゲートが並んだビルがくし刺しのように並んでいたのだと思う。ここまで大きい空港は別にして、大抵のところはビルを繋ぐ通路が網の目のように入り組んで設置してある。サンフランシスコ空港や成田空港はそんな形式になっていた。この場合、徒歩での移動が原則となるが、大きくはないと言ってもかなりの広さがあるから移動には時間がかかる。それに免税品などを持って歩くとなると、その程度の距離でも面倒になる。そこで設置してあるのが、動く歩道である。つい、歩く歩道などと言い間違えることもあるが、歩道は歩くところでそこが動くのだから、動く歩道というのが当然だ。エスカレーターと一緒で乗り降りを容易にするため、歩く速度より少し遅いくらいの速度で運転されている。だからいくら楽ができても、横を歩いて行く人より遅いのでは我慢ができないらしく、多くの人たちが動く歩道の上を歩いている。そうすれば、歩道の動きの分だけ速く移動できるから、時間を節約したことにもなりそうだ。でも、それでは結局歩くのだから疲れてしまうの、もっと速く動く歩道はできないものか、と考えた人たちがいる。先日テレビを見ていたら、実物を見せながらその新しい動く歩道の性能と仕掛けを紹介していた。作ったのはIHIという略称で呼ばれる会社で、より長い距離をより速い速度で移動できるように工夫をしたようだ。安全のため入口と出口では従来と同じ速度で、中間部で高速化して出入口の三倍の速度を実現したとのこと、どんな仕掛けになっているのかは、サイトを紹介しておくので、そちらを参照して欲しい。中々面白い仕掛けだと思ったが、実用化されているにも関わらず、導入された例が少ないようだ。値段の面か、設置条件の面か、どこに問題があるのか判らないが、一見便利なように見えてそれほど話題になっていないようだ。中間部で加速するときの機構を見るとどうもその辺りに安全面での問題を生じそうな感じがある。いずれにしても、利用者が慣れてくれば、色んなところに導入される可能性があると思う。最速部分では分速120メートルで、通常の歩く速度である分速80メートルの1.5倍である。これでも遅いと思う人がいれば、歩道の上を移動する人が出てくるが、説明にあるように歩道部分が前後に広がるので、ちょっと問題が出てきそうな気がする。まあ、出てきたら、一度試してみたいと思っているが、いつになることやら。
5年ほど前なら、大歓迎されていたのかも知れないが、最近はどうも投資家の食指も動かないようで、ベンチャービジネスの立ち上げはかなり難航している。ただその一方で、大学発ベンチャーと呼ばれる、大学での研究成果を実用化して起業するものは、様々な支援も得られ、徐々に増えつつある。そうは言っても大学教授が経営に乗り出すものはなく、ほとんどはアイデアを出すだけなのだが。
こういう話を聞くと大学の研究者もやっとそんなことができるようになったのかと思う人がいるかも知れないが、実際にはこんなことはずっと昔から行われてきた。最も古いものの一つは現在政府の機関になっている理化学研究所だろう。明治時代に研究を主体とし、そこから得られた成果を企業化することで利益を生み出し、さらにそれを使って研究を進めていくという今から見ても先進的なシステムを作りだしたのが理研とも呼ばれる研究所である。様々な会社の前身を作りだしたこともあり、色んなところに「理研」という名が残っているし、製薬や事務機器の分野にもここを発端とする会社が今も存在している。その意味では、ベンチャーの母体となっていたわけで、もし今の大学がそういうものを目指すのなら、戦前の理研を参考にすべきかも知れない。しかし、理研は原爆製造などの問題から、終戦直後占領軍によって解体され、その後復活したが戦前のイメージとはかなり異なったものになった。それでも現在も特許権収入もあり、ある程度の独立性をもった形を維持していることは確かだ。大学発ではないが、先日のノーベル賞で話題になった廃坑内部に設置された測定機器を製造する会社は、テレビの開発に携わった研究者の教え子達が興したものだ。現在は株の半数をある自動車メーカーが保有しているが、独自の研究開発を行うことを認められているらしい。けちで有名なメーカーがなぜとも思えるが、ああいう成果が得られたのだから先見の明があったのかも知れない。では、大学発ベンチャーは、今の時代になって初めて出てきたのだろうか。これも実際には終戦後に大学の教官が中心となって起業した会社があるのだ。真空技術を売り物にするその会社の社長は大学にいたが、様々な理由から退職して会社を興した。技術的には高いものを持っていたのだろうが、経営手腕があったかどうかはよくわからない。おそらく、そういう能力を持った人が参加したのだろう。いずれにしても50年も前にそういうことは既に行われていた。ただ、今とは経済成長の状況がまるで違うし、大学の状況もまるで違う。最近自分達の技術を製品化するために会社を設立した人に言わせると、先の真空技術関係の会社の人からは厳しい批判が来るそうで、業界ではベンチャーに対して特に厳しくあたるともっぱらの噂になっている。設立の経緯を理解すれば、特に厳しくという理由も何となく判ってくるような感じもするが、実際のところは判らない。なにしろもう第二世代、第三世代が中心となっているから、ベンチャーだったなどという気持ちもないかもしれないからだ。色んな成果をものに変えていくのは楽しいことだろうし、そういうことがこれから大切になっていくのだろう。ただ、何でも、誰でも、できるというものではない。種があるだけでなく、それを育てる人々がそこにいる必要があるのだから。
ついこの間、鍋の話をしたような気がするが、またその手の話をしてみようと思う。このところ寒くなってきて、何となく鍋料理が恋しくなってきたということもあるし、先日盛り上がった話題があるので、それを取り上げてみようと思ったことも理由の一つだ。鍋と言いながら、はたして鍋と考えるべきなのか、論議の的になることもある「すき焼き」についてである。
地方地方によって、いろんな鍋料理があるが、その場合には大体違った名前が付いているものである。名前が違えば、違う料理と受取られるから、よほどのことがない限り誤解されることはない。しかし、しゃぶしゃぶやすき焼きは全国区の名前で、どの地方に行っても同じものを使っている。しゃぶしゃぶの料理法の大きく違うものを食べたことはないが、タレの種類や作り方でかなりの違いを感じることがある。最近はポン酢を主体にしたタレだけでなく、胡麻ダレというものが出される場合が多くなったが、これは店やら場所やらによってかなりの違いがあるようだ。名古屋発信の全国チェーン店の胡麻ダレに慣れている者にとっては、先日食べたタレはやたらにお酒の味ばかりがして、美味しいとはとても言えないものだった。肉は胡麻ダレでと思っていても、まあポン酢でも良いかとなってしまったほどだ。それでもしゃぶしゃぶは肉以外の野菜などにちょっと変化があるくらいで大きな違いに出合ったことはない。それに対して、すき焼きはかなりの違いが出てくる。すき焼きの語源は、鋤の上で肉を焼いたことから来ていると、何処かで聞いたことがあるが、これは焼くことを主体にした料理法であることを示している。まず、肉の脂身で鉄鍋に油をひいて、そこに肉を広げて焼き、さらに葱や白菜といった野菜を入れた後、砂糖、酒、醤油などを入れて、その後煮込んでいくというのが自分が育った地方でのやり方で、西の方に行く限りそれほどの変化はなかったように感じていた。ただし、家庭によって、甘辛の味付けが大きく異なるようで、大学時代に同級生と囲んだすき焼きパーティーでは4つか5つの鍋がそれぞれまったく違った味付けになり、一つは甘すぎて困った覚えがある。それを作った女子学生の家ではその味付けらしく、家族皆が甘党なんだろうなと想像した。味付けには差があるとはいえ、料理手順はほとんど同じであったのだが、ある時テレビのCMを見ていたときに、不思議なものを発見した。すき焼きのタレと称するものだ。よく聞いていると関東方面では割り下なるものが存在するらしく、料理手順も違うようで、鍋に肉と野菜を入れたところに割り下を入れた後、火にかけるようだ。これを見ると関西の人間は焼いていないのにすき焼きというのはおかしいと文句をつけたりする。まあその通りなのだが、ちょっとした違いだからと言われることも多いようだ。それに、よく考えると明治維新後牛肉を初めて食べるようになったのは横浜だったか、それも牛鍋という代物だ。今の牛丼の上に乗っているものを指しているのかも知れないが、いずれにしても鍋料理として出てきたわけで、それを起源と考えれば、始めから煮込むのが当り前なのかも知れない。関西で有名なうどんすきも、北陸のあるところではすき焼きとうどんが別々に出てくるのだそうで、びっくりしたとのことだ。とにかく、色んなものに出合っても、それぞれに良い点もあるのだろうから、味を確かめてから蘊蓄を傾けることにしよう。さて、今日の晩御飯の献立は決まったかな。
円周率を3.14とするか、約3とするかで、小学校の教科書議論がなされていたが、一方で最近円周率の計算を一兆桁を超すところまで行ったと発表されていた。そんな桁まで誰が必要とするのか、という疑問はすぐに湧いてくるが、計算を行った人たちにとってはそんなことは関係しないのだろう。以前の記録をたてた人たちが再び挑戦して、さらに記録を伸ばしたということなのだから。
円周率は、数学を専門とする人たちには何桁計算しようが終わりのないことは明らかで、それを計算によって証明する必要はないし、3.14にするか、3にするかで議論したように、一般の計算にとって大きな桁はかえって面倒なだけである。そんなことから、こんなニュースが伝わっても一般には理解されず、まるでマニアのお遊びみたいに受取られるのは、計算に携わる人々には遺憾なことだろう。元々円周率の正しい値を求めることが目的ではなく、単にコンピュータの計算能力を測るための一手段として、円周率の計算という課題があったのだから。さて、そんなに計算速度の速いコンピュータを誰が必要としているのか。これまた大きな問題だが、世の中には一見馬鹿げたようなことをやろうとする人たちがいるわけだから、この問いは意味がないのかも知れない。コンピュータに話を戻すと、ここにはスーパーコンピュータという言葉とともに超並列という飾りがついている。「超」という言葉は、より優れたという意味だとして、並列というのは何のことだろうか。家庭にある普通のコンピュータは一つの仕事に専念する。まるで効率の悪い仕事のやり方をする人たちのように、ある仕事が滞ると他の仕事が一切進まなくなってしまう。それでも普通の使用ではほとんど問題は生じないが、たぶんネットでファイルを読みに行ったまま止まっているときなどは、この間に他のことができれば良いのにと考える人もいるだろう。並列とはそんな意味で、仕事を分担させ、それぞれを別々の計算機でやらせることによって、計算能力を向上させる仕掛けである。並列計算を初めて耳にしたのは、東大の研究所で星の間の重力場計算をしているグループがパソコンを繋ぎあわせて、かなり複雑な計算を短時間でこなしたという報告だった。いかにも大学の研究室らしく、市販のパソコンの演算素子を繋いだだけだったらしいが、その能力の素晴らしさに様々な人が導入を図り始めたのだそうだ。その後はかなりの進展が見られて、いろんな分野に応用されているそうだが、どんどん専門的になっていくので、結局訳がわからなくなっていく。そういう意味では、円周率の計算はやっていることははっきりしているからまあ分かり易い。最近は機械の中での並列化ではなく、ネット上での並列化とでも言うべき方式が出てきている。グリッドコンピューティングと呼ばれる、ネット上で眠っているコンピュータを利用して計算させる方式らしい。どうも画面が眠ったときに起動するような仕掛けを入れるようで、そういうところで出た計算結果を集めて、全体の計算を行うというものらしい。これは以前人工生命の研究者がネット上のコンピュータに計算させてというやり方と似ているが、その時は個々の計算が別個のものであったのに、グリッドはその間で関連があるという違いがありそうだ。いずれにしても、この計算方式もまた、誰が必要としているのか、応用例が出てきて初めて一般に認知されるものになるのだろう。
暖かくなったり、寒くなったりと、何しろ忙しい今年の冬である。つい先日、今年の年間平均気温みたいなものが発表されていて、一年を通してみたらかなり暖かい年であったとのこと。確かに、桜の開花が異常に早かったことはよく覚えているし、夏の気温も特に都会ではかなり高かったように記憶している。こういうニュースを聞くとまた温暖化と結び付けたくなるが、はたしてそういうことなのかどうかはよくわからない。
地球温暖化というと地球全体の温度が上昇することを思い浮かべる人が多いだろう。確かに、そういう意味でもあるのだが、そう思って日常の気象ニュースを見ていると何となく腑に落ちないことが多いのではないだろうか。確かに、上でも書いたように平均気温としては上昇しているし、それが日本だけでなく世界的な傾向でもある。ところが日々世界から伝えられるニュースでは、異常気象ともいうべきものが多く、単に気温の上昇という形では片付けられそうにもない。つまり、あるところは異常に暑くなり、別のあるところは異常に寒くなるといった、極端な変化が伝えられていることが多いのだ。また、大雨や大雪などといった異常だけでなく、観測史上初めての降雪とか、そういった史上初という話題も多い。こちらの異常は単に温暖化といわれるようなことから起きているのかどうかはわからないが、いつからかよく聞かれるようになったエルニーニョ現象というものに端を発していると考えられているようだ。エルニーニョ現象とは赤道付近、アメリカ大陸の西側の太平洋の海水温が異常に上昇する現象で、これによって気流やらなにやら、気象に関係するものに変化が生まれ、結果としてそれぞれの場所で今までに経験したことのないような天候、気温などが観測されるようになるとのことだ。地球から見ればほんのちっぽけな地域の変化が全世界に影響をおよぼすなんてあり得ないという意見も出てきそうだが、気象というのは何しろバランスが保たれてこそのものだから、ちょっとしたことでも大きな変化をおよぼす可能性がある。また、一方でエルニーニョ現象は表面に現われたもので、他の変化は余りにも小さすぎて観測できていないのだという考えもできないことはない。そうだとすると、全体に徐々に小さな変化が蓄積しているということになり、地球温暖化とある意味では繋がることになるのかもしれない。どちらにしても、誰にとっても、あんまり極端な変化は嬉しくないし、日本にとっても四季の移り変わりがある程度予測した範囲内で起きて欲しいと願うのが、普通なのかもしれない。ただ、地球の歴史からいえば、こういった長期間にわたる温度変化というのはごく当たり前の繰り返しに過ぎない。ただし、その変化がわずかすぎて、人間の寿命からするとそんなことは実感できるものでもない。まあ、なんとか無事に切り抜けて、次の時代があるようにと願うのだろうが、はてさてそれはいつのことやら。
今の経済状況だと、国内の株は投資対象としてあまり魅力的には見えないだろうし、アメリカとてほとんど変わらないと言うよりかなり酷い状態にあるように見える。かといってヨーロッパもだめだし、てな具合で中国株の人気が上がっているそうだが、どんなものなのだろうか。こんな調子で、お金は何処かに流れないといけないらしく、今はその行き先をさがしてウロウロしているといった状況なのかも知れない。
ある時期ベンチャービジネスに光が差し込んできたような雰囲気だったころは、いろんな人たちが新たに立ち上げられた企業に投資をして、かなりの利益をあげたと聞く。実際にはそういう人から直接話を聞いたことはないので、その頃どうだったのか、そして今はどうなったのか、などという本当に興味のある話はまったく知らないから、やりようもない。そういう投資の話も最近はほとんど聞かれなくなったが、まだまだベンチャービジネスは立ち上げられているし、それなりに成功しそうな話もあるようだ。まあ、そうは言っても、ああいった類いのものは、幾つかに一つ成功すればいいや、といった気持ちでいなければいけないのだろうから、おいそれと試みるわけにもいかないが。話はころりと変わって、実は、この間新幹線に乗っていたら、隣の席に座っていた人たちが怪しげな話をしていた。どうも、融資とか投資とか聞こえてきたから、会社経営に関係があり、その上お金が直接関わっている話だったようだが、当然のことながら詳しいことが聞こえてくるはずもない。どういう形で投資の利益を還元するのかという問いには配当で行うと答え、融資はちゃんと受けられるのかという問いには了解を取り付けていると答えていたようだが、まあ車中の話だからその程度の曖昧なやりとりがせいぜいだろう。隣に座って本を読んでいる人間が簡単に聞き取れるような大きな声で、こういうやりとりをする人たちの常識を疑いたくもなるが、その程度のものと自分達が思っているのかも知れない。ただ、中で気になる部分が幾つかあったことは事実だ。○井研究所という名前が出たので、あれっと思ったのだが、いろんなところで話が出てくる有名な人の名前のついた研究所だったような気がして、ちょっと気になった。さらにそこにグループ会社がどうこうとか、税金云々とか、色々と混みいった話をこれまた大きな声で話し続ける人は、どうもそこに関わっている人らしい。まあ、こんなに大勢の人がいる中で、それも自由席でそういうやりとりをするのは、どんな意図があるのかなと思ったりするわけだ。盗み聞きといえばそうかも知れないが、聞こえてしまっていたのも事実。こんなところに書いていいものかよくわからないが、つなぎ程度のものと考えて、まあ、大した話でないことを願っておこう。
情報をどのように受け取るか、どのように送るか、といったことをここで何度か取り上げてきた。情報化社会などと巷では言われているが、情報が溢れていることは認めるとしても、その中のほとんどは役に立たないかあるいは撹乱させるためのものさえあったりで、残りのほんの一握りにしか役に立つ情報がないみたいだ。そうなれば、何度も書いていることだが、やはり見極めが重要になってくる。
そんなことを考えながら、今回の例の裁判の判決報道を見ていた。情報源として新聞も重要な役割を果しているけれども、動画という莫大な情報量をもつメディアであるテレビは特に最近、情報源として大きな割合を占めている。しかし、いざ裁判のことになると、そう簡単に事を運べなくなる。なにしろカメラが入れないから写真という静止画だろうが、ビデオだろうが、まったく使えなくなる。その代りに使われているのはスケッチで、写真の代りには何とかなるけれども、ビデオの代りにはなりそうにもない。ということで、肝心な情報は記者のレポートということになり、テレビだろうがラジオだろうが新聞だろうが、有利不利などほとんどない状態におかれている。さて今回気になったのは、判決そのものではないし、その理由でもない。判決後の退廷の場面での、被告人の態度に関する報道である。被害者の一人が指摘していたように傍聴席に向かって薄笑いを浮かべていたのかも知れない。幾つかの局はその部分だけ報道していたから、かなりの視聴者がそういう印象を持ったと思う。しかし、ある局だけはここに弁護士とのやりとりという流れを加えていた。退廷の時、弁護士から声をかけられ、それに大丈夫と応えたところで表情が変わったという報告であったと思う。どちらが正しいのかとか、真実はどうだったのかとか、そういうことを検証しようとは思わないが、ひょっとして同じことを見ていたのだとしたら、人によって印象がこれほど違ってくるのだということを了解しておかないと、これらの報道は極端な結果を生み出しかねないと思っただけだ。悪者はあくまでも悪者という扱いは簡単だし、受けも良いだろうが、それだからと報道がそういう立場になってしまっては何にもならない。これがビデオで報道されたとしても編集という術を駆使すれば、まったく違った結果を生むものが作りだせるわけだし、画像を使うだけにもっと印象深いものに作り上げることも可能になる。インタビューとか、街頭での取材に関しても、同じことが言える。取材の意図に合致したものを採用するという立場で編集すれば、なんとでもなるわけだ。ましてやバラエティー番組となると、やらせなど日常茶飯事なのだろうか。ある料理番組で日本にはほとんど生えていないきのこを使った料理を取り上げ、ある名人がそれを見つけたかのように番組はでき上がっていたのだが、ある人に言わせると、どうもそこに「生えていた」きのこは、そこから生えたものではなかったらしい。まあ、楽しめればいいのだから、という姿勢で考えれば、どうということもない。しかし、一事が万事となることを危惧すると、こういう流れがああいう世界にあることは情報の受け手として、十分に承知しておく必要はあるだろう。