色々な国の言葉が話せたら便利だろうなと思う。まあ思うだけで、そう簡単なことでもなく、やっと相手にわかって貰えそうな言語があるという程度のものだが、それでも一つ二つあれば世界が広がるというものだ。きっかけは色々とあるだろうが、たとえば日本語を話すことができる外国の人々と話すと気がつくことがある。母国語というか、その人の言語中枢を占める言語の限定といった類いのものだ。
はて、どういう意味なのか、と思われるかも知れない。これは経験した者でないと中々判らないから、これから書くことでも実感が浮かんでこない人もいるだろう。そういう場合には、将来もし他国の人と話す機会があったときに、ちょっと確かめていただきたい。そうでもしないと判らないかも知れないからだ。こんなに勿体つけて何の話かというと、話し言葉の中の数字の話である。米国には日系人が多く、いわゆる二世ならかなりの人々が、三世でも一部の人たちは日本語を話すことができる。漢字という難物があるから、読み書きは難しくとも、話し言葉であれば一世や二世である親たちから習い覚えることが可能だからだ。日本語を母国語としてきた人の発音を幼少の頃から聴いていれば、ほとんど問題なく自然な発音を身に付けることができる。しかし、彼らにとっての母国語は日本語ではなく、英語である。当り前のことだが、英語の発音はアメリカ人そのもので、日本人の顔を持っているのになぜだろうかと思えてしまうほどだ。そういう人と日本語で話しても、ほとんど問題なく意志の疎通を行うことができる。異国の地ではこれほどありがたいことはなく、地獄に仏などと思ってしまうこともある。特に、医者や歯医者を必要とする場合には、こちらの状況を正確に伝える必要があるので、日本語の通じる医療関係者に出会うとホッとする。病状や痛みの具合などを説明する言葉は相手も熟知しているので、ほとんど問題なく伝わるし、その他の注意などにも問題はほとんど生じないだろう。もし、問題が起きるとしたら、数字のことだけなのだ。たとえば連絡先の電話番号などを相手に伝えようとすると、それまで流暢に日本語を操っていた人が固まってしまうことがある。おかしいなと思っていると、数字のところだけは英語で話してくれという指示が来る。自分のことはあまり意識していないので、数字を日本語で考えているのかどうか定かではないが、どうもこういう光景に出くわしてみると言語の中で使われる数字には特別な感覚が必要であるように思えてくる。数字は言語中枢で処理されていないのか、それとも通常の言葉とは違う言語中枢の部位で処理されているのか、そういったことはまったくわからないが、どうも数字が最も基礎的な言語の部品なのかも知れないという気がしてくる。基礎なのか、違うものなのか、ちょっと考えたくらいでは判断がつかないが、数字をどの言語で考えるかを見極めることで、その人の母国語というものがはっきりしてくるのかも知れない。
全体として良い方向に向かっているときには、何をしていてもそれほどの違いは出てこないが、ちょっと悪い方向に向かい始めると、何をどうするのかでかなりの違いが出てくるようだ。会社ごとの違いもあるだろうが、同じ社内でも部署による違いや支社による違いなどちょっとしたことでかなりの変化が生まれる。公のものとて同じことで、中央がしっかりしないからこそ、地方の特色が出てくるわけだ。
そうは言っても、日本の場合、色んな意味で中央集権主義が浸透しきっているので、地方だけで勝手なことをするのは難しい。特に金の流れはその典型で、これを握っているからこそと思う中央と、握られてしまっているからと思う地方の間では、明らかな立場の違いがある。ただこんな状況に追い込まれ始めると、金の流れは依然として変わらないままでも、さすがに法律的な意味での縛りは少なくなってきたようで、地方もそれなりに色んな試みを始めているらしい。それよりも以前から、法的な問題とは関係ないところでも、頑張っている地方自治体もあったようで、都道府県知事や市町村長などの考えで始められたことは、数えきれないほどあるのだろう。とは言っても、そういう話題は突拍子もないもの以外は全国ニュースにもならず、目にしたり、耳にしたりすることができない。おそらく偶然にその地を訪れて、その様子を見ることによってのみ知ることのできるもので、そういう意味では情報社会と言っても、その網の目にかからないものにはまったくの無力となる。あまりにも多過ぎ、あまりにも日常的なものはニュースとしての価値がないと判断されるのだろうが、いざ自分の目で見てみると意外に面白いというものも少なくない。ずっと前に一億円をばらまいた時にも、色んな自治体が実に様々なことを行ったが、結局決められずにそのお金をそのまま保管していたところが一番得をしたのではないか、という話には笑えない気がした。確かに、その金を元に、色んな施設を建設したところは多くのものが失敗という結果に終わったようだし、金でできたオブジェや金塊を購入したところも、以前ほどの賑わいは無くなってしまったようだ。これとは別だが、読んだ本で紹介した地方都市の例では、豊かな街づくりを目指し、彫刻の設置や街路樹の整備をしている。この評価も色々とあるのだろうが、おそらく他の市町村でも似たようなことを試みるところが出てくるのだろう。二番煎じは所詮真似に過ぎないが、それでも何か新しいものが出てくるかも知れないから、端から駄目というわけにもいかない。似たようなアイデアでも違った結果が生まれるかも知れないからだ。大企業の工場誘致は以前は多かったが、今ではほとんど聞かなくなった。大学誘致も、私立大学の経営が厳しいこの頃では難しい。その代わりに、ベンチャー企業誘致とそれに付随した大学も含めた教育施設誘致がかなり有望視されているようだ。すぐに結果が得られるようなものではないが、ただ漫然と待っているよりは良いという考えなのだろうか、都道府県単位での働き掛けもかなり大きいと聞く。地方活性という言葉は大変魅力的に聞こえるが、一方ではそのための努力が必要という意味であり、それだけのことができるかどうかにかかっている。直接選ばれる首長なだけにかかる圧力も大きいから、これからはそういう単位の動きが一番活発なものになるのかも知れない。
人間誰だって恥はかきたくないだろう。しかし、どんなことを恥と思うかは人によってかなり違っていると思う。完璧を目指す人たちにとってはほんのちょっとしたことでも失敗は恥だろうが、それが日常と化している人にとっては別に何とも感じないものになる。恥かどうかに関係なく、誰だって失敗はしたくないものだろうが、まったくせずにおけるものでもなさそうだ。
子供が生まれて初めて喋り始めるときには、色々と面白いことが起きる。本人は耳で聴いた音を真似ようと一生懸命なのに、声帯や舌や唇が思い通りに動いてくれずに変な発音になることもあるし、かなりしっかりと話始めた時期にも、覚えたばかりの言葉を使おうと必死になり、全然違った状況で使ってしまい、周囲の笑いを誘うこととなる。言葉だけでなく、歩くなどの身体を動かすことにおいても様々な失敗を通して、色んなことを学んでいく。こんなことを考えると生き物としての人間は様々な失敗を重ねることによって、色んな能力を身に付けていくことがわかる。しかし、いざ一人前の大人とみなされるようになったとき、様相が一変することがある。ひょっとするとそれよりもずっと前に、小学校に始る学校に通っている年代の時から、そんなことを意識し始める人たちもいるだろう。人前で失敗することは恥をかくことであり、自分を低く見せてしまうことにつながるから、なるべくそういうことが無いように心がける。まあ、失敗が良いことか悪いことか、まずはその辺りに関わらずに、どうしたら失敗せずに済むのかを考えてみよう。失敗しないためには成功すればいいのだが、それが簡単ならば苦労はしない。でもまずはこの辺りから始めようと努力するのだろう。しかし、それでもうまくいかないことがわかるとどうするのか。結局そのことを行うのを諦めることになる。一方で苦労の末に成功することもあるわけで、そちらは達成感を得られるから気持ち良い結果となるだろう。すべてがうまくいけば良いが、そうならずに人前で失敗を繰り返すことになると、一つの選択肢が有力となってくることがある。失敗をしないためには、それをしなければよいという選択肢だ。恥をかくことと関係もあるが、低く見せないためという意味が大きいようで、いわゆる減点法が通用している世界ではこの傾向が特に強くなるようだ。実際には失敗自体で減点されているのではなく、その繰り返しが減点の対象となっている場合でも、何となく何もしないほうがましという雰囲気が出てくることがある。これも不思議な感じがするが、そうなることが多いから何かあるのだろう。そうやって色んな困難をやり過ごした場合に、より大きな困難に遭遇したら、などという不運は考えないほうが良いらしい。失敗をせずに成功だけを勝ち取ることができる幸運を手に入れようと努力するのか、それともどっちも起きない状況に自分の身を置くことで安全を図るのか。まあ人それぞれの考え方の違いなのだと思うから、どっちが良いとは簡単には言えないことなのだろう。ただ、今の世の中、どっちが多いのかとなると、はてさて。
正月のことは書きたくないなあと思いつつ、あまりいい話が浮かんでこないので、結局そっちの話をすることになる。元旦の新聞は例年通り分厚いのが配達されていた。今日の配達が無いから3日分のテレビ番組表やら、色んな特集やらが入っていて、新聞自体も分厚くなっているが、何と言っても宣伝の量が半端じゃない。不況だからこそなのか、不況なのになのか、どっちなのだろうかと思いつつ、眺めることになる。
昔の話をこういうところで持ち出すのはおかしく思われるかもしれないが、昔の新年の広告は挨拶が中心になっていたように記憶している。なにしろ三が日は店を開かないから、商品の宣伝をしても皆忘れられてしまうからだ。いつの頃からか、三が日にも営業する店が増え、今では二日からの営業は当たり前、元旦もやりますといった広告が増えてきた。高度成長期の頃と違い、普段の働き方がいい加減になるにつれ、こういった傾向が出てきたのではないかとつい思ってしまうが、消費者側に立った考え方が定着してきたためなのかもしれない。その典型がコンビニエンスストアーであり、レストランも24時間営業のところが増え、お客様本位といった感じになってきた。便利になったことは認めるが、ここまでしなきゃいけないのかと、呆れることもしばしばある。だからといって、その代わりに失われたものがあるのではないかなどと言おうものなら、色んな所から反論が飛んできそうな感じだ。不況と言いつつも今は世の中もかなり豊かになって、大学生が年末年始に帰郷するのは不思議でも何でもなくなった。それこそこの頃は遊ぶほうに忙しくて、帰る暇が無いという人が増えたのではないだろうか。そういう意味で、30年以上前のことを考えると隔世の感がある。その頃までは、下宿している学生の多くは生活するのがやっとの状態で、帰郷のための資金を貯められない人もいた。となると、年末年始も下宿先に留まったままとなるが、ここで困ったことが起きていたそうだ。計画性のある者ならば、年末のうちに色々と買いだめをして、年始に備えることもできるが、油断をして年始となると、どの店も開いていないという事態が起きる。冷蔵庫は高級品だったから、保存されたものもなく、食うにも困ることになる。こんなときに非常避難所として活用されていたのは、どうも大学の先生宅のようだ。昼頃に年始の挨拶に行き、そのまま夕食まで居座って、一日を過ごす。これを二人の先生宅ですませば、三が日のうちの二日は何とかなるわけだ。受け入れる先生の方もちゃんと準備をしていたようで、お互い納得づくといった感じだったのだろうか。最近はそんな窮屈なことは御免と考える学生と、休みくらいゆっくりさせろと思う先生の間で、こんな暗黙の了解などといったことは出てきそうにもないが、あの頃のことを古き良き時代というべきなのか、はたまた非常識な時代というべきなのか。まあ、どっちにしても、今はそんな心配も必要なく、何時でも何処でも何でも手に入る、いい時代なのだろう。
年の初めと言われても、元々その日に因んだことを書くのが苦手で、なるべく避けようとしてきたから、ちょっと困ってしまう。特に、年末はそれに関することで思いついたことを次から次へと書いてきたので、そろそろネタ切れといった感じもある。まあ、そんなことを長々と書いていると、年の初めからと文句が飛んで来そうだから、少しだけ書くことにしよう。
正月恒例と言われて思いだすのは、初詣ではなく、まずはお雑煮である。ごく最近は近くの神社に行くようになったが、初詣にはほとんど行ったことが無く、御神籤はずっと昔引いた時に凶が出て、それ以来やめにした。お雑煮のほうはそれに比べたら害もなく、無理なことをするわけでもないから、気楽なものである。色んな情報が入るようになったこの頃では、日本各地の雑煮の中身の特徴などが簡単に手に入るようになったが、それでも正月にお雑煮を食べないところがあるというのを、ごく最近耳にして驚いた。まずは餅が入っていないところはないと思うのだが、東の角餅、西の丸餅という区別があるようだ。西と東を分けているのは、天下分け目の戦いの舞台である関ヶ原付近だそうだが、他の地域では川をはさんでいるのに対して、ここは陸続きのところで食生活や言葉などに変化が現れるので有名だそうだ。他にはお汁の種類だろうか。すまし汁のところと、味噌仕立てのところがあるようで、味噌も田舎味噌、赤味噌、白味噌と地方ごとに違っているようだ。京都は白味噌でちょっと甘いそうなのだが、食したことはない。甘いといえば、餅に餡こが入ったものを使うところもあって、確か讃岐の方だったと思うのだが、本物を見たことが無く伝聞だけである。はたして甘ったるい餡を使うのかどうか、ちょっと想像したくない気分である。餅と汁が決まったら、他の具はどうなのか。これは色々とありすぎて、こんなところに書いていたら終わらなくなりそうだから、自分の実家の話をして、誤魔化してしまおう。他の具は、里芋ともち菜、だけである。これをすまし仕立てで作り、細削りの鰹節をたっぷりかけて食する。鰹節の香りがして、何故だかわからないけれども、ああ正月だなあという気分になる。その後は、お節料理をいただいて、まあそんなところだろうか。うちの変わったところは、お雑煮が毎日変わることである。元日の雑煮は関西風といった感じだが、実家のある地方でも同じようなものが出ているようだ。もう一つ、二日の日はまったく違ったタイプのものが出てくる。赤だし味噌仕立ての汁で、大根と餅の入ったお雑煮である。何故違った種類の雑煮を作るようになったのか、一つの可能性は嫁姑の問題だろうか、尋ねたことが無いので本当の理由はわからない。三日目はまた雰囲気を変えて、すまし仕立てに戻り、具を少し変化させていたような気もする。いずれにしても、お雑煮とお節料理、3日も続けば飽きてきてしまう。特に、子供の頃は食べられる品が少なかったせいもあり、他の食べ物を探していた。そういう意味では、お節料理の数々はほとんど子供向きの食べ物ではなかったようで、今になってやっと美味しく感じるようになってきた。
20代の若い人たちにとって、今の状況はどうしようもないものと映っているのだろうか。誰だかわからないけれど自分たちの親くらいの年代の人たちがしっかりしていなかったために、こんな状況になってしまい、明るさなど感じられないと思っているのだろうか。面と向かって尋ねたことがないからわからないのだが、何となくそんな印象を受けることがある。
そんな若い世代の人たちの目の向け方と違って、親たちの世代の目は昔を懐かしむ方に向いているようだ。50前後の人たちにとって懐かしい時代とはたぶん60年代から70年代のことになるのだろうか。テレビでも70年代の歌を集めたCDの宣伝があったり、その頃の歌の特集で当時歌った人が50前後になって出演し、歌っていたり、どちらにしても懐かしいと感じられるものなのだろう。最近の若者は、というフレーズは結構若い頃から使うもののようだが、あの頃は良かったという言葉は、やはり50代以降にとってのもののように思う。60年代と言えば東京オリンピックが開催された時期で、東海道新幹線の開業も重なり、70年には大阪万博となる、なにしろ成長あるのみの時代だった。でも、逆に言えば、それだけ貧しい生活をしていた時代で、今とは比べようもない。年末、年始の行事として、年越しそばとか初詣でとか、そんなことをする家庭が多いのだろうが、どうも父親のせいかどちらもやっていなかった。年末の楽しみといえば、大掃除やお節料理などの新年を迎える準備が大体整ったところで、出かける食事だった。当時は、年に数回しか外で食事をする機会などなくて、今の子供たちでは考えられないくらい、興奮して出かけていったものだ。中でも年末は必ず中華料理と決まっていて、その辺もちょっと変わっていたのではと思うが、毎年同じところへ出かけていた。丸テーブルを囲んで、家族で一緒に食事をする楽しみと、普段は食べられない本物の中華料理を食べられる喜びと、小さいながらに盛り上がっていた。全然関係ない話だが、店内に九官鳥がいて、鶯のまねをしたり、喋ったりするのを不思議に眺めていた記憶がある。とにかく何回か出かけたのだが、ある年、生来の食い意地が災いしてしまい、その後酢豚を中心とした酢を使った中華料理を苦手になった。克服するために、10年以上かかったが今はまあ大丈夫である。ついついはしゃぎすぎる性格はいまだに変わっていないが、こういう所で失敗するのもいまだに、なのかも知れない。その店も70年代に火事で焼失してしまい、再建されたかどうかはっきりしない。あの時代に比べれば、今はもっと頻繁に食事に出かけるようになり、子供たちにはあまり感動が見られない。どっちが楽しいのか、どっちが幸せなのか、色んな意見があるだろうが、でも、懐かしいことだけは確かなようである。
今年の末は、曜日の関係から今日までが金融機関の営業日となっているのだろうか。銀行の周りは違法駐車の車の列で一杯である。郵便局とて例外ではないのだろう、普段よりも行き交う人の数が多いような気がしてくる。相場の方も大納会で前場のみなのだが、冴えない展開が続いているようだ。米国市場のご機嫌次第の構図には変化の兆しが幾分見られるとは言え、まだまだの感がある。
さて、世間の年末はこんな具合で、いつものような慌ただしさが感じられるが、では家庭の方はどんな具合なのだろうか。不況、不況と言われ続けて、厳しい状況に追い込まれているところがある一方、不況なぞどこ吹く風と買い物やら外食やらで賑やかなところもあるようだ。動かすことのできる金があれば、デフレ感のある外食などは今が特に魅力的なのかも知れない。まあ、そうは言っても、新年を迎える準備に大わらわというところも沢山あるだろう。大掃除はもう済んだのだろうか、年末の買い出しは完了しただろうか、等々、まあ色々とあるだろう。以前であればここにお節料理の準備は整いつつあるだろうか、という一節が加わっていたのだが、最近は自宅でお節を準備するところは少なくなっているようだ。その代わりに、百貨店や一流料亭のお節料理というものが出回っていて、これまたとんでもない高級なものまで登場している。それでもバブル期に比べればおとなしいものだという声が聞こえてきそうだが、不況風など吹っ飛んでしまいそうな感じさえするし、そういう高級なものが結構売れているのだという報道を聞くと、はてさてどうなっているのかさっぱり判らなくなる。子供の頃から見ていた感じでは、お節料理は大体28日前後から準備が始り、大晦日は徹夜で料理を仕上げていた。どんなものを作っていたのか、ちょっと思い出してみよう。でき上がったものを切りそろえるなどの準備だけで済ますのが、紅白の蒲鉾、伊達巻、生麩、だし巻卵、練り物や酢の物でまだあるような気がするが思い出せない。だし巻卵は作っていたような気もするが、友人からいただいていたような気もする。伊達巻ははんぺんを使ってという話が、一度サイトで紹介されていたような記憶もあるが、作ったことはない。さて、作る方は何があったのか、思い出すのが大変そうだ。黒豆、栗きんとん、甘いものから始ったが、きんとんは市販のものほど甘くないし、栗も少なく、さつまいも中心だ。続いて、棒鱈、沙魚、里芋、人参、蓮根、牛蒡、慈姑、蒟蒻、昆布巻き、干し椎茸、これらはすべて煮物、蓮根は酢で炊いたものもある。和風肉団子、合挽と鳥肉の二種類、はて、他には膾、しめ鯖、思い出せるのはこの辺りまでだろうか。このほかにもできあいのものが幾つか入り、三段重ねの重箱が二組くらいだったろうか。正月三が日、料理をしなくても済むように考えられたと言われるように、煮物や酢の物など保存食が多くある。実際には目出度いものを揃えてということもあるから、数の子やらもあったが人気薄で姿を消した。いやはや、これだけあれば時間もかかるはずである。正月を休むためにその前にこれだけの時間を費やす、今の時代には不向きな風習のようで、作るのは飛ばして食べる方だけ残ってしまうのは無理もない。