高層ビルで階段ホールを探す人はいないと思うけど、二、三階上に行くときに、階段を使うだろうか、それともエレベータを使うだろうか。健康のためと称して階段を使っている人もいるだろうが、逆に過激な運動はいけないとエレベータを使っている人も多いだろう。でも、ビルは垂直に建っているから、エレベータか階段となり、違う場所に設置してあるから、選択に迷うこともないのかも知れない。
階段が主体の構造物となるとやはり地下鉄の階段だろうか。この場合は階段と平行してエスカレータが設置されているから、その場で選択できることになる。ホームから改札への階段だと利用者も多いから、エスカレータには列ができる。それを避けて階段を利用する元気な人もいるし、少しでも速い方がとエスカレータを歩いて登る人もいる。歩く人のためにどちら側をあけるのかが地方によって違うというのも一時話題になったが、以前に比べるとちゃんと守っている人が多いので動きはスムースになった。地下深くを利用するようになってから地下鉄のエスカレータにはとても長いものが登場し、上りはさほど感じないが下りはちょっと怖い感じがする。特に急いでいると歩いて下ることになるので、少し不安定な感じがして慎重になる。設置された時点で最長を誇った新御茶ノ水駅のエスカレータも今は最長ではないのかも知れないが、下の階は遥か向こうにあり、初めてのときはちょっと躊躇した。他にも鉄道の駅にエスカレータが設置されているが、最近は障害者や老人のためにエレベータを設置するところも増えてきた。また、百貨店は昔からエスカレータが設置されていて、駅と違った構造になっているので、上の階との隙間に頭をはさむ事故を防ぐために色んなものがぶら下げる工夫がされている。こうしてエスカレータを設置してあるところを思い浮かべると、そのほとんどすべてが屋内にあることに気がつく。典型的なのは、地下鉄の出口に設置してあるもので、階段の途中まではエスカレータがあるのに、地上出口には届いていない。階段を苦手にしている者にとっては、最後に難関が控えているような印象を受ける。何か機構上の理由で雨風に曝されるところには設置できないのかと思っていたが、ドイツの地下鉄を利用したとき地上までちゃんと設置されていたので驚いた。土埃をかぶり、とてもきれいとは言えない状態だったが、ちゃんと動いていた。こうなると清掃や保守などといった管理上の理由から設置しないのかと思えてくる。他の理由があるのかも知れないが、せっかくああいった形ですべての人に優しい環境を整えようとしているのなら、もう一押しして欲しいと思うのは無理難題なのだろうか。実際に、ある公立病院の前の地下鉄の駅の出入口の脇にはエレベータが設置されていた。エレベータを設置してあっても出入口と離れたところが多い中で、これは珍しいほうだと思う。こうすれば良いという考えもあるが、一方でエスカレータのことも考えてみては如何だろう。できない理由はたくさんありそうだが、やってみても良いのではという気持ちをもつ人もたくさんいそうだ。
英国、特にロンドン周辺に出かけるときに、何か美味しいものが食べられるところは、と尋ねると、多くの人がインド料理か中華料理が良いと助言してくれる。こんなことを書くと怒る人がいるかも知れないが、英国料理といわれて思い浮かぶものがある人はよほど長い間滞在したことがある人かあるいはかなりの料理通に違いない。
かなり昔に聴いていたラジオかテレビの英会話教室のテキストに一度面白い記事が掲載された。講師が英国滞在中の経験を書いた読み物で、当地の食べ物に美味いものが見つからなかったときに、あるレストランに列ができているので、ぜひ試してみようと思い、そこに入ったときの体験が書いてあった。人気のある食べ物とはeel pieというもので、どうもパイ生地の中にうなぎをはさんだものだったらしい。まったく想像がつかないが、それが人気のメニューであり、店内でも食べている人が多かったとのこと。講師自身もこれだけの人が並んでまで食べるものだから美味しいに違いないと期待して、注文して食べてみたが、ほとんど味がついておらず、どうにも美味しいとは感じられなかったと書いていた。日本人はうなぎと聞けば蒲焼きとなるから、脂っこいうなぎの肉を醤油をベースにしたタレでと思ってしまうが、あのような料理法は他の国の料理にはない。うなぎがスープの中に入っていたり、パイの中に入っていたりと、どちらかといえば淡泊な感じに仕上げる場合が多いようだ。この場合もどうもそういった感じだったらしく、味がついていないという印象を持ったのも仕方のないところだろう。ただ、その体験記はそこで終わらずに、その時周囲を見回してみると、隣のテーブルについていた老婦人が件のパイを美味しそうに一口一口食べていき、全部平らげてしまった、とある。本人はこんな不味いものを美味そうに食べるなんてと半分呆れた調子で書いていたが、実際には味覚の違いによるものだけかも知れない。いずれにしても、こんな例が出てくるぐらいだから、やはりあまり期待しないほうが良いようである。これだけだと英国料理の悪口になるから、もう一つ付け加えておこう。同じような例として挙げられるのは米国で、米国に行ってもご当地自慢料理を見つけるのは至難の業だ。大都市に行けば、各国の一流料理が食べられるから、別に当地の自慢料理など探さなくても良いのかも知れないが、せっかくだからと探し回ったりする。南部のニューオーリンズに行けば、ケイジュン料理というものがあるし、ステーキも米国の自慢料理と言えるのかも知れない。しかし、ステーキなどどうにも味わいが、などという声も聞こえてくる。まあ、人それぞれだが、年齢を重ねるとともにちょっと敬遠したくなるのがこれらの料理だろうか。ましてや、ハンバーガーを伝統的な料理と主張されたりすると、特にチェーン店のあれを思い出す人たちにとっては、あんなものがと言いたくなるのではなかろうか。
日本で発行された書籍をたくさん所蔵しているところと聞かれたら、どこを思い浮かべるだろうか。以前にも紹介した国立国会図書館は書籍が発行されるたびに納められるところだから、そこに一番たくさんあるに違いない。でも、昔発行されたものに関しては、どうだろうか。それこそ、源氏物語や徒然草のようにずっと昔に書かれたものは、新たに印刷発行されたもの以外所蔵されていないだろう。
話が極端な方に流れてしまったが、それほど昔ではない戦後まもなくの頃に発行された雑誌を探す羽目に陥ったことがある。「球雷」という自然にある放電現象に関して、調べて欲しいと依頼されたことから、そういうことになってしまった。球雷はどうも雷と関係した自然現象と言われてきたのだが、ごく最近までその実態が明らかでなかったと、テレビの番組でやっていた。そんなことは知らなかったのだが、ある人が「球雷のことを調べて欲しい、その話題は戦後に発行された『子供の科学』に掲載されていたと記憶している。」と頼んできた。十年程前のことになるが、当時から発行書籍を調べるのなら、国会図書館と思っていたので、知り合いの司書の人に頼んで調べてもらった。数週間後に返ってきた返事は、国会図書館ではなく、あるお寺の図書館にあるというものだった。まず驚いたのは、国会図書館ではないことである。なんでもあると思っていたのに、なぜだろうかという疑問が湧いたが、ひょっとするとその時期にはそういった活動を行っていなかったのかも知れない。あるいは、所蔵してあるのだが、閲覧などに手間がかかるので、司書の人が気を利かせてもっと楽なほうを紹介してくれたのかも知れない。それにしても、お寺の図書館とは何だろうか、と思いながらある日その寺に出向いた。その寺は首都圏にあり、毎年初詣での参拝客の数がベスト10に必ず入るところである。その後多くの人にこの話をしてみたが、そんなところに図書館があるなどと思わない人が多く、信じてくれない場合もあった。寺の本堂とはちょっと離れたところにある図書館はごく普通の形態で、仏教関係の所蔵書も多かったが、どういうわけだかそこに「子供の科学」が確かにあった。大戦前後のものを色々と調べてみたが、結局肝心の球雷に関する記事は見つからず、残念な報告をすることになった。頼まれ仕事の方はうまくいかなかったが、寺の図書館を覗く機会などそうそうあるものではないから、良い経験ができたと思った。それにしても、坊主が子供の科学とは小坊主に悪戯でも教えるつもりだったのだろうか。
植物の話題を時々書いたりするから、詳しいと思われるかも知れないが、どうも苦手なほうではないかと思う。なにしろ名前を覚えるのが苦手で、昔から植物採集に行ってもその場限りの知識で終わってしまうことが多かった。そんな調子だから、七草粥などと言われても、はて七つも出てくるのかと困ってしまう。
数日前に七草粥を食べたのだが、中味を思い出そうとするとかなり苦労する。それでも、ラジオから流れてきた調子の良い歌を繰り返していると何とかなってくるから不思議だ。「芹、薺、御形、繁縷、仏の座、菘、清白、これぞ七草」と書いても、読めない漢字ばかりだが、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろと読む。百人一首を一度覚えると忘れないのと似ているが、和歌の五文字、七文字の音の流れがこういうときに重要なのかも知れない。子供の頃には食べたことのなかったものだが、ここ十年ほどだろうか、よく見かけるようになった。七草としてパック入りのものが売られるようになってからだと思うが、そう考えると昔は自分で集めなければなかったから、食べたことがないのも無理もない。そういう意味で、昔懐かしい食べ物とは言えないものである。ラジオが伝えるところでは、百貨店やお寺など色んなところで七草粥が振る舞われたそうだが、そういった行事も昔より増えているのかも知れない。昔を懐かしむということでは、昭和30年代の町並みを復元した雑貨店街が作られたり、その頃を思い起こさせる食べ物が売られたり、色んな企画がされているが、要はそれが商売として成り立つかどうかが問題となる。ただ懐かしいと思わせるだけでは駄目で、その気持ちから目の前にあるものを買うという行動に移らせることが大切なのだそうだ。懐かしい食べ物というのは、その点、思った途端に食べたくなるわけだから、それほど考える必要がないのかも知れない。ただ懐かしいだけで、その当時の素朴な味だけで押し通すのは無理で、もう少し様々な味や新鮮味が求められる場合もあるそうだ。一方で、雰囲気だけをその時代に合わせて、どちらかというと今風のものを売るというのは、何かしらずれた感覚であると主張する人たちもいるようで、レトロはレトロなりに今風に見ればいわゆるダサいものを売るほうが本物であると、当時と同じものを売る商売に固執する人たちもいるらしい。そういった主張を元に町おこしというか、以前の活気を取り戻そうとしているところがあるそうだ。まあ、商売のやり方は色々とあるのだろうが、結局、今不思議に思えるのは、なぜ、昭和30年代のものが懐かしく思えるのだろうか、ということ。面白いのは、その頃青春だった人、子供だった人、生まれていなかった人、どの世代に対しても懐かしさを感じさせるようで、不思議な時代だったとでも言うべきなのだろうか。
銀行にある自動預払機、いわゆるATMが登場したのはいつだっただろうか。もう、かなり昔でいつのことだったか覚えていない。便利になったものだと思っていたが、いろんなことで不便さを感じている人も多いのではないだろうか。例えば、動いている時間が限られているとか、時間外の手数料をとられるとか、そういった類いだ。
何でも後追いをして、真似たあと、より良いものを出してくるというのが、日本のやり方だとよく言われるが、先頭を切っていると主張する米国は、ことATMに関しては、日本より遅れて導入されたと聞く。驚く人がいるかもしれないが、支払いを小切手で行ったり、給与を小切手で支給される国だから、現金を引き出すために必要な自動の機械など別に必要と感じていなかったのかもしれない。しかし、国民皆が小切手を使える状態にない訳だから、そうもいかなくなったのだろうか、少し遅れて導入されたようだ。ところが、日本と米国では導入後の変遷が少々異なっている。御存じのように、日本では限定された時間にのみ動かされているが、米国では24時間、毎日ちゃんと動いている。これに関して、伝え聞くところでは、日本では法律上の規制から係員が常に待機せねばならず、そのため時間を制限したという話だ。それに対して、米国ではそういう制限がないらしく、導入後暫くして休みなしの営業となったようである。ただ、週末に機械の故障が起きると、そのまま週明けまで修理されないなど、日本から見ると驚くようなことも起きる。そうは言っても、そんな事態になるのは一年に一度か二度、毎日の便利さを考えれば、どちらが良いのか歴然としている。そんな時間限定の発想が、次には時間外手数料を支払ってでも延長を求めることになり、それがついには、土曜日全日手数料を要求という事態にまでなっている。どこがどうして、こういう論理展開になるのか、さっぱり判らないところだが、手数料分を利子から賄うとすると何年預けなければならないのか、気の遠くなる話だ。かえって、クレジット会社から借りておいて、それを週明けに返すという方がそんが少なくて済むという話も聞いた。日々、銀行のやり方の酷さを追求する声が聞こえてくるが、先日のテレビでの声には、かなり強烈な印象を持った。NPO(非営利組織)が、融資をする組織を作ったという話で、それだけでも驚いたのだが、そこに出資している人の話には納得させられた。「同じ10万円を預けておくにしても、銀行では何も変わらず、何の役にも立たない。それに比べて、このNPOに出資すれば社会に役立つことができる。こんなに良いことはない。」といった主旨の話である。この話を銀行の頭取がどんな思いで聞いたのか、ぜひ伺ってみたいものだ。
年末から年始にかけて長期の休みをとった人もいるだろう。年末は28日が金曜日となり、年始は4日が土曜日となったことで、今回は一部の業界を除き、長い休みをとりやすいようになっていた。長い休みをどう活かすのかは人それぞれだろうし、だから相変わらずの寝正月を決め込んでいた人もいるだろう。パンチの場合、ちょっと事情は違っていたが、いつもとは少し違った正月を迎えていた。
簡単に言えば、時間が十分にあったというだけなのだが、何となくぼうっと過ごすことができた。それが良いことなのかどうか、あんまり自信はないのだけれども、それがいつもとは違っていた。もう一つ、ちょっと違っていたことは、外に出かける機会がほとんどなかったということから、ちょっとした気まぐれで無精をしてみたことだろうか。年末の週末の頃から髭を剃るのをやめて、ほぼ十日間くらい伸ばしておいた。まあ、その姿はむさ苦しいとしか言えないものだったが、幾つか判ったことがある。一つは、髭が伸びる速度は思ったよりも速いと感じたこと、もう一つは、髭の濃さが足らないせいか、疎らに生えていて、貧相に見えたこと、さらに、髭にも白いものが目立ち始めたことは、衝撃的とは思わないが、まあそんなものかなという感覚を持ったこと、などだろうか。実際に伸ばす気にはなっていないので、仕事始めを機会にきれいさっぱりとなってしまったが、自分の顔だからなのか、あまり変わった気がしなかった。友人が髭を生やしたり、生やしていた髭を剃ったときには、一瞬判別がつかずに戸惑ったことがあるが、自分のこととなるとそれほどでもないように思える。確かにそういう情報も頭の中に入っているわけだから、見紛うはずもないわけだが、そんなものなのかなとも思える。結局は、慣れで片付けるのが一番簡単なものか、と変に納得していたりするだけなのだが。それにしても、髭の手入れとはどんなふうにするのだろうか。無精というのではとても見せられる代物にはならないから、もう少し整えることを考えないといけないはずなのだが、まだその気もないからそういったことを調べるのはあまりにも無駄だと思える。でも、実際に十日ほど伸ばしてみると、その価値があるところ辺りまでやって来ているのかな、とも思えるのである。何を下らないことを考えているのだろうか、と思われるかも知れないが、こういうふうにしてみると髭というものは見てくれを大事にする人たちのシンボルの一つのように思えてくるのだ。見てくれはやはり大切にしなければならないから、当然整え方もきちんと習熟しなければならないだろう。そんなことを考えながら剃ってみると、形を整えることが意外に難しいことに気がつく。顔が左右対称でないから、当然髭も対称に生えていないからだ。そんな具合で、みんな、そんなに苦労していたのかと感心しつつ、さっぱりとした顎を撫でながらの仕事始めとなった。
節目ごとに新たな挑戦を心に誓う人も多いだろう。今年こそは、今度こそは、まあどんな事情にせよ、何かをきっかけに自分を変化させたいと望むのは良いことである。新たな目標を設定してそれを達成するために頑張るというのもあるだろうし、一方で自分を改造しようというものもあるだろう。性格とか、性癖とか、自分で嫌だと思っている部分を改善しようと努力する人もいるようだ。
嫌いだから変えるという気持ちはわからないでもないが、性格や能力といったものは今更変えられないと思う人も多く、始めから諦めの境地という場合もある。どうやって変えるのか決まった方法もなく、意外なのは嫌いなところはわかるがそれを何に変えたいのかがはっきりしない場合が多いことだ。暗い性格を明るい性格に、などといった漠然としたものならば説明できるが、もう少し具体的なことを言おうとすると往生する。嫌いな特徴はわかっているのに、それを何に変えるべきなのかがわからない。まあ、どんな性格にするのかという問題を解決したとて、どうすべきかというより大きな問題が次に待っているのだから、簡単ではない。さて、性格や能力の問題を論じるときに天性のものを先に出す人が多い。ところが、いざ家庭問題やら、社会問題となると、天性よりも環境の問題を大きく取り上げようとする場合が多いのではないだろうか。こういう問題を取り扱う場合に、良い結果を生んだ例を引くことはほとんどなく、悪い結果と向き合うから、どうしても何を悪者にするのかを論じることが中心となる。そうなると悪いことを生み出したものを天性としてしまえば、それは可変ではなく変えられないとなるから、対象となる人を全面否定する気分になるのだろう。それよりは、変えられる可能性を少しでも残しておける環境原因説を採用するほうが、気を楽に保てるのかも知れない。ただ、この場合に問題なのは、よく似た環境で育った者がすべて同じ結果に行き着くとは限らないということだ。これは悪い環境に限られているが、その中でも逆境に耐えて美談として伝えられる例もあるのだ。こうなると急に天性というか生まれ持った性質のなせる術であり、それが弛まぬ努力を生み出した、となる。おやまあ、状況に応じてコロコロと変わるものなのだなあと思うことがしばしばでてくるのだ。才能などは天性のものだけを指して使われているのだろうが、それに努力を足しあわせることで大輪の花を咲かすことができると言われるが、では、その努力はどこから出てくるのだろうか。環境からか、それとも性質によるのか、こんなことを簡単に結論づけることなどできない。にもかかわらず、何かというと性急に結論を出そうとし、どちらか一方の原因によるとしてしまうのは、何ともおかしな感じがするのである。自分の中だけで、これを推測しているうちは良いが、それが識者の見解として情報網に乗った途端に、まったく違った方向に歩み始めることもある。生まれながらと生まれてからと、どちらもその人にとって重要な要素に違いないのである。ちょっと話はずれるが、この手の話として面白いものに、数学の能力は遺伝しないという調査結果がある。どんな調査によって結論が出されたのかわからないが、結果だけは色んなところに流布されている。原典も定かでないから何とも言えないが、この例はこういう話題の取り扱われ方の典型なのではないかと思っている。