パンチの独り言

(2003年1月13日〜1月19日)
(不釣り合い、元服、麺麭、 知得、凶月、家伝、見守る)



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1月19日(日)−見守る

 60代までの人だとちょっと難しいかも知れないが、70代になるとまず大丈夫だろうか。最近の経済の停滞を眺めていて、その閉塞感から戦後の混乱期を思い出すという話をよく聞く。見たことのない者からは、敗戦の混乱と経済の混乱はまったく違ったものだとの反論が聞こえてくるかも知れないが、感覚として似ているという意味だ。
 そういう見方をする人たちにとって今の時代はどう映っているのだろうか。そんなことを考えながら、既に第一線を退いた人たちにそういう類いの質問をしてみると、意外に楽観的な答えが返ってくることが多い。悪くないという意味の楽観ではなく、これから先の展望に対する楽観である。ただし、色んな条件がそこに入れられることは当然のことだ。たとえば、今の状態をそのまま漫然と続けていたのでは駄目だ、と、ここまでは、まあ、よく聞く話である。ちょっと違うかなと思えるのは、駄目ならどうすれば良いのかというところからである。何か新しいことを試みてみる、というのは、誰でも思いつくことだが、一方で誰かが新しい試みを提案すると、何処かの新聞社の宣伝ではないが、今さら波風たてるなよ、となることが世の中では非常に多い。新たな提案をするから、ただ漫然とというわけではないという主張は確かに通るが、結局何もしないのでは結果は同じである。かの新聞社も社内では件の上司や同僚の態度そのものの状況があるらしく、ひょっとしたら社内向けの宣伝ではないのかと疑う向きもある。新しい試みを提案する者は、自分なりに計画を熟慮し、様々な場合を想定して対策を立てるだろう。そういう努力をした後に、今さら波風などと言われたのでは、立つ瀬がない。よく言われることだが、提案に反対する場合には対案を用意すべきであるし、幾つかの案を出しあって練ることによって新たな計画が作り上げられていくはずだ。それをただ反対とか、無理だとか、そういう批判だけを主体とした意見で門前払いにするのはちょっとずれているとしか思えない。実際に、表面上、事が上手く進んでいるときにはそのまま邁進した方が良いように思える。しかし、最近のように皆が閉塞感を感じているような時代には、そんなやり方が必ずしも正しいわけではないという気持ちを皆が持っているはずだ。にもかかわらず、出された提案に対しては旧来からの批判だけという反応を示してしまう。そこに問題があることを自覚しなければならないだろう。新しいことを提案し、実行する勇気や努力も必要だが、もう一方でその試みを暖かく見守る勇気や寛容さも必要なのではないか。そういえば、戦後の混乱では苦言を呈するべき世代の人々が戦争で命を失ったり、茫然自失としていたために、より若い世代からの新しい試みが大きな抵抗もなく実行に移されたと言う人がいた。確かに、そういう考え方もあるが、一方では失敗するかも知れないと思っても、この際やってみることのほうが大切だという気持ちで、そういう無茶を見守っていたという考え方も一理ある。どちらにしても、二進も三進も行かないと思えばこそ、そこからの出口を見つけ、新たな発展の方向を探ることが必要である。そのためには、試みることだけでなく、邪魔をしないということも大切なのではないか。

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1月18日(土)−家伝

 氏より育ち、などと言ったりするが、今の世の中では、氏と育ちが同じところに源を発しているから、その間の違いをはっきりさせることなどできないのかも知れない。それに親の家業を子が継ぐという話がそれほど珍しくなくなったのは、氏と育ちの区別がはっきりしなくなったためなのかな、などと思ったりする。
 先日テレビで幸田家四代に渡るつながりを紹介した番組があった。幸田露伴、文父娘と青木玉、奈緒母娘という露伴から始まる四世代がどんな関係にあり、どんなことが伝えられたのか、などといったことをドラマ仕立てで紹介したものである。露伴と文は既に他界しているから、役者を使って演じられていたが、玉と奈緒は本人が登場して、様々な思い出や考えを述べていた。ただ、終わってみて感じたのは、全体の中心にあったのは、露伴でもあるが、実は青木奈緒だったのかも知れないということだ。露伴の娘である幸田文が書いたものや孫娘である青木玉が書いたものには、露伴の様子が色々と書いてある。特に文のものには、露伴がいかにして礼儀作法や生活の知恵を文に教えたのかが克明に書かれている。その細々としたところに驚かされるが、結局、様々な知識や知恵が露伴の中に蓄積されていたわけで、男の作法だけでなく台所などの作法までを教えられたというのだから、どこでどう仕入れたものなのかと思ってしまう。もしかしたら、あの時代の男にはそういう知識を持つ人が多くいたのかも知れないが、自分の周りでそういう人に出会ったことがないから確信はない。露伴が存命中は文はもっぱら父親の世話をしていて、他界した後文章を書き始める。青木玉もそういう意味では文が存命中にはほとんど書いていなかったようだ。しかし、青木奈緒は違う。もう既に幾つか本を出しているし、この番組の中でも文の足跡を辿ることに集中している姿が紹介され、おそらく祖母のやり残したものを仕上げようとしているのかと思える。その中で彼女が語っていたことが印象に残った。親子というのは確かに血が繋がっているけれども、血で伝えられるものはそれほど多くなく、実際には子供を育てる過程で親が様々なことを教え伝えることによって、親の持っているものが子供に伝わっていくのだ、と感じる。と、そんなことを話していた。子供が親から離れなくなると、より濃密に伝えられるわけで、それだからこそ親の生業と同じか良く似た仕事を子供がやるようになるのかも知れない。仕事そのものを教えなくても、ものの見方、考え方を知識、知恵として子供に伝えれば、それが役に立つことをやろうという気になるのではないか。そこで才能が活かせるのは親で証明済みのことでもある。確かに比べられるのは辛い面があるのかも知れないが、何をどうしようとも所詮誰かと比べられるものなのだ。そんなことを気にするよりも、自分を活かせる場を見つけることの方が大切だろう。今や、氏より育ちではなく、氏も育ちも、となったのだろう。

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1月17日(金)−凶月

 ここ10年ほど、この時期に北米への出張があった。今年は例外で、出かける予定はない。今、イラク問題で騒がしく、ひょっとして戦争が起きたら、などと心配する向きもあるようだが、実は一月には色んなことが起きている。特に、出先でそういうことに出くわすと印象に残るから、余計にそう思えるのかも知れないが、多い感じがするのだ。
 まず始めに思いつくのは、もうずいぶん昔のことになったが80年代に起きたスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発墜落事故である。現地の朝のニュースで大々的に取り上げられていた。日系人初の宇宙飛行士の話題もあったから、日本人には馴染みがあったのかも知れない。事故原因究明では、ノーベル物理学賞受賞者であるファインマンがゴム製のOリングの問題をコップの氷水を使って指摘して話題になった。次に印象に残っているのは、今のイラク問題とそっくりそのままの湾岸戦争である。飛行機で現地に着いたら、そんなニュースが流れていた。飛行中に戦争勃発という何とも迷惑な話で、帰りの便が出るのかどうか不安になったものである。というのも、米国の飛行機に対するテロの可能性が指摘されていたからだ。次はカリフォルニア州ロサンジェルス近郊のノースリッジを震源とする大地震である。現地に着いたその晩に発生した地震で、モーテルは停電、食事もままならない状態に追い込まれた。地震の最中は、ベッドがいつの間にかウォーターベッドに替わったのかと錯覚するほどゆっくりとした横揺れが続いた。震源から50キロほど離れたところに滞在していたが、建物の耐震性や地盤の問題もあり、長周期の横揺れという結果になったのかも知れない。予定が大きく狂ってしまったのには困った。この時は留守宅に心配をかけたが、次の年にはその反対のことが起きた。神戸淡路大震災である。友人を訪ねて、そこに滞在していたら、ニュースが流れ、大地震で多数の死者行方不明者が出たとのこと。友人には日本は地震に強いのではと言われたが、場所を聞いて納得し、事情を説明した。ちょうどひと月前に訪れたところが無残な姿でテレビの画面に映し出されたときには、恐ろしいものだと感じた。地震に強い国という評判は脆くも崩れ去っていた。この頃から予知よりも震災後の処置対策の重要性を指摘する声が大きくなった。正確な時間から言うとずれているのだが、この二つの地震は、現地時間ではまったく同じ日付に起きている。その次の年にはちょっと心配になったものだ。その後も、中米の大地震や火山の噴火など、様々な天変地異が起きており、何となく危険な月なのではと仕事仲間の間では噂になっている。人間がかかわるものとしては戦争が一番に挙げられ、今回の北朝鮮やイラクの話もそちらに発展しないとも限らない。所詮は偶然の一致に過ぎないことなのだろうが、何となくそんなことを考えされられてしまうから恐ろしい。

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1月16日(木)−知得

 「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」、この言葉を知らない人はあまりいないと思うが、最近ちょっと考えさせられることがある。相変わらずのことだが、ネット社会においてである。自分たちがこの言葉を聞かされた頃には、面と向かって、自らの無知を恥ながら、質問するという意味で使われていた。では、面と向かわない世界では、はたしてどんな意味を持つのだろうか。
 ネット掲示板では自分の意見を堂々と述べることができるので、とても良いことだと思っている人も多いだろう。特に、実社会では発言者の立場、地位、名声、評判などが先に出てきて、発言内容自体よりもそちらの方が大きく扱われることがあり、いわゆる一般人が発言する機会など無いか、発言しても無視されたりする。それに比べると一種の仮面社会であるインターネットの網の中では、掲示板に書き込みをすると、そこに並んでいる文字だけから様々なことを推測し、発言内容を吟味することになるから、どんな素姓の人間かを明らかにしないかぎり、実社会のような扱いをされることはない。その点がネット掲示板の最も優れており、評価できる点だと思うのだが、実際にはそんな活用法よりも、匿名を利用した暴力的な発言に利用する人が多いのには閉口してしまう。掲示板を利用して質問する場合も、やはり匿名性を利用したものが多いので、ネット社会特有のことがあると思う。たとえば、「○○って、なんですか〜?」とか、「○○は、どうなんでしょうか?」とか、気軽に構えた質問が物凄い勢いで出てきて、それに親切に答える人も沢山いる。しかし、いかにネットが便利なものといっても、言葉の意味やちょっとした話題などは、辞書を引くか検索エンジンを使えばすぐにわかりそうなものだし、わざわざ人の手を煩わせることもない気がする。そう思って、始めに書いた言葉を検索にかけたら、案の定その手の話題が出てきた。「『青田買い』の意味はなんですか?」という質問に、色んな人が答えており、意味の方は簡単に片付けられたが、なぜ辞書にも載っている言葉の意味を聞くのかという話題にテーマが転換してしまった。聞くは一時の恥だから、聞くことは大変重要で、自分で調べなさいというのは横柄な態度だと指摘する人がいたが、それに対する反対意見も沢山出ていた。こういうときに気になるのは、一時の恥、という意味で、面と向かっているときは顔を赤らめながらという感じがするけれども、ネットでモニタに向かっているときは恥とも思わないのではないか、ということである。そんなことはどうでもいい、自分の知りたいことを教えたいという人がいるんだから、それでいいではないかという意見も聞こえてきそうだが、どうも何処かずれているような気がする。以前にも書いたが、自分で調べることの大切さも理解するべきだし、また調べることによって違った見方も同時に取り入れることができることも重要である。せっかく便利な道具が目の前にあるのだから、もう少し使いようを考えるべきだろう。最後にもう一つ、質問で呆れるのは、「○○という会社はどうでしょうか?」といった形態のもの。何がどうなのか、調査会社から出される数百ページにも及ぶ報告書でも期待しているのかと思えてしまう。せめて自分の聞きたいことくらい、ちゃんと書けるようにして欲しいものだ。

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1月15日(水)−麺麭

 パンが好きというわけでもないが、パン屋に入るとつい欲しくなることがある。フランスのパン屋も中々面白いという話を聞くが、日本のパン屋ほど多くの種類、独特のものを揃えているところも少ないのではないかと思う。いわゆるフランスパンや食パンなどは、どちらかというと端の方に追いやられていて、不思議な形をしたものから、ケーキと間違えてしまうようなものまで並んでいる。
 中でも、日本独自と思えるのは、パンの中に色んな種類のあんを入れたものだろうか。アンパン、クリームパン、ジャムパンというシリーズは日本のパン屋の発明という話だが、東京で有名なアンパンの店のパン生地はパン酵母で醗酵させているのではないとのことだ。その辺も独自の工夫が入っているのだろう。これとは別だが、カレーパンというのも不思議な食べ物である。こちらはあげパンという分類になるらしいが、中身にも色んなものが考えられていて、そちらの楽しみもあるようだ。日本独自と言っても、カレーパンの中身を少し変えたら、ピロシキになってしまうから、独自とは言いにくいのかも知れない。といっても、ピロシキも揚げるだけでなく、焼くものもあるというから、そんなに簡単な話にはならないようだ。まあ、いずれにしても、色んなパンがあることは確かで、食いしん坊としてはつい色々と買ってしまいそうになる。そんな日本と比べると米国はどうもパンにはあまり興味が無いらしい。というより、食全般に拘りが少ない感じもする。薄っぺらい食パンで冷蔵庫にあるものをはさんで作ったサンドイッチをランチに持ってくる人が多いのだが、せいぜい食パンが全粒粉でできているか、精白小麦粉でできているか、あるいはライ麦パンかといった違いがあるくらいで、それ以外のパンとしてはベーグルがあるくらいだろう。それに食パンの類いはどれも味がなく、どうにもパサパサしていて良くない。その上、一番安い食パンは、40センチほどの長さで50円もしないが、押さえつけると五分の一くらいに縮んでしまうから驚きである。味の方も推して知るべしといったところか。もし、ロサンジェルスで日本のパンを食べたくなったら、リトル東京へ行けば、アンパンやカレーパンまで売っている店がある。外国で美味いと思ったパンは、イタリアのサンドイッチで、あちらではそう呼ばないに決まっているのだが、名前を思い出せない。ちょっと堅めのパンにハムとチーズをはさんだだけのもので、塩味がきいていて美味しい。たぶんパンだけでなく、ハムもチーズも美味しいのだろうが、これをガラスの瓶入りの水と一緒に、駅の売店で購入して列車に乗れば、駅弁のように車中で食事を済ませることができる。そうそう、水といえば、炭酸入りとそうでないものがあるので注意したほうがよい。

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1月14日(火)−元服

 成人の日が15日じゃなくなってから、何年経過するのだろうか。ハッピーマンデーか何か知らないが、何となくしっくり来ないような感覚を持っているのは、やはり古い人間の特徴なのかも知れない。成人の日と来れば成人式となるわけで、晴れ着姿の若者が慣れない着物や履物と格闘している様子が色んなところで取り上げられる。
 数年前までは、こんな感じの相変わらずの様子だけが伝えられていたが、ある時から式の最中に傍若無人に暴れ回る晴れ着姿の若者が大きく取り上げられるようになった。それまでにもときどきそんな光景が見られていたのかも知れないが、全国ニュースで取り上げられることはなかった。知事や市長とのいざこざが問題になってから、取り上げられるようになったようだ。久しぶりに式の様子を見てみると、かなり派手になった印象を持つ。はるか昔の自分の頃と比べても意味がないのは承知しているつもりだが、自治体などのより大きな単位で開かれるものが多くなり、出席者の様子もかなり変った感じがした。元々、何のためなのか明確でない点も多かったが、多くの若者がただ騒ぐためだけに集まるといった光景を目にすると、まるで何処かの祭に○走族が集まるのと変わらないように思えてしまう。これは極端な見方かも知れないが、そう思って考えてみると、同じデザインの羽織袴姿の男性達はあの集団の雰囲気そのままに見えてくる。学校が決めた制服や身だしなみを忌み嫌い、自分たち独自の形を作ろうとしていた人たちが、集団で同じ格好をするというのも不思議な感じがする。それは自分たちで決めたものだから、という理由が聞こえてくるのだろうが、全員が一致した意見を持つという不可思議さには気がつかないのだろう。まあ、そんなことを書いていても、単に老人の戯言としか映らないのだろうが、ふっとそんな気がしたのである。ただ騒ぐためにだけやって来るのなら、会場の外で騒げば良いし、勝手に決められた会が嫌なら、自分たちで企画をすれば良い。人が集まり、注目を浴びることが大切というのなら、これまたまるであの集団のようだと言いたくなる。自分たちの中で、自分たちのやりたいようにやるのではなく、他人の迷惑になることをやることが大切というのなら、それなりの措置が必要になる。これもまた単なる戯言、で片付けられそうな話だが。制服といえば、最近米国では制服を導入する学校が増えていると聞く。外部からの侵入者と区別するためとか、安全を図るためとか、色んな話が流れてくるが、生徒の評判が悪いとも思えない。どこに違いがあるのだろうか、などと考えつつ、自分が何の疑問もはさんでいなかったことを思い出した。問題と思う人もいれば、そうでない人もいる。勝手にやるのも自由だろうが、疑問に思わないのも自由なのだ。いずれにしても、自由もやり方によっては放置できないものがあることは明白だ。

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1月13日(月)−不釣り合い

 水仙の花の便りが聞かれるようになってきた。植物を手に入れるのなら、ホームセンターや園芸店に行けば良い。鉢植えのものもあるし、庭に植えるために根のところを薦で包んだような形で売られているものもある。さすがに冬の間に買い込んで、植えようとする人はいないだろうが、春が近くなるとそろそろと思う人もいるだろう。球根や種で売られているものも、その時期が近づいている。
 持ち家の人を除いて、大きな植木などを買うことはないだろう。せいぜいベランダにプランタを置いて、そこに植えられるくらいの大きさのものしか思い浮かばないからだ。そうなると種や球根で売られているものが興味の中心に来るだろうか。育てるという楽しみを考えると、そちらの方が面白そうな気もしてくる。でも、手軽さから言えば、鉢植えのものも魅力的だ。直径20センチほどの鉢であれば置くところにも困らなくて済む。たまに外れに当ることがあるが、鉢に植えられていて元気そうなものはまあ大体きちんと育ってくれるから安心だ。気をつけなければならないのは水やりと冬場の霜のことだろうか。寒いところで育たないものになるとちょっとした寒さで葉がやられてしまい、いっぺんに駄目になってしまう。困ることと言えば、植物が大きくなりすぎてしまい、鉢の大きさが合わなくなることだ。植え替えようにも大きな鉢は邪魔になるし、庭付きの家と違って何処かに植えるわけにもいかない。まあ買い主同様、小さな家で我慢してもらうことにしよう、というのが結論になることも多い。鉢で売られているもので、この頃時々見かけるのが、プラスティックの鉢で風車の模様が印刷されたものだ。それだけでオランダから来たものなのかなと連想させられるが、まったくその通りでアマリリスの球根が植えられた鉢である。でも蓋がされていて中を覗くことはできないし、球根以外に何が入っているのかさっぱり判らない。とにかく特殊処理された球根で、後は水をやるだけでアマリリスの花が見られるとのこと。何度か購入して育ててみたが、ちゃんと育つだけでなく、ちょっと驚かされることがある。水をやり始めて数日すると、アマリリス特有の葉が鉢の中から登場する。あれよ、あれよと思う間に、葉は50センチ近くまで伸びて、鉢がひっくり返るのでないかと心配になる。そうこうするうちに花芽が出てきて、見事な花が数輪咲くわけだ。驚きなのは、鉢の容積に比べてアマリリスの葉や花の大きさが不釣り合いに見えること。どこにそんなものが隠れていたのかと不思議になる。確かに球根の中にかなりの栄養が備蓄されており、それを使っていることは理解できる。でも、それにしても、鉢の大きさと花の大きさが合わないなあ、と思えてしまうのである。こういうのは、ヒヤシンスの水栽培の時も何となくそんな気がしたものだ。光合成の話が頭の中に無いと余計にそんな事を考えてしまうが、それを承知の上でもまだ納得しかねる部分がある。まあ、そんなことを言っていても、目の前で起きていることは事実として受け止めなければならない。どんな処理をして、どんなものが中に入っているのか、ちょっと興味はあるが、せっかく買ったものを壊してまで知ろうとは思わない。花は花として楽しんでこそ、というものだから。なお、ちょっと小さめの花の写真だが、検索で見つけたので、ここに紹介しておく。

アマリリス


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