今年は遺伝子の構造が解明されてから50年になる記念の年なのだそうだ。遺伝子の構造と聞くと、最近流行ってきた言葉のゲノムを思い出す人もいるだろうが、文字の並びという意味の構造ではなく、見た目の構造とでもいうのだろうか。物理的な構造などと難しく表現すると、途端に読むのをやめてしまうだろうから、そうは言わないが、いわゆる二重らせんと呼ばれるものである。昔何処かで聞いたことがある、あああれだ、など色んな反応がありそうだが、その発見から50年である。
実は50年経過したから爆発的に進歩して、なんでも解るようになったかというとそうではない。数年前に人間の遺伝情報が解明されたと報道されたばかりで、その時には米英の大統領と首相がわざわざ記者会見を行うほど政治的にも重要な事柄だった。ただ実際には、すべてが解明されたわけではなく、文字の並びで一部に不明なところを残したままの、見切り発車的な発表だった。この四月には二重らせん構造発見50周年の記念とともに、ヒトゲノム情報の完全解読の発表が行われるそうだ。あれだけ大々的に発表していたものが不完全であったという驚きと、それが政治的に使われたという戸惑いと、その他色々な心情が入り交じった形で、この発表を聞く人たちがいるのかも知れない。しかし、実際にはまだまだ奥の深い、底の知れない、訳の解らないことがこの先に待っていると言われている。解読と言われるが、一般に受入れられる解読の意味は何だろうか。古文書の解読とか、エジプトのピラミッドに残されたメッセージの解読とか、そういう話を聞くと、解読とはそこに書かれている文章の内容を理解することができたという意味に使われているように思える。実際には、現在使われている文字と違う文字が使われていたり、同じ単語が違う意味に使われていたりして、そういう課題を一つ一つ解決することによって、昔の人たちがそれらの文書で言い残したかったことを読み取るわけだ。それに対してゲノムの解読で使われている解読は、単に文字の並び方を明らかにしただけであり、これは古文書発見と変わらないレベルにある。文章の中身はまだ解っていないことが多いのだ。これから文字のもつ意味や文字の並びがもつ意味など、そういうものが徐々に明らかにされて、初めて文章の意味を考えるところまで行くことができる。その上障害になりそうなことは、人間が書いたものであれば人間の感性で意味を推測できるが、生き物が使っている文章はそういう感性で書かれていないから、推測が容易でないことだ。一部の情報科学者は文字の並びがわかればすぐにでも意味が解明されると思ったようだが、実際にはそうならなかった。推測するための基礎になる材料が足らなかったからだ。それだけではないかも知れない。もしかしたら、最後まで理解不能なことが残るかも知れないのだ。ただ、問題を解決するうえで、難しいと考えても役に立たないことばかりだから、まずは取り組むことが大切で、こんな悲観的な考えを持っていても一方では何とかなるかも知れないと思うものだ。自分たちが何もわからずに世代に渡って語り継いできた物語が、徐々に明らかになるのは楽しみに違いない。全部わからなくても良いと思えば、気も楽になるだろうに。
普段からかなりの距離を運転している。○○国道と呼ばれる道を走っているのだが、工事、事故その他の理由で渋滞が起きていることがある。高速道路ではないから最低速度制限もなく、また重量制限も厳しくない。だから、廃材を大量に積んだトレーラーのような車が時速20キロほどで走っていて、非常に危険でそれを原因とする事故も多いようだ。
時間になるべく正確に動きたいと思っているから、渋滞に巻き込まれると大変である。昔は一時間かかるところを三時間かかってしまったということも多かったが、最近はそういうことはない。何度も走っているうちに逃げ道を色々と見つけたからだ。都会でタクシーに乗ると、とんでもない道を走りだすことがある。幹線道路は混んでいるし、やたらに信号が多いので、走りにくいからだろうか、こういうのを抜け道と読んでいる。こちらの逃げ道は都会の抜け道とはちょっと違ったものだ。現在使われている国道はいわゆる新道で、トンネルを利用し、道幅も広くなっている。それに対して昔使われていた道、旧道は今でも使用可能である。ただし、道幅は狭く、カーブも多く、何度か通る線路の下の高さも十分ではないから、大型トレーラーが間違って入ってしまうと困ったことが起きる。まあ、そんな道でも新道が渋滞になっているときにはとても役に立つ。当然、山の中を走っているから、周囲の森の様子を見ることができる。その中で気になるのは、杉の木の様子だ。木々の葉が、何だか黄色みを帯びているのである。松の木であれば、松くい虫の被害かと思えるほどだが、杉の場合はそうではない。松も杉も裸子植物だから、オスとメスの木がある。銀杏の木でいえば、ギンナンがなる木がメスの木、ギンナンの季節になっても何も見当たらないのがオスの木である。銀杏の場合、メスの木百本に対して、オスの木一本で十分と言われるようだが、なぜだか杉の木はそういう割合になっていないようだ。とにかく茶色というか黄色というか、そんな色が目立つ。つまり、花粉をたっぷり貯め込んでいるのである。ここからそろそろアレルギーの源が吐き出される季節が近づいてきた。今はインフルエンザも流行っているようだから、初期症状として区別がつかないかも知れないとも思えるが、とにかく花粉症の人々にとっては嫌な季節の始まりである。特に去年の夏が暑かったので、今年はスギ花粉の量が多いと予想されている。症状がひどくなるのが2月下旬から3月上旬にかけてだから、その時期に花粉が飛び始めると思っている人が多いらしいが、実際には2月の始めには既に飛んでいるとのこと。そういう意味では、もうそろそろ対策を講じなければならないわけだ。色んなグッズも売れ、治療方法も考え出されているが、患者の数は減らない。寄生虫との関係を論じる医者もいて、文明病などと呼ばれることもあるが、一度取り憑かれた人たちにとっては厄介な代物である。根治させる方法は見つかってなく、せいぜい薬で症状を抑える程度にしている人も多いようだ。
車を運転していると、そこは道路なんだから当然のことだが、緊急車両とすれ違ったり、追い抜かされたりする。緊急車両は屋根に取り付けられた回転灯を点けているだけでなく、サイレンを鳴らして他の車にその存在を知らせたりするが、この頃はそれだけでは道を譲らない人がいるのか、スピーカーで路肩によせてだのと色んな指示をしているものも見かける。
小さい頃、パトカー、救急車、消防車などが走り去るのを見ていて、不思議に思ったことがある。道路の脇で眺めていると、そういう車が近づいてくる。当然サイレンを鳴らしているわけで、パトカーならさしずめウ〜、ウ〜といった感じ、救急車は昔はパトカーと同じだったような気がするが、今はパ〜フ〜、パ〜フ〜といった感じだろうか。何しろこの音が聞こえてくると、パッとふりかえって、あっパトカーだ、とか、救急車だ、などと言っていたようだ。この後、目の前を過ぎ去るのを見ていると、急にサイレンの音が変わる。確か高い音から低い音に変わったと思うのだが、その頃思ったことは、車の前と後に別々のスピーカーを付けて、音の高さの違うサイレンを流しているのだ、ということ。たぶん小学生の頃はずっとそう思っていた。中学生の頃もまだそうだったかも知れない。しかし、高校に入るとそれがまったく間違った考えであることを思い知らされる。物理の授業で、まさにこの現象の説明が出てきたからである。最近は高校で物理を習わない人も多いから、この話も何のことかと思われてしまうかも知れないが、ドップラー効果という言葉をご存知だろうか。音というのは波でその振動数が音の高さを決めている。振動数というのは波の上下がある時間内に何回あったのかという意味で、人間の場合一秒間に20から2万回振動する(20〜20000ヘルツという)音を聞くことができると言われている。とにかくそういう振動をもつ波を出しているもの(音源)が自分の方に近づいてくると、一秒間に届く波の数が増すことになり、振動数が高くなる。遠ざかればその逆のことが起きる。こんな説明ではさっぱり判らんと言われそうだが、ここでくどくど説明するわけにもいかないから、さらりと流すことにしよう。というわけで、結局近づいてくるサイレンの音は高く、遠ざかるサイレンは低く聞こえるわけだ。そういう説明が物理の授業で紹介されて、なんだスピーカーが二つあるわけじゃないんだ、と思った。不思議に思うことはとても大切なことだけれど、自分なりに納得できる答えを導き出しても、それは必ずしも正しいとは限らない。だから不思議に思うことは無駄だというのではない。こんなことを繰り返していくうちに、色んなことを理解できるようになるのでは、と最近は思うようになっている。
以前紹介した、工事現場がある日突然田圃に戻った話のところ。その工事の場所は、結局丘の上に色彩豊かな建物が建ち始め、壁が赤、黄、青、緑と鮮やかな色に塗られた建物は一体何になるのだろうかと考えていたら、なんと単純に小学校になるとのこと。村立の小学校、丘の上に立つカラフルな建物、面白そうな感じだ。
最近、公共工事とか、マンション建設とか、その上高速道路建設とか、色々な工事をしているところをよく見かける。ゼネコンは調子が悪くてという評判のはずなのだが、ああいった工事を請け負っているのは当然ゼネコンやそれらともっと小さな会社のジョイントベンチャー(JV)であることがほとんどで、あの状態で調子が悪いとはどういう事なのだろうかとつい考えてしまう。JVもある意味不思議な組織で、皆で山分けということなのだろうか。バブル期に比べたら発注量などは少ないのかも知れないが、依然としてかなりのお金が動いているように見える。上で挙げた小学校の建設などは公共工事としても珍しいものだろうが、あれだけ批判が出ているにも関わらず高速道路の建設は続いており、来年度に開通という看板が立てられている。一時期、道路建設は控えるように、となった途端に整備新幹線とか、公共性が低い公共の施設の建設のほうにお金が流れるようになったようだし、結局構造としては以前とまったく変わっていないのではないかと思える。そうでもしないとこの国の産業を支えていくことができないのだろうか、ちょっと考えたくらいでは答えはでそうにもない。まあ、そんなことはさておき、上で書いた小学校の建設現場ではたぶん単に小学校だけでなく、その他の村立の施設も一緒にして、そこに集中させたものができているらしく、たぶん来年度からそういう施設も含めて稼働するのではないかと思う。府県境のさみしいところで、はたしてどんな活動ができるのかまったく予測できないが、うまくいけば面白いものになるのかも知れない。まったく別の見方からをすると、ドライブの途中で丘の上にある鮮やかな色の壁を見ているだけで、何となく楽しい気分になるし、運転をする方にとってもありがたい存在になるのかも知れない。あと数ヶ月で新しい児童を迎えることになるのだろうが、周辺の道路との関係で通学のことなどちょっと無理がありそうにも見える。まあ、どんなことが起きるのか、今年の田圃の様子も含めて、ちょっと楽しみなところだ。
目の前にいる人がこちらを見ているような気がするとか、電車で乗りあわせた人たちがこちらを見ながら噂をしている気がするとか、そんな気持ちになったことはあるだろうか。病的かどうかは別にして、他の人たちの動向が気になる人は多いだろう。同じようで違うのは、自分のこととは無関係に他の人たちの行動を観察している人たちだ。
他の人が自分のことを見ているのではないかというと、自意識過剰だなどと言われるようだ。自意識とは何だろうかと調べてみると、自分自身についての意識とある。そうなると、それが過剰だというのは、どんな意味なのだろうか。人が自分のことを気にしていると思うことが、自分自身についての意識が過剰にあるという意味なのだろうか。どうも、わかったような、わからないような、変てこな感じもする。いずれにしても、周囲のことをやたらに気にするか、気にしないかの違いであることは確かだし、それが自分が自分をどう見ているのかというところから来ているような感じもする。自信の無さの現れだと言う人もいるが、過信の現れと言えないこともない。過ぎたるは及ばざるが如しとは、まさにこのことかと、つい思ってしまうが、そんなにたいそうなことかいなと言われてしまいそうだ。一方で、周囲のことを気にしないでおくためには、自分に自信を持つことだけでなく、周りを無視をすることも大切で、こちらを向いている顔を見つけても、それを気にしなければ気になることもない。言うは易く、行うは難しとは、そのものずばりと思うのは、また勝手な思い込みだろうか。無視すれば良いと言っても、そうすることでかえって周囲との軋轢ができてしまうことも多いから、おいそれと勧めることはできない。結局、何事も中庸が良いのだと、昔の人もよく言ったものだが、では中庸とはどのくらいのものなのかと考えると困ってしまう。両極端は比較的見えているような気がするが、その間の大体中間、などと言われても、そんなものが見えてくるはずもない。結局、まあ、この辺でと妥協するのが関の山。なんだかんだと考えれば考えるほど、心の中の葛藤が大きくなり、自分で収拾をつけることが難しくなる。自分を意識しすぎるがために、他を意識してしまうというのであれば、自意識というよりも、他意識なのではないかと思ってしまうが、意識が出てくるのは自分の中からだから、やっぱり自意識なのだろうか。いずれにしても、難しいことなのだろうが、色んなバランスを自分なりに整えながら、日々軌道修正をかけていくしかない。ちょっとはずれたからといって、大きく動かして急に元に戻そうとするのは危険なことで、焦らず慌てずゆっくりと軌道を修正すればよい。その間に周囲がどう見ているのかは、少し脇に置いておけばいいのだから。
大学入試というのは、いったい何十年前だったのか、思い出せないくらい昔になりつつあるが、当時は国立大学も一期、二期と試験時期を分けていて、その事情によって、ランクが決まっている場合もあった。その後一期校、二期校の区別が無くなってから、凋落してしまった大学や学部、評価が高くなった大学や学部が出たようだ。
こんな事情を見ていると、結局入試の時点でのいわゆる偏差値によって大学の程度が決められているようで、もしそうならば大学における教育というのはどんな役目を果たしているのだろうかと考え込んでしまう。会社が採用の際に大学における教育を全く評価しないということをある大学の当時の英国人学長が嘆いていたが、ほとんどの大学での教育がそれに対してきっぱりと断言できるほどのレベルに達していなかったこともあり、全体としてはまあどうにもならない状況であったようだ。入試の制度はその後色々と変遷し、現在では大学センター入試という形で、当初の大学共通一次試験が継承されているが、その試験が先週末に実施された。新聞に掲載された入試問題を眺めていて気がつくのは、マークシートという数字や英字を選択する解答形式では自ずと限界があり、問題を作る際にも様々な制約が課せられることがわかる。数学などは元々数字を答えるわけだから、すぐに推測できるような設問をすることは避けなければならないらしく、結局どこかクイズ番組の問題のような形式が採用される。どこがクイズなのかといえば、素直に受け取れない、非常に入り組んだ言葉遣いや流れを使った、いわゆるひねくれた問題と受け取れるものが多いということだ。これは数学だけではなく、他の問題でも多く見受けられ、英語の防虫スプレーの問題などは、ついつい苦笑いをさせられるほどのものだった。でも、問題を作成する立場になれば、これだけの制約を課せられたうえで、差が出るような問題作りを強制されるわけで、かなりの難しさが感じられる。しかし、もしクイズ形式に過度に執着すれば、それは知識やそれをうまく活用する能力を測るのではなく、他の能力を測ることに力を注ぎすぎることになり、結局入試の目的とはかけ離れたものを測定することになりかねない。そんな危険も隣り合わせに存在しているのだな、と思いつつ、よく考えられた、差を際立たせる設問とはなんぞや、などと考えさせられる新聞の記事だった。それにしても、こんなに入り組んだ問題を、あれだけの短い時間で処理するという能力を要求するというのは、一体全体どんな能力を測りたいということなのだろうか。少子化が進み、大学に進学したい人たちのほぼ全員が進学できるような時代を迎えて、センター試験だけでなく、たとえばお受験の小学、中学の試験などに見られるひねた問題など、こういう試験による選抜がどういう意味を持つのか、ますますわからなくなってくる。
慌てて書かねばならないとき、中々話題が思い浮かばないこともある。以前から考えていたものでも、今はちょっと気乗りがしないということもあるし、そういう話題ほど少し考えながら書きたいと思っているから、慌てているときには不向きなものとなる。そうは言っても、ここまで何とか続けてきたものだから、穴を開けたくはない。
こんな書き出しをすれば、まあ今回は困った末のブツブツ独り言といったものかなと想像されてしまいそうだ。このところ、確かに話題に困っていることがある。何となく周期的に襲ってくるもので、ある時期は二つ三つアイデアが浮かぶのに、それが過ぎると泉がぱたっと枯渇してしまう。それでも暖かい時期だと、自然に目を向けてみると、いくつか話題になりそうなものが散らばっていて、助かることが多い。やはり冬場の雪のない地方は、冬の話題そのものが少ないようだ。昨日は珍しく霧が出ていて、ドライブ中も川を越えるたびに、霧が濃くなったり薄くなったりしていた。こういう天気も珍しい気がするが、これも地方によるのだろう。霧がでるのは地表付近とそのちょっと上の気温のさによるものだったと思うのだが、冬場はそれほど変わらないし、第一冬場に湿度が低い地域では霧を作るための要素に恵まれていない。まあ、それでも川の周辺であれば少しはましなのだろうか。今回の霧もそんな感じだった。ただ、こんな話題を引きずり出してきても、後は車の運転のことが少し書けるくらいで、もう一押しできるレベルにまでは至らない。そんなわけで、何となく躊躇してしまうのである。他の小さな話題としては、中国人が読んでいた本は当然中国語で書かれていたのだが、どうも英語の訳本だったという話。ちょっと話をしていたら、その本の内容の話になり、著者が中国文字、つまり漢字で書かれていたのだが、本人の発音を聞くと、おや何処かで聞いたことがある。日本語になっている発音とはちょっとずれていたが、コナン・ドイル、どうもシャーロック・ホームズのお話らしい。日本語のように意味をもたないカタカナで英語の発音を表わすと便利なのだが、漢字を使ってしまうとつい意味を考えてしまい、訳がわからなくなる。その辺りが中国語の不便なところだろうか。ただ、最近では本来の意味や語源に執着しなくなってきたとのことで、使いやすさがこれから出てくるのかも知れない。そんなことを考えながら、中国語のサイトを検索したら、何か出てくるのかも知れないと思ったのだが、いかんせん時間がない。こういうことは時間に余裕があるときでないと、とてもできる代物ではないので、また先送りして、いつの間にか忘れてしまうのだろう。さて、これでまた、一日分ができた、よしよし。