車を運転していると、道路標識に注意しなければならない。速度制限、重量制限、一方通行、駐車禁止など、色々な標識がある。これらの大部分は万国共通で、他の国へ行って車を運転することになったとしても、戸惑うことが無いようになっている。ただし、たとえば米国での"YIELD"のように、それぞれの国独自のものもあるから、絶対に大丈夫などとは言えない。
交通標識とともに目に付くのが道路案内というか行き先案内板のようなものだ。高速道路では東京まで200Kmとか、そういうことが書いてあるし、一般道では目的地に行くには直進すべきなのか、右左折どちらかをすべきなのか、そんな案内がある。この形態もほとんどの国で採用されているようだ。ただし、交通標識のように記号化されたものではなく、地名などが表示されるので使われている文字はその国のものとなる。日本人にとって苦手なのがアルファベットで表示されたもので、読み取りに時間がかかるような感覚がある。綴りが自然に入っているわけではないから、やはり一つ一つ見極めてから理解するからなのか、ちょっと時間がかかってしまい、それがわき見運転につながったり、読み切れずに標識を通り過ぎてしまう。その点、国内では漢字主体の表示で、サッと読み取れる気がする。あれはおそらく外国人にとっては難物で、非常に複雑な記号が目の前に現れる感じがするのではないだろうか。漢字は一つの文字でかなり多くの情報を伝えることができるし、模様として見ても複雑なわりに、偏や旁などのきちんとした法則が成り立っているから、一度覚えてしまえば区別は難しくない。しかし、あれだけ入り組んだ構造をしているから、始めに覚えるときには難渋することが多い。誰もが、小学校、中学校の時に悩まされた漢字の書き取りテストなどは、ああいった形での押し付けがなければ覚えられないからこその対策なのだろうと思う。ただ最近の傾向を見ていると、以前からそうだったところもあるが、読み取りの方が書き取りよりも簡単に思っている人が特に増えている。実際に書くことはできないが、読むことができる漢字というのは、誰でもたくさん持っているのだと思う。読むことは大体の構造を覚えていればできるが、書くことは完全に覚えていないとできないからだ。読みだけで十分と考える人が増えているのは、特に、パソコンの入力では変換を半自動的にやってくれるから、区別さえつけば良いと考えられるからだろう。だからといって読む方だけできれば良いというわけには行かない。そこにあるものを読むことはできても、どれが正しい漢字(の組合せ)なのかを判断できない場合が多いからだ。だから、印刷された文書でもやたらに誤字の多い人がいたりするわけだ。受取るだけの作業と自分が作る手順を含んだ作業には、微妙な感じもするが、意外に大きな違いがある。入口は読むことから始めるが、出口ではやはり自分で書くことも必要なのだろう。とはいえ、そのうちそういう学習のためのカリキュラムがパソコン上で動くようになりそうな気もするが。
春節、旧正月ということで、中国系の人たちにとっては、とても重要な時期である。外国にいても同じことで、中国系の人がたくさん住んでいる地域では大騒ぎになることが多い。しかし、日本ではどうも新暦の正月にすべてのことが移ってしまったようだ。中華街を除けば、何か特別にということもないみたいだから。
正月といえば、新しい年の抱負とか展望とか、そんな話題が良く聞かれるようになる。各界の有名人が様々な観点から、自分の世界、自分の周囲の世界、日本全体、全世界といった具合に、色んな世界の現状と将来を論じることが頻繁に行われ、それが話題として新聞、テレビ、ラジオなどを通じて流される。抱負や展望は有名人の専売特許というわけではなく、色んな人が色んな意見を持っているわけで、自分たちの集まりの中でそれらを披露することがある。最近は不況という言葉が定着してしまったから、それに関する話題がどんなコミュニティーに出かけていっても聞かれるが、時々少し違った世界の人たちと話すことがあり、そういう時に面白い話が聞ける。先日もある集まりで社長だった人と話す機会があったが、現在の経済状況を憂えているだけでなく、どこに問題があるかとか、中国の将来の話などに触れることができた。中国の政治の新体制では、トップの人たちの大部分が工学系の出身だそうで、現在の経済発展の原動力となっているものを考えれば、頷ける部分がある。何をどのように作れば、世界の市場で優勢になれるのか、それを維持するためにはどんなところに力を注げばいいのか、そういった方面の洞察力はかなり強いだろうと言われていた。それに対して、日本の政治は経済の停滞を脱却するために、経済学の手法でという考えがあるためか、そちら方面の出身者が多い。まあ、高度経済成長期でも同じ傾向だったから、それだけがいつまでも光が見えない理由ではないのだろうが、どうにも八方塞がりの感がある。その時の話題は、経済の発展を金が回ることであると誤解している人たちがトップにいるということで、いかにも銀行などの金融界の立場に立った話ばかりで、モノを作って売ってなんぼという製造業の立場からみれば、まったくどうにもならないお話であるとのことだった。こんな観点だけからたてられた政策では、どうにもならない状況に来ており、こういうときこそモノ作りの根本に立ち返るべきなのに、そちらを蔑ろにして、金だけを回せばどうにかなるなどと考えていたら、厳しくなるだけだと。こんなことを話していると将来に関して悲観的に思っていると見えるのかも知れないが、実際にはまったく逆でそんな馬鹿げたことが行われていても、しっかりとした考えの人々はちゃんと方向を定めて、きちんとしたことを進めていると見ているようだ。中小企業が厳しい状況にあると言っても、その大部分は下請けだけで頑張ってきたところで、元々孤立していた中小企業はかえって良い状況にあるという話もある。大企業しか相手をしていなかった世の中が中小にも目を向けるようになったからだという。だから、今こそビッグチャンスとなるのだそうだ。モノ作りが真剣に見直されるときに来ている。
色を見分けるという能力は普段あまり重要に感じないかも知れないが、大切なものであることは確かだろう。例としてよく出されるのは信号だが、青、黄、赤と言いつつ、実際には、青ではなく緑だと思うのだが、日本では青と呼ぶことに固定されている。では信号は色の識別ができないと判断ができないのかといえば、実際には並び順で区別をつけることができるので、判断可能とのことだ。
色を識別する能力を色覚と呼び、その能力に問題があることを色覚異常と呼ぶ。以前は、これを色盲と呼んでいたのだが、差別的な表現であるということで、こちらを使うことが多くなった。でも、「異常」という言葉がつくので、これでもまだ差別的な要素がすべて無くなったとは言えないようだ。色覚異常を検査するものを色覚検査表というのだが、これは昔は色盲表と呼ばれていた。日本人が考案したもので、世界的にも通用している優れ物であるが、あまりにも細かいところまで判ってしまうので、嫌われている面もあるようだ。この色盲表は、考案者の名前をとって、石原式色盲表という。色覚が正常な人にとっては何の問題もなくパターンが見えるのに、ある色の区別がつかない人にとっては何もパターンが見えないか、まったく別のパターンが見えてくる。そういうことを見つけだすために作られたもので、軍隊で盛んに使用されたのだったと思う。なぜ、そんなことができるのか、と不思議に思われる人は、一度この表を手に入れて、白黒のコピー機で複写してみると良い。あっと驚き、なるほどと納得する結果が出てくる。こういう感覚の有無が仕事上に重要であるということから、就職時に差別がなされているということで一時期問題になり、また大学受験の時もそういった規定があったために問題になった時期もあった。その能力が絶対に必要であるということが証明されないかぎり、そういった規定は有効ではないという判断がなされたようで、最近ではあまり見かけなくなった。異常という言い方が問題あるという人にも、ある色を感じる感覚器を司る遺伝子に間違いがあるので、という説明をするとある程度納得してもらえるのだが、実際に異常と言われるとやはり抵抗を感じるものなのだろう。太平洋に浮かぶある島にはそういう人たちがかなりの頻度で暮らしているところがあり、以前島の外から入ってきた人の中にそういう遺伝子異常を持つ人がいたと伝えられている。異常だから困ることばかりかというと実はそうではないという話を聞いたことがある。軍隊が使っている迷彩服を思い浮かべて欲しい。ジャングルや沙漠など、背景になるものによって色合いが違うが、識別しにくいような配色になっている。ただし、これは健常者にとってのことで、ある色が見えない者にとってははっきりと見えてしまうものらしい。これは色覚異常の子供とその親の会話から判ったことらしいが、飛行機からジャングルを見ていたら子供が何かを見つけた。しかし、親には何も見えなかった。後で調べたら、確かにその何かがそこにあったのだそうだ。色がたくさん見えてしまうことによって、かえって惑わされることがあるということなのだろう。
もう300回を超えただろうか、さすがにネタ切れと思えるときがある。特に、仕事の方に集中しなければならないときとネット掲示板に気持ちが行っているときは、他の考えが入りにくいこともあって苦労する。なにしろ仕事については直接的に言及することはできないから、始めから除外しなければならないし、掲示板もあんまりそういう話ばかりするわけにもいかない。それでも、あと二ヶ月程、何とかなるだろう。
この文章を書いていると時々読みにくいという指摘を受ける。実際には、これだけではなく、他のところでも同様の指摘を受けたことがある。指摘をする人が読みにくいと思う点は、一つの文が長いことと、一つの段落が長いことである。元々、本などの読み物と同じつもりで書いているから、このくらいの段落の長さであれば大したことないと思うし、文の長さはこれでも短くしているほうだ。実際に本を眺めているとこのくらいの長さの段落は当り前のように出てくるし、文章もいつ途切れるのかと思えるようなものに出くわすことがある。では、なぜそういう指摘が出てくるのか。まあ、悪文であるという話は脇に置いておいて、一つにはネットの場合の特徴があるようだ。今これを読んでいる人の大部分は、ブラウン管形式にせよ、液晶形式にせよ、モニタを眺めているだろう。モニタでは画面がチラつくということはあまりないにしても、行を追いながら読むことに難しさを感じている人もいるのではないだろうか。だから、何行にも渡る文章を読み進んでいくと、行替えに戸惑い、どこまで読んでいたのかわからなくなるようだ。確かに、そういった経験は自分自身にもあり、苛々したこともあった。そんなところから、短く段落を区切って表示するようにして欲しいという意見が出てくるのだと思う。しかし、一方で別の形で苛々することがあるので、そのことについて紹介しておく。一つ一つの文をバラバラにしながら、打ち込んでいく人たちがいる。まるで箇条書きのような感じなのだ。こういう文章を読んでいて気がつくのは、全体の繋がりがはっきりしないということで、そのことに違和感を覚えることが多い。まずは文章そのものを読める形にという観点からは、ぶつ切りの文章に軍配が上がるのだろうが、流れを重視した観点からは、繋がりをもったものに軍配が上がるのではないだろうか。だからといって、こういうたった二つの段落からなる文章を書く意味はどこにあるのかと聞かれれば、結局のところの答えはそういうスタイルに統一したいからというだけになる。まあ、いくらこの辺りを論じても始まらないことなのだが、文章を書くという点において、ぶつ切りばかりに傾いていては、話を形作るという大切な要素に欠けたものを作ってしまうことになりかねない。そういえば、会話にしろ、文章にしろ、最近は断片的な話が多いという指摘があるから、それがこの辺りの事情に影響しているのかも知れない。
夜中にガタガタとうるさかった。いくら安普請の家とは言え、尋常でないほどの音である。この冬は暖冬はどこ吹く風といった感じで、ごく普通の冬がやって来ている。ここ数日も勢力の強い低気圧が西から東に駆け抜けて、オホーツクにまで達し、典型的な冬型の気圧配置になっている。ここ数年の暖冬が普通と考えれば、これが異常気象ということになるのだろうが、はたしてどうなのだろう。
それにしても寒い。風が吹く、雪が降る、北海道や北東北に住んでいる人たちから見たら大したことが無いのだと思うが、普段それほどでもないところに住んでいると、こういう天気はやはり困ってしまう。ちょっと雪が降れば、公共交通機関は大混乱、その上冷え込みが厳しいと路面が凍って、もう何ともならない状態になる。電車も同じことで、ポイントの凍結やら故障やらで、ダイヤの乱れが伝えられることになる。それでも東海道山陽新幹線は以前に比べたらずいぶん対応が良くなっているように感じる。おそらくネックになっていた関ヶ原付近の整備が進んだからだろうか。それともひょっとしたら単に暖冬が続いていたから、だけなのかもしれない。ただ、今回のように大阪より西の地方での雪となると、まだまだ対応が悪く混乱しているようだが。道路も新幹線と似た現象が起きる。名古屋と大阪の間を結んでいる名神高速道路と東西名阪自動車道では、雪に対する対応がかなり違っているのではないだろうか。名神は新幹線と同じく関ヶ原付近を通るから、積雪に備えて除雪車などが数多く配備されている。除雪作業は高速では行えないから、当然速度規制などが入って、その区間の通過所要時間は二倍にも三倍にもなる。それでも動いているからましなのであって、たとえば東名阪では除雪車がどの程度配備されているのか知らないが、ちょっとした積雪ですぐに通行止めとなる。素早い対応ができないためなのだろう。雪国ではひと冬にこういったことは何度も起きるから、そのための準備をしておくことは肝心なのだろうし、予算としてもとってあるのだろうが、めったに雪が降らない地方ではそうは行かない。たまにしか起きないことに対応するだけの余裕がない、などと言われてしまう。地震の時に崩壊した道路の整備が不十分であったとする訴訟では、予想外、予想以上の出来事という形で結論が導かれたようだ。このことに賛成するのも反対するのも理由を考えるのはそれほど難しくない。ただ、お互いの論点がまったく違うところにあるから、平行線の議論になってしまうことが多い。この例ではどんな議論がなされたのか良くは知らないが、いつでもどこでも難しい問題であることだけは確かだ。
テレビのクイズ番組も昔ほどの人気はないようだが、相変わらず色々と流れている。色んな企画が出されていて、すごい思いつきだなと思っていたこともあるが、アメリカのテレビを見たときにその理由がわかった。多くの企画はアメリカの番組の真似だったのだ。「100人に聞きました」とか、もう思い出せないが色々とあった。
今、放映されているものでは日本名がわからないが「The Weakest link」というのがある。これはアメリカのものも真似で、元はイギリスらしいが、ルールややり方が複雑で難しい感じがした。だから、初めて見たときにはこんな番組が成立するのかとびっくりしたが、日本ではタレントを使うことで、何とかこなしているようだ。ただ、何となくだが、長続きするとは思えない。日本から逆に取り入れられたものはないかと思って見ていると、時々我慢大会の番組が放映されていた。大学生が厳寒の中、裸で冷たいものを食べるといった類いのものだが、ただ馬鹿にするだけで見ていて呆れたものだ。アメリカのテレビドラマは比較的面白いものが多く、日本で放映されているものも多い。たとえば、「CHiPs(California Highway Patrols)」は結構人気があった。そりゃ、コンバットや逃亡者などを懐かしいと思われる人もいるだろうが、そこまで来ると記憶が不鮮明で解説できない。よく見ていたドラマには、「Equalizer」や「Remington Steele」、「Simon & Simon」があって、楽しく見ていた。後の二つは探偵ものであり、Equalizerは日本の必殺仕掛け人の現代アメリカ版のようなものである。元CIAの中年の男性が、新聞広告を出して困っている人たちからの苦情を受け付け、問題を解決するというものだが、金銭の受け渡しがあるかどうかがはっきりせず、どうやって生活しているのかなと思ったりした。でも、情報収集の技の紹介や心理的な葛藤などに力を入れていて、中々面白い仕立てのドラマだった。どうも映画やドラマには日本の企画が取り入れられているような気がして、勝手に楽しくなる。Remington Steeleは、Pierce Brosnanが前歴不明のドジな探偵役で出ているが、この人は「ミセスダウト」でも主役の別れた妻の恋人役で出ていて、恰好良いけど胡椒アレルギーのちょっとドジな感じだった。イギリス英語的な発音をして、雰囲気が良いなと思っていたら、いつの間にかボンドシリーズに出てきた。ちょっとひ弱な感じがあったのでどうかなと思っていたけれど、その後も降板することなく続いていて人気が出ているようだ。今回は北朝鮮が舞台になっていて、色々と文句が出ているらしい。テレビは元々アメリカから入ってきたものだから、番組もアメリカからとなるのも仕方ないのかも知れないが、まあ楽しめればいいといったところだろうか。
経済情勢に関して、少し気になることが幾つかあった。まず、いつものようにタクシーの中の話である。先日タクシーに乗って、いつものように運転手に景気の話を聞いてみた。すると意外なことに、去年の暮れはいつもの年よりも売上げが上がったとのことだ。ただし、彼によれば、全員ではなく上手く立ち回った者だけに限るような感じらしいが。それでも、このところ聞いたことのない話だったので、ちょっとした驚き。
景気を測る指標として、タクシー運転手の景気観というものはかなり重要視されている。相手にしている人たちが会社員であることも多く、またタクシーを利用する場合にタクシー券なるものを利用するとそれは会社からの支給を意味することもあるのだろう。会社の状況がはっきりするといえるのかも知れない。さて、次の話は外食産業について、ここ数ヶ月で何度か外食をする幸運に恵まれたが、それぞれの店に行って客の多さに驚かされる。不景気とはどこ吹く風とでも言いたげなほどだ。ただ簡単にそういう結論を導きだそうとすると横槍が入る。確かにそれらの店の多くは数年前に比べたら値段を下げているところが多いし、客の方も何らかの形で割引が受けられるようなものを持参している場合が多い。良いものをなるべく安くという精神が根付いているとでも言うのだろうか。しかしそういうことがあるにしても客の数が多すぎるような気がする。しゃぶしゃぶの店での30分、パンの食べ放題が売り物のレストランでの一時間半、皆我慢強いなとお互いに思いながら、結局待っているわけだ。回転寿司の店でも、二時間くらい待たされるのは当り前というところもあるが、冬に入ってからそんなに長く寒空の下に立っていられる人が減ったこともあり、待ち時間は幾分短くなっているようだ。それでも、また暖かくなれば元に戻っていくのだろう。こういうところはすべてそれなりの味のものがある程度安い値段で食べられるというわけで人気がある。外食と言っても、ハンバーガーショップや安値のレストランに関しては、それほど多くの客が入っているわけではなさそうだ。この辺りのバランス感覚はどういう理由なのか、たぶん一人ひとりで違っているだろうから、一概に書くわけにもいかないだろう。ちょっと心配なのは、高級と呼ばれるところ。今はどんな具合なのだろうか、こちらにはチャンスもないから、調べようもない。京都の○鴨茶寮などといったところは、どんな様子なのだろうか。誰かご存知だったら、教えて欲しいものだ。聞いたからといって、連れて行けとは言わないから。