夜の運転は何かと気を遣う。前後の車、対向車、どれも昼間に比べたら見にくいものだ。その上歩行者や自転車となると、ほとんど見えなかったりして、突然目の前に現れて驚くこともある。どちらの場合も衣服が黒っぽい場合が多く、せめて上下のどちらかは淡い色にしておけばと思う。特に自転車の無灯火は論外で、こちらにとって頼りになるのは光だけということに気がついて欲しい。
暗闇の中の光には、注意を喚起する効果もあるが、気持ちをホッとさせる効果もありそうだ。夜空の光、星には、別に生き物と繋がるものはないが、何となく心が和んだりすることもある。でも、やはり生活の匂いのする光、人が住んでいる所から出る光にはそれ以上の効果があるような気がする。山で迷った人が、やっとのことで人里に下りてきて、そこに家から漏れる光を見たときの感激は何となく理解できる。それほど、人の住んでいる所と住んでいない所には、光において差があるのだ。夜間飛行で、飛行機から見る地上の光の点列には、色んな情報が含まれている。大きな都市であれば、光の量はすさまじく、点列などと表現できない固まりに見える。それに対して、少し田舎の方に来ると、ポツンポツンと道路の水銀灯がひかり、それに沿って、ちらちらと家の光が見えてくる。道路沿いに満遍なくちりばめられているのではなく、はっきりと集落が作られているのが判るような偏った光の集まりが見て取れる。そんなものを見ていると、何となく生活の匂いがしてくるのだが、これは単なる考え過ぎだろうか。これとは別に、新興住宅地は光の点列がきれいに縁取りをした感じに見える。街路灯が住宅地の道がきれいに並んでいることを示しているのだが、一方でその中にあるはずの家からの光はほとんど漏れてこない。家の建て方にもよるのかもしれないが、どうしたのだろうかと不思議になる。せっかく、街路灯の点列が見えても、そこからは生活の匂いがしてこない気がした。大都市に来ると、光の強弱と色に変化が出てきて、それはそれで楽しめる。サーチライトのようなものを空に向けて照らしているどこかの店があったり、ネオンライトの色の競演が見えたり、色んな楽しみがありそうだ。しかし、飛行機が通りすぎるのはあっという間であり、こんなものも束の間のショーにしかならない。それよりも気になったのは、光の多さ、どれほどの光がこの島国から出ているのだろうかということである。以前、人工衛星から撮影された夜の地球という写真を見たことがあるが、そこには日本国内の大都市とそれを繋ぐ光の点列が鮮やかに捉えられていた。すさまじい光の量なのである。一番印象的だったのは、日本海に浮かぶ強烈な光、イカ釣り漁船の光だった。こういうのを見てつくづく思うのは、光は、生活の証し、豊かさの証し、かも知れないが、多過ぎるのも考えものかなということ。
入れ物、容器、何かを入れるもののことである。そう思って周囲を見回してみると、色んな素材で作られたものがある。昔からあったものとしては、紙、ガラスといったものが多いだろうか。リンゴを入れて届けられた木箱は、最近ほとんど見なくなった。大きな箱はほとんどが段ボール箱になっている。小さな容器はほとんどがプラスティック製品だ。実際には主に石油から作られる合成樹脂を総称してプラスティックと呼んでいるので、細かく言えば違いがある。
30年ほど前に比べるとプラスティックの生活用品に占める割合は驚くほど伸びている。以前は鉄などの金属を成型して、それに塗装を施したものを使っていたのが、ほとんどが一度に成型と着色が出来るプラスティックに取って代わられてしまった。ローラー式の絞り装置がついていたずっと昔の洗濯機は、確か本体が合金か何かだったと思うが、今は全てプラスティックである。単に成型が容易だというだけでなく、腐食に強く、軽いわりに強度も十分にあるから、こういった用途には最適なのかもしれない。大きなものに利用されているだけでなく、小さなものにもたくさん利用されている。そんなものをいちいち取り上げる必要はないだろう。これを読んでいる人たちが、自分の身の回りを見渡すだけで、あっという間に数十個のものが見つかるだろうから。ただ、ここでちょっと書いておきたいのは、飲み物の容器になっているプラスティック製品、ペットボトルのことである。ペットボトルとは、PETと略されるプラスティック、PolyEthylene Terephthalateという合成樹脂から出来ている容器のことで、昔はガラスの瓶に入れられていた飲み物のほとんどが今はこれに入っている。問題となっているのは、この普及とともに、大量の使用済み容器がごみとして捨てられるようになったことで、ガラスの瓶がある程度再利用されていたのに対し、単純に洗浄して再利用するのが難しいこともあって、徐々にその問題は大きくなっていた。結局リサイクルという言葉が日常的に使われるとともに、ペットボトルに関しても様々な処理を経て再利用する方法が開発された。これで問題が解決されるかと思われたが、再利用のシステムを動かすための資金などの問題が出てきているようで、誰がそのお金を負担すべきかが議論の中心に来ているようだ。実際には国ごとに違うらしく、そのやり方次第で、ペットボトルからガラスの瓶に戻る動きも出てきており、そんなことからリサイクルそのものに対する考え方をもう一度原点に立ち返ってみてはどうかという意見も出ているようだ。リサイクル問題は今問題になっていることをその状態のままで解決するのではなく、問題になっている「もの」を使わないようにするためにはどうするのかを考えるべきだというのだ。そんな話を聞いていたら、偶然テレビで飯行李の話をやっていた。ご飯を入れておく容器で、美味しく保存し、長い期間使うことが出来るというもので、コリヤナギという植物から作るそうだ。使い捨てが当たり前で、何年も使うことを不潔になると考える人がいる時代には、どのくらい興味を持たれるものなのか判らない。しかし、同じ容器を長年使うというのが本来の考え方だとすれば、そこにはリサイクルが入り込む余地はない。
独り言や掲示板に書かれている文章のスタイルや内容などについて、これまでにも色々と書いてきた。一部に問題のある文章を書く人の多くは、普段他の人と話をしている時にも極端な表現や攻撃的な発言をする人が多いように思うがどうだろうか。一方で、インターネットという閉ざされた社会でのみ、そういう性格が表面化する人もいると聞くから、やはり色んな人がいるということなのだろうか。
文章を書く場合には、読み手が書き手を目の前にして情報を手に入れるわけではないから、書き手は誤解や解釈の違いなどが起きないように注意する必要がある。だから、事実は断定的な表現で、推測は自分の考えであることを明確にする表現で、などと色んな工夫をする。そういうものがないと、色んな誤解が起こって、情報の交換が非常に難しいものになるから、注意するわけだ。それに対して、日常の電話を含めた対面的な会話では、たとえその場で誤解を生じるような発言があったとしても、それを指摘し、相手に対してより正確な表現を促すことが可能である。少々時間がかかっても、そういう手順を追うことで、誤解を取り除き、互いに相手の主張を正確に理解することができるようになる。では、会話は文章にくらべると、そういう意味で優れたものと言い切れるのか、と考えると、そこまで断定することができないことに気がつく。上で書いたように、相手がこちらの指摘に対して、その意図を汲み取り、自分の表現の不十分さあるいは間違いを認めれば、話は丸くおさまるのだが、そうは行かないことが多い。まず第一に、自分の非を認めない人が多いことをある。非というと大袈裟な表現だが、例えば言い間違いとか、考え方の甘さとか、そんなことを指摘された時に、それを別の言葉で言い直すだけで、間違いとはしないわけだ。結局、同じ内容を繰り返すだけで、聞き手が指摘した点に関しては、何ら進展が見られないことになる。第二に、指摘自体を自分を否定する攻撃的発言と受け取る人も多い。これも、第一に挙げたものと同じような反応を引き出すが、攻撃と受け取っているから、反撃と受け取ることができる発言形式になることが多い。それ自体は、攻撃と受け取られたことについての誤解を解けば、何とか解決することも多いのだが、解けない場合には厄介な展開となる。どちらにしても、間違いを重いものと思うかどうかに依っているのだろうが、意地の張り合いになったりして、ただ無駄な時間を過ごすことになりかねない。先日まさにこんな出来事が起き、困ってしまった。その出来事とは具体的に書くことはできないが、相手が事実と推測をごちゃ混ぜにして、結論を導きだしていたことから起きたものである。事実は事実として受け止めるべきだが、どこまでが事実でどこからが話し手の推測なのか、話し手自身が理解していない場合には、おかしなことになる。その点を指摘するのだが、区別を判っていない訳だから、何故指摘されたのかさえ判らないわけで、堂々巡りの話し合いになってしまった。こちらの指摘の仕方を色々と変えてみても結果が変わらなかったから、仕方のないところだったのだが、何か工夫が必要だと感じた出来事だ。結局は、あるところで止めてしまうしか、抜け出す方法はなく、解決の糸口は見つからなかったのだが。
別に誰かから文句が出たわけでもなく、ただ自分で気になっているだけなのだが、独り言の内容はすべて裏をとって正しいことを確認していなければならないのだろうか。人それぞれに意見がありそうだが、ネットで流れる情報は信用できないものが多く、その点を注意せよとか、正しい情報を流さねばならないとか、普段からそういうことを書いている以上、かなり気をつけねばならないと思っている。
ただし、すべての情報に関して、裏をとっているわけではないし、なるべく正しい情報をと思っていても、表現が不十分だったりすることもある。その点に関してはぜひとも寛容に、とお願いしたい。昨日書いたスペースシャトルの事故に関する記述は想像から出たものもあるので、もし誤解を生んだのだったら申し訳なく思うが、ニュースの重大さに対する驚きから出たものである。ただ、こんなことを書いているが、何処かから指摘されたわけではない。独り言は、自分の思ったことや気がついたことを、ある程度自由な形で表現する場だと思っていて、誹謗中傷を避けながら批判や問題点の指摘も行ってきたし、これからも続けていこうと思っている。ただ、毎日こんなことを書いていて、自分では注意しているつもりでも、勇み足の発言が出る場合もあるだろうから、たまにはそういう点を主体にした独り言を書いておいても良いのかも知れないと、書き始めた次第だ。そうは言っても、基本的にはなんでもありとすることには反対で、そんな理由から題材として採用しないものもたくさんある。どう考えても個人攻撃になるものだったり、こういうところで取り上げてもあまり面白くないスキャンダルだったり、そんなものは始めから排除される。だから、どうしても自然現象やら、動植物の話題やら、ある程度無難な話題が多くなるのもやむを得ない。まあ、それでもある程度楽しい読み物ができれば良いわけだから、この辺りのことを悩んでも仕方がないのかも知れない。毒舌を使った書き方も面白いものだが、毒を吐きすぎて無くなってしまったら困るから、そちらの方針もとらない。ちょっと話がずれるが、読むときに注意して欲しいのは、「思う」とか「考える」という表現を頻繁に使っている点だ。事実であれば断定的に書けるのだが、事実というものはそれほど多くないので、どうしても自分の考えとして披露するしかない。ネット掲示板を読んでいて気がつくのは、自分の正当性を主張しようとするあまり、断定口調を濫用する人が多いことだ。確かに、対面しての議論であれば、それが功を奏することもあるのだろうが、相手の顔が見えない場ではかえって逆効果になることも多い。内容、話題の選び方とともに、書き方には注意したいものである。などと言っても、そんなにたいそうなものとは言いにくい。まあ、それこそが独り言と言えるのかも知れない
毎年一月は世界中で悪いことが起きると、以前書いたことがある。いつでもどこでも、良いことも悪いことも起きているのだから、一月が特別にそうであるというわけでもないのだろうが、自分自身の仕事との関係から特に印象深く記憶することが多いせいなのだろう。こういったことは数学で出てくる確率で計算するとほとんどかまったく違いがないのに、気持ちとしては違い、それが記憶にまで結びつく例だと思う。
その独り言の中で、1986年に起きたスペースシャトルチャレンジャーの事故の話をした。また、北米、中米の地震の話もした。別に何か予感がしたわけでもないのに、いつもなら出かけているときにメキシコで地震が起こり、一月ではなかったけれどもスペースシャトルコロンビアの事故が起きてしまった。何とも気味の悪い感じがするが、これも単なる偶然でかたづけられそうな出来事ばかりだ。それにしても、チャレンジャーといい、コロンビアといい、事故の原因は偶然ではなく、人為的なものが関わっているような感じがする。チャレンジャーの時は、O−リング、日本語ではパッキングと言ったりするが、それが低温で柔軟性を失い、ロケット内部の圧力を保てなくなったことが原因であったと結論づけられたようだが、これは設計段階で分かっていたことであり、さらに実験段階でもその問題点が指摘されていたことでもあったので、人災と言われたように記憶している。表現は悪いが、まるで花火のように空中で爆発し、宇宙飛行士たちを乗せたシャトルもろとも飛び散った光景が、彼らの家族の前で繰り広げられたのは何とも堪え難いものだった。今回のコロンビアの事故の場合は、まだ原因も特定されておらず、破片が飛び散っている状況から、特定作業はかなり難航するものと考えられる。通常の飛行機事故のようにブラックボックスと呼ばれる、フライトレコーダ、ボイスレコーダは積載されていたようだが、ほとんどの記録が地上に送信されていたらしく、それ以上の情報をどうやって手に入れるのか想像できない。ただ、このニュースが伝えられたときに驚かされたのは、打ち上げの際に問題が生じていたということだった。もう何度も行われているので、日本人が乗り込むときでも最近は打ち上げが中継されることはほとんどない。次回がその順番で、今回はイスラエル人が初めてということだったらしいが、日本では特に取り上げられることはなかった。とにかく打ち上げの際にロケットの断熱材が剥がれ落ちて、シャトルの翼部分にぶつかったと報道は伝えている。その後の判断で、その程度の損傷であれば、宇宙空間での活動及び帰還には問題無しとの結論が出された末の事故だったのだそうだ。タラレバの話は、どんなときにもできないが、どんな形で結論が導きだされたのだろうか。想定外の事故と片付けてしまえば簡単なのかも知れないが、それでは次の飛行を再開することもできない。今回は当然のことながらイスラエルでの盛り上がりはかなりのもので、本人の父親が帰還の様子を伝える生中継に出演していたとのこと。これもまた、何とも堪え難いものになってしまったのだろう。
数日前、食品売り場をウロウロとしていたら、柊の枝が箱に入れられて、お持ち帰り下さいと書いてあった。柊の枝を何に使うのだろうかと思って、検索をかけてみたら、かなりの数のページがヒットした。柊の枝は、節分と関係あり、鰯の頭を刺して、門口に立てておき、魔除けにするのだそうだ。鬼が鰯の匂いと柊のトゲを嫌うとのことで、まるでドラキュラの話のように思えた。
こういう風習は全国にあるのではなく、ある一部の地方に強く残っているようだ。柊と鰯の頭は特に京都周辺では良く知られた風習なのだそうだ。鬼にまつわる話では、秋田のなまはげなどいろんな風習があるらしいが、豆まき一つとっても、鬼は外、福は内とするのかと思えば、ある地方では、鬼は内、福は内と言い、別のところでは福は内、鬼も内と言うのだそうだ。それぞれに理由はあるようで、そんなことを読んでいると風習にもいろんなこだわりがあって、楽しくなってくる。もう一つ、柊で思い出すのは、家の鬼門の話である。鬼門というのも、色々と説明を読んでも訳が分からない代物だが、何かを信じるということから、大切なものと捉えることができる。ネットで調べてみると、北西の方角が鬼門であると紹介されている。となると、家から見たそちらの方向に柊を植えておけば、鬼がやってこないということなのだろうか。以前、テレビでそういう風習を紹介していたときに、ある工場の奥さんが毎朝鉢植えの柊を工場兼自宅の角に出しているのを見せていた。動かせること自体は問題なく、地面が直接顔を出していない場合にはそうしても良いと、番組の中では説明していた。何ともいい加減な解釈だなとも思えたが、そんなものなのかも知れない。その後は、別に気にもしていなかったのだが、あるとき近所を歩いていると柊を植えてある家が意外にたくさんあることに気がついた。当然、土地の角の部分に植えてあるのだが、方向が何となく変だ。ある家は南東の角に植えてあり、別の家は南西の角に植えてある。鬼門がそれぞれに違うのかとも思えるが、理由を尋ねていないのでまったく分からない。こういういい加減さは許されるようには思えないのだが、はたしてどうなのだろうか。ある家では柊によく似た葉にトゲのある植物を植えてあり、それもありなのかと感心したことがある。こういうところがいかにも日本的だなどと書くと、言い過ぎになるのだろうか。知らないことが多過ぎるのだが、それにしてもいろんな風習がある。節分にも、太巻きを年毎に変わる方向、恵方に向かって頬張ると健康に暮らせるという風習が広まりつつある。効果のほどは定かではないが、寿司屋の連合会は力を入れているらしい。食べるものの話といえば、最近豆まきの豆も年の数となるとちょっと苦しくなってきた。
先日紹介した色盲表のことに関しては、問合せがご意見板の方にあったので答えておいた。確かに色盲表を一般の人たちが手に入れることは難しいのだが、こういう話題を取り上げた本を開いてみると、いろんなところに掲載されていることに気づくだろう。石原式色盲表はそれほど一般的なものであり、外国で出版された本の中に見つけたこともある。
今回は色覚異常の話をするのではなく、色のない世界の話である。パソコンの周辺機器もその発達とともに、安くなっているので、プリンタを持っている人も多いだろう。ずっと以前は白黒のそれもリボン式の貧弱なプリンタであったが、その後インクジェット方式が主流となり、さらに高価な代物であったカラープリンタが驚くほど安い値段で売られるようになった。それでも、インクカートリッジなどの消耗品が高いから、誰もが持っているとは言えない状態かも知れない。カラープリンタは印刷モードの設定によって、カラーの原版を白黒で出力することができる。一度試してみたら分かると思うが、こういう形で出てくるものは、昔の白黒テレビの世界と良く似ている。白黒では、その黒さによってその色の濃さを表わすようになっているので、グレイスケールと呼ばれる指標がある。ただ、色の濃さというのはちょっとした曲者で、色が違うと同じような濃さに見えても、グレイスケールでは違う数値を示す場合がある。明るい感じを与える色と暗い感じを与える色といった感じだ。現在のパソコンのモニタでは、色の濃さを調べたり、調節したりすることが簡単にできるので、あまり気にならないが、以前の白黒テレビの時には、カラーから白黒に変換するといった感覚ではなく、単に白黒で撮ってみたらこんな感じになったといった感覚だったから、ことは簡単ではなかったと思う。ただ、白黒でどんな色がどんな雰囲気に再現されるかは、完璧でないが、ある程度推測できるようになっている。だから、最近、昔の白黒(モノクロ)映画をカラー化する試みがなされている。どれほど忠実な再現か分からないが、色が映るはずのない技術レベルでも、配色に配慮していたことが分かって、中々面白いものである。そんな再現フィルムを見ていて思い出したのは、昔白黒テレビでドラマなどを見ていて、この黒さは元の色が赤だとか、これは青だろうとか、そんな話をしていたことである。実際に正しかったのかを知る術はないが、赤は黒っぽく映り、青はそれより白みが増していたように思う。さらに、黄色になると、かなり濃い黄色でも白っぽく映る。これは単に色の濃さからだけでなく、テレビカメラの様々な色に対する感度に起因するものもあったのだと思う。映画のカラー化に比べると、テレビのカラー化は遅れていたようだったが、技術革新によりあっという間に番組制作の場に普及し、さらにカラーテレビが安くなるとともに家庭に普及していった。それとともに元の色を想像する楽しみは消え去ってしまったが。