パンチの独り言

(2003年2月10日〜2月16日)
(特典、棲みか、備春、悪貨、first book、勝手、観天望気)



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2月16日(日)−観天望気

 テレビの放送が始まってから50年だったかの、記念の番組が放送されていた。何だか、当事者達の喜びの声ばかりで、番組全体としての盛り上がりには欠けていたような気もしたが、はたしてどんな印象を持っただろうか。といっても、そんな昔のことなどどうでもいい、そんな番組など見てもいない、という話が返ってきそうな気もするけれど。
 昔放送されていたテレビの番組を思い出すのには、得手不得手があるようだ。自分自身はどうも記憶が曖昧で、きちんとした形で思い出せないものだから、あんまり興味が湧かないというのが正直な感想である。番組の主題歌はよく覚えているし、登場人物の一部には印象に残っているものもあるが、全般的にいうとかなりぼんやりとした記憶しかない。そういういい加減な記憶の中で、少し印象に残っているのは天気予報の時間だろうか。今はかなりの頻度で天気予報が放送されているだけでなく、言葉の説明や歳時記などさらに色々と細かい情報を手に入れることができる。週間予報も、以前は一週間に一度しか発表されていなかったと思うが、今は毎日更新されている。そりゃ、この先一週間の天気予報なんだから、毎日発表されるのが当り前と思われがちだが、そのために使われる情報量を考えると、コンピュータの能力が低かった頃には毎日などというのは不可能だったのだろう。見せているものにも、以前は気象衛星「ひまわり」からの雲の写真などはなく、富士山の山頂に設置されたレーダーの雨雲の像が発表されていただけだった。それも、そのまた昔には無かったから、手書きの天気図を見せるのが精一杯だったのではないだろうか。その辺りになると、記憶が曖昧で、どんな天気図が紹介されていたのか、まったく覚えていない。ただ、天気図を描いた板の上に、長方形の晴れマークや雨マークを描いた板を貼りつけていたところだけは、覚えている。たぶん天気図の板の方に鉄の板が使われていて、マークの方には磁石が貼りつけてあったのだろう。これも、何年ごろの話だったのか、ということになるとまったく思い出せない。高校生の時、天文クラブと称する星を観る集まりに参加していたから、天気図を自分で描いていた。確か、一日に三回か四回、NHKラジオ第二放送で気象情報が流される。それを聞きながら、各地の天気、気圧、風向、風速などを記録し、さらに付け加えられる高気圧、低気圧、前線、等圧線の位置から、天気図を作成するわけだ。何となく判ったような気で描いていたが、実際には正式に本などで学んだわけではないから、いわゆる自己流であった。まあ、それでも、何とか様になる代物はできていたのだが、正しい描き方をしていたかどうか、確認したことはない。やってみると中々面白いものなのだが、ちょっと油断すると聞き逃すことがある。今では中学の理科で宿題として使われているようで、実際に気象に関する理解を深めるだけでなく、集中力を養う訓練には良いのかも知れない。

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2月15日(土)−勝手

 都内中心部の区に路上喫煙の禁止に関する条例が制定されてから、ずいぶん時間が経ったと思う。他の区でも同様の条例が検討され、そろそろ施行されるのではなかっただろうか。果してどれほどの効果を上げているのかさっぱり判らないが、施行直後の取り締まりを大々的に取り上げていたマスコミも最近は当初ほどの熱心さはなくなってきているようだ。ただ、喫煙者も確実に減少しているようで、火傷の被害に遭った人など少しは安心できるようになったのかも知れない。
 こういうことが取り上げられるたびに、マナーという言葉が機関銃のように発せられる。どうもこの国はマナーに雁字搦めにされ始めているようで、何でもかんでも窮屈になってきたと思っている人も多いのではないだろうか。しかし、元々のマナーの意味を考えてみたら、窮屈なのが当り前となりそうな感じがする。マナーとはテーブルマナーに代表される行儀作法であったり、態度とか様子であったりするが、まあどちらかというと作法の方で使われることが多いだろう。では作法とはどんなものなのか。今の世の中はなんでも理屈で論じることが流行っているように思えるが、それを作法に当てはめたらどんな感じになるのだろう。たとえば、テーブルマナーとはそこに絶対的な理屈があって、それをすることが最も合理的なものと言えるのだろうか。食事中にナイフやフォークを皿にカチャカチャと当ててはいけない理屈は何だろう、ナイフを直接口に持っていってはいけない理屈は何だろう、こんなことを論じ始めたらきりがないように思える。マナーを論じる人の多くは、その理由を常識という一言で片付けようとする場合が多いが、常識というものが必ずしも理屈で説明できるものとは限らない。大きな音を立ててはいけないということでさえ、自分は気にしないからという反論が出てくれば、理屈もへったくれもなくなってしまうのではないか。周囲に対する迷惑、不快感を催させる行動、嫌な匂い、そういうことのすべては、気がつかない本人にとってはどうでもいいことなのである。理屈で論じていると必ずこのような落とし穴に陥って、どうにも抜け出せなくなる。たぶんそういうことを避けるために、昔の人たちは常識という言葉を用いたのだろう。自分が決めたわけでもない、ただ世間の人たちすべてが持ちあわせているはずのもの、と言うことで反対意見を抑えてきたわけだ。しかし、あるころからそういう常識が通じなくなってきた。勝手という言葉が横行し始めたからだろうか。自分の自由だから、自分は大丈夫だから、そういった言葉とともに、私の勝手でしょ、といったフレーズが巷に溢れ始めた。そうなると、常識は影を潜め、どう見ても非常識な行動も本人の自由だからと見て見ぬふりをするようになった。そんな時代を経て、そういう常識を押し付けるためには、法律や条例というお上の決めたことを使うしか方法が無くなったようだ。マナーやモラルが押し付けのものというのは、ある立場に立てばその通りだと思うが、それを守らない人から他の人が受ける不快感はどこに流せるというのだろう。一人でいればマナーもモラルも必要ないと言われるが、これは周囲を見ない人が多い世の中になったことと何か関係があるのだろうか。

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2月14日(金)−first book

 本の話題を書くことが時々ある。でも、連日で書くことは無かったような気がする。実は一つの話にしようと思って書き始めたのに、どんどん脇に逸れてしまい、前半部分だけでまとまってしまったので、そこでおしまいとしたからなのだが、これから書くのは本来書こうと思っていた話題。だからと言って、たいそうな話にはならないのだが、いつものように。
 生まれて初めて接する本というのは、ほとんどの人の場合絵本だろう。親が子供に読み聞かせるタイプのものから、子供が一人で眺めているタイプのものまで、初めて接するときには読むというより眺めると言ったほうが良さそうである。文字はある規則にのっとって作られたものだがら、その規則を承知することなしには読むことや理解することができない。それに対して、イメージとか画像とか絵とか言われるものは、それ自体が普段接しているものとの比較で自分なりの解釈が入れられるので、何も予備知識や予習を必要としない。短い時間とはいえ、それまでに培った経験に基づくものだから、幼児でもそれなりの理解を示すことができる。そんなことから、絵本は子供にとってとても大切な情報の源となる。では、どんなタイプの絵本がよく読まれているのだろう。絵本作家と言っても、物語を書く作家と、絵を描く作家がいる。初めて見る絵本では、前者よりも後者の方が大きな役割を果しているように思える。日本で有名な人、と言ってもそれほど知っているわけではないが、安野光雅を知らない人は少ないのではないだろうか。彼はいろんな賞を受けているが、彼の描いた絵本の中でも世界的に有名なものの一つに、アルファベットの絵本がある。AからZまでのアルファベットが、確か木で作られた形でページごとに示してあり、そこにそのアルファベットで始まる名前をもつ物が描かれている。これと同じものが、日本語のかなでも作られていて、やはりそのかなから始まる物が描かれている。字の形を印象づけるとともに、その字を含む言葉を覚えさせようという意図から描かれたのだろうか、中々面白い。特に英語のものは、単語がすぐにはわからなかったりして、親子で調べる楽しみもある。まあ、これは英語を母国語にする人たちには、そんなに楽しみにもならないのだろうが。こういうタイプの絵本で一時期米国で人気のあった作家に、Richard Scarryという人がいる。日常的な風景に色んな物を描き込み、それらを示す単語をそのそばに書いていくことによって、言葉を覚えさせようというものだ。登場するのは人物ではなく、動物達、猫が中心だったろうか。子供たちにはかなり人気があったと思う。初めて接する本というのはたぶんこんなものが多いのだろうと思う。絵本といえば、新しく出版されたものを紹介する番組などで、評論をしている人に柳田邦男がいる。おやっと思う人が沢山いるだろう、ノンフィクション作家で有名な人である。なぜ絵本に興味を持ったのか忘れてしまったが、事故や病気の紹介で批判的な文章を書いている人と同一人物とは思えない暖かさが伝わってくる。まあ、それが彼の本来の性質なのかも知れないが、これだけで親しみを感じる人もいるのではないだろうか。それにしても、絵本も毎年毎年沢山のものが出版される。どれだけのものが読まれるのか、どれだけのものが印象に残るのか、わからないが、大変な数なのだろう。

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2月13日(木)−悪貨

 最近、モノが売れないという話をよく聞く。景気の先行きに対する不安感とか、資産価値が落ちているからとか、景気の落ち込みを原因に上げる人が多い。でも、その一方で、本当に良いモノはちゃんと売れているという話も聞く。このくらいで良いだろうという気持ちで作っても売れていた時代はもう過去となり、今は必要とされる、品質の良いモノだけが売れているのだと。
 雑誌を含めた書籍の売上げも年々落ちてきているようだ。本屋に並んでいる本の数は減っているどころか、どんどん増えているように見えるのに、売上げは確実に減っている。原因は色々とあるのだろう。たとえば、古書店が増えてきたことを挙げる人が多い。特に昔からの店には変化がないか、あるいは廃業しているところが増えているけれども、全国チェーンとなっている店が急激に伸びている。文庫本のほとんどが百円で売られていて、元の値段を考えると驚いてしまうが、昔ながらの店でも同じ値段で売られていることもあるから、何も目新しいことはない。しかし、全国に何軒あるか判らないほどの数の店で一斉に大量に売られているわけだから、新本の売れ行きに影響がないわけはない。雑誌も首都圏では電車の網棚に放置されたものやホームのごみ箱に捨てられたものを集める人たちが目立つようになった。大きな駅の外でそれらの雑誌が半額以下で売られている。すぐそばには同じ雑誌を正価で売っている店があるのに、である。これも売れ行きにある程度の影響があるのだろう。以前にも書いたことがあるが、図書館で本を借りる人が増えているような気がする。電車の中で本を読んでいる人の持っているものをみると、○○市図書館などとシールが貼ってある。以前は単行本が多かったが、今は文庫本が多くなった。これは、それらの図書館が利用者の要望に応えて、文庫本を購入し、貸し出しているからだ。以前はあまり多くなかったと思うのだが、今はかなり増えてきて自宅の本棚の代りに図書館があるといった感じになっているのではないか。図書館側もそういった要望にすべて応えるのが、使命だと理解している場合も多いようだから、こういう現象は今後も続くのだろう。これらは本を取り巻く環境の中にある原因と呼べるものだろう。一方、本そのものの質にも問題があるという話もよく聞く。なにしろ、有名出版社がこぞって新書と言われるタイプの本を大量に世に出すようになっている。以前は、その分野の専門家と呼ばれる人が集大成とも言えるもの書き、それを新書という一般の人々に分かり易く、安価で購入しやすい形で供給するというところに意味があった。しかし、最近のものはどこの誰だか判らない人が、何が何だか判らない代物を新書という形で世に出しているとしか思えないことがある。これはこれで意味があると出版業界は考えているのかも知れないが、はたして結果はどうなるのだろうか。本屋でも食指が動かない代物がどっと並んでいるのを見るのは、何とも気分の悪いものだから。

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2月12日(水)−備春

 日本列島が南北に長いことは、季節の変わり目に実感することが多い。実感と言っても、せいぜいニュースに接するくらいのことだが、北の方からは流氷やら雪まつりの話題が届けられ、南の方からは桜の開花便りが届く。流氷はこれからが着岸の時期だったろうから、北では冬はまだ峠を越えていないのに、南ではもう春真っ盛りといった感じで、何とも不思議な気分になる。
 花の便りといえば、水仙が咲き乱れ、梅が見事に咲いているのが、ニュースとして伝えられるようになった。一方、花屋の店先では桃の花が売られていて、あの業界の先取り志向とそれを実現するための農家の工夫が感じられて、大変なものだと思わされる。実際に花が開く時期に売るのでは儲けが少なく、それよりも少し早く市場に出すことが儲けるためには肝心なのだろう。そんなことを思いながら歩いていたら、頭上の桜の樹に花芽がついているのを見つけた。この辺りでの開花が三月下旬であることを考えると、二ヶ月程前から準備がされているわけだ。そう思って見回してみると、落葉樹の葉っぱのついていない枝にもたくさんの芽が出ていることに気がつく。春がやって来たからといって急に花を咲かせたり、葉を出したり、などという芸当ができはずのないことは判っていても、冬の最中にもう春の訪れを告げるもののが準備されていることに何となく驚かされる。何事も準備万端整えてこそ、本番を気持ち良く迎えることができる、とでも言いたげな感じだ。本当は、冬を迎える準備をしている紅葉の時期から、既にこういった準備は進められていたのだろうが、表面的なことしか観ることができないと、つい何も起きていないように思い込んでしまう。死んだように眠っている木々も、こんな形で寒い冬にいろんな作業をしているわけだ。こんなことに気がついてみると、自分たちの生活にも同じことが言えるような気になってくる。何か新しいことをしようとすれば、どこかから準備を始め、それが整ってからやっと表立ったことができるようになる。周りからみれば、表面に出てきたときが新しいことを始めたときのように映るかも知れないが、実際にはそれよりも前にいろんな準備がなされているわけだ。これは何も進学、就職、転職等々の区切りのはっきりしたものだけでなく、日々の生活におけるちょっとしたことにだって当てはまるのではないだろうか。自分でも気がつかずに、心の準備をしていたとか、何となく気持ちが徐々に盛り上がったところで、何かを始めたとか、そういったことも、実際には、表には出ないことが始まりで、それが芽を出したところから、自分も気がつくということもあるだろう。それを経済とか政治の話に持っていくのはどうかと思うが、これらにもそのまま当てはまる話だと思う。後で考えてみたら、あの時のあれが、などという話はよく聞くが、そのものではないだろうか。ただ、渦中の人たちには、それが見えなかっただけのことなのだ。こんなことを書いていると、いかにも説教じみた、あるいは教訓じみた話になってしまうが、まさにこんなことが身近なことから遠くのことまで、日常的に起きているのである。

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2月11日(火)−棲みか

 この間、夜中に車を走らせていたら、目の前に二匹の動物が現れた。こちらにお尻を向けて走り去ろうとしていたのだが、どうもその尻の大きさが猫でもなく、犬でもなく、はて何だろうかと思った。自宅に続く狭い道にその動物たちも入っていったので、こちらもその後を追ったら、曲がったところでこちらを振り返った。なんと、狸である。都会とは言えない場所だが、こんな里にまで降りてきているのかと驚いた。
 最近は野生の動物を町中でもよく見かけるようになっている。鳥は移動範囲が広いからそれほど驚きの対象にはならないが、いたるところでカラスを見るのには参ってしまう。何処でもごみをあさっているようで、それを防ぐために大きな容器を用意したり、ネットを被せたりしているようだ。以前なら、前の晩からごみを出してあるのをよく見かけたのだが、最近はほとんど見ない。早朝からカラスが荒らすことも原因の一つなのだろうか。野犬はほとんど見なくなったが、他の野生動物をよく見かけるようになった。確かに都会のど真ん中ではそういう動物に出くわすこともほとんどないのだろうが、場所によってはイタチやオコジョなどの小動物から、狸くらいの大きさの動物まで、色々と見ることがある。多くの場合は、車にはねられたものだが、中には目の前を横切ったり、ごみをあさっているものも見る。山が棲みにくくなったのか、里が棲みやすくなったのか、どちらなのか判らないが、少なくともえさを探してのことであるのは確かだ。一部では山の開発が進んで、棲息場所が荒らされ、仕方なく里に下りてきている例も見受けられるが、えさを容易に手に入れることができるという場合も多いように感じる。今回の狸も、冬の時期、人が捨てたものにありつくのが一番手っ取り早い手段だったのではないだろうか。昼間は人の目もあるし、カラスの目もある。元々夜行性の動物にとって、人通りがほとんどなくなる真夜中は食べ物探しに格好の時間なのだろう。こんな動物が日本各地の都市部に増えているらしく、かなり深刻な問題を引き起こしている例も少なくない。関西にある大都市の山の中腹の住宅地では、イノシシがかなりの数目撃されている。元々山にえさが少なくなり、住宅地まで下りてきていたものに、餌付けをした人たちがいたそうで、その後どんどんその数を増やしてきたのだそうだ。地元の人たちには野生動物を危険なものと見る向きもあって、遂に自治体は餌付けの禁止を条例で制定した。その後の展開が、テレビで紹介されていたが、餌付けをしていた人の一部は相変わらず続けている。条例は単に禁止することを決めただけで、そこに罰則もなければ何もない。単に良識に期待しただけ、といった感じである。周囲に対する迷惑を、本人たちが自覚するようにという考えだったのかも知れないが、一部の人たちには何も聞こえなかったようだ。結局、その後も何の進展のないまま、イノシシは住宅地をわが物顔で走り回り、取材の人たちに威嚇を繰り返している例もあった。はたして直接の被害が出るまで、このままでいくのかどうかまったく判らないが、自然破壊、野生動物保護、環境整備、等々、様々な問題が複雑に入り組んだものだけに、どんな解決が図られるのやら。

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2月10日(月)−特典

 ある特定の相手にのみサービスをする店が世の中にはある。会員と呼ばれる人々がいて、その人たちだけが店を利用することができる。そんなことを聞くと、どんなタイプの店を思い浮かべるだろうか。会員制クラブなどと聞くと何とも怪しい感じがするが、そんな形態をとるバーもあるだろうし、ある特定の物品を扱う店もあるだろう。でも日本で一番会員数の多い店は、ひょっとしたら生協、生活協同組合なのかもしれない。
 生協と言っても、細かな組織に分かれていて、都道府県を移るたびに退会、入会を繰り返さなければならないから、一つの組織として扱うことは正しくないのかも知れない。しかし、生協ブランドで売られている品物などを見ると、その土地の生協だけでなく、全国組織としてのブランドもあるから、おそらく一つの組織として捉えても良いのではないだろうか。生鮮食料品を取り扱うスーパーマーケットで生協と同じ会員制を採用しているところは幾つかあるのだろうが、自分の周りでは見たことがない。ただ、生協ほど大きな組織ではなく、ある地域に限定された店で会員制を謳っているところもあるのだろう。日本のこういった店では会員制と言っても、会員限定ではなく、会員により大きな値引きを与えるという特典をつけたものが多く、会員にならなければ入店もできないといったところは少ない。また、生協もなんでも安いといった形で運営されているわけではなく、食品や品物の安全性を考慮したり、有機野菜などに力を入れたりすることで、他の店との違いを出そうとしている場合が多いようだ。こういう形態のスーパーマーケットがどこから始まったものなのかは知らないが、やはりスーパーといえばアメリカが本場である。倉庫を改造したタイプのただ品物が山積みになっている会員制の店は、なにしろ何でもかんでも安かった。しかし、大きな単位で売られているものが多いから、巨大冷蔵庫を備えた家庭や大家族でもないかぎり、それらをどっさり買い込むことは不可能であるように思えた。一方、別のタイプの会員制のスーパーは大量仕入れによって実現しているのか、他店に比べて安いものが多いのだが、ある品目に対する種類が少なく、選択の余地があまりないという難点をもつ。これは安くするためには大量仕入れだけでなく、無駄な仕入れを無くすことが大切で、そのためには多種類を揃えるのは危険だという考えからだろう。この辺りまでは日本でも実現可能な気がするが、最近聞いた形態にはちょっと驚かされた。その会員制の店では、会員が従業員として無償で働き、その義務を果たせるものだけが会員としての恩恵に浴することができるというもので、自分の時間を奉仕という形で会員達が使うという面白いシステムである。当然人件費などが少なくなるから、価格に反映されて安く買い物をすることができ、さらに新たな商品の開拓にも力を入れることができる。人気の商品は有機野菜などのオーガニックと呼ばれる商品で、その魅力と低価格の魅力が結合して、急激な会員の増加が起きているのだそうだ。日本でこういう形態が導入可能かどうかすぐには判断がつかないが、面白いやり方として参考にするところが出てくるのかも知れない。

(since 2002/4/3)