高齢者の数が増えている一方で、少子化の問題が深刻になっていると伝えられる。確かに、都心の小学校が閉校したというニュースが伝えられたり、今後教育事業が自由化されるとともに、競争が激化して、色んな学校が振るい落とされていくと予想されるなどと伝えられているのを見ると、子供の数は確実に減少し、将来の就労者数もそれとともに減る傾向にあるのかな、と思えてくる。
教育産業は義務教育を行う部分を除けば、今後少ないパイを奪い合う競争が激化して、かなり厳しい状況になるのではないかと言われている。特に、大学はその真っ只中にあると言われており、二年制の短期大学を四年制の大学に移行する動きは、ここ十年ほどの間、かなり激しくなっている。もうそろそろその動きも止まり、四年制の大学間での競争が更に激化する時代を迎えようとしている。そうなると、どこの大学も特長を出そうと苦慮するわけで、学部や学科の名前を今風に改めたり、在学中に取得できる資格を前面に出したり、更には以前は返還されなかった入学金や授業料を入学辞退後に返還するように変えたところもある。返還に関しては、特に大阪を中心にした地域ではかなり大きな問題と捉えられていて、今年その制度を導入した大学には受験生が殺到したそうである。大学としては、入学定員には変化がないのだが、受験者数が増えれば受験料収入が増えて、非常にありがたいことに繋がる。計算してみるとそれだけで億単位の金が動くわけだから、馬鹿にならない。このように制度上の変更によって、大学としての魅力を伝えていこうとする動きがある一方で、子供の数が減るにも関わらず新しい大学を造る動きも止まっていない。少ないパイを奪い合う競争は更に激化しているというのは、こんな事情によるものなのかもしれない。日本で一番大きな湖を抱える県に今年開校する大学の話題が先日新聞で取り上げられていたのだが、かなり人気が高いらしく、その理由の分析も紹介されていた。競争率は30倍を超えているそうで、それだけで驚いてしまうが、私立大学の場合定員よりもかなり大目に合格者を出すから実質倍率は10倍にも満たないのかも知れない。しかし、同じ理系の大学で受験者数が定員を下回るところが出ているのに比べたら、驚きの数字である。人気の理由は、今流行りのバイオであることで、特にもう一つの人気分野であったITに翳りが見えてから、更に人気が高まっているとのことだった。もう一つの理由は、この大学の設立母体がもっているバイオ系の専門学校の実績だろう。就職率も高く、会社の評価も高いので、その辺りに期待をしている受験生も多いと思われる。確かに、人の健康に関わる分野への投資は今後も継続せざるを得ない状況では、そういう分野に関わるほうが色んな意味で安全なのかもしれない。また、地元の後押しもかなりのものらしく、周辺に企業誘致を計画しているから、良いことばかりが目に付く。そうは言っても、四年後にどうなっているのかは誰にも判らない。ただ人気のある大学に入ったから大丈夫と言うのでは、その人には明るい未来が見えてこない気がする。常に上を目指す心を持ちながら進む人達が集まってこそ、こういう新設大学の成功があるのだろう。
こういうのを偶然というのだろうか。昨日の独り言は「信頼」という話を書いたのだが、それを揺るがされることが起きてしまった。ああいう話を書いたからそんなことが起きたのか、などと考えてしまうほどまったく思いもよらないことで、そのことに気がついたときにはかなり冷静さを失っていたようだ。まったく、人を信じるというのは難しいことだ。
実際に起きたことをこういう場で紹介することはできないし、そういう気持ちもない。ただ、どんなことなのかを内容が判らない程度に紹介しておく。他の人に仕事を頼むときに「任せる」という言葉をよく使う。すべてに関して全幅の信頼をもって任せる場合には、一任すると言ったりするが、何しろ任せたのだから文句を言わないというのが基本だ。そんな気持ちから、ある人にある仕事を任せた。仕事の内容は物品の管理に関するもので、その記録台帳を調べて、その後の処理を決めるといった類いのものだ。それらの物品に関する知識を持ちあわせている人だったから適任と思って任せたのだが、どうも様子がおかしいと台帳を管理している部門から報告があった。実際にはそんなに具体的な指摘ではなく、管理上不可能な処理を要求していたので、それを指摘しただけのものなのだ。しかし、任せたほうから見ると、それはまったくおかしな処理を行おうとしていたわけで、信頼して頼んだほうからすると、とんでもないことをしでかしてくれた、となってしまう。今回のケースでは、こういう不手際がなければ、そんな背信行為にも気がつくことはなかったわけで、将来より大きな問題に発展してしまう可能性もあった。たまたま、管理者がこちらにも連絡してくれたから発覚したとはいえ、人のことを全面的に信頼することの難しさを知らされた気分だ。こういう間違いが起きてしまえば、それを実際に行った人だけでなく、その人に仕事を任せた人間にも責任が生じる。そのことを実感して、やはり注意しなければならないものだと思ったわけだ。正直に書けば、最も驚いたのは信頼していた人物がそういうことをしようとしたことで、それによってさすがに落ち込んでしまった。ここにこの話を書いているぐらいだから、その時に感じた落ち込みはかなり小さくなっているが、実際の処理が始まればまた何らかの気持ちの揺らぎが生じてしまうかもしれない。とはいえ、そんなことがあっても基本的に相手を信じる気持ちは変わっていないし、任せるという意味も自分の中では変わらない。ただ、全面的にというのはやはりうまくいかないものなのかもしれないという気持ちが少し出てきたようで、これからは時々確認を入れるようにしなければと思っている。たった一つのことで人からの信頼を失うのはばからしいことかも知れないが、自業自得といってしまえばその通りで、本人がその意識を持つか持たないかによるものではない。まったく、人を信じるというのは難しいものだ。
密室での事故は避けがたいものがある。もうそろそろ記憶が曖昧になりつつあるが、地下鉄サリン事件はその最たるものだろう。何年前だったのか、その記憶も曖昧になっているが、来月の今頃がその日だったような気がする。閉ざされた空間で起きた出来事に対しては、その中にいる人たちができることは本当にわずかなのだろう。
こんなことを思い起こさせてくれたのは、隣の国の地下鉄火災の事件である。発端となった放火犯については呆れるばかりだが、これも日本での宝石店や貸金業での放火と比べてみれば、しでかした罪の大きさには差ほどの違いもないように感じる。これから行うことがどんなことに結びつくのかを予見できないのは、何か重要なものが欠けているとしか思えない。一方、地下鉄の運行に関与していた人たちの判断の甘さが指摘されているし、設備の欠陥も指摘されている。こんなことが被害を大きくしたのだと思うと憤りを感じる。人をまったく信じないという人に出会ったことはないが、そういう話はよく聞く。でも、社会の中で人を信じずに生活するのはほぼ不可能に近い。街中を歩いていて、どこの誰か見知らぬ人が自分を刺し殺そうとするかも知れないとか、店で売られている食品には誰かが毒を入れているのではないかとか、そういうことを考えながらでは日々の暮らしができるはずがない。車を走らせようにも、周囲を走っている車、対向車、すべてに対してある程度の信頼が無ければ、何ともならない。ただ、過信は禁物で、昔教習所で教えられたのは、信号で止まっても後の車に気を配れというもの、教習員は後からダンプが暴走してきて追突されそうになったのを、路肩によけて助かった経験があったからこその助言である。とにかく社会はある程度の互いの信頼があってこそ成り立つのだと思うが、最近の事件を見ているとその信頼が崩れ始めているように感じる。ちょっとした捉え方の違いだけなのかも知れないが、大げさに受取れば他者に対する「信頼」が、確かなものとは言えなくなっている。人に裏切られた経験のある人は、こういう信頼を絶対的なものとは思っていないのだろうが、何度もそういう経験をする人がいるところを見ると、ヒトは元々相手を信用するようにスイッチが入っているような気もしてくる。ヒトという種が長い間生き延びてこられたのは、生き延びるための能力を持っていたことだけでなく、互いを殺し合うことをしなかったのが大きな要因だと思える。相手が自分を殺すと思えば、その前にという気持ちも起きるが、そう思わなければそれで済む。それが信頼と呼べるものなのかどうかはわからないが、何となく結びつくような気がするのだ。しかし、最近の相手を選ばぬ殺人や他人を巻き込んだ自殺の様子を見ると、どうもその信頼が揺らいでいるように思えてくる。最低限の信頼さえもなくなってしまえば、社会は成立せず、ヒトという種の存続は危うくなる。大げさな表現になるが、こんな過程を踏みながら、自分たちの存在を消していった生物はたくさんいたような気がするのだ。
二月といえば、大学受験のシーズンだ。以前は、月の前半が西の方、後半が東の方といった具合に分けられて、私立大学の試験が毎日のように実施されていたが、今は国立大学でさえ二月に試験を実施する。全体の競争倍率も発表され、例年よりわずかに高い状態だったようだ。不景気がこんなところにまで影響しているとマスコミは伝えるが、はたしてそんなものなのか。
戦前に比べると大学に進学する人の割合は何十倍にもなっているのだろうか。三十年ほど前に比べても、たぶん倍まではいかないだろうが、かなり増えていることは確かである。こんなに増えたことによって、どんなことが起きているのだろうか。パッと思いつくのは、大学を卒業するということがそれほど大きな意味を持たなくなったということだろう。これを裏返しにすると、大学ぐらい卒業しておかないといけないという言い方になったりする。「大学」という一括りで捉えてしまうと、上に書いたことくらいしか出てこないから、当然肝心なのはその前に来る○○という固有名詞たる大学の名前である。それによって相手の受け止め方が違ってくるというのは様々なところで経験することだろう。ただ、これとても仕事を始めて色んな特定個人を相手にし始めると、実際にはどうでもいいことになったりする。それはともかく、とんでもない数の人たちが大学に行くようになると、大学の方にも色んなしわ寄せが来るようだ。レベルの低下などというのは、今に始まったわけでなく、昔から年上から見れば年下はすべてレベルが下ということになっていた。ここでいうレベル低下はそれを指すのではなく、高校時代に習った事柄をきちんと習得していないという、大学生としては最低限であるはずのレベルに達していないことを指す。多くの大学でこの問題が大きく取り上げられ、大学生向けの講義ができないことを指摘する声が大きくなっていた。その中で一部の大学が始めた対策は、高校の教科書をやり直す補習授業を開くことだった。これを良い方法だと言う人がいる。予備校で習うことで高校の教科書が初めて理解できたからとか、二度習うことは意味があるとか、そんな意見で、教える側として高校教師や予備校講師の経験者を使っているところもある。とても不思議なのは、今の教育システムでは高校で習うのは大学受験のための知識であり、大学で学ぶための知識ではないのに、既に大学に入った、あるいは入れた、学生に対して、同じことを繰り返そうとする意図だ。大学に入るための知識と学ぶための知識が異なるかどうかは、議論の余地があるだろうが、受験という目標もなしにただ事柄を記憶することを繰り返すのはいかがなものだろう。大学も高校の延長に成り下がったとするのなら、判らないでもないが、それにしてもおかしな具合だ。同じ教科を基礎から学ぶにしても、覚えることでなく、考えることを主眼にすれば自ずと教えるものも違ってくるだろうに。
動物の好き嫌いというのは不思議なものだ。大した理由もなく、あれが好き、これが嫌いと言ったりする。昔は爬虫類を好きな人はあまり多くなかったようだが、最近は特にヘビの類いの爬虫類を好きな人がよく紹介される。昔からいたのに人前で言えなかっただけのか、それとも、そういう趣味も時代とともに変化してきたのだろうか。
ペットの双璧と言われる犬と猫も、人によって好き嫌いがあるようだ。従順で買い主の言うことをよく聞く犬が好きな人、自分中心で気ままな行動をする猫が好きな人という具合に、好きな方でもまったく違った性格を対象とするし、嫌いになればその部分が一番気に入らないということになる。その辺りが人の性格がそれぞれまったく違っていることと似ていて、ひょっとするとその違いが犬と猫の好き嫌いに関係があるのかと思えてしまう。最近流されている金融関係の宣伝で登場する犬の顔をかわいいと思う人もいれば、みすぼらしいと思う人もいるのだろう。ただ、宣伝効果は確実に上がっているらしく、あの犬の人気はうなぎ登りなのだそうだ。そうは言っても、例の金融関係の人気が上がっているかどうかは不明だが。犬と猫を比べると人によって好き嫌いの違いがあるようだが、人に直接的に役立っているという括り方をするとどうしても犬の方に軍配が上がる。盲導犬を始めとする、様々なハンディキャップを持った人たちに役立って犬がいるからだ。盲導犬、聴導犬、介助犬というのだったろうか、以前は盲導犬しか知られていなかったが、最近はそれぞれの人たちの持っているハンディによって、助ける事柄が違うことから呼び名が増えてきた。また、当然ながら役割も違っているようだ。テレビのドキュメンタリーではよく取り上げられるようになったとはいえ、日常生活で見かけることはまだ少ない。先日電車の中で盲導犬を見かけたが、階段を飼い主と一緒に降りてきて、駅員の助けを借りて電車に乗り込んできた。人間の方は座席に座り、犬はその前でおとなしく伏せていたが、こちらが降りるまでの間、じっとしているだけだった。やはりよく訓練されているものだと感心したのだが、特に、人が傍をすり抜けるときでさえ、じっと動かないのには驚いた。あの距離だと警戒しているはずなのだが、と思えたからだ。こちらが先に降りてしまったから、降りるときに何が起きるのかを見ることはできなかったが、犬とは無関係に視覚障害者のことで、それまでに気がついたことがある。電車に乗り込んですぐに時計を見る動きをしたので、あれっと思ったら、ボタンを押して時刻を音で知らせて聞いていたようだ。その時、はたと思ったのは車内放送で、彼らにとって音だけが情報として頼りになるものである。私達にとってはうるさいと感じることもある車内放送も、駅などの表示を見ることができない人たちにとっては重要なものなのだ。そういえば、外国では社内で放送を流さない国もあったようだが、はたしてどうやって伝達しているのだろうか。乗っていて不安になったこともあるから、見えなければもっと不安になるのかも知れない。でも、たぶん乗車するときに、車掌に知らせてあるのだろう。
ちょっと暖かくなったかな、と思ったら、また寒くなる。冬も半ばを過ぎると気温の上下で一喜一憂したりする。夏は夏で、その逆の期待を持ちつつ、やっぱり一喜一憂の毎日だ。それでも、いつの間にか冬から春になり、夏から秋になる。一年の気候がちゃんと春夏秋冬と巡っているのを感じながら、何となく安心する。
どうも人間というのは無いものねだりをするのが常のようで、冬の寒い季節になると暖かい陽の光を浴びたくなる。雪深いところでは、雪のない冬を望んだりする。しかしいざいつもと違う気候になると、慌てて異常気象だの、暖冬だの、色々と騒ぎ立てる。今年の冬はその意味では例年にない異常な冬で、昔の冬のように寒い日が続いた。何とも変な表現だが、こんな表現を使わなければならないほど、例年とか異常とか、そういう言葉を好むのがお天気の世界のようだ。冬だというのに少し暖かいと暖冬となり、地球温暖化の影響だと評論する。しかし、以前のように寒い冬が戻ってくると、温暖化の議論は影を潜め、何とか別の原因を探そうとする。まあ、気温の上下には地球全体の気温の上昇を表わす温暖化とは別の要素もあるから、こういうことになるのは特段珍しいことではないのだが、温暖化を強調され、刷り込まれた視聴者の方はそんなことを考える気もないから、ごく当り前に質問するわけだ。そう考えると温暖化というのは非常に効果的な言葉で、誰にでも理解できるものなのかも知れない。と言っても、その機構を説明するのは容易でなく、同じ原因から寒冷化が指摘されていたことからも、単純なものではないようである。二酸化炭素による温室効果なども、判ったような判らないような、そんな説明しか聞けないのだから。この冬は全国的に寒い日が続いたせいもあり、いつにも増して春の訪れが待ち遠しい冬だった。そんなことから、春の訪れを表す言葉の紹介を何度か耳にした。「光の春」、「気温の春」といった言葉なのだが、季節の変わり目は変わったことが実感されてはじめて気がつくことが多い。その場合、特に気温の変化は体感しやすいので、そういう捉えられ方をして気温の春が来たと表現するのだそうだ。それに対して、実際には気温が上がるよりも数週間前から、太陽の陽の光が強さを増す。これを光の春と呼んでいる。これは太陽の見かけの通り道が冬至を過ぎると段々と高くなり、二月に入るころにはかなり高いところを通ることを表わしている。しかし、寒さのことからすれば、二月の前半は一年で一番寒い時期だから、この時期は光だけの春の訪れで、気温の方はしばらくおあずけといったところなのだろう。最近初めて聞いた言葉なのだが、ちょっと印象に残った。
歴史小説とか歴史番組とかに興味を持っている人も多い。仕事仲間にも多く、別段文系、理系によって好き嫌いがあるわけでもないのだろう。そんな区分よりも、事実に基づいて様々なことを検証するという姿勢が、理系出身と呼ばれる人たちにも受入れやすいのではないか。と言っても、自分自身はどうもそちらの分野は苦手なのだが。
こういう歴史好きの人たちに、歴史物としてどんな読み物が好きなのかを聞いてみると、「三国志」という返事がしばしば返って来る。実際に読んだこともないし、せいぜい漫画になったものをちらっとめくった程度だから、内容を論じることなどできない。しかし、人気があるところを見るとどこか魅力があるのだろうと思う。思うだけで、内容を知らずして語ることはできないわけだが。これは中国の昔の話なわけだが、では日本の歴史で好きな時代は、と聞いてみると、戦国時代がよく出てくる。まあ、こういうことを聞いている相手が男性であるためか、戦乱の世がお好きなようである。それよりも古い話も、色々と面白いものがあるが、生き残った者たちによる記録だから、はたして事実と呼べるものなのか少々疑わしくなる。ただ、いつの世も歴史上の事実として取り上げられるのは、記録として残っているものに限られるわけで、多くの場合勝者に有利なものだけが残ることになる。戦争となれば、これが当り前で、極端な場合には敗者のものはすべて破壊することによって、歴史上の記録から抹殺しようとする。うまくいけば、後世に語り継がれることもなく、その人の存在さえ無かったものとなる。事実に基づいて検証するという姿勢があると言っても、目の前にある事実は改竄された可能性のあるものだから、どうもそのまま素直に受取りにくい。この辺りが歴史を好きになれない理由なのかも知れない。まあ、それよりも過去のことにあまり拘りたくないという気持ちの方が、ここでの好き嫌いには大きく影響していると思うが。いずれにしても、残されたすべての記録を抹消しても、すべての人間の記憶を消去することはできない。だから、その後に記憶を頼りに記されたものに関しては、そのまま伝えられることがある。但し、この場合も当然ながら、事実ではないことが事実だったかの如く、の記述がなされる場合がある。こういうときどんな手法で検証が行われるのか知らないが、多くの資料に同様の記述があれば、といったものなのだろうと思う。確かに、こうすれば少しは信用が高まるかも知れない。しかし、反論をしようと思えばそれほど難しいことではない。別の証拠を示すのは難しいが、正しくないかも知れないというのは簡単だからだ。可能性を示す行為には、証拠が必ずしも要求されないからだろう。いずれにしても、こういう形で色んな議論がなされて歴史上の事実が確認されていくわけで、この辺りの過程がどうも自分の中で上手く消化できないのだ。まあ、今ここにいる自分にとって歴史とは何か、というのも人それぞれに違った感覚を持っているのだろうから、これはこれで別に構わないことなのだと思う。