ずっと昔ある会合で面白い話が聴けた。ある大学を停年で辞めた人が男性と女性の違いを特に研究者にあてはめた形で分析した話で、見方が面白かったのと、現状との違いが大きいことから印象に残ったのだ。別にどちらの味方をするわけではなく、単に違いを説明する一つの考え方を紹介しただけだったのだが。
大学を辞めていた人は男性で、その時ある女性の研究者の話を聴きながら、自分がそれまでに気づいてきた話をまとめてくれたといった感じだった。女性研究者の話の内容はすっかり忘れてしまったが、彼の話の方はなぜだかはっきりと覚えている。彼に言わせると、女性の方が有利と見なせるところがあるのだそうだ。有利と言ってもそれは単に見方の問題で、条件なしにそうなるというものではない。彼自身の経験では男性は人生をほとんど平坦な道程と思い、さほどの山も谷もなくただ平々凡々と過ごすことができるのだそうだ。これは平穏無事という言い方をすればその通りなのかも知れないが、別の見方では変化のないつまらないものとなる。自分から変化を生み出せるのであればそれほどの問題にならないのだろうが、普通はそれほどの昂揚もなく、結局平坦なまま過ごしてしまうらしい。それに対して女性には人生の岐路が運命づけられているというのだ。そんなにたいそうな言い方をする必要はないのかも知れないが、性の違いから生まれる岐路というのは結婚、出産、子育て、ということのようだ。このうち結婚は男も関わるものだから、男女の区別はないはずなのだが、かなりはっきりとした違いが出てくるという。出産は明らかに女性にしか経験のできないものだから、どんな感覚なのか男の側から想像することも難しい。しかし、これがおそらく一番大きな転機となるものである。一方でそういう経験のない女性たちには、その転機が訪れないのかどうか、ちょっと気になったがそこで問うことはできなかった。たぶん、直接的なものではないにしろ、何かそれに代わるものがあるのだろう。子育ても、今ではかなり男からの寄与が大きくなったとはいえ、まだまだ色んな意味で男には及ばないところがある。これらの岐路というか、転機が、女性の強さを生み出しており、周囲の変化に対する適応性の高さを示しているという解釈を示していた。彼の年代からすると、男性は一つの仕事を始めたらそれを職を辞すまで続けることになる場合が多く、その間少しの山や谷があっても押し並べてしまえば平坦と見えてしまう。それに対して、女性はかなり厳しい道程を歩むことになり、そこには大きな山や谷が現れてくる。それらを乗り越えることでますますたくましく変貌するのを見ていると、女性が羨ましく思えるというのだ。その時相手をしていた女性研究者からは強い賛同は得られていなかったが、一方で強い反対もなかった。変化の大きな時代には女性の強さが目立つようになると言っていたのは、既に15年ほど昔の話だが、そろそろそんな雰囲気がしてきたのだろうか。
久しぶりに地元の私鉄の特急に乗ってみた。ローカルの私鉄と書こうと思ったが、私鉄には全国区などというものはなく、すべてローカルなのだから意味が無いことに気がついた。特急に乗るためには特急券が必要で、座席も指定されている。禁煙車の指定された席に座っていたら、次の駅まで15分ほどあるのに、席を立つ人がいた。すると続いて車掌の検札があり、終わったところで件の人が戻ってきた。何が目的だったのか、何となく想像してしまったが。
特急に乗車する場合の特急券などには適用されていない場合もあるが、全国ほとんどの鉄道には自動改札機が導入されている。今ではごく当り前になった光景だが、導入当初はいろんなことが心配された。たとえば朝の通勤ラッシュ時に、あんなに手間のかかる方式ではちゃんと乗降客をさばけないのではないかという心配。確かに導入されたときには皆が不慣れなため、改札機のところで滞ることが多かったが、最近そんな光景はほとんど見ない。たとえ前の誰かが引っかかっても、すぐに隣の列に移って自分たちで解決していく。当時はその停滞に耐えきれず、駅員のいるところを定期券を見せて通る人が多かったのだから、時代は変わるものである。今ではこれらの定期券に書き込みをする仕掛けまでついて乗降駅を記録するようになり、様々な抜け駆けを摘発できるようになっている。それだけ不正乗車が多いということに対する措置のようなのだが、そういうことをする利用者の方も色々とよく考えるものだと感心するしかない。改札機の初期のものであった障害としては、普通の切符を縦方向に入れるように設定されているにも関わらず、横方向に入れてしまって詰まったこともあった。縦とは長方形の切符の短い辺を機械に入れる形にすることで、なぜだか長い辺の方から入れてしまった人がいたらしい。今ではこういう場合にも切符が設定された方向に向くようにする仕掛けが入っているから問題は起きない。当時こういった自動改札機は数年ごとに新しいものが導入されていて、関西の小豆色の電車を走らせている私鉄会社がその先駆けを必ずしていた。その後同じ地区の他の私鉄に飛び火し、続いて関東の私鉄各社、関西のJRとなり、最後が関東のJRという順番が守られているように思えた。しかし、時代が変わったのか、私鉄共通のカードの導入は関東地区の方が早かったような気がするし、ICを組み込んだカードの導入にいたってはJR東日本が初めで、次に西日本に飛び火しようとしている。それだけ西の方の景気が落ち込んでいるというのか、それともそれぞれの会社の戦略が変わってきたのかわからないが、こういう動向を見ていても中々面白いものである。そのうち特急の車内検札も同じようなシステムの導入によって無くなるのではないかと思えるが、さてそうなったときに件の人たちはどんな抜け道を見つけるのだろうか。
車を運転していると、道の上にカメラが設置されているのをよく見かける。以前は高速道路や都心の道路に限られていたような気がしていたが、最近はかなり田舎の方へ行っても見かけるので、はて目的はなんなのだろうかと思ってしまう。ずっと前からJAFでは、このことを問題にして色々と議論を重ねているようだが、どんどん増えているところを見ると、その効果は上がっていないのだろう。
目的の一つとして考えられるのは、たとえば交通渋滞の状態を探るとか交通量の調査とかそういったものだが、どうもそれだけには限らないということもよく聞く。たとえば、かなり前のことになるがつくば市で家族を殺して海に遺棄した医師の話があったのを覚えているだろうか。この時遺棄したのは横浜方面の港で、そこまで車で移動したことが料金所に設置してあるカメラの記録から明らかとなった。この場合は元々料金所で支払いをしなかった車を特定するために設置されたものだと思うのだが、こういうときに役立つことを示していた。道路の頭上に設置してあるカメラもこれと同じ使い方ができる。最近の画像解析では車のナンバープレートをすばやく正確に読み取ることができるようになっており、かなりの台数のものをあっという間に解析することができるのだそうだ。ある決まった形式で書かれたものだから解析も容易だが、それによって特定された車に関しては乗っている人の画像も解析できる。こちらの方は、オービスと呼ばれる速度違反を摘発するためのカメラではナンバーだけでなく運転者も同定しなければならないのだから、当然技術的にも充分な状況にあるに違いない。これらの技術を使えば、誰がいつどこを通っていたのかということが、簡単に明らかになるのだろう。それがプライバシーの侵害にあたるということで問題視する人たちがいて、その議論が進められているようだが、カメラを使っている側にはそれに参加する気持ちはあまりなさそうである。最近、街中に防犯カメラが設置されていて、様々な犯罪を防ぐことに役立っているという話がある。そのためかなり多くの場所に導入されるかそれが検討されているようで、これが同じようにプライバシーの侵害にあたるかどうか問題とされている。といっても、結局犯罪防止に効果があるという一言で、反対意見は抑えられてしまうのかもしれない。どちらがいいのか、簡単には結論付けられないが、結局は周囲で起きていることを見て見ぬふりをする風潮に起因していることであり、このままいけばカメラはどんどん増えていくだろう。都心の駅で起きた押し倒され意識不明に陥った人に関する事件については、カメラの記録から犯人が逮捕されたが、こういうことがあればさらに導入が加速する。さて、自分たちはどちらに向うのがいいのか、考えるべきときが来ているのかもしれない。勇気を出して他人の悪事を指摘する方にすべきか、そうせずに誰かに見守ってもらうようにすべきか。どちらにしても、一長一短のある話だが。
暦の上では、そろそろ虫やらなにやら、動物たちが姿を現す頃と言われているが、天気の方は不安定で、春一番が吹いたところがあると思えば、寒の戻りだと言われることもあり、春特有の周期的な天気の変化と、気まぐれな天気が入り混じって、なんとも付き合いにくい時期だ。その上に、花粉が飛んでいるとなると、マスクをしている人がたくさんいて、風邪と花粉症、いったいどちらなのかと考えてしまう。
そんな時期でも、野鳥の方は冬だから山から下りてきましたとでも言いたげな鳥たちがうちの周りをうろうろしている。最近良く見かけるのはツグミで、ちょっと大きめな体で、畑の中を少ない餌を捜して歩き回っている。小さい方はモズを見かけただろうか。運転中だったので集中できず、きちんと確認はできなかったが、たぶんあの顔はモズだったのだろう。まだ、寒い時期でもあり、そんなに多くの鳥を見ることはない。元々、街中にいるヒヨドリやカラスは相変わらずの厚かましさを見せていて、カラスのゴミあらしはどうにかならないものかと思えてしまう。早朝のゴミ置き場には網が被せられて、カラスの悪戯を防ごうとしているが、全ての人が注意しているわけでもなく、時々きちんと被されていないとあっという間に散らかされてしまう。後始末はどうなるのか、まあ、その周りに住んでいる人たちの問題だから、それぞれの人たちが意識するしかないのだろう。一方では、いつもに比べてゴミの収集が遅れてしまうことによる場合も多く、ゴミを出す時間を調整しなければならないのかとも思える。カラス相手にそんなことに気をつけるのは、なんだか変なことのようだが、見た目の問題としては何とかしなければということなのだろう。せっかくの鳥の話がゴミの話になってしまいそうだから、この辺でやめにする。もう一つ今年初めてお目にかかった野鳥はキジで、ある朝荒地の中の道路を運転していたら、目の前を大きめの鳥が飛んで横切り、何だろうかと目で追いかけた。たまたまこちらから見えるところにとまり、その姿をチラッと見ることができたのだが、それは黒っぽい体に派手な色の頭という具合で、オスのキジだった。そろそろ繁殖の時期なのだろうか、それとも単に縄張りを主張していたのだろうか、詳しいことはわからないが、以前の狸といい、今回のキジといい、都会から離れたところにあることがよくわかる。さて、次はどんな動物に出遭うことやら、楽しみにしている。
去年あたりからだろうか、高速道路の建設が急ピッチになっているように感じる。問題視され、凍結云々が議論されている中で、それまでゆっくりとしていた建設の速度が急に速まっているように感じられるのだ。何となく、そういう気持ちを持ちながら眺めているから、余計にそう感じられるのかも知れないが、支柱しかなかったところにいろんな資材が運ばれ、次々と組み上げられている。
建設の凍結に強く反対している知事の中でも、先頭に立っている人が治めている県では、特にその傾向が強く、既存の道路との結合部分では急ピッチで工事が進められている。今月末にはそのうちの一つが完成する予定で、その知らせが掲げられている。従来の高速道路を繋ぐ形で、交通渋滞を緩和するために計画されたものだが、最近の議論の中では不要論の方が優勢になっていたようだ。しかし、ここまで進めたものだから、というのか、あるいは地元にとって本当に必要なものだから、というのか、とにかくほとんど変化が見られなかった工事現場に急激な変化が起き、あっという間にインターチェンジが完成しようとしている。用地買収などはとっくの昔に終了していて、後はどうやって工事を進めるのかという状態だったのだろうが、予算獲得の問題や不要論の再燃などで遅々として進まずという感じだった。それが、凍結が現実のものになりそうな気配がした途端に、あっという間に進み始めるのだから不思議だ。実際には元々計画通りに進んでいたことなのかも知れないが、あまりに時期を合わせたような形で疑いたくなるのも無理はないと思う。車の運転を頻繁にしている者にとっては、道路の整備は非常に重要なことだと思える。車を利用することのない人たちにとっては、まったく無駄に思えるものも、実際に運転をして渋滞に巻き込まれたり、目的地に直接到達するルートのないことなどがわかったりすると、何とかならないものかという気がしてくる。以前渋滞のひどかったある高速道路も車線の数を増したら、それがかなり解消されたという話を聞く。実際にはその昔計画されたときにその分まで先読みしていたものを、予算などの関係から縮小してしまったという話を聞くと、計画性のある話を潰すのはいかに馬鹿げたことなのかという気がしてくる。しかし、こんなことも車を利用しなければいいのだという意見には対抗しにくいところがある。大量輸送機関をきちんと整備すれば、車の数は簡単に減らせるという論にははっきり言って対抗できないのだ。但し、きちんと整備すれば、というところに注意して欲しい。鉄道などは無駄な路線を廃止する動きが相変わらず進んでいるし、あれば便利などというところに建設される可能性はどんどん少なくなっている。大量であるがために、融通が利かないというべきなのだろうか。まあ、はじめから無駄な移動を避けるべきという話に戻るべきなのかも知れないが。
一部の人を除いて人間は色覚を持っている。いろんな色を識別する能力だが、この色に関しては結構難しい話もあって、ちょっと本を読んだくらいではうまく理解できないことが多い。色彩に関しての研究の両巨頭という意味で引き合いに出されるのは、万有引力の発見で有名なニュートンとかのゲーテという具合に、まったく畑違いの二人である。このことからして、嫌な予感がするというものだ。
彼らが活躍した時代から既に二百年ほど経過しているのに、いまだにこの二人が引き合いに出されるというのは、彼らがそれほどに偉大だったのか、はたまたその後の人々がさほどのものでなかったのか、まあどちらにしてもいい。なにしろ、あの時代にまったく違った方向から人間の色に対する感覚を考えた人がいたということだけは確かだ。それぞれの立場からすれば、ニュートンは物理学的に色というものを理解しようとしたのに対して、ゲーテはどちらかというと今の心理学的な立場に立って理解を進めようとしていたようだ。この辺りの話を論じるにもこちらは詳しくないから、興味のある人はその手の本をどこかで探して欲しいのだが、立場が違うためかその後も結論が出ているというわけではないようだ。はっきり言えばどちらも間違ってはいなかったということなのだろうか。まあそんな話は脇に置いておいて、色というものを考えてみる。たとえば、黄色という色を思い浮かべて欲しい。レモンが黄色に見えるのは、そこに黄色の色素があるからだろうか。小学校の頃の図画工作やその後の美術の時間に絵を描いていたときのことを思い出してみると、レモンを黄色で描こうとしたら、黄色の絵の具を使うか、それとも緑と赤をうまく混ぜ合わせてそれに近い色を作るか、はたまたいろんな色の点を描きながら全体として黄色に見えるような描き方をするか、そんなところだろうか。とにかく純粋に黄色の色素を使って黄色を表現するのが一番簡単なように思えるが、実際にはヒトの色覚には黄色に感じるものはない。赤と青と緑に感じる色覚があり、それぞれの感じ方によって、様々な色を識別しているだけなのだ。だから、上で書いた三つの方法は、ヒトにとって区別ができるものではない。しかし、それぞれの色をその光の波長からきちんと分析すると、黄色の色素からはある波長の光が反射されるのに対して、緑と赤の色素を混ぜたものからは、緑と赤に特有の波長の光が反射される。だから、まったく違ったものとして識別されるわけだ。ところがそれを人間が見ると、同じ色に見える。この辺りが色の識別ということだけを考えても、人間の脳の中で起きている情報処理がそれほど単純なものではないということを示している。元々黄色の絵の具もいろんな色素を混ぜたものかも知れないが、それを見分けることは人間には出来ない。機械にはいとも簡単にできることだが、人間には無理なのである。しかし、色の混ぜ合わせで微妙な色合いを表現することとそれを理解することに関しては、人間の方がはるかに優れているのだろう。そうそう、もう一つ注意しておきたいのは、自分が黄色と見ている色を他の人が同じ黄色と見ているかどうかはわからないということ。色覚は人それぞれ微妙に違っていて、ちょっとした色の混ぜ方の違いで違った色に見えたり、同じ色に見えたりするから、わけがわからなくなる。まあ、人それぞれで片付けるのが一番簡単なようだ。
○○京とか△△宮とか、そういうものが多いところに住んでいると、歴史をひも解いて色んなことを調べたくなる人がいるようだ。古くからあるお寺や神社などにも色んな言い伝えがあったり、そこで起きた歴史上の出来事が伝えられたりして、そういうものが好きな人にはたまらないところと映るらしい。しかし、興味のない者にとっては、単なるお寺や神社であって、特別な意味をもつわけではない。
歴史のことが気になる人たちにとって、こういう場所は特別なのだろうが、一方でそういうところに昔建っていた建物を再建することに対してどんな気持ちが湧くのだろうか。たとえば、奈良の薬師寺には東塔と西塔があって、昔片方が失われてからかなり長い期間、一方だけが立っていた。30年ほど前だろうか再建の話が持ち上がり、寄付を集めて新しい塔が建てられた。建てられるまではそれほど意識していなかったが、いざ建ってみると昔からある塔と新しい塔のコントラストがあまりにも大きく、何とも言えない気持ちが起きてくる。今さらどうにもならないし、他の人たちにとってはそんなことはどうでもいいことなのかも知れないが、たぶん数百年経たないとこの違いはなくなりそうにもないと思える。良いことだったのか、それともそうでなかったのか、そんな見た目で決めることではないのかも知れないが、気になってしまうから仕方がない。これとは別に、昔の都にあった宮殿の一部の建物の再建が行われている。既に門の一つが数年前に再建され、朱色の鮮やかな姿が荒れ地となった宮跡のど真ん中に現れた。これはこれですごい建築物だということが良くわかるのだが、色が鮮やかすぎて興ざめという意見もある。まあ、色んな考えがあるのが良いのかも知れない。最近その傍を歩いていたら、別の建物の再建が進行しているらしく、覆われた区域の外側にJVのサインと参加企業の名前が記されていた。それらはいわゆるゼネコンで、公共事業などで道路や公共の建物などが作られる時には必ず登場する常連であり、最近の公共事業への予算の引き締めで厳しい状況に追い込まれているはずのところばかりだ。この頃この手のジョイントベンチャーをよく目にする。以前ならば地下鉄工事や道路工事の現場に掲げられているものが大部分であったが、最近は上に書いたような半分公共のような場所や国立の施設の中の工事現場だったりする。金の流れがどのようになっているのか定かではないが、たとえば国立施設の場合、それを管轄する省庁がその予算を要求し、執行するはずであるから、一般の公共事業とはちょっと違うように映るのかも知れない。しかし、入口のところが違うにしても、出口は同じゼネコンになっている。こういう状況をどう見るべきなのか、明確な答えはないのだろうが、どうもおかしな感じもするのである。道路工事の予算が緊縮状態になるのに合せて、施設の改築や新築のための予算が増大するというのでは、誤魔化しとも受取れる。どうも、こういうすり替えは得意技の一つであり、すり替えに使われた施設としては普通では実現しないはずの建物の新築や改築ができたのだから、あまり目くじらを立てるものでもないのだろうか。