パンチの独り言

(2003年3月10日〜3月16日)
(盲信、再編、持込、安息、盗っ人、夜更し、愛と脳)



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3月16日(日)−愛と脳

 訃報に接したときというのは、何とも複雑な気持ちになるものだ。亡くなった人の死因を見て、そういえばそんな兆候があっただろうかと考えてみることもあるし、改めてその人に関することを思いだしたりする。でも、何と言っても突然死には驚かされる。何度か接しているが、水泳中の水死など、何故だろうと思ってみても、何ともならない。
 つい先日、また訃報が舞い込んだ。どうして最近は関係者の死亡が多いのだろうかとつい考えたくなってしまうが、ある役職についていた人たちの中で今年度三人もの人たちが亡くなってしまった。以前から体調が悪いと聞いていた人もいるが、あまりにも突然という人もいる。今回の場合は、死因を聞いて、やっぱりと思ってしまった。いつごろからか顔色が悪いのに気がついていたからだ。しかし、あれほど元気で明るい人でも、やっぱり人間はいつかは死ぬものなのだと改めて思う。この人は以前どこかで書いたかも知れないが、愛と脳の関係を本に書いた人だ。脳の中で愛情がどんな形をしているのかとか、愛するという気持ちは脳のどんな活動によるのかとか、そんな話ではない。本人は神経活動の仕組みに興味をもって研究を続けてきた人で、あるところから研究の興味が人間の脳の活動へと移っていった。その過程で、交通事故で意識不明になった友人の子供の話が出てくる。その子は車にはねられて頭を強く打ち意識不明の重体になったが、かなり長い闘病生活の後に、突然意識を回復して普通の生活を送ることができるようになったのだそうだ。闘病生活の間中、家族は皆で意識を取り戻さない子に向って話しかけ、外からの刺激を与え続けていた。彼に言わせれば、そういった愛情のようなものが脳に特別な刺激を与え、それが奇跡を引き起こしたのだというのだ。端折った表現だから、上手く伝わらないのかも知れないが、脳の機能にとっては色んな刺激が大切だということを示そうとしたのではないだろうか。たとえば、何かの仕事をするときも、誰かに認められたいという気持ちがどこかにあり、それが満足されると予期した以上のことができる場合があるという。ここでは、認めるとか評価するということが「愛」という言葉で表現されていて、それが脳の機能を高めるのに役立っているというのだ。目を輝かせながら、この話をしている彼の姿を思い出すが、研究者の中にはその姿を宗教家のように見ていた人もいるようだ。確かに、精神活動と実際の機能を結びつけて表現すると何となく神がかりというか、宗教の教えのような響きが出てくる。そういうことを覚悟しながら、自分の考えを皆に披露するのは大変だったのかもしれないと、今さらながらに思ってしまう。彼のもう一つの功績はイカの人工飼育に成功したことで、イカ自身が排出し、自分自身にとって毒となってしまうアンモニアを水槽から取り除く仕組みを開発した。これによって、長期間の飼育が可能になったが、はたして料理店で使われているかどうかは定かでない。彼のところでいただいたヤリイカの味は格別で、どんな高級料理店のものよりも良かったのは、その仕掛けのお陰かもしれない。

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3月15日(土)−夜更し

 飲みにでかけて夜の街をうろついていると、人間は夜行性の動物だったのかと思えるほど多くの人たちがたむろしている。一部の動物を除いて哺乳類は大部分昼行性のはずなのだが、人間も狩りや農耕に精を出さなくなってから、昼間の活動よりも夜間の活動が盛んになっているのかも知れない。哺乳類も進化の過程で登場した当初は敵から逃れるためにもっぱら夜に活動していたらしいが。
 そんな盛り場の風景だけでなく、いろんなところで真夜中まで活動している人たちを見かける。さすがに地方都市となれば、夜の10時を過ぎても人が行き交うというところは少ないのだが、東京となるといたるところに人があふれているから驚かされる。渋谷や新宿などは昼間の人の数もやたらに多いと思うが、夜になってもその数が減らず、曜日によってはかえって増えているのではないかと思えるほどだ。その中には、制服を着ている高校生や中学生もいるようで、塾の帰りとはとても思えない雰囲気である。彼らにとっては、他に行くところが無いということなのかも知れないが、なぜ自宅という巣に帰らないのかさっぱり理解できない。こういう子供たちはある意味自分のしたいようにしているわけで、自主性の現れと言えなくもないが、だからと言ってその行為が正しいとも思えない。事情を知らずにそういうことを断言するのはおかしいと言う人がいるかも知れないが、はたして誰もが納得するような事情がそういうところにあるのだろうか。最近の傾向を見ていてもっと驚かされるのは、子供を連れて夜の街を歩き回る親達の行動である。これまた事情があるといわれてしまうのかも知れないが、自分たちが夜にしか自由に使える時間がないからと言って、子供を連れ回すというのも不思議なものだ。子供たちも既に慣れてしまったのか、どこかのゲームセンターで親の用事が終わるのを待っている。親にすれば、自分の時間を自分の使いたいように使うのは構わないとでも言うのかも知れないが、子供の時間はどこに行ったのだろう。確かに、待っている間楽しくゲームに興じている様子を見れば、子供達にとっても楽しい時間なのかも知れない。しかし、これが平日の夜中過ぎの風景だったりするわけで、はたして普通の時間に普通に学校へ行き、普通の生活ができるのか、疑わしくなる。自分たちのことだから自分たちの好きなようにするのが当り前という態度で、子供たちを注意している補導員などにもきつい目を向けるという話もあって変な感じだ。大人はこうあるべき、子供はこうあるべき、といった形で型にはめるのはおかしいと思うが、一方で何が良いのかを考えないで好きにするというのもおかしい。少なくともある程度の範囲のパターンがあるわけで、特にこういう親子の行動を見ていると、自由と責任という組合せをつい思い出してしまう。親の自由は、子の自由とは限らないし、親の自由というより身勝手によって、子供に何らかの問題が起きたときに、誰が責任をとるのかは明らかだろう。その段になってじたばたしても始まらないのだ。子供と一緒に過ごす時間をなるべく長くとりたいと、夜中に帰ってから赤ん坊を起こしている親もいるそうだが、これまた何を考えているのかさっぱりわからない。こんな話を聴いていると、どうもこういうものの順序がどこかで崩れてきたのかも知れないと思えてしまう。何をどう修正すべきなのか、生き物としての大切さの順序をどう見るべきなのか、難しいようにも見えるが、実はごく当り前のことをすれば良いのではないか。

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3月14日(金)−盗っ人

 最近、万引きが増えているとテレビの特集が伝えていた。万引きとは、沢山あるものの中から少し引き出すという意味で、間引くが語源とも伝えていたが、はたしてどうなのだろうか、確認はしていない。確かに、万引きと言われるとこちらの受ける印象としては、商品の山の中から一つ二つ引っ張り出して、自分の鞄の中に、といった感じがある。
 暗いイメージがつきまとい、ちょっとした出来心でとか、生活に困ってとか、そんな大人の言い訳もあれば、子供からはどうしても欲しかったとか、皆がやっているからとか、理解しがたいものも聞こえてくる。その一方で精神的抑圧から、つい手が伸びてしまったという話も聞こえてきて、精神的ストレスの発散の形をとるものもあるのかと、驚かされる。以前から、時々テレビでも特集を組んでいて、スーパーマーケットでまるでやらせではないかと思えるほど大胆な犯行に及ぶ主婦の姿がモザイクを入れた形で伝えられたり、警備員に捕まった後の反応の不可解さを伝えているものもあった。いずれも、隠し撮りをしており、さらにモザイクを入れた上で放映されているから、よほどその辺りの事情に詳しい者にしか、どこで起きた事件なのかわからないようだ。それにしても、これほど多くの特集が組まれるということは、かなり多発しているだろうことは想像できる。しかし、今回の特集はそういった形態のものでもなく、もっと奥の深い、万引きというよりも窃盗そのものと捉えるべきものであった。被害に遭っている店として紹介されていたのは、ドラッグストアと書店である。この手の特集によく出てくるスーパーではなかった。なぜなら、そこで紹介された犯行を行う目的は、手に入れた商品を売りさばくことだからだ。スーパーで手に入る商品は生鮮食料品が多く、それほど高価なものも揃えていない。それに対して、ドラッグストアでは化粧品や薬などをはじめとしたかなり高価な商品を扱っているし、書店に置いてある本にしても写真集などはかなり高価である。これらを商品をごっそり盗み出して、それをあるルートに乗せることで売りさばこうという犯行が、最近多発しているのだそうだ。これらの店では監視カメラが回っているはずだから、そういう犯行は難しいのではないかという判断はどうも甘いらしい。ちゃんと死角を見つけて、そこで犯行に及ぶか、そこまで商品を運んで別の鞄に入れるという形をとるというのだ。だから、一人での犯行よりも複数での犯行が多い。その時伝えていた窃盗団のような組織は、中国人の集団で、北関東から東北地方にかけて数千万円の被害を及ぼしたとのことである。問題はその後で、誰かがその盗品を買い取っているわけだ。これとは別に子供が関与している例もあり、一概にプロだけの犯行とは言えないようだ。子供でも、書店で本を盗み、それを古本屋に売れば現金を手に入れることができる。それを使ってゲームを買うなどしているのかも知れない。紹介されていたのは、7歳とか9歳だったから、恐ろしい話である。こういうモラルがどこかで歪曲されてしまったのか、忘れ去られてしまったのか、まったくどうしようもない世の中になったものだ。

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3月13日(木)−安息

 朝、新聞を開くときに一番に見るのはどこだろうか。大体の人が一面トップの見出しだろう。開くときに何となく見えてしまうし、やはり重要な話題と新聞社が判断しているわけだから、無視するわけにもいかない。でも、時には内容を見なくてもと思えるものもあり、見出しだけで次の記事に目を移すということもある。変な言い方だが、新鮮味に欠けるといった話題が多いのも気になるところだ。
 では、その次にどこへ行くのだろう。一面をじっくりと眺めてみて、たとえばある新聞では、長年続いている「天声人語」を読もうという人もいるだろう。最近は内容的にも、文章的にも、一段上に立っているという印象はなく、何だか月並みな話題と意見が並んでいるといった感想をよく聞く。それはさておき、次には二面三面といった政治の話題に近いものに移る人もいれば、サッと最後の方に行き、事件などを扱った社会面に移る人もいるだろう。この辺りは人それぞれのようで、どのやり方が本来の読み方であるかなどといった下らない議論などは入り込むところはない。自分の場合を考えてみると、大体の場合社会面に行き、その下の訃報の欄を見ることにしている。いつ頃からこういう癖がついたのかわからないが、何となくそれを確かめてから、という気持ちになっているのだと思う。独り言でも何度も取り上げているが、そろそろ自分の年齢がそれなりになってきて、以前世話になった人やら昔からの知り合いが登場する機会が多くなってきた。一般に知られるほどでもない人の場合、結局どこかのネットワークから情報が入ってくることになるが、そういう網から洩れていても、ある程度有名な人であれば訃報欄に載ることになるから助かる。先日の訃報はネットの方から入ってきて、たまたまついでの用事もあったので、通夜に参列した。それほど深い付き合いでもなかったが、ここ数年体調を崩しているという話を聞いていたから、訃報に接してもそれほどの驚きはなかった。どちらかというと、通夜、告別式の会場の方に驚いた。ある教会が会場になっていたからである。通常、葬式はどこかの斎場やら施設やらで行われ、以前のように自宅でやることはほとんど無くなった。近所付き合いが希薄になり、葬式を取り仕切る会社が増えて、会場までも持つようになったから、こんなことになっているのだが、それでも教会でやることはない。キリスト教の信者でないかぎり、教会を使うことはないはずなのだ。驚いた理由は、亡くなった人が信者だという話を聞いたことがなかったからで、別の友人で洗礼名を使っている人を知っているだけに、この人の場合違うのかなと思いながら出かけた。神父の紹介でわかったことは、本人の希望で死の一週間前に洗礼を受けたということだった。人間は死に直面したときに様々な反応を示すといわれる。死を恐れる人、死に立ち向かう人、死を迎える人、色々である。でも、そこで助けが必要になったときに、宗教は特別の意味をもつのだろう。その時どんな宗教に助けを求めるのかは人それぞれだろうし、どこに決めるかに特別な意味はないのかも知れない。自分のためかも知れないし、残していく家族のためなのかも知れない。いずれにしても、それが精神的な安らぎをもたらしてくれるのだろう。

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3月12日(水)−持込

 このごろ車内放送で危険物の持ち込みついての注意を流している。以前からそういう規定があることを知っている者としては、はて今頃なんだろうかと思えた。しかし最近あった事件を思い出すと、たぶんあれだろうなと思い当たるものがある。隣の国で起きた地下鉄火災事件である。火災発生後の対処が悪かったとはいえ、そのきっかけが乗客によるものだからその危険度を減らそうとする意図があるのだろう。
 いくら乗客によって引き起こされたとはいえ、あのような狂気の沙汰と一緒に扱われるのもかなわないが、元々危険物の公共交通機関への持ち込みは厳しく規制されている。にもかかわらず、それは利用者の良識に頼ったものであり、事前の検査などは飛行機などの一部のものを除いて行われていない。地下鉄の放火事件もまるで対岸の火事のように感じた人がいるのかもしれないが、一方でずっと以前都内で起きたバスの放火事件のことを思い出した人もいるだろう。放火に使われる引火性の強い物質の車内への持ち込みは当然規制の対象だが、あの事件の後も別にこれといって新しい措置がとられたわけでもない。自分自身の無事を第一に考えるはずだから、そういうことをするはずもなく、試みることもない、という信念の下に、安全を疑うこともないのかもしれない。しかし、こんな事件が起きてみると、そんな信念など何の役にも立たないことがわかってくる。一人で死ぬのが嫌で、他人を巻き込みたかったなどという狂人が、焼身自殺を図れば、あのような結果を生み出してしまうのだ。それだけでなく、本人が自分の意図とは異なり、命を救われてしまったことは、さらにその状況を異様なものとしてしまった。何も事情がわからず、ただ煙に巻かれて死んでいった者にとっては、こんなに身勝手な行為など他にはないだろう。それにしても、危険物の持ち込みなどに関して、何か新たな規制をする必要があるのだろうか。規制自体は今のままで、取締りのやり方などにもっと工夫をすべきなのだろうか。空港での手荷物検査の煩雑さを見る限り、列車などのさらに大量の人を輸送する手段に対して同じような取締りをするのは明らかに不可能である。さらに、日常的に使われているバス、地下鉄などの近距離の交通機関となれば、そんなことを提案することさえ不可能だ。結局のところ、狂気の沙汰を未然に防ぐことは非常に難しいから、そういった事故が起きたときにどう対処するのかを考えるしかないのかもしれない。そういう意味で、全国の地下鉄の設備の再点検が行われたことや新たな設備の導入や関係者の再認識が行われることが重要になるのかも知れない。

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3月11日(火)−再編

 日本ではもっぱら首切りの時に使われるリストラも元の言葉の意味を考えると、ちょっと違っているような感じがする。リストラとは、英語のrestructuringを日本人独特の感覚で短縮化したもので、sexual harassmentをセクハラというのと同じである。元々の意味は再構成とか、改造とかいう意味で、最近は不採算部門の切り捨てにも使われるから、そこらあたりに起源があるのかも知れない。
 いずれにしても、従来からあった形を変えることによって、新しい展開を目指す場合に使われる言葉なのであって、一人の人間の職を失わせる意味で使うのはどうかと思う。再構成とか、改造とかいうので、もう既に忘れかけているが最近の省庁再編はまさにその例なのだと思う。但し、実際に結果として出来上がったものを見るとうわべだけ取りつくろっただけで、何かしら新しい展開が望めそうにもない。少なくともここ数年の間に何かが起こるとは思えず、単にそれぞれの省庁にあったものを新しい名前の組織に移動させただけで、そこから新しい組合せがでるためにもまだ数年が必要だと思える。下手をしたら何も出てこないのかも知れないが、それを言っては省庁再編を推進した人たちに失礼になるだろう。少なくとも後数年は待ってみても、別に遅くはない。新しいことが起きればそれで良いのだし、そうでなければ「やっぱり」という一言で済ませば良い。こういった再編やら、新しい組織の立ち上げにおいて、重要と思われることの一つに、その構成のさせ方がある。新しい組織において、その母体となるものが存在するかどうかで、その後の展開が大きく変わることがあるからだ。母体がしっかりしているほど、実際には新しくしたことによる効果は小さくなり、ほとんどの場合以前と変わらぬ姿が現れることになる。これは、組織としての強さとさらにその後の変革に対する抵抗の強さが加わるために、何の変化も望めないものになったりするからだ。日本の場合、こういう形がよく見受けられ、結局再編成などが無駄骨に終わることが多い。それでもたまに小さな組織で、母体がはっきりせず、それぞれの構成員の協力でうまく改革が進むことがある。これは同じ利害関係にあるものが数的に分散したときに起きるらしく、結局多数決による民主主義というものに頼っているかぎり、ここのバランスが改革の成否を決めているということになる。ただ漫然と事を進めるためには、このバランスが崩れていたほうが簡単で、いろんなことがすんなりと決まるから表面上は上手く進んでいるように思える。しかし、結局は何も変わらない結果を生むだけで、再編した意味がない。新たな組織においては、こういう組合せが最も重要な点で、そのことに気を配らなかったために駄目になったものが非常に多い。但し、良い組合せであっても、新しい組織はその良さが継続するのがせいぜい10年程度であることにも注意しなければならない。新しいがゆえに陳腐にもなりやすく、知らない間にお互いに刺激することを忘れ、弛んでしまうからだろうか。それだけの力を注がなければならないから、再編も大変なもののはずなのであり、ただ、組合せを変えれば良いというものではない。

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3月10日(月)−盲信

 もう何度も繰り返し書いてきたことだから聞き飽きているのかも知れない。ネットが普及するとともに情報が氾濫し、それに振り回される人たちが出てきたり、間違った情報を故意に流すことによって利益を得ようとする人が出てきたりしているようだ。しかし、良く考えてみると、以前から情報に対価を支払い、それによって確実性の高いものだけを手に入れようとしていた人はほとんどいなかった。今突然、情報料が、という話をするのも何だか変な気がするものだ。
 情報を手に入れる方法として、これまで最も良く使われていたのは、新聞であり、テレビなどの放送であろう。これらは購入や受信をするためにお金を必要としたから、いかにもそれが情報料のように思われていたのかも知れないが、実際には今のネットを流れる情報とあまり違いがないように思う。ネットにアクセスすることは情報を得るために必要であり、それにある程度の料金が課せられている場合が多いから、それを考えれば同じ状態であると言えるのではないだろうか。では、なぜ今になって、確実な情報を手に入れるためにはそれなりの手だてが必要であると言われるようになったのだろうか。一つには、ネットの情報網では匿名性が強調されたがために、情報源が明確にはならないことが挙げられる。これは重要なことで正確な情報と故意に流された間違った情報の区別がつかないし、単なる風説との区別もつかない。しかし、一方では以前の情報網でも、社会的に責任があるという言い方でいかにも信用ができるものとされていた新聞、テレビにしても、かなり偏った報道が頻繁になされていて、社会的責任だけでは不十分であることは明らかであるし、こんな時代になってくるとその信用性の高さを利用する輩まで出てくる。そういう連中に利用されるほうが悪いとも言えるが、結局はそれもこれもちゃんと判断できるような自分を作ることの方が大切なようだ。そんなことを思いながらテレビでの北朝鮮の様子を見ていたら、米国、日本、韓国に対する見解を述べている北朝鮮国民が映されていたが、これがまるで大戦中の日本国民の話として伝えられているものとそっくりに見えた。自分たちの優位性を信じ、相手の無分別を侮蔑する姿が映されていた。情報が統制され、ある決まった形で流されるようになれば、それを受けた人々の多くはその形に合う思考をするようになる。そんなことが今でも行われているからなのか、何となく当時の日本の状況と重ね合わせて、どうなのだろうかと考えてしまった。情報操作によってもどうにもならないところはあるのだろうが、しかしある程度の洗脳ができることは戦時中の日本やドイツの様子を聞いてみればよくわかる。それと今のネットでの情報氾濫が同じものとは思わないが、同じところに根っこがあるような気がしてならない。

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