このところドライブばかりしている。いつもの経路だから、こちらは慣れたもので、それほど気を遣わなくても済むから、片道2時間でもさほど苦にならない。そういう話を人にすると、大変ではないかとよく聞かれるが、本人はそれくらいの運転なら気にならないので、そんな返答をする。はたしてそれで納得してもらえたのか、確認したことはないのだが。
同じ経路でも、天候が変わると何となく雰囲気が違う。単に路面状態が変わるから運転の仕方を変えなければならないというだけでなく、周囲の車に対する気の配り方も変わるからだ。雨や雪になったり、気温が下がっていて路面が凍結しそうなときには、特に自分自身の運転だけでなく、前後左右の車の動向にも気を配る。時々とんでもない行動に出る人がいるからだ。本人はいつものように安全運転というつもりなのかも知れないが、速度が出ていないからといっても、ブレーキの踏み方を誤れば車は制御不能に陥る。自分自身も雨で路面が濡れているときに横滑りをしてヒヤッとしたことがある。いつもと同じ調子ということが油断を招き、場合によっては対処を誤ることで大事故に繋がることもあるから要注意だ。一方、天候とは別の要素も運転には影響を与える。たとえばここ数日のように連休となれば、休日運転専門のドライバーが車を走らせる。どんな曜日に車を走らせるかによって、運転の上手下手やマナーの良し悪しが決まるわけではないが、どうも休日専門の人の運転は危ないことが多い。周囲への気の配り方や、道そのものへの慣れがないことなどから、いろんな危なっかしい運転が表に出る。たぶん一番怖いのは、観光地に向う途中で道順がわからなくなり、突然進路変更や右左折をするような人である。運転している本人は道を探すのに必死になっているから、周囲に対する注意はほとんどない状態であろうし、焦りから運転の手順も狂うことがあるのだろう。しかし、こんなとき、車を道路脇に寄せて、じっくり地図を確認するくらいの余裕を持って欲しい。たとえそうしたとしても、所要時間はほとんど変わらないだろうし、安全性という面からすれば、その方が良いに決まっている。しかし、多くの場合、危ない運転を繰り返している人が多いようだ。面倒だと思うのか、大丈夫とたかをくくっているのか、いずれにしても自分だけの問題ではないということに気がついて欲しい。最近は、カーナビなるものを搭載している車が多くなってきたから、こういった問題は少なくなっているのだろう。それでも、そんな光景を時々見かけるので、まだまだこの手の問題が解決したとは言えない状態である。車の運転は集中することが大切で、そんな観点から携帯電話の使用も控えるように言われているが、相変わらず減らないようだ。以前からあるタバコを吸いながらの運転も、実際には集中力を欠く場面があるから、こちらの方も注意を促して欲しいと思ったりするが、どういうわけかこちらに関しては何も聞こえてこない。もっと驚かされるのは、先ほどのカーナビで、道路案内として使わないときにテレビとして使っている人がいることだ。同乗者がいるならまだ判るのだが、運転者一人だけなのにテレビをつけているというのはなぜだろう。いくら、ながら云々が流行っているとは言っても、運転とテレビが両立するとはとても思えないのだが。
アリやミツバチなどのことを社会性昆虫と呼んだりする。一つの巣が一つの社会を形成し、その中で厳格な役割分担をすることで、巣の繁栄を目指すというものである。このために、卵を産むことのできる女王アリや女王バチは巣の中にたった一匹で、働きアリや働きバチは同じメスでありながら、生殖活動に参加することなく、子育てなどにあたる。
この形式は生き物が自分を中心として生きているはずであるという考えからは著しくずれたものに見える。自分を中心にする考えは利己的と表現され、他の仲間のために献身的に働くことを利他的と表現する。誰の「利」となるかで、区別しているわけで、己の利となれば利己的であり、他の利となれば利他的というわけだ。アリやハチなどの社会性昆虫では、利他的な行動はごく当り前のように見えるが、ヒトやサルなどのレベルまで来ると利他的なものを見つけるのが難しくなるようだ。まあ、誰でも自分が一番可愛いはずだから、アリやハチのように献身的に他につくすなどということは考えられない。しかし、ちょっとした一面では、利他的な行動が見られることもあるようだ。先日読んだチンパンジーの話でも、そういう行動が紹介されており、精神活動が非常に高いヒトだけの行動と思われるものまで、チンパンジーが行うというので驚きだと書いてあった。そういう行動の理由を本人(この本の著者はチンパンジーの数をヒトと同じようにかぞえる)に聞いたわけではないから、はっきりしたことは判らないが、まあそんな行動もあるのだということなのだろう。一見、他のもののためにしているように見える行動も、その後の経過を辿ると意外に自分自身のためと思われることがある。うわべだけで捉えていると気がつかないのだが、その行動をすることによって、自分が得られるであろう成果を計算してのこと、という場合もあるからだ。そんな見方をすると利他的な行動も、根元のところでは利己的な動機によるものであり、そんなにたいそうに考える必要がないことに気がつく。喩えとしてどうかとも思うが、一時期話題になったパラサイトシングルと呼ばれる人々にもそんな面がある。かなりの年齢に達しても、育った家から独立することもなく、親と同居したままの独身生活を送るというものである。生活費が少なくて済むとか、あかの他人と暮らすよりも気楽だとか、いろんな事情があるらしく、それぞれに利点を主張していた。ただ、その中にはびっくりさせられるものもあって、特に驚いたのは母親の娘に対する言葉だった。自分は、嫁に来て、姑の世話などが大変で苦労したから、娘は別に無理して嫁に行くこともない。そうすれば、姑の世話で苦労することもないし、旦那の我儘を聞く必要もない。だから、娘は家にいればいいのだ、という主張だ。これは一見娘のことを気遣っての発言のように見える。しかし、娘の方からみると、母親達と暮らしている期間は良いが、彼らが他界した後に残されるのは自分一人である。母親は苦労したかも知れないが、娘という身内を次の世代として残し、一緒に暮らすことができた。しかし、娘は嫁に行かなかったので、そういう機会も与えられずに終わってしまうのである。こんな考え方をすると、この母親の言動にも利己主義が見えてくるのではないだろうか。
ある大学の入試で、高校生などに対する読書の実態調査の結果が示され、それに関する意見を述べる論述試験が実施されていた。調査の結果は容易に予想できるもので、ほとんどの生徒がほとんどかまったく本を読んでおらず、若年層の読書離れが進んでいることを如実に示すものだった。一方で、漫画やコミックなどといったものはそれに比べるとよく読まれており、それらの違いが際立つものとなっていたようだ。
どの程度の数字が出ていたのかはっきりとは覚えていないが、たぶん年間に読む本が数冊という平均値が出ていたようだ。月に一冊も読まないということは、本を読む時間を習慣的に持っているとはとても言えない状況である。だから読書離れが深刻な問題になっているとその調査は訴えているのだろうし、これを問題として作成した人はその深刻さを何らかの形で受験生に伝えるとともに、これらの問題を同世代の人たちがどんな捉え方をし、問題解決の手段として何を提言するのかを確かめたかったのではないだろうか。そういうことを問題視する人はおそらく自分が同じ年代だったときに、本の虫とまではいかないにしろ、かなりの数の本を読んだのではなかろうか。そういう人たちからすれば、若年層の読書嫌いは深刻な問題として見えてくるのだろう。しかし、自分のことを考えてみると、とてもそんなふうには捉えられない。実際に思い出してみると、当時は読書感想文なるものが宿題として出されることが少なかったせいもあり、ほとんど本を読まなくても時間は自然と過ぎていった。なにしろ、中学の時に読んだ本は、読書感想文の作成のために無理をして読んだ一冊に過ぎないし、高校の時も、大体同じ理由で読んだ一冊しか思い出せない。小学校の頃は少年少女文庫のようなものを好んで読んでいたが、中学に入るとそういうものに対する興味がパタッと無くなった。本を読まなくても日々の生活には困らないのである。確かに、読書というのは趣味の範疇に入るものだし、自分が何かを欲するということでも出てこない限り、無理をしてまで行うものではないだろう。そんな調子でその後もあまり本を読まない時期が長く続いたが、10年ほど前から仕事上の必要性も出てきて、かなり読むようになった。それでも月に5冊前後のものだが、年間に一冊読むかどうかという状況に比べれば、格段の違いがある。必要に迫られて読んでいる部分もあったから、読み方も楽しむというよりは、批判的な目で見てとか、書き方のスタイルなどを気にしている。また、読む対象としては、夏目漱石や森鴎外などといった昔の良い作品よりは、今書かれている新書や小説などの作品を選んでいる。だから、内容的に貧弱なものも多いし、書き方が杜撰なものも多い。そういう作品を批判することが仕事ではないから、読んでみてガックリというのが精一杯の反応だが、それにしてもどうにもならないものが多過ぎる。外国の小説の翻訳にしても同様で、せっかく話題の作品と言われても、バランスの悪い翻訳を目にすると落胆してしまう。要は、原文の意味を汲み取る力よりも、それを良い日本語で表現する力が足りないのだと思う。そんなことから、読書離れの責任を読む側にだけ押し付けないで、読ませる側にもそれなりの責任があるのだということにも気がついて欲しいと思う。これは単に文章を書く人だけでなく、彼らに的確な助言を与えたり、良い企画を考えたりする編集者にも言えることなのではないか。読んで楽しいものが出てくれば、それを楽しみたいと思う人が必ず増えてくるはずなのだから。
先日、東京駅の東海道新幹線のホームで列車を待っていたときのことである。前の列車が出発して、いざ自分の待っている列車が入線というときに、急にアナウンスが入った。向いのホームで何かあったらしい。詳しいことは知らされず、少しの時間待たされていた。徐々に状況は詳しく報告されたが、中々はっきりしない。じりじりと待たされるのはかなわないものだ。
さて、最終的にどんなことが起きていたのか、それから数分して情報がもたらされた。子供がホームから落ちたというのだ。以前のホームは柵もなく、ちょっとふらつくと線路に落ちてしまうというので、危険なものだったが、最近は乗車口のところを除いて、柵を設けてあるのでかなり安全になった。これは元々視覚障害者の人々が点字ブロックの位置を間違えて、ホームの端に寄りすぎて落ちてしまう事故が何度か起きたためになされた対策で、障害者だけでなく色んな人にとってありがたいものだと思う。ところが、通過する新幹線のある駅のように乗車する直前にドアが開くという形の柵ではなく、乗車口のところはポッカリと開いている柵だから、そこから落ちる可能性はゼロにはできない。だから、こんな落下事故が起きるのだが、それが子供のこととなれば、当然親はどうしていたのかということになる。列の後ろに並んでいた老婦人にそんなことを話しかけたら、まったくどうしたものかという話題の後に、やっぱり戦後教育が間違っていたのだと総括された。一瞬、それに関わっていたのはあなたの世代ではないかと、言い返そうかと思ったが、無駄なことなのでやめた。確かに、戦後教育は、戦前の教育と違った形で進められ、色々と悪いところはあったのだろうが、それとは逆に良いところもたくさんあるはずである。軍国主義を小さい頃から教え込まれたことに対する反動で、自由主義とか民主主義とかいうものにこだわる形での教育に変化したのだろうが、その方向は必ずしも正しかったとは言い難い。とはいえ、それだけで現在の自由と責任の結びつきが希薄になった考え方が世の中に蔓延ったと言うのは、あまりの責任転嫁なのではないか。教育は学校でするものと決めつけた人々の責任をどこへ放り出してしまったのだろうか。自分たちは悪くない、教育体制が悪いのだというのなら、その体制に対して何もしなかった自分たちの責任はどうしたのだろうか。箸の持ち方まで学校で教えろという声を聞いたとき、あまりのことに呆れてしまったが、一事が万事この調子だったのではないだろうか。戦後教育の欠陥を指摘するなら、それを受けた人々よりもその人たちの親こそがその時に欠陥を指摘しなかった責任を感じるべきではないかと思う。ただ、この老婦人の言葉から判るように、この世代の人々は何でも人任せという印象を受けることが多い。確かに、激動の時代だったから、自分で責任を持ち、色んなことに取り組むのは難しかっただろう。しかし、そういう事情があったとしても、それから数十年も経過してもなお、他のものに責任を転嫁するという姿勢が変わっていないことには、ちょっとがっかりした。家庭で教えるべきことをはっきりと自覚できない人々に学校教育を批判する資格はないと思う。
人に読んでもらう文章はあまり私的なものに使いたくないものである。それも、連日となると読む方もかなわないだろうから、はてさて、どうしたものかと悩むところだが、他に話題も思いつかないし、今日までということで、許していただこう。ただ、昨日の話題に対して、何か反応があったのかも知れないが、そちらを読む前にこれを書いていることを一言断っておく。
一昨日、昨日と母の通夜、告別式が行われた。どこでどう知りあったのか、まったく見知らぬ人たちが驚くほど沢山参列していた。まあ、昔からいろんな会に顔を出し、いろんな人と話をしてきた人だから、何となくわからないでもないが、それにしても少し多すぎる気もした。趣味で続けていたものに関わりのある人たちのグループが三つ四つ、中でも興味深いのは子供たちの通っていた中学校のPTAの会である。子供の方の同窓会は学校単位のものはもう開かれなくなってから30年くらい経過するのに、親の会の方は40周年を迎えたとしていたとのこと。この会でいろんなところへ旅行するのが楽しみだったらしく、活動の中心になって毎年旅行の企画をしていたようだ。病に倒れたときだけはそれができずにすごく寂しそうにしていたが、少し回復してくるとすぐにどこへ行こうかと考えていた。この他にもあれやこれや、よくもまあ続けてきたものだが、やはりここ数年は数を制限していた。元気なときでさえかなり無理をしていただろうに、体力が落ちてからは無茶というしかないことになるからだ。自分にとって大切な楽しみを続けていくために、幾つかの楽しみに関しては少し脇に置いておくという気になったのだろう。ただ、脇に置くだけであって、どこかに捨ててしまうわけではない。もっと元気になったら、また参加しようという気でいたのだと思う。もう一つ興味深かったのは、自分たち夫婦が仲人をした夫婦の会のようなものを開かせようとしていたことだ。全部で40組くらいになるのだろうか、その中のある人に頼んで近く祝いの会を開いてもらおうとしていた。なにしろ子供たちの方は頼りないので、何も祝ってくれないから別口を何とかしようとしていたようだ。まあ、そう言われたら何も言い返すことができないが、賑やかなものが好きだっただけに、なんでもそういう形にしたかったようだ。ちょっと間に合わなかったが、今回も多くの夫婦が参列していた。なにしろ仲人をした夫婦で別れたのは一組もないというのが自慢の一つで、つい先日ある夫婦の男の方が亡くなってしまったので、それを残念がっていたのではなかろうか。そんなこんなで人が沢山集まることが好きな人だったから、葬儀も盛大な形にし、大勢の人に見送られながら旅立つことができたことには、本人も喜んでいると思う。
独り言というか、名も知れぬ人が書く文章には、個人的なことは書くべきではないと思うし、そのようにしてきた。だれが書いたのかわからない文章を読んで、どんな感想をもつのか興味があるし、名乗らないことが良い面を持つこともあるからだ。個人的なことを書くことで、正体が知れてしまったのでは、こういう面白味が無くなってしまう。しかし、今回は、失礼して、個人的なことを書くことにしよう。
一昨日、母が亡くなった。4年前に心臓疾患で、死の淵に立ってから、じっくりと回復してきて、ここ一年ほどはかなり精力的に動き回っていた。以前よりは活動の割合は低くなったとはいえ、二度目の人生を楽しむがごとく、毎日毎日、その時その瞬間を大切にするように生きてきたのだと思う。色んなことに興味をもち、色んな友人とのつきあいを続け、色んな人生を見てきたのだろうが、自分の人生を楽しむだけでなく、周囲の人々の喜びや楽しみを見ることがとても好きな人だった。まあ、一度失った命だから、それをどう使うのかも母の自由だったのだろうが、大病をする以前とほぼ変わらぬ調子で、相変わらず自分に関係する人たちのことを思いながら、日々の生活を送っていたようだ。あきれるほど多くの文化活動に参加し、いろんな人と交流があったようで、通夜にも多くの人が参列してくれた。小さい頃から母について回っていたので、そういう人たちの一部とは面識もあり、突然の死を悼む人たちが多かった。何しろ倒れた当日の朝までは元気にしていたらしく、前日に話をした人、電話をした人、一緒に出かけた人などが次から次へとやってきていた。確かに、こういう状況を見れば、無理をしていたと考えることもできるのだろう。しかし、4年前にほとんど死にかけたということから言えば、よくこれだけ回復したものだと思うし、よく頑張ったとも思う。やはり人生で大切なことは、自分がどれだけ楽しめたのかということで、そういう意味では、その点に関して満足していたのではないだろうか。以前、あるところに、父の思い出という文章を書いた。当然生存しているから、おかしな話で、あえて、早すぎるという言葉を付けて書くことにした。今回、母を失って、どんな思い出があったのだろうかと考えてみるが、多すぎてどうにもならない。まあ、また徐々にまとめていくことになるのだろう。
車の運転をしていると、道路の舗装の状況の変化に応じて、いろんな音が聞こえてくるのをご存知だろうか。以前はそういったことはなかったのだが、いつの頃かいろんな音が聞こえるようになった。舗装の表面にある処理を施すことで、タイヤとの摩擦の具合を変化させ、それにより音を多くしたり、音程を変化させているようだ。
はじめにこのことに気がつかされたのは、たぶん中央線の処理だったのではないだろうか。センターラインははみ出し禁止かどうかで、黄色だったり、白色だったり、色が違っているが、はみ出し禁止の場合に限って、つまり黄色の場合に限って、それを踏むとガーというような音がするのである。最近は、それをさらに変化させ、直径1センチほどの平たい突起を付ける形で、ガタガタガタという音がするようになっている。これは、はみ出し禁止の中央線や進路変更禁止の黄色い線の場合だけでなく、路肩や中央分離帯に近い方の線に同じような処理が施してあり、極端に端に逸れるとそれを知らせるような仕掛けになっている。目による注意に関しては、どうしても運転そのものに集中している場合があるし、一方で居眠りのような形で蛇行する場合には視覚に訴えるような形の警告はあまり役立たないのだろう。ここでは聴覚に訴える形で、警告を発しているのだと思う。元々、進路のぶらつきを警告するために始められた仕掛けだが、別にタイヤを傷めるわけでもなく、意外に効果的であったためか、他の用途も出てきているようだ。急カーブやT字路など、減速したほうが良いところでは同じように処理した線が何本も進行方向に直角に引かれていて、それを踏んでいく形になるので、少し時間間隔をもったガタガタガタといった警告音が車内に響くことになる。これによって、減速を促そうというものなのだろう。しかし、単にガタガタというだけでは、効果が得られなかったのか、いろんな変化をつけたものが登場している。ガタガタガタのリズムに変化をつけるわけである。あるところでは、それが三三七拍子のリズムを打つことになるし、あるところでは、別の手拍子のようなリズムを打っているらしい。ご当地ソングじゃあるまいに、と思えたのは、徳島のある自動車道にあるもので、なんと阿波踊りのリズムを刻んでいるのだそうだ。テレビで紹介していたが、ちょっと聴いたくらいでは、それとはわからない感じだった。建設に携わった人はかなり真剣に取り組んだようだが、実際には分かりにくいものに仕上がってしまったようだ。確かに、阿波踊りのリズムと言われても、すぐに思いつかないくらいだから、何も先入観なしに聴いてそれと分かるのは難しいに違いない。でも、それはそれとして、中々楽しい遊びの一種なのではないだろうか。