パンチの独り言

(2003年3月24日〜3月30日)
(再現、坩堝、肴、老婆心、流浪、開花、制限)



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3月30日(日)−制限

 祝いの席、節目の会、いろんな場で遭遇するもので、その良し悪しによって席や会の雰囲気が決まってしまうものがある。来賓の挨拶とか、祝いの言葉とか、訓辞とか、まあそういった皆に聞かせるお話のことだ。式次第のようなものがある場合が多く、当然話をする時間も限られているはずなのだが、それを意に介さぬ人がいたりすると、そこにいる人々すべてが迷惑を受ける。
 話の良し悪しは、一つにはその内容によるところが大きいのだが、どんなに面白いお話でも挨拶の一つとして披露された場合には、その時間も大きな要因の一つとなる。全体のバランスを考えて企画された時間の中で、いかに面白く、ためになる話をするか、ということが話し手に課せられた課題であり、それが両立しなければ良いお話とは言えなくなってしまう。それにしても、結婚式など毎度のことながら、ひどい挨拶をする人たちがいる。実際には企画する側の問題でもあるのだが、選ばないとどうにもならないこともあるのだろう、苦渋の選択と言うべきなのかもしれない。手短に、ピシャリと核心を突いた発言をすれば、聞いている方にもきちんと印象に残るし、何より他の愉しみに使う時間が残る。皆がペチャクチャ喋っている中での挨拶をするくらい嫌なものはないわけだから、そうならないようにするための工夫を話し手はするべきだろう。挨拶は印象に残さなければならないわけではないが、情報を伝えるものに関しては時間と内容は共に非常に重要なものとなる。これはたとえば会社での状況報告とか、他の会社への製品紹介などといったいわゆるプレゼンと呼ばれるもののことで、その場での発表の良し悪しが自分の評価や会社の評価などを決めるからだ。限られた時間の中で、伝えるべき事柄を分かり易く、正確に伝えるためには、かなりの技術が必要となる。時間を守るために必要な要素は、伝える情報の質を高めつつ、その量を多くしないことで、ただ漫然と話し続けることは禁物である。上手く整理された発表は聞いているだけで分かった気がするし、そうなれば聞き手もその内容に関して何を質問したいかがはっきりする。挨拶と違って、発表はその後の質問が非常に重要な役割を果たすから、そのための時間をちゃんと残しておくことも肝心である。話すというコミュニケーションでは、双方向の情報交換が重要であり、一方的な情報提供だけでは十分な理解を得ることはできない。その意味で、質疑応答という場は話し手の伝えたいことを明確化するだけでなく、聞き手の知りたいことをはっきりさせる役目をもつ。基本的な情報が話し手の話によっていくら正確に伝えられたとしても、それは一般的なものであり、誰にでも通用する範囲にとどまっている。これを聞き手一人ひとりの要求にみあうものにするためには、聞き手からの質問が重要になるわけだ。質疑応答はそれほど重要な場であるのに、それを避けようとする人々がいる。なるべく長い時間話して、質問時間を無くそうと意図的な行動に出るのだ。多くの場合、内容に自信がないとか、突っ込まれたくないとか、まあそんなことが理由なのだろうが、そういうのを見ると何故話をする必要があるのだろうかと思えてしまう。内容をきちんと伝えられない印象だけが相手に伝わる場合があるからだ。それに自信の無さは余計な誤解を生むかもしれない。そんなことを思いながら首相の記者発表の記事を見ると、彼の能力の程度がそこに現れていることがわかってくる。発表の半分を一方的な発言に使うはずが、ほとんどすべてを費やしてしまう。記者からの質問の多くは時間が足りずに消化されず、宙に浮いてしまうわけだ。そんな人が話し合いの大切さを力説しているのを見ていると、それが本心からではないと思えてしまうのだが。

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3月29日(土)−開花

 急に暖かくなり、春本番とでも言えそうな雰囲気になってきた。花粉の方は相変わらず飛んでいるようだが、それ以外にもたくさんの花の便りが飛び交っているようだ。桜の開花は一時の予想よりは少し遅れてしまったようだが、それでも咲き始めた途端にこの気温となれば、みんな慌ててパッと開いてしまいそうだ。
 昨日は虫歯の治療で歯医者に行った。今回の治療はこれで終了となり、次は定期検診とでも言うのだろうか、たぶん歯垢や歯石の除去に行くことになりそうだ。中学の同級生が開業しているところへ行っているのだが、久しぶりにその中学の付近をドライブしてみた。昔から水道道と呼ばれている桜並木は一気にピンク色に染まっており、その他の道にも白木蓮などが咲き競っていた。そんな風景を見るといかにも春本番といった風情で、いよいよ新しい年の始まりといった感じがする。新しい年の始まりというのは、普通は正月のことを指すのだが、日本ではいろんなことの変わり目が4月からとなっているから、どうしてもこちらの方を始まりと思う人も多いのではないだろうか。入学、進学、就職などの大部分は4月にあるし、国や地方自治体の会計年度は4月から始まる。会社に関しても、3月末に決算というところが一番多く、今年の場合は3月31日の時点で株を保有しているかどうかが、配当金などの権利を得るための条件になる。いずれにしても、この時期はいろんなことでバタバタしていて、心にも余裕がなくなる人も多いのだろうが、そういうときに足元や頭上に咲いている花々を愛でれば少しはホッとすることがあるのではないだろうか。桜という花は日本人にとって自分たちの花といった感覚があるのかも知れないが、これは沖縄などの南の島や東北から北の人々を除くと、こういう心が落ち着かない時期に自分たちを和ませてくれるからこそそういう気持ちが起きるではないだろうか。単に、パッと鮮やかなピンク色の花が見事に咲きそろうから、というだけではこれほどの思い入れにはならないような気がする。去年は例年になく春の訪れが早く、新年度が始まるころには既に散っていた桜も多かったのだが、今年は何とか間に合いそうな感じだ。それでも、ここ数日の気温の上昇を見ていると、花が長くもちそうにもないような気もしてくる。桜の花を長く楽しむための条件としては、当然ながら強風が吹かない、強い雨が降らないといったこともあるのだが、咲いてから散るまでの期間の長さは咲いてからの気温の高さにもかなり影響されるようだ。今回は何となくこの高い気温が続きそうだから、慌てて咲き競うことになり、散るのも早くなるかもしれない。入学式の時の校門の脇には桜の花が一番良く似合うというのは勝手な思い込みかも知れないが、はたして今回はどうなるのだろう。

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3月28日(金)−流浪

 言葉というものは、時代の移り変わりとともに、出たり、消えたり、作られたり、変えられたり、じっとそこに居座るものではないようだ。「適当に」とか、「いい加減」といった言葉は元々の意味とは違う使い方をすることが多くなったし、そうでなくても乱れた日本語などと言われることが多く、日本語の良いところを紹介する本が数多く出版されている。
 そうは言っても、言葉が変化することを止めるのは難しいから、結局は古きよき時代の言葉を忘れないようにしようとするのが関の山かも知れない。そんなことを考えていたら、ずいぶん昔に気になった言葉を思い出した。「根無し草」という意味のフランス語である「デラシネ(deracine)」である。いつ、どこで見かけたのかはっきりと思い出せないのだが、確か学校からの帰り道のどこかに書いてあったような記憶がある。根無し草というのだから、その土地に根付いたものではなく、渡り歩いている放浪の身といった意味なのかとその頃は思っていたが、ネットで調べてみると、元々フランスの革命の一つの頃に、革命に参加したよそ者を表現するために使われたようだ。はたして今でも同じ意味で使われているのかどうか知らないが、日本では60年代の学生運動の際に使われていたと紹介されていた。当時その年代にあった人には内地生まれと外地生まれがいたそうで、その区別のために使われていたようだ。せっかく調べたサイトもアドレスを記録しなかったので、その辺りの事情を詳しく知りたい人はネットで検索して欲しい。それにしても、自分のことのはずなのに、なぜこの言葉が強く印象に残ったのかさっぱりわからない。そんなことをここで紹介されてもつまらないと思われるかも知れないが、一応紹介する理由はあるのだ。根無し草を土地に根付かず放浪する人という意味で考えると、大学を卒業してからこれまで、一つの土地に長く居続けることのなかった自分は、まさにその通りの生活を送ってきたのではないかと思ったのである。実際に、最長4年ほどの周期でいろんなところを転々としてきた。仕事の関係によるところが大きいのだが、他に事情がないわけでもない。まあ、とにかく、ひとところに落ち着いて暮らすというやり方には結局馴染めなかったようだ。普通の会社勤めと違って、人事異動があった上での転勤という形ではない。毎回、世に言う転職と同じ手続きを経て、新しいところへ転居をしているわけだ。そんな具合に一つの土地に長居しないことから、自分自身を流浪の民などと呼んだりしているのだが、そんなことを考えている時に、ふっと「デラシネ」のことを思い出したのだ。でも、日本での用法を調べてみると、ちょっと違うような気もする。ただ、新しく移ったところでの自分の立場はやはりよそ者であり、他の土地出身で革命に参加した人々と同じとも言えるかも知れない。よそ者はよそ者なりの見方をし、土地の者にはない意見を持つことができる。そんな気持ちを持ちながら新しいところに移り、慣れたと思ったところでまた放浪が始まる。どうも、こんな生活が今後も続きそうである。

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3月27日(木)−老婆心

 誰でも経験することだろうか、先生、先輩、上司などなど目上の人たちから、「最近の若い人は」と言われることである。この後に褒め言葉が続くことはまずなく、色んな問題点を指摘されたり、苦言を呈されたり、褒めているような表現を使っていたとしても、実際には婉曲に間違った行動を指摘される場合が多い。若気の至りなどと言われることも多いが、どうやら若いとは間違いの多いものらしい。
 しかし、単に若いだけなら誰もが通らねばならない時代であり、取り立てて言わねばならないものとも思えない。にもかかわらず、若い人という表現を使う理由は、その前に「最近の」が付いているためだろう。これは単純に自分たちの頃とは違って、最近の若者はと言いたいが為の表現で、これによって今目の前にいる若者が特別非常識であることを示そうとしているのかもしれない。しかし、このフレーズはいつの時代にも使われたものであるから、若い世代の非常識がどんどんひどくなっていない限り、正しいことにはなりそうにもない。確かに昔の人たちに比べると、身についた常識というものは同世代の者にしか通用しないものが多いし、いわゆる大人のやり方に上手く合わせられない人も多いようだ。でも、どんどんその程度がひどくなっているのかと問われたら、その通りとは言えない。ある程度の断絶は昔から当たり前だったし、それだからこそ、若い世代の若さが意味をもつのだという意見も多い。ただ、最近の傾向で少し気になるのは、目上の人から指摘されたとしてもそれをとことん無視して、自分たちの世界を築こうとする人が増えている気がすることと、若い世代に対して過度な負荷をかけようとする大人が増えていることだろうか。前者は、はむかう行動にでるよりも無視という形の逃避行動を選ぶことで、問題を自分の中で表面化しないようにするわけだが、どうもこの問題に限らず、逃げを打つ場面をよく見かけるようになった。その辺りが気になっているという意味なのだが、どれほどの問題を生じるのか定かではない。一方、後者の場合は、より深刻であるように思う。以前に経験したことから、あれもこれもしておけば良かったという考えが芽生えたためだろうか、色々と忠告したり、様々な課題を処理させようとする。これは実は親子関係でもありそうなことだ。一見、目下の者を可愛がる行為のように見えるが、過去に自分ができなかったことをさせるのだから、いじめになりかねない。ここまでできないととか、こうあるべきとか、そういう要求もいかにも妥当なものに見えるが、排除する気持ちから出ていることはないだろうか。いくら目の前に問題を抱える人がいたとしても、その不満を違う方向に向けるのは慎むべきだと思う。

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3月26日(水)−肴

 そろそろ年度末で、どこも人事異動の季節となっている。と言っても、会社の場合は、この時期は決算と重なり、かなり忙しくなるらしく時期をずらすところも多いようだ。ただ、学校の入学、進学、卒業とも重なり、色々な行事もあるから、慌ただしさは一段と増しているようだ。春の花の便りと共に、去る人、来る人、送る人、迎える人、人それぞれの人間模様を描いている。
 歓送迎会の機会があるとやはりアルコール飲料を交えての宴会となる場合が多いようだ。アルコールが苦手な人や酔っ払いとの付き合いが苦手な人にとっては、嫌な季節の一つだが、せっかくの機会だから断るわけにもいかないのだろう。嫌々ながら参加して、ウーロン茶やらジュースを頼んでいる人を多く見かける。それでも食事の美味しい会場が選ばれれば、飲み物や酔っ払いに集中しなくてすむから良いのかも知れない。先日たまたま寄った店も、料理がまあまあ良いと言うので、その辺りで知られたところらしいのだが、小さな店の中で三つの宴会が開かれていた。当然、狭いところだからそれぞれの参加者はせいぜい5、6人といったところだが、鍋を囲んでいるところあり、おまかせ料理をつついているところありで、盛り上がっていた。二つはたぶん送別会のようなものだったらしいが、あとの一つは小学校を卒業した子供のお祝いのようだった。珍しいなと思いながら、横目でちらちら見ていたが、子供の祝いということでビールなどはあまり出ていなくて、ジュースが主体の普段はあまりお目にかかれないちょっと変わった感じの会になっていた。料理は色々と出ていたようで、みんな満足して帰っていったようだ。飲み屋のような雰囲気もあるのだが、その店の場合、料理にも力を入れているようで、なかなか評判が良いようだ。こちらは独りだったから、焼き魚定食を頼み、ちょっと日本酒を飲んだのだが、定食にはホタルイカ、魚の角煮、もずく酢からなる先付け、ポテトサラダ、湯葉茶わん蒸し、卵焼き、菜の花、大根おろし、そして鰺の焼いたものがあり、御飯、味噌汁、香の物がついていた。どれもきちんと手がかかっているという感じだった。だからこそ、子供の卒業の祝いなどといった席にも使われるのだろう。普段ちょっと飲む時などは、それほど料理の味の良し悪しには気を遣わないという人が多いのかも知れないが、送別会やら祝いの席にはやはりそちらの方にも気を遣って欲しいと思う。酒を飲む人も飲まない人もそれぞれに楽しめるという意味では、大変重要なことだと思うからだ。ひょっとすると飲むだけで肴には気を遣わないという人にとっては、こういう店は金ばかりかかっていい迷惑だということになるのかも知れないが。

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3月25日(火)−坩堝

 新幹線というのは、色んな人種を乗せて走っているようだ。人種と言っても、白人とか黒人とかそういったものの話ではなく、色んな職業の人たちの話である。いつも、隣に座っている人や、近くに座っている人を観察するようにしているのだが、この間隣にいた女性はずっとブツブツ独り言を言っていた。新幹線の中は飛行機と同じで騒音が大きいから何を話していたのかさっぱりわからない。
 しかし、膝の上にはアタッシュケースを置いていたので、いかにもやり手のキャリアウーマンかと思いながら見ていたら、パチンと音をさせてかばんを開け、中から出してきたのは、易占の道具である。はてさて、何が始まるのかと思ったら、直方体の駒をかばんの上でごろごろと転がし始めた。どうも急に占いをしなければならない事態に陥ったようだ。そばで見ているととても不思議で、先ほどのブツブツもそのせいなのかと急に思えてきた。ひとしきり占った後、真っ暗な窓の外を眺めながら、またブツブツが始まる。さて、これはいつまで続くのだろうかと半分心配しながら眺めていた。それにしても、変わった人たちが乗り込んでくる。この人も実際には占いを職業としているのではなく、たぶん趣味の一つなのだろう。なぜなら、易占をするときに、それに付いていたパターンのカードを一生懸命繰っていたからだ。もしもプロだったならば、そんなことをしなくても、大体のことは覚えているはずではなかろうか。再び、かばんを閉じて、ブツブツの時間が過ぎていく。まあ、そのうち、眠くなって、居眠りを始めるのではないかと横目で見ていても、これが中々眠らない。結局携帯をいじったり、独り言を言ったりで、一つ前の駅で降りていった。同じ駅で降りた女性四人組は、二人掛けの椅子を回して対面にして座っていたが、網棚には551が置いてあり、大阪帰りなのはよくわかったのだが、なぜかメガホンを持っていた。降りていくときにチラッと見たら、頑張れ○○高校とあり、選抜の応援に行っていたようだ。こんなところを見ても、やはり色んな人種が乗っている。今回は文字通りの人種の多様性には接することがなかったが、世界の新幹線は乗っていても面白いものだ。

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3月24日(月)−再現

 そろそろ終わりの時が近づいてきた。一応、一年を目標に書き始めたことだから、その時が来たらどうするか考えようと思っていた。それほどの量ではないとはいえ、毎日ある程度の分量の文章を書こうとすると結構大変なもので、特に花鳥風月の目立たなくなる冬という季節は色んな意味で苦労させられるものだった。
 実際に書きためたものを特別にどうにかしようとは思っていない。元々、ネット上に書き込む場合には半分公開のようなものだから、それがどこか別のところへ勝手に独り歩きしても、それを見つけることも妨げることも容易ではない。せっかく書いたものなのだから、何とか後でも読み返すことができるように、という気持ちから不慣れな形式での書き込みを繰り返してきたが、はたしてそれが意味を持つのかどうか、今のところはっきりしない。それに、自分で読み返す気持ちになるのかと、もしも誰かが尋ねたとしたら、答えは「いいえ」である。どうも自分の書いた文章を何度も読むのは不得意だし、いつも批判的な目で人の書いたものを見ているから、自分のものに関しても同じ気持ちになってしまうので、落ち着かないからである。そういう意味で、完璧なものを書いたことは一度もないし、どんなに推敲を重ねてもより良いものが得られるわけではない。意外に思われるかも知れないが、文章を修正しようと思ったら、何度でもいくらでもできてしまうのである。ただ、そうして出来上がった文章は、いかにもつまらない無味乾燥とも言えるものになっている。どうも、そんなことを数回繰り返してから、パッと思いつきを書き残すという習慣が身に付いた。実際には、小さい頃に書いていた作文とあまり変わらないものなのである。文章を練るということは苦手で、書き始める前に色々と考えてから、というのも苦手である。だから、というわけでもないかも知れないが、時々パソコンの調子が悪くて固まってしまうことがあると、もう一度同じ文章を書こうとしてもそれができない。それくらい自分の中できちんと組み立てられていないのである。書き物を職業とする人たちは、こういうことに関してどうなのか尋ねたこともないのでわからないのだが、やはり色々と書いている人だときちんとしたものを再現するのではないかと思う。パンチの場合は、キーワードを組み立てて文章を書いていくスタイルをとるので、キーワードまでは何とか記憶の片隅に置かれているようなのだが、肝心の文章はほとんど思い出せない。結局、話をするときでも同じような感じだから、そういう具合に頭の中で処理をしているのだろう。何らかの処理をして自分の中から出してしまったら、もうそこで自分とは関係のないものとなるわけだ。もっときちんと覚えておければ色々と便利なはずなのに、と時々思うのだが、できないものは仕方がない。実際に一番困るのは、車を運転しながら構想を練っているときだ。メモを取ろうにも運転中にはできないからで、もしテープレコーダーなどがあれば便利だなと思うこともある。だから、一度考えたはずなのにボツになった話というのは幾つもあるのではないかと思う。それも仕方のないところだろう。

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