パンチの独り言

(2003年3月31日〜4月13日)
(終了、−、門出、−−−−−−−、配慮、栄華、略奪、移動)



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4月13日(日)−移動

 近くて遠いとか、遠いが近いとか、物理的な距離と時間的な距離の違いを表してみたり、心理的な距離を絡めてみたり、絶対的なものと相対的なものを比較することがよくある。旅行などをしてみても、そこにどんな見方を持ち込むかによって、まったく違った結果が得られることもあるし、人それぞれの見解の相違でまったく違った解釈がなされ、それが誤解を生むこともある。
 最近かなり増えてきたとはいえ、国内の飛行機の移動はまだまだ日常的にはなっていない。米国ではたとえば西海岸のロサンジェルスとサンフランシスコの間の旅行となると、自動車や列車による移動を選択する人はまれで、ほとんどの場合飛行機を利用する。そんな事情からか、この二つの大都市間を結ぶ飛行便は20分ぐらいの間隔で運行されており、まるで東海道新幹線並みの頻度になる。最近は航空会社の調子が悪くなっているから、以前ほどの頻度で飛んでいないのかもしれないが、これらの便がほとんど満席で飛んでいたことを考えると、いかに多くの人々が毎日のようにこれらの都市間を移動していたのかがよくわかる。ただ、そうは言っても、飛行機となればせいぜい200人程度の人が乗るだけであり、新幹線が1500人ほどの人を乗せているのと比べると、さほどでもないと言えるのかも知れない。まったく、とんでもない数の人が東京大阪間を移動しているわけである。確かロサンジェルスとサンフランシスコは800キロほどの距離にあり、東京大阪間が500キロほどであるのに比べるとかなり遠くになる。だからこそ飛行機での移動の意味が出てくるのかもしれないが、一方で米国内の鉄道事情というところにも原因の一つがあるのだろう。とにかくこんな距離を2時間弱で移動できる飛行機は強力な移動手段だろうが、国土が狭い日本では飛行場という問題が出てくるから、同じようなことができるわけではない。羽田、伊丹、福岡という空港は比較的便利なところにあるが、それ以外は都市中心部との距離がありすぎて、せっかく早く着いてもその利点を十分に活かせない感じがする。一方で、新幹線が利用できるところは少しくらい距離が離れていても、時間的には近くなるのだが、いわゆるローカル線と呼ばれるところを旅行しようとすると、距離は近いはずなのに意外に時間がかかってしまうことがある。まあ毎時200キロ以上の速度で走る列車と、せいぜい100キロどまりの列車を比べること自体間違っているのかもしれないが、それだけでなく列車の乗継やら待ち合わせやらが絡んでくると、さらに所要時間が増してしまい、思ったように移動できなくなる。たとえば山手線を一周しようとすると約一時間かかるはずだが、これだけあれば新幹線で東京から静岡までいける。都内の移動だけでも、意外に時間がかかってしまい、他所からやってくるとせっかく早く着いたのに何でこんなにと思うこともしばしばである。そんな具合で、ちょっとした移動なのに、と思うことがでてくる。まあ、慣れてしまえばそんなものと思えるのかもしれないが、どうもこのあたりの感覚の違いを調節するのは結構難しいもののように思えるのだ。所詮、そんなに急いでどこへ行く、と言われてしまえば、反論できそうにもないのだが。

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4月12日(土)−略奪

 昨日の予報通りに雨が降り出した。この時期は気まぐれというより、周期的に天気が変わるから、予報を出す立場としては安心していられるのではないだろうか。もう少し暖かくなると大気が不安定になって夕立に襲われることがあり、こうなると降水確率などの数値の選び方が難しくなる。特に、夕立は局地的なものだけに数値の解釈も難しい。
 桜の花が満開になった後の雨はなんとも恨めしく思われる。せっかく見事に咲きそろった花が雨によって地面に叩き付けられてしまうからだ。風が吹くと花吹雪となり風情があると言われるが、雨で地面に降り積もった花びらにはそんな風情を感じない人が多いのだろう。ただ、この間ラジオが紹介していた人はそんな濡れたピンクの絨緞がとてもきれいだと表現していた。その上を人が歩いたり、車が通ったりしなければ、確かにきれいなピンクの絨緞と言えるのかもしれない。ほんの短い時間しか見られないつかの間の美しさとでも言えるのだろうか。絨緞と言えばペルシャなどと想像してしまうが、ペルシャとは現在のどの辺りのことなのだろう。確か、イランが含まれているような気がするが、戦争で悲惨な状況が伝えられるイラクもその中に含まれるのだろうか。爆撃や砲撃などといった戦争の直接的な状況を知らせる画像も悲惨なものと感じられたが、独裁者の銅像などが撤去されているそばで公的施設などから物品を持ち出す人や商店から商品を盗み出す人が紹介されているのも戦争の一面を表すものと受け取られるからだろう。どうも、ああいった情景を目の前で目撃したことがないせいか、数日前にその光景が放映された時になんとも不思議な感じがしたものだ。戦争が終わったというわけではないのだろうが、警察組織や軍隊などがいなくなったとたんに無法地帯と化している。特に、荒れ果てた戦場とはとても思えない雰囲気の中で、撮影しているカメラの方に手を振りながら盗んだ品物を運んでいる人がいることにはちょっと驚いた。日本でも、昔はこういった光景が目の前で繰り広げられていたのかもしれないが、最近暴動などといったものも起きない平和な国にいると、ああいうものに対して驚き以外の感情が起きなくなるようだ。それにしても、何でも盗まれるらしい。国連や外国報道関係の事務所からも多くのものが盗み出されているようだし、車やバスといったものまで盗まれている。UNと書かれたバンが走り去って行くのを撮影しているニュースもあった。ついには、病院の薬や治療器具までもが盗まれているという報道があり、一体どんな人たちがそれを必要としているのかと首をかしげてしまった。ひょっとしたら、怪我をした人たちに本当に必要だったのかもしれないが、おそらくは後でブラックマーケットで高く売り捌かれるのではないだろうか。火事場泥棒という言葉が日本にはあるが、あちらではこういう便乗組はなんと呼ばれるのだろう。明るい顔を見せて手を振りながら走り去って行く盗人に、違和感を覚えるのは平和な国に育ってしまったからなのだろうか。

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4月11日(金)−栄華

 新しい街にやってくると今までに無いいろんな出来事に遭遇する。古都に住んでいた時は神社仏閣など歴史的なものに接することで、何となく気持ちに変化が現われたが、今度の街にはそんな雰囲気は無い。その代わりに困ったことがある。統一選挙期間中ということで、候補者の名前が連呼されるが、同姓の人がおり、自分の名前が呼ばれているようで困る。この辺りには特に多い名前とは言え、縁戚関係はまったくない。
 この街も結構古いらしく、江戸時代にはある産業で栄華を極めていたらしい。幕府から特別な扱いを受けていたそうで、その雰囲気が昭和の戦後まで続いていた。しかし、オイルショックとともにその産業は衰退の一途を辿り、今ではその影を見つけるのさえ難しくなっている。そんな街だからなのか、他の理由からなのか、この時期桜の花をよく見かける。ある中学校には桜の並木があり、今が盛りと艶やかなピンクの花を一杯に見せているし、その近くの高校でも校庭のあちらこちらにかなり大きな染井吉野の樹が植えてあり、こちらも溢れんばかりの花が咲き誇っている。それ以外にも、公園などに植えてあるようだし、あるところにはかなり有名で見事な桜並木があるそうで、わき見運転を注意するように言われることがあるようだ。どれもこれも染井吉野のようだが、それ以外にも枝垂れ桜で有名なところがある。それほど古い樹ではなく、ごく最近に植えられたようだが、池の周りを取り巻くように植えられていて、かなり見事である。この週末にはそこで何か行事があるそうで、お団子とお茶がふるまわれるそうだ。はて、花より団子という意味なのか、それとも団子にも勝る花を愛でようという意図なのか、よくわからないが、とにかくかなりの人出があるようだ。この枝垂れ桜は、染井吉野の花よりもずっと赤みが強く、ピンクというより赤の方に近い感じがする。今は五分咲きといったところだろうか、ここ数日の暖かさで一気に咲いている花が多くなっているように見える。だから、たぶん週末には見事な枝垂れ桜の花の池囲いができるのではないだろうか。以前にも書いたが、桜の樹はそのほとんどが人が植えたものであり、そこに根付かせることが難しいだけでなく、その後の手入れも大切となる。これらの枝垂れ桜もご多聞にもれず、ある会社の社長が寄付したものらしい。桜は梅などと違って病気に弱いので、ちょっと管理を怠るとたちまち樹が弱ってしまうそうだ。根尾の薄墨桜などは人が植えたものかわからないが、一時は衰えていた勢いが根を接ぐことによってかなり回復したと聞く。吉野の桜も有名だが、最近はカビの被害に悩まされているということだ。カビと言っても、菌類だからきのこの類いと言った方が良いのかもしれない。日本人はなぜか桜の花が好きなようで、各地に桜の名所がある。ただ、染井吉野はその寿命が短いと言われていて、それらの名所の中には既に勢いが衰えた木々を抱えるところも少なくないだろう。ただ眺め、楽しむだけではこれらの名所も過去のものとなってしまう。

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4月10日(木)−配慮

 ちょっと長いお休みを入れた。職場が変わるなど色んな変化があり、バタバタしているうちに時間が経過してしまったといったところなのだが、そうでなくとも年度の変わり目は忙しいのに、他のことまで入ってきてただただ大変になっている。こういうことがある度に手続きを簡素化できないものかと思うが、終身雇用を基本としていた国ではまだ心の準備が整っていないようだ。
 今年は桜がちゃんといい時に咲いているので、新しい年度を迎えて気ぜわしくなっている時に、張り詰めた心にちょっとした安らぎを与えてくれる。私達は、季節を意識し、その変化を楽しんでいるだけに、期待通りの時期に、期待通りの変化が起きてくれることを望んでいるようだ。ちょっとずれたりすると色んな意味で大騒ぎが始まったりする。特に花見は色んな意味で大切な行事のようで、去年のようなずれは歓迎されない。職場が変わると共に、生活のパターンも変わったので、色んなものを新たに買い込まなければならなくなった。家庭電化製品などは大型量販店が全国に広まったことで、競争も激化し、サービスも向上していると感じていた。特に安いものを手に入れようとしたら、幾つかの店を回ることで比較的容易に選択でき、購入することができる。ただ、同じ製品に見えるものも、量販店ではその店独自の製品をメーカーに作らせている場合があるので、同じ機能だからといって同じ製品とは言えない。メーカーにしてみたら、責任の度合いが変わるわけでもないだろうから、劣悪な製品を回すということはしないのだろうが、安くするために違う部品を使っている可能性は否定できない。その辺りをどう考えるのかは人それぞれに違うのだろうが、こんなところに工夫をすることで他店との差別化を図っているところもあるということだ。そういう製品は店のイニシャルが製品番号に入っていることから区別できる場合もあると聞く。先日、ある量販店で買い物をしたら、システム障害とかでクレジットカードが使えないと言われた。仕方がないので、翌日にもう一度出直すことで担当者に確認を取り、引き上げたのだが、これが大きな間違いを産んだ。翌日の朝、店に出向くと担当者は出社しておらず、事情を話しても書類さえ見つからない。別の人にもう一度同じ製品を指定することで、購入代金などの計算はできたのだが、前日にはあった在庫が無くなっているのだ。じつはその朝、目の前でその製品を買っていく人を見かけた。つまりは、担当者が在庫の確認だけして、その製品の確保を怠ったわけだ。こういう営業を行う人がどれほどの信用を得られるのかわからないが、こんなことが起きればその人と接する気持ちは無くなる。不特定多数を相手に商売しているから、たまたまのことなど気にせずにいい加減にやれば良いと本人が思っているのかどうか知らないが、不特定多数だからこそ色んなことに気配りをするのが肝心なのではないか。競争が激化してくれば、単にいかに安く売るかの問題だけではなく、配送や修理などといった他のことも重要になってくると思う。営業にとっては関係のない話などと考えていてはいけないのだろう。

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4月2日(水)−門出

 急に春らしい暖かな天気が続いたと思ったら、また冷たい雨が降ってきた。どうも春の空は秋とは違って周期的に変化するとは言え、暖かさと寒さが繰り返すので、体調を崩さないように気をつけねばならない。昨日は一年ぶりのお休みをしたが、きょうはまた書いておこうと思う。
 これからは不定期に書き込むことになるので、毎日点検する必要はないと思う。まず、独り言のところの日付けを見ていただければ、新たな書き込みがあるかどうかがわかるから、そこだけ注意しておいて欲しい。急に暖かくなって、色んな地方から桜の便りが届くようになった。また、既に咲いていたところでは慌てて満開になったところもあったようだ。しかし、この冷たい雨で咲いていた花は散ってしまったのかもしれない。ただし、蕾のままでいた花に関しては、これで寿命が延びるかもしれない。何しろ咲いた後の気温や雨、風の状況はかなりの影響があるようなので。この天気で、ある地方では入学式に桜の花が見られないことになったようだが、別の地方ではそれまで花がもちそうだと見込まれている。まあ、日本全国、入学式といえば桜、というわけにはいかないから、こんなことにこだわりを見せるのはおかしなことかもしれないが、何となくそういった話題になってしまうから不思議である。新たな門出を祝うにはやはり艶やかな花が咲きそろうのが一番と思うからなのかもしれない。門出と言えば、大学の入学式に親がついていくかを問題視していたことがある。最近の傾向はどうなのかしらないが、どうも親がついていくということを親離れ、子離れができていない証拠のように取り上げられていたのだ。門出を祝うのに、親が参加することが何故いけないのか、さっぱりわからないのだが、そんな年になってまでついていくのはどこか親子関係に依存しあう気持ちがあるのだと結論づけたいらしい。まあ、そうしたいと思う一部の人たちには勝手にそうさせておけば良くて、親も子もそういうことがしたいと思えば自信を持って式に参加したり、呼んだりすれば良い。そんなことで親子がべったりと思う人たちがいるのなら、そう思わせておけば良いのではないだろうか。こういうことをどこかでねじ曲げて解釈している人たちがいるようで、とても不思議な感じがするのである。それとは別に、親子関係をどういった形で保っていくかという問題は確かにあるし、そんなに簡単にどうあるべきかなどと断定できるはずもない。しかし、なかなか分かりにくいものだからこそ、当事者がしっかりとした気持ちを持つべきだろうし、他人があまり介入すべきものでもないだろう。小学校や中学校への入学の時には、微笑ましい風景として見ていられたものが、高校、大学となるにつれてそう思えなくなるのは何故なのだろうか。確かに、子供の成長の結果、親の関与が少なくなるのは仕方のないことなのだが、だからといって親がそこにいることをおかしなことと思うのも何ともへんてこな気がするのだが。

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3月31日(月)−終了

 やっとのことで、一年が終わった。ちょっと軽い気持ちで始めたものだが、毎日となるとそれほど簡単ではない。でも、まあ、始めてしまったものは終わらせなくてはならないから、その義務感みたいなものだけで走りきったようなものだ。題材として使ったものも、自然の風物、日常の風景、ネットの問題、など色々と取り上げたが、そろそろ種が尽きてきたのかも知れない。
 さて、そんな具合で、一年365回、独りよがりの勝手な意見を何人かの人に読んでいただいたのだが、さほど厳しい異論、反論も出ずに済んだ。運が良かったせいなのか、それとも読み手の寛容さのお陰か、いずれにしても、こういう場を使って、自分自身が日頃気になっていることを書くことができたのは、とても運が良かったと思う。読む方にとってどれほど意味があったのかは、書き手の立場としてはまったくわからないが、何か心の中に残るものがあれば至上の喜びである。実際には、ごく最近になって、また少し題材が思い浮かぶようになっていたのだが、これとて揮発性のもの、すぐにどこかに消し飛んでしまう。だから、この辺りで一応のお開きということにしようと思う。今後のことが気になっている人もいるかも知れないが、少なくともこの一年のようなペースは守れないと思うので、間違っても期待しないで欲しい。また、生活環境が変わるという個人的な理由から、こういうものを書く時間を見つけることが難しくなるとも考えられる。これは、予定していたことではないので、ここで理由の一つとして書くのはどうかと思うが、そういうことまで加わってきたということで触れておくまでである。明日から、新しい年度が始まり、様々な人たちが新しい門出に臨むことになるのかも知れない。重苦しい停滞感がある中で、そういう変化を経験できるのはとても良いことだろう。また、ここまで動きのなかった世の中も良いも悪いも様々な動きが出始めたから、自分自身でそういうことが経験できない人にも、外からの変化を受け止めなければならないことが出てくるかも知れない。そういう中で、いろんな意見をいろんな形で発信していくことは、それぞれの人の存在価値を高めることになるだろうし、義務とは言わないまでもこの社会を構成している者としての責任となるのではないだろうか。自分自身の意見を持ち、溢れかえる情報の波にのまれることなく、自分なりの判断を下すことが、これからの時代を生き抜くためにさらに重要になってくるに違いない。また、重い話にしてしまったようだ。この独り言は今後も不定期に書き込む形で継続するつもりだが、実際にどうなっていくのかは予想もつかない。また毎日書き込んでしまうかも知れないし、まったく書かなくなってしまうかも知れない。いずれにしても、パンチの勝手な意見を書く場は残していきたいと思うので、たまに思い出したときにでも覗いて欲しい。では、これにて、一年間読んでくださった方に感謝を込めつつ、終わりということにしよう。

(since 2002/4/3)