いろんな場所に移り住んでくると、それぞれに特徴があることに気がついてくる。同じ日本でも、これほど違うのかと思ったりするが、北海道や沖縄に住んだことはない。そんなに極端なところへ行かなくても、結構違いがでてくるものなのだ。これほど狭い国でもちょっと移動するだけで違いを楽しむことができる、それが日本の特徴とも言えるのだろう。
以前、桜やハクモクレンの花のことを取り上げた。ここは見事な桜並木があるし、きれいな花が花壇に植えられたりしている。ところが動物をあまり見かけないのである。熊に出てきて欲しいと思っているわけでもないし、前のところのように我が物顔で歩く鹿を見たいとも思わない。例えば鳥に関して言うと、まだカラス以外に出会ったことがないのだ。ひょっとしたら雀ぐらいは見かけたことがあるかもしれないが、どうも変な感じがするのである。たぶんまだ暖かさが不十分だから、山が近いところでは鳥の活動も活発になっていないのかもしれないし、この周辺の鳥が集まる場所に行ったことがないのかもしれない。心配するほどのこともないのだろうが、何となく気になるわけだ。昆虫も、先日階段のところで脅かされた蜘蛛以外には見かけていない。さすがに蟻となると注意してみていないからなんとも言えないが、何か違っているのではという気になる。まだ蝶が舞い始めるには少し早いようだし、他の昆虫ももう少し暖かくならないと出てこないのだろう。暖かい時期にどんな具合なのかを見たことがないから、まだなんとも言えないのだが、もしこのままだったらなんとも寂しいところだという気持ちになる。ずっと昔はある蛾に関わる産業で有名だったこの土地も、今ではその面影もなく、その後を継ぐ産業も芽生えていない。今の日本の典型のような土地で、どうやったら再興できるか、どんな産業を起こしたら良いのか、どんな会社を誘致すれば、何をすれば、などといったことが首長を決める選挙での争点となる。具体的なことを言い出せば利権に関れない人びとの反感を買うし、壮大な計画を持ち出せば夢物語と批判を受ける。この辺りも何処も同じの図式なのだが、何かうまい方法があるわけでもなく、やはりそのくらいしか主張できることはない。そうなると何が選ぶ根拠になるのか、さっぱりわからないものだ。よそものにとってはそれが更に大きくなり、何を言われようと実感がわかない。こういう選挙が一番不思議なものだ。そういえば、先日の統一地方選挙の時に思ったのだが、なぜこの時期に選挙をするのだろうか。人の移動の一番多い時期であり、選挙権の問題を考えると投票に参加できない人も数多くいるはずである。いろんな都合で決められたことなのだろうが、今だに腑に落ちないことの一つである。
新しい年度が始まって半月ほどになる。学生生活を始めた人はそろそろペースがつかめてきた頃だろうし、就職した人も最近は研修期間が短くなっているから、もうそろそろどこかに配属されるだろうか。他にも何か変化がある人がいるだろう。いずれにしても二週間もするとかなり慣れてきたのではないだろうか。
親元を離れて一人の生活を始めた人もいるだろう。大学だと最近は下宿などというひと間を借りる生活をしている人も珍しくなったが、昔はその上に賄い付きと言って二食付きの下宿もあった。親からすれば規則正しい食生活を送ることができるだろうし、バランスのとれた食事をとることになるので安心だったのだろうが、供給する側の事情からか30年ほど前にはほとんど見られなくなり、今では下宿といった言葉も死語に近いものになっている。就職した場合も寮生活が当たり前の時代はかなり昔のことになったのだろうか。アパートを集合した形で借りる場合にも賄いが入らないから寮という形態はとれない。みんなバラバラで食事を済ませ、単に同じ会社に勤めるものたちが同じ集合住宅に住んでいるというだけの形になったようだ。そうなると食事の面倒もどうにかしないといけなくなる。人によっては外食専門となるだろうし、学生時代同様コンビニのお世話になる場合もあるだろう。それでも中には、自分で食事を作ってみようと試みる人たちもいるだろう。学生時代からやっているようだったら別に問題はないのだろうが、就職したとたんに始めようというのはかなり難しそうだ。第一に要領がつかめていないからうまく行かないというのもあるが、肝心の仕事の方に精神をすり減らすことが多く、そんなことをする余裕がなくなるという場合もあるようだ。いずれにしても、やってみるのだったら、とことんやってみることが良いのだと思う。心に余裕がない時でも、何か作ることができるかもしれない。何しろ何でもかんでも冷凍食品があるのだから、そっちに頼ればそんなに難しいことはないだろう。しかし考えてみると、それは料理というのだったのかな、と思えてしまう。料理というからには下準備から始めて、片づけまでを完遂しなければならないのだろう。そうすると、心に余裕のない時には無理をしないのが一番なのかもしれない。少し余裕がでてきて、作る方の楽しみを味わえそうな頃になってから始めても別に遅くはないのだろうから。一人暮らしをしている人に聞いてみると料理の時の悩みが幾つかあるようだ。一つは量の悩み、一人分を作ることの難しさである。料理のやりやすさから言えば、最低二人分、できれば四人分くらいを作るのが簡単なのだそうだ。少なすぎても、多すぎても大変なようである。何食も同じものを食べたいと思わないから、大目に作って冷蔵庫に、というのも気が引けるらしい。まあ、次の日の弁当にでも回して、という考え方もあるが、職場での反応を考えると躊躇してしまう場合もある。次の悩みは献立であろうか。主婦のみんなが夫に向って夕飯の献立を尋ねるという話はよく聞くが、これも選ぶこと、思いつくことの難しさからなのだろう。一人暮らしが長くなればなるほど、こういう悩みが大きくなるらしい。こんなことを考えているとバランスのとれた食事などというところに気がまわらなくなるのは仕方のないことかもしれないと思えてくる。食事一つとってみても、いろんな難しさがあるものだ。一人暮らしの心得の大切なことの一つなのだろう。
未来が予想できたらすばらしいと思っている人は多いと思う。明日の株価が予想できれば、どんどん儲けることができる。そんな夢を実現しようと、学問を目指す人もいるのかもしれない。しかし、今のところ、その夢は夢でしかないようだ。幾多のノーベル経済学賞受賞者が、投資の世界に首を突っ込んだようだが、勝ち続けられた人はいないようだから。
未来予想というのは予言とも言われる。予言といえばノストラダムスが有名だが、聖書にもその記述があると言われている。ずっと昔聖書の勧誘をしに来た人がいた。聖書には様々な予言が記されており、ことごとく当っています、というのがその人の主張だった。こちらの返事は、では次には何が起こるというのか、というもので、若い女性には答えが用意できなかったようだ。宗教家になるためにはこの程度の質問に対する答えが用意できないとだめだと思うが、その人はそのつもりもなかったのだろう。たぶん、単に聖書に頼りたかっただけなのかもしれない。いずれにしても、予言の多くは事が起きてから、それが記されていたと言われるので、鵜呑みにはできない。わからない時点でわからせてくれるのが本当の予言なのだから。これほど遠い未来を予想することは不可能だろうが、では数十年後の近未来にどんなものができるのか、どんな生活になっているのかを予想することはどの程度難しいのだろう。昔のアメリカのテレビ映画「スパイ大作戦」で、そういうセットを作ることで相手を騙すという設定があったが、今見てみるとかなりずれている感じがする。大体今頃の事を想定していたから比べやすいのだが、テレビに写し出される映像も既存の車に張りぼてを被せただけだし、日常生活の道具に関しても何とも不思議なものが並んでいたような気がする。具体的には覚えていないのだが、当時見た感じとその時代になってから見た感じとはかなり違っているから面白い。そういえば、小さい頃に流行っていた「鉄腕アトム」が物語の上で誕生したのが今月である。著明な研究者の天馬博士が交通事故で亡くした自分の息子とびおを蘇らせるために作ったロボット「アトム」は、人間のように成長しないことから博士のもとを追い出されてしまう。そんな話が第一話にあったような気がする。最近のロボットブームからかなり近い状況になっているように見る向きもあるようだが、形は似ているけれどもずいぶんと違うなあという感想を持ってしまう。原子力電池は今の世の中では開発できず、おそらく燃料電池に置き換えられるだろうが、性能的にはかなりのずれがあるし、第五世代と呼ばれた自分で考えるコンピュータも大失敗の後、思ったように開発されていない。うわべだけは整ってきたけれども、中身が伴わないのはまあ仕方のないところだろう。それでも、かなりの困難を伴うといわれていた二足歩行が実現しているし、少なくともある程度の言葉のやり取りができるというのもすごいことだと思う。こういう状況が手塚治虫の考えた通りに事が進んだと見るかどうかについては、人それぞれ違った感想を持つのだろうが、いずれにしてもここまで技術の進歩があったということには満足する人が多いのではないだろうか。およそ50年前に作られた物語で夢のようなこととして紹介されていたものが、そのものとは言えないまでも目の前に登場して来たのだから。
子供の頃には既にそうなっていたのだと思うのだが、親は子供にきちんとした教育を受けさせようと頑張っていた。特に戦争をはさんだ時代に学校教育を受けた人びとにとっては、いろんな事情からまともな教育を受ける機会に恵まれなかった人も多く、子供達にはそういうことがないようにという気持ちからそうしていたのだろう。
では実際にそういう機会に恵まれていた子供達の方はそのことに対してどんな印象を持っていたのだろう。好きな勉強に励むことができると思っていた人も中にはいるのだろうが、多くの人は嫌いなことを無理矢理やらされていると思っていたのではないだろうか。こんなことを書くと、反対されるかもしれないが、自分のことを含めて何となくそんな気がしている。今となれば、機会に恵まれたことに感謝しているのだろうが、渦中にあってはそんな余裕や外からの見方をする気などなかった。そうしてその時代に育った人たちが親になり、次の世代の教育の面倒をみることになった。同じような動機は持ち得ないから、違った目的を示して子供に勉強を強いることになる。大学ぐらい行ってないといけないとか、良い就職口を見つけるためにはとか、中にはちゃんと勉強しないとお父さんのようになってしまうなどというとんでもないものもあったようだ。とにかくそういう形で教育の機会を子供達に与え、上を目指してきたのだろうが、最近の様子を見るとそのやり方が本当に良かったのかどうか、ちょっと疑問に思えることもある。特に気になるのは、そういう押し付けによって良い結果が得られなかったことを、親のせいにしている人たちが多くなったことで、この場合感謝などということは出てこず、ただ恨みつらみが積み重なっているような感じだ。確かに、ただ大学に入ることだけを目標にしてきた人たちにとっては、苦労して大学を出たとしても大した就職先も見つからず、今さらどうしたら良いのかわからないという状況では八つ当たりができる相手は少ない。しかし、その人たちにとっても人生の目標は大学ではなかったはずで、それから先に何かがあるべきだったのだ。どこかでギアを入れ直さなければならなかったのに、それをし忘れたか、できなかったのか、思いも及ばなかったのか、とにかくそんな状態でいた自分を反省すべき部分もあるのだと思う。最近は大学に入ってしまえば卒業させてもらえると思い込んでいる人も多く、新しいことに挑戦する気持ちがまったく無いので、入試時の学力が卒業時には単に減退しただけという人も多い。大学という場があまりにも増えてしまったことによる弊害もあるのだろうが、大学に対する認識のずれが大きいことも大きな要因の一つだろう。させてくれない、してくれないを連呼している人たちには自由な学習の場であるはずの大学は不向きなのではないか。それよりも、何かそのまま役に立つことを教えてくれる職業訓練校や専門学校の方が結果としては良いことに繋がるのかもしれない。それにしても、受け身が当たり前という考えをいつまで持ち続けられるのか、少し考えた方が良いと思うのだが。
生き物には性の違いのあるものとそうでないものがある。ヒトを含めた性の違いがある生物の場合、その間で行われる生殖活動を有性生殖と呼ぶ。それに対して、細菌などのように性の違いをもたず、自分とそっくりの子孫を作る活動は無性生殖と呼ばれる。ただし、細菌でも他の個体から遺伝子を受け取ることがあるから、まったく同じ情報を未来永劫にわたって受け継ぐ生物はいないのかもしれない。
なぜ性の違いが必要なのかという問題は専門家の間で色々と議論されているが、本当のところはわからないのかもしれない。たまたまそういう違いがでてきて、それが違いが無いものよりも都合が良かったから、などという理由ではあまり強く主張することもできないからだ。ただ、なぜ都合が良いのだろうかという疑問には、進化という立場からより良い変化が起こった場合にそれをその生き物の集団全体で共有できるから、などといった見解を出している人もいる。これが正しいのかどうなのか、どうでもいいことなのかもしれないが、最近話題になっていたクローン生物の場合、こういうことが大きな問題となるかもしれず、ただ無視すればいいとは言えないのかもしれない。性の違いは単に生殖活動のためだけでなく、何かしらの役割分担に関わることが多い。人間の場合、男女の違いは外見だけでなく、いろんな違いを生み出す。特に、子どもを産み、育てるということにおいては、女性の寄与は非常に大きい。産むこと自体は男にはできないし、育てるという点においても授乳を母乳でする場合には無理である。まあ、出産にしても、授乳にしても、脇から参加することはできるのだろうが、せいぜいそこまでである。その後の子育てには人間の場合男性の関与もかなり大きく、その辺りからは明らかな役割分担というものは存在していないのだろう。こういう中で男女の平等というものを考えると、何でもかんでも同じことをできるようにすることを平等と呼ぶことに抵抗を覚える。男女雇用機会均等に関しても、確かに要求している人たちに対してその権利を奪うことが無いようにという点に関しては大変良いことだと思うが、まるでそれが義務のように押し付けられるのでは自由選択という別の権利が奪われてしまうことになる。同じようにしたいと欲する人たちの権利を奪うことも罪だが、違うことが良いと思っている人に同じにすべきと言うのも罪なのではないだろうか。男女の違いは争点として様々な人たちの関心を呼び起こすものだけに、いろんなところで使われているようだ。今回の選挙にしても、ある知事選挙でそんなことを主張の一つとして掲げていた候補者がいたようだ。以前から男女問題を前面に出して、いろんな主張をしてきた人だが、今回の出馬には疑問を感じた。多数の中の一人として国会議員をすること自体には別に大きな問題を感じないが、多数の人たちの上に立つ人物として適当とは思えなかったからだ。これは何も男女問題を取り上げるから、というのが理由ではなく、その論点に偏りが感じられ、一つの意見としては良いのかもしれないが、すべてを取りまとめる場合にその偏りが間違いを生み出すような気がしたからだ。結果は無難なものに終わったが、本人にとってどんな感想が残ったのだろうか。男女の役割分担に関して強い意見を出すと、まるでこうあるべきという無理強いのように受け取られる。しかし選択の余地がなければ、平等という考えも結局は無理強いなのである。良いと思ったことを自由にできることが大切なのであり、余計なストレスを感じながらやらねばならないことにはどうしても抵抗を感じてしまう。
30年以上前に米国から進出してきたファーストフード、fast foodだから第一という意味のfirstと区別するためにファストフードなどと書かれ、ハンバーガーやフライドチキンに代表されるものだが、これらの外食産業も一時の勢いが無くなりつつある。同じく米国から来たファミリーレストランも最近は色々と工夫をしなければお客を呼べないようだ。
発祥の地でも最近は問題になっているようだが、手早く調理して、簡単に食べられるというだけでは、人気を保てないようで、健康に良いとか、品質管理の行き届いた商品とか、そういった特長を前面に出さないといけなくなったらしい。確かに、一時の安売り合戦は本人たちが疲れてしまったようで、ちょっとひと休みといった印象を受けるし、これ以上無理をしたらそれこそ自分達の商売が上がったりとなってしまいそうだから、この辺りで減速するしかないのだろう。そんなことを言っているうちにまた過熱してくるのかもしれないが、そうだとしても毎度毎度長続きしなくなるのではないだろうか。安かろう悪かろうでは売れないことが分かっているから、良い品を安く提供しなければならず、そうなればいろんなところに無理がかかることが明白だからだ。これとはちょっと違った現象だが、シアトル系カフェの人気もいつのまにか冷え始めているのだろうか。一時はどの店も満席で仕方なくテイクアウトすることも多かったが、最近はそんなところの方が珍しくなりつつある。やはり狭い地域に多数の店が出店していることが一番大きな原因だろうが、地方都市へ行くとまだまだ数少ない状態が続いているから、うまくバランスをとりつつ新しい市場を開拓していけば、まだまだ頑張れるのではないだろうか。それにしても、外食産業の勢いは他の産業に比べるとかなりあるのではないだろうか。日本の場合、外で食べる方がうちで食べるよりも割高になるとはいえ、米国での状態と比較するとその差は小さいように思える。いろんな意味で余計な出費となることは確かだが、それでもちょっと上乗せすれば自分で作る必要が無くなるのだから、ありがたいと思っている人も多いのだろう。特に最近は、ファミリーレストランで老人の姿が目立つといわれる。一人で食事の支度をして、いろんな手間をかけてというよりは、支度から後始末まで誰かがやってくれるというところにメリットがあるのだろう。財産に少し余裕があれば、この程度の余分は気にならないのかもしれない。もう一つの利点は、食事の量と栄養バランスに関してある程度管理ができるということだ。一人で食事を作ると食材がどうしても偏りがちになるし、食べる量にしてもつい大目になってしまうことがある。偏った食事で過食ということになれば、健康という観点からは良いものとは言えないだろう。ひとり分の食事をこまめに準備して、更にそこに栄養価の評価を入れるというのでは、かなりの負担になるに違いない。そんなことを考慮に入れると外食も馬鹿にできないものである。食材としてどの程度のものが使われているのかは定かではないが、ラーメンなどといった一つのメニューにこだわることさえしなければ、それなりに体に良い食事のとり方になっているのだろうから。
いつもテレビのニュースで放映されている総理大臣のインタビューの様子を見ていて、以前と違うように思えることがある。最近は何となく生気がなくて、いつも同じことを頑なに繰り返していることが多くなっているが、どうも目つきが変わったように思うのだ。去年のいつ頃だったか、記者に向ってもっと下がって欲しいと注文をつけていた。近くに寄られると声が小さくなって、元気がないように見えるからなのだそうだ。その頃から言葉に力が無くなっていたようだ。
人と話をするのはとても難しいことだと思う。多数の人たちを相手に話をする講演会などの場では、どこかに適当な人を見つけて、その人に向って話しかけるようにすると、何となく落ち着いて聞きやすい話ができると言われるが、人選を誤るとせっかくの相手が寝始めたりして、よけいに焦りが高まる。一対一の話では、相手の目を見て話をせよとよく言われる。しかし、あまりにも真剣に見つめてしまうと、まるで相手のことを怒っているように受け取られかねないから、注意が必要だ。見つめ方に何か秘訣があるのだろうが、これといった絶対的なものはなさそうで、相手によるところが大きいようだ。確かに、見つめられたとたんに目をそらす人もいるし、相手の目がそれると自分の話を聞いていないと思う人もいる。どの辺りが適当なところなのか、色々と試しながら推し量っていくしかない。そんな事情から、見つめたり、目をそらしたり、などを繰り返しながら、意志の疎通をはかるわけだ。特に、相手に理解を促す場面では、目がものをいうと言われる。しっかりと相手の目を見つめて、念を押すことが必要だというのだ。いずれにしても、目が泳いでばかりいる人は落ち着きがなく、話の内容も信用できないなどと言われてしまう。本当のところは、別にそんなことで決まるはずがないのだが、自信の無さがそういう行動に現われると言われるからだ。相手の目を見つめることが苦手な人が、そういう目の泳ぎを防ぐために使う方法に、相手の目以外のどこかを見つめるというのがあるらしい。話し相手の方を見ているわけではないから、聞いている方にとっては何か回想でもしているかのごとく、不思議な感じがする。でも、本人にとってはそうする以外にうまい方法が思いつかないらしく、これでも頑張っているのだと言わんばかりである。その気持ちはわからないでもないが、異様なことには変わりがない。自分の存在を否定するかのごとく、と言えないこともないからだ。話をしながら、相手の存在を否定するなどということはあり得ないのだが、全然違う方向を見つめられるとどうにも落ち着かなくなる。本人はごく真面目に、それが最良の方法であると思っているらしく、その不自然さに気がつかないようだ。どうせ、目を見つめることができないのなら、泳いでいてくれた方がまだまし、などと相手が考えているとはみじんも思わないのであろう。こちらの話を聞いている時も同じ状態だから、まったく困ったものである。目がどのくらいの情報を相手に伝えるのか定かではないが、こんな場面に出くわすと、ついついその重要性を再認識させられる。