パンチの独り言

(2003年4月21日〜4月27日)
(切迫、刮目、適性、更正、暮改、火事泥、黒箱)



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4月27日(日)−黒箱

 職場への運転中に道路脇の縁石に腰掛けている老人を見かけた。パジャマのズボンをはき、手にはお弁当の箸箱を持ち、どう見ても異様な雰囲気である。老人は目の前を走り過ぎていく車を見るでもなく、痴呆の症状が出ているかのごとく、放心状態でそこに座っている印象を受けた。ほんの一瞬の出来事だが、あれはやはり徘徊老人だったのだろうか。
 高齢化社会と言われて久しい日本では、こんな光景に出くわすことはもう珍しくなくなった。異様な雰囲気を漂わせている老人がいると思えば、一方で元気に散歩をしている人たちもいる。勝手な判断基準だが、顔の表情にその違いが現われているような気がする。いきいきとした表情で、前を見つめて歩いている人と、生気が漂わず、青ざめた表情で遠くを見つめている人。そこには明らかな違いがある。家の外に出ているという点では、どちらも体力的には十分な状態にあり、そこには違いがなさそうだがら、結局意欲というか心の力の違いなのかなと思えてくる。徘徊老人の場合、実際に経験したことがないので理解できない部分が多いのだが、徘徊するだけあってかなりの体力を有しているそうだ。毎日、毎日、出かけるわけで、ちょっと隙を見せると姿が見えなくなる。どこまで行くかはその時次第、これといった目的を持っているようには見えないから、探す方は大変である。そんなことから、家の中に閉じ込めてしまおうとか、はては鎖で繋いでおこうかなどと思うこともあるそうだ。そういう人びとを人間として扱うことの難しさは、人間としての反応が返ってこないことにあり、何を考えているのか判らないから、どうしても非人間的な扱いに至る場合がある。でも、人によっては、そういう人びと、ごく一般には配偶者である場合が多いようだが、をいろんなところに連れてまわり、常に刺激を与えることを心がけているそうだ。確かに痴呆の場合、一般の病気と違い、症状は進行性のものであり、回復することはほとんどない。そんな状態でこういう努力が実を結ぶことはほとんど期待できず、どうしてもそこから逃げたくなるのではないだろうか。しかし、それでも何かしらの変化が現われるのではないかとか、確かに小さいけれども反応を示したとか、そういう期待と現実の間を行き来することは大切なのかもしれない。何しろ何を考えているのか、何を思っているのか、まったく判らない状態なのだ。これは、決して、何も考えていない、何も思えない、と同じことではない。こういう人たちは、ただ、こちらが判るような形で状況報告を発信していないからなのだ。人間は常に相手にも同じ行動を期待するもので、行動基準の違う人とつきあうことはいろんな意味で困難を伴う。言葉という情報伝達手段を持ち合わせていても、そこにまったく違う基準を持つ二人がいたら、どうしても話が通じないことが出てくるわけだ。まして、伝達手段を何らかの原因で失った人びととは、更に大きな困難を抱えることになる。痴呆に関しても判った気になっているが、実際に彼等の頭の中で何が起きているのか誰も知らないのだ。

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4月26日(土)−火事泥

 世界で最も安全な国と言われていたのは何年前のことだろうか。最近は犯罪件数にしろ犯罪率にしろ、欧米並みと言うかそれ以上とまで言われるようになっている。それでも、銃の保有率はそれほど高くないし、夜の街を歩いていても強盗に襲われたり、そういう現場を見ることは少ない。欧米、特にアメリカではそんなことが日常茶飯事のように起きていたのに、同じ犯罪件数だとしたら、どうなっているのかと不思議に思える。
 こういう調査には必ず仕掛けが潜んでいるのかもしれない。例えば日常的に犯罪が起きているところでは、たとえ窃盗にあっても、強盗に襲われても、命さえあればそれでいいということで、警察に届けていないかもしれない。犯罪として認識されなければ、それが解決することもないが、一方で検挙率との関係も断ち切られている。ところが、どんなに小さな事件でも警察に届けられ、それが犯罪として登録されたのなら、解決するかどうかがいろんな数字に影響を与える。確かに、昔は起きなかったような類いの犯罪が多くなっているが、それとても諸外国ではごく当たり前のものだったりするし、場合によっては犯罪者とともに輸入されたと言うしかないようなものもある。数字だけに注目して、その算出方法や背景などに気を配らないと、こういう調査に騙されることが多いのだろうと思う。最近の調査自体が悪いと言うのではなく、比較対象としている諸外国の調査が同じ観点で行われているか、同じ算出方法をとっているか、そして表に数字としてでてきていない隠されたものはどのくらいあるのか、そういう点を考慮に入れた上で、数値の吟味をして欲しいと言うのである。まあ、ただ騒ぎ立てるのが役目と思っている人たちにとっては、わざわざそんなことをして格好の材料を捨ててしまうなどというのは愚の骨頂と思えるのだろうが。犯罪といえば、先日も話題にしたがイラクの戦争がおさまりかけた頃からの略奪事件のことが気になる。博物館から様々な遺物が盗まれたのを見つけた館長が泣叫んでいるのが報道されていたが、その責任を誰に負わせるのかについての彼等の主張には、反論したくなった。攻め込んだ米英軍が治安をきちんと維持していないから遺物が盗まれたという形で、駐留している軍隊に対して不満をぶつけていたが、その前に誰が盗み出したのかを論じないのはなぜだろうか。自分達の共有財産という意識があるのなら、治安云々に関わりなく、盗むこと自体を思いつくはずがない。しかし、そう思っていない人びとがいるから、こんな事件が起きるのではないだろうか。押さえ込んでおけばこんなことは起きない、という主張は確かに間違ってはいない。しかし、実行している人びとはどこの誰なのか、そのことを無視するのはどうかと思う。そんなことを思いながらイラクからの続報を聴いていたら、駐留軍の軍人たちがドル札を大量に国外に持ち出そうとしたことや遺物を隠しもっていたことが発覚したと報じていた。まったく呆れる行状だが、こんな人びとに治安維持を頼む国民はどこにもいないのだろう。

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4月25日(金)−暮改

 この国の経済状況が好転しないと毎日のようにどこかで言われている。そのために、税制変更で株価を上げる施策が必要だとか、決算時の保有株の評価の仕方を変えろとか、よくもまあ訳の判らない付け焼き刃的なものを政治に携わる人たちが次から次へと出してくるものだと、呆れることが多すぎる。今自分がこの座に留まるために、という思いからなのか、今日が良ければ明日はどうでもよいと言わんばかりに映る。
 株価の低迷は依然として続いているが、それぞれの企業の業績は徐々に回復しているようだ。ただ、相場頼みの企業にとって、この状態はかなり悪く、自己資本の多少に直接響いている。まったく、バブル崩壊以来この手の業種が悪役に徹していて、経済の回復の兆しもそのお陰で覆い隠されているようにさえ思える。でも、実際にはそれぞれの会社の決算などを見ていても、件の業種を含む一部の業種を除けばそんなに悪くは見えないし、まあ徐々にかもしれないが確実に回復に向っていると思う。ただ、これだけ長く続いた不況から、雇用に関する方面にはかなりの歪みが残っているようで、首切りという意味のリストラはもう何段階か進んできて、目一杯と思えるところまで来ているし、新規の採用については依然として厳しい状況が続いている。特にバブル期のどんな学生でもいいから人が欲しいという頃から比べると、じっくりと相手を見ながら選んでいくやり方が当たり前となり、学生にとってはあの手この手で採用してもらおうと企業に働きかけるのが普通になってきた。学校の中に居てでも採用の誘いが来ていた時代と比べると、まったく様相が一変してしまったようである。ただ、じっくり人を見て選べば、良い人材を得ることができるのかと言えば、どうもことはそう簡単には行かないようだ。結局は選りすぐりの集団などと言っても、それが少数であれば外ればかりになることもあり、何と言っても母数の多少が大きな影響を与えるようである。こんな状況で、採用する企業の力が勝っている時には、採用される側の学生たちにとってはかなり厳しい状態が続いている。先日も話題になっていたのだが、地方の私立大学が東京に事務所を置き、東京で就職活動に励む学生たちの便宜をはかっているようだ。例えば、大学から東京までの往復バスを運行するとか、東京の事務所で各種証明書類を手に入れることができるとか、はては宿泊所を斡旋しているところもあった。全国に営業所を持つ企業でも新規採用に関しては東京本社でというところが大部分で、就職を希望する学生はどこからでも東京まで来なければならないらしい。特定企業ではなく、各種企業が集まって開催される合同説明会なども地方で開かれることはほとんど無くなった。結局そういう状況になってしまうと、勉学の環境として優れている地方の大学にとって、大きなハンディを負わされることになるので、評価が下がることに繋がりかねない。そんなところからいろんな便宜をはかる必要が出てきたのだろう。これは、地方の経済状況が悪いということも大きな要因の一つには違いない。いずれにしても、こういう話を聞いていて、どこかおかしな気がするのはパンチだけだろうか。いくら状況が悪いといっても地元に就職先がまったく無いわけではない。しかし、学生たちの目は都会にしか向いていない。大学は偏差値や評判から合格できるところを選んだが、所在地には興味がない。たとえ四年間住んだとしても、魅力は感じられず、これで十分だと思う。どこがどうおかしいのか、はっきりとさせることはできないが、政治家の場当たり的な施策と似て、その場限りの楽な選択をしているように思えてしまうのだが。

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4月24日(木)−更正

 ついに来て欲しくないものがやって来た。身の回りの変化から色々と負荷になることが多く、それが腰の方に来てしまった。さすがに痛みがひどいので診察を受けたが、幸いにも背骨には異常はなく、きれいな間隔を保って並んでいた。やはり自己診断した通り、筋肉が悲鳴をあげたようで、安静を心がけるしかないようだ。
 以前にも何度か書いたような気がするが、人間の体はかなり微妙なバランスの上に成り立っている。それが少しでも崩れれば、いろんなところが悲鳴をあげ、ほんの少し前まで当たり前にできていたことが、まったくできなくなる。そうなって初めて、体の機能の不思議を実感するのだが、その時はもう手遅れである。まあ、じっくりと体を休め、少し経ってからリハビリに励むしかない。筋肉痛などは極度の場合を除いて、回復不能ということはないのだが、やはり後遺症が残ることもある。これに対して、心臓病や脳血管の病気などの場合は、その時の症状も重篤なものが多く、後遺症の残るのが当たり前だと思われている。そんな場合でも体の回復力を実感できることが多く、冷たい機械ではない温かな生き物の不思議を考えさせられる。脳血管の障害では、脳血栓や脳出血などで、患部周辺の脳組織が損傷を受けるので、その部分が司る機能に障害が起きる。直後はその障害の程度がひどく、運動機能や言語機能に関わる部分だったとすると、まったく動かせなかったり、言葉を発することができなかったりする。そういうことになると、もうこれでおしまいだと思う人も多いらしく、倒れた直後の精神状態は非常に不安定になっているようだ。それでも、血栓や出血の程度が軽ければ、その後、体の方は徐々に落ち着いてくるようだ。症状はあるところからひどくならず、うまく現状を受け入れることができた場合には、失われた機能を部分的にでも回復しようとする努力が出てくる。これがリハビリということになるのだが、実際にはこんな数行で書けるような過程をふむのではなく、もっと精神的な葛藤があるはずなのだが、いかんせん経験の無いものに関しては、これ以上書きようがないので、これでは不十分とは思うが勘弁してもらいたい。いずれにしても、その後リハビリに励んでいくうちに、まったく失われたと思われた機能がほんのわずかにしても徐々に回復してくるのを見ることができる。脳の機能は一度失われれば二度と回復しないなどとよく聞くのだが、そんな回復過程を見ているとなぜだろうかと思えてしまう。実際には、損傷を受けた場所がそのまま復活するということはなく、おそらく他の場所が損傷箇所の機能を部分的に補うことになるらしい。必ずしもそうであるとは言えないのだが、そうなっているとしか思えない場合も多く、この場合診察しても損傷を受けたところは回復していない。ただ、こういったことは放置しておいても起きるということはほとんどなく、何かしら患者の回復意欲の上に立ったリハビリの結果ということがほとんどであろう。この意欲は患者本人によるところが最も大きいのだろうが、周囲の理解や励ましも重要であると聞く。頑張れの一言も、重荷や気休めにしか聞こえない時もあるだろうが、励ましに聞こえる時もある。それが、意欲を萎えさせることのないように注意しながら見守ることの大切さを実感する瞬間なのだろう。

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4月23日(水)−適性

 最近、先生の適性の問題が取り沙汰されている。不祥事を起こす人が増えているような感じだから、どうしても問題視されてしまうのだろう。しかし、こういうことがあるたびに思うのだが、ある一部で起きたことを全体につなげて考えるのはなぜなのだろうか。特に近ごろのマスコミの喧騒ぶりには呆れるばかりで、ああいう情報を鵜呑みにしないで自分なりに噛み砕いて吟味することが必要だと思う。
 先生として不適格な人が増えているという話はそこら中にある。確かに、あんなやつ埋めてしまいたいとある生徒のことを書いてしまったり、学級内のいじめに自分も加担するような行動に出たり、淫らな行為を試みたりと、話題には事欠かない。全国の小中高で、合計何人の先生がいるのかまったく判らないが、その中でこういう話題にのぼる人たちは百人はいないだろう。それぞれの学校で噂にのぼっている人を加えれば、ずっと大きな数字になるのだろうが、はたしてそれがどんな意味を持つのか、噂は所詮噂であるとも言える。昔はそういう先生は皆無だったかといえば、そんなことはない。自分が出会った人たちの中にも特異な人がいて、今でもその時の経験は苦い思い出として残っている。学校の先生はそれほどの影響を及ぼすことができる人物であるからこそ、適性の問題も大きく取り上げられるのだと思う。しかし、一方でこんな話もある。小学校に入学した時の担任はいろんな意味で自分にとって良い先生と映っていた。しかし、同窓会で同級生の意見を聞いてみると、正反対の印象を持っていた。同じ人物がまったく違う評価を受けているわけだ。小さい頃だから判断が甘い、などというのはおかしな意見で、やはりそれぞれの生徒が抱く印象はそのまま心に受けたものである。人それぞれに同じ言葉でも受け取り方が異なるように、同じ行動でも違う印象を持つものなのだ。特に良い方も悪い方も先入観というものに左右されている点が大きいということに注意せねばならない。いずれにしても先入観次第で、片方から見れば適性が有り、もう一方から見れば無いことになったりするのだ。中学時代は先生とのかかわりがいろんな意味で楽しめた時期で、変わった人に接する機会も少なかったような気がするが、高校に入るとがらっと様子が変わった。ちょっと変わった学校ということもあるのだが、先生も総じて変わっていた。授業中に相場やお酒の話を好んでする生物の先生、黒板に顔をつけて波の様子を実況する地学の先生、抑揚をつけた読み方で笑いを誘っていた漢文の先生、証明が怪しい数学の先生、トップの生徒を標的に定期試験問題づくりに励む地理の先生、それぞれに特徴があると言えば言えるのだろうが、変人と思えばそうなってしまう。そういう人びとを適性があるのかないのかと論じていくと、中にはちょっと外れているのかなと思える人もいるのだが、そんなことは大した問題ではないと思っていた。高校だから、その程度でもなんとかなるものだ、という解釈もできるが、人それぞれいろんな性格を持ち、いろんな資質を持つものだという当たり前のことを了解しておけば、この程度の行動もさほど問題にはならないのだと思う。はじめに紹介したような先生としての適性などという以前の極端な問題を抱えている人は論外だが、ちょっとした奇行奇癖くらいは大目に見ても良いように思う。それが生徒によっては楽しさに繋がることも多いからだ。学級全体、学校全体、誰にとっても問題なしという人がいるとしたら、どんな人物なのだろうか、まったく想像できない。程度問題ではあるが、まずは寛容に見守るということが先生、生徒、その親、それぞれに必要な気がする。

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4月22日(火)−刮目

 久しぶり、だと思うが、連日の話題ということにしよう。エレベータについての豆知識、というわけでもないが、気になったこととでも言おうか。時々思うのだが、機械にしろ何にしろ、ちょっと気をつけて見ていると、あれっと思うことが出てくる。それを無駄なものと思うか、大切なものと思うか、はたまた人生のスパイスと思うか、人それぞれだろう。
 エレベータを初めて見たのはいつ頃だったのだろうか。たぶん小さい頃に町中のデパートへ行った時、というのが何にしても正解に近いものだと思う。とにかくその頃はきれいなお姉さんがエレベータの操作板の前に立って、お客さんに向って話しかけながら動かしていた。最近はデパートの中でもこういう光景が見られなくなっている。たぶん、人件費の問題であるだろうが、ひょっとしたら雇用機会均等などという事柄が絡んでいるのかもしれない。初期の段階では操作板もかなり複雑なものだったような気がする。例えば行き先の階のボタンを押してという方式ではなく、単に上下するためのレバーがあり、それを操作しながら、指示された階に止まるというような方式だったような気がする。そんなわけかどうか、とにかく操作をするための知識が必要だったようだ。ところが高層、と言っても今では低層なのかもしれないが、そんなアパートやオフィスビルが建ち始めると、そこにはエレベータが設置されるようになった。この場合、操作専門の人がいることはほとんど無く、乗った人が自分で操作することになる。そうなれば簡単な操作で動かせるようにせねばならず、目的階のボタンを押せば、そこまで運んでくれるというやり方が定着した。もう少し後のことだが、扉を閉めるためのボタンの操作を頻繁にし過ぎるので、そのボタンだけが壊れることがしばしばあり、そんなに焦らなくてもちゃんと閉まるという宣伝が新聞やらテレビやらで紹介されたこともある。最近は、テレビゲームで鍛えた技を駆使している若者もいて、あれじゃあボタンも可哀想などと思いながら眺めている。さて、エレベータの中には、正面に鏡を取り付けてあるものがある。あれは何のためかご存じだろうか。エレベータが必須アイテムになるのは車椅子を使う身体障害者であり、彼等はエレベータの中で転回するのが難しいから、後ろ向きで降りることになる。そうなると後ろを見ることが必要だが、首を回すのも大変、というわけで、鏡をつけて後ろが見えるようにした。もう一つ、最近のものには、扉の脇だけでなく両横の壁のちょっと低いところに操作板が設置されているものをよく見かける。そこには青色の車椅子のマークが掲げてあるが、どうもその意味を知らない人が多いようだ。別に専用というわけではないが、あのボタンを押した場合、扉脇のボタンとは違った反応をするという話を聞いた。車椅子を操作する場合、乗り降りに時間がかかることが多い。そのために、あのボタンを操作した時には扉が開かれている時間が少し長くなるように設定されているのだそうだ。そんなこととはつゆ知らず、扉脇のボタンが既に押されているのに、車椅子用のボタンを押す人をよく見かける。確かに、そのボタンは点灯しておらず、まるでその階では止まらないように見えるのだが、実際にはそんな事情によるものなのだが。

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4月21日(月)−切迫

 電車の乗り降りの時に列で並んでいるのに、それが崩れてなだれ込むというのをよく見る。特に悲惨なのは、乗り込む人が殺到してしまい、降りられなくなる場合だ。準備が不十分ということもあるのだろうが、何しろ自分の事に精一杯で血相を変えて乗り込んでくるのを見ていると、はてさてこの人たちの余裕の無さは何を表しているのかと思えてしまう。
 こういう出来事の話は一部の人には失礼になるが、昔はおばちゃんの専売特許のように言われていた。電車の席取りやら、乗り降りの傍若無人ぶりやら、マナーを守らないのはそういう人たちの特徴のように扱われていたのだ。でも、その当時から気がついていたのだが、ほぼ同じような行動を女子中学生や女子高校生が何のためらいもなくとっているのを何度も目撃したし、スーツに身を固めた会社員風の人の無茶な行動も目立っていた。こちらが電車から降りようとする時に、出口の前に立ちはだかり、まるで降ろさないぞと言わんばかりの人に対して、つい手に持った荷物でブロックしながら降りたこともあるのだが、後ろの方で罵声を飛ばしていた。自分のやっていることは当たり前だと思うからなのだろうか、不思議なものである。時間が気になるのか、空いている席が気になるのか、何しろ前しか見えていない。すぐ目の前の人間は彼等の目の中には存在していないのだろう。最近特に目立つようになったのは、エレベータの乗り降りでのお馬鹿さんぶりである。エレベータのドアは自動的に閉まってしまうから、早く乗り込まないと乗れなくなると思う心理は理解できないでもないが、あの人たちはどうすれば早く乗り降りできるのかを考えたことはないのだろうか。みんなでドアのところに殺到し、誰も降ろさないぞといった状況にする。当然降りる人にとっての出口は無くなり、無理矢理壁を突き破るしか方法がなくなる。そんなことをすれば余計に時間がかかることは明白なのだが、乗り込もうとしている人にとって自分のとっている行動はごく当たり前のものになっているようだ。まったく、平然とこちらに向って突き進んでくる。あらゆる乗り物に関する乗り降りのマナーというのは、どこへ吹っ飛ばされてしまったのかと思えてしまう。このことに関しては、老若男女を問わず、最近はどこでも日常的に見られる現象である。誰も教えてくれなかったから、などというのはこういう行動に対する批判への回答にはならない。少なくとも何が合理的なのか、少し考えてみれば判ることなのだから。まあ、そういう事を考える余裕もなく、一生懸命に生きている人たちには、こんなことも単なる戯言にしか映らず、聞く気も起こらないのかもしれないが。

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