独り言を書き始めてから、一年と少し経過した。いつものことなのだが、どんな人がこれを読んでいるのか、どんな感想を抱いているのか、何となく気になるものだ。ネット社会では意見は放り投げるもの、何が返ってきても無視をするという人が多いようだが、ネット前世代としてはそういう気持ちにはならない。
ほぼ毎日読んでいるのは、証券サイトの常連さんの一部である。と言っても、最近ではサイト自体に毎日アクセスするのも同じ人たちになってきたから、一部という表現は当てはまらなくなってきたのかもしれない。いずれにしても、書く方も書く方だが、読む方も読む方、などとまったく失礼な気持ちになったりする。時々反応が返ってくるけれども、ほんのたまのことで、ちょっと忘れていたりするといつの間にか書き込まれていたりする。まあ、その程度が一番嬉しいのかもしれないが。仕事の上でも、遊びの上でも、書くこと自体に苦痛を感じないのは、これだけしつこく書き続けていることからも想像がつくと思う。いつ頃からこんな状態になったのかを思い出すと、それはおそらく小学校に入った頃から、たぶんひらかなを覚えた頃からだったと思う。その前はたぶんお喋りが伝達手段であっただろうから、文章を書くのもその一つと思っていたのではないだろうか。対象による好き嫌いはなく、学校での作文でも、自分で書くお話でも、どちらにしても愉しくやっていた。周囲を見渡すと、原稿用紙に一字も書けずに唸っている同級生がいたりして、まったく不思議な存在に見えたものだ。自分を表現したいという気持ちが強かったのか、何を書けと指示されても、別段悩むわけでなく、適当に書き始め、適当に終わらせた。自己中心的な内容だったかどうか、記憶にないのだが、理解できない文章を書いていたわけではなさそうだ。そんな時代の経験がこんなところで役に立っているのかもしれない。これが収入に繋がるようになれば、それこそ役に立つと言えるのだろうが、そうはいかないところが難しいものだ。しかし、実際には書いたものが金を生み出すことはなくても、仕事上の書き物にきちんと反映されているわけだから、まず役に立っているといった方が良いのだろうと思う。良い日本語を読むことも大切だと思うが、良い日本語を書くことも大切である。はたして、今書いているのが良い日本語なのか、自問自答しようにも、これは難しい。一応意味が通じるものを書いているつもりだが、さっと解る文章かどうかは定かではない。それに、自分の意図としては、どちらかといえば解釈が複数通りあるものを目指そうとするところもある。その辺りは賛否両論だと思うが。最近、小学校で英語を教えようという動きがある。英語を英語として教えるのならば良いのだが、日本語を中心として英語を習うというのであれば、日本語の教育が不十分なところで教えることには賛成しかねる。特に、最近気になるのは、生徒に文章表現をする機会を与えていないことだ。作文の時間も「ゆとり」の導入とともに減り、教える方の抱える問題と併せて、自分の思いを自由に表現する機会は無くなってしまったようだ。ここでいう自由にというのは、何でもいいから書けばいいという意味ではなく、与えられた課題に対して指示された内容だけに限らず自分の思うところを自由奔放に書くという意味である。そういう機会を無くし、模範解答なるものを模倣することに時間を費やすようでは、自己表現力は減退し、言語能力も低下してしまう。その状態で別の言語を教え込むことは何を意味しているのだろうか。もう少し自分たちの言語能力をゆっくりと磨くことに時間を費やすべきではないかと思う。
いつも独り言を書き込む時には前の週の同じ曜日のものをコピーして、その内容を削除し、日にちと新しい内容を書き込んでいくのだが、先週はお休みしたのでもう一週前のものを見つけなければならなかった。下らないことだが、いつもと違うリズムというのは、何をするにしても手間取るものである。
さて、今日の話は以前も少し触れたことのある外来種のお話。植物や動物の外来種は最近また色々と話題になっているようで、今朝もかなり大袈裟な捉え方をした番組があった。今回の対象は、植物が二点ほど、動物が昆虫も含めて二点ほどだったろうか。心配する気持ちもわかるし、問題視したい気持ちもわかる。自分たちの持ち物が誰か見知らぬ人によって奪われてしまうといった感じなのだろうから。植物に関しては、もう既に取り上げたように、新たな外来種が蔓延るたびに問題となる。しかし、少し長い目で見守っていると自然はどこかに落ち着く場所を見つけるようだ。牧野富太郎がしばしば取り上げていたことに、本当の在来種、日本に固有の植物種はどれなのか、というものがある。実際に、多くの植物種はいつの時代かわからないが、他の国から流れてきたものである。そういう中で本物を見分けることは非常に難しく、昔の記録が残っていない状態では、実際にはほとんど不可能である。誤解のないように書いておくが、これは何も外来種を人為的に持ち込むことが正しいと言っているわけではない。在来、外来の区別をそんなに強く論じることがどれほどの意味があるのか、と思うだけである。昆虫に関しても、マルハナバチの外来種が農作物の生産との関係からかなりの量輸入され、それが栽培環境から外部に逃げ出すことが問題視されていた。元々寒い地域では育たない種だから日本の冬は越せず、外部に出ても問題にならないとされていたが、人間がぬくぬくとするための環境を整えている状況では、こんな解決法法は通用しなかったらしい。他のハチとの交雑が行われて、在来種の純系が維持できないことを問題にする向きがあるようだ。これはニホンザルの雑種化が問題にされているのと似た話なのかもしれない。新たな環境で爆発的に増殖する外来種の問題は、アメリカザリガニの辺りから始まっているような気もするが、今ではあのザリガニは一般化してしまい、日本固有のものと思っている人もいるのではないだろうか。これまた念のために付け加えておくが、だから外来種を自らの目的達成のためだけに持ち込むことは構わないと言っているわけではない。問題は、こういう現象が起こると最近の傾向として在来種が絶滅危惧種として扱われるようになり、それによって保護を訴える声が高まることにある。確かに保護をすることにより、問題となっている生き物はその存続が保証されるのかもしれない。しかし、それによって新たな問題が引き起こされる危険性はないのだろうか。日本ではニホンジカやカモシカなどの保護により、山林が荒らされることが問題になった。豪州ではウサギの導入で自然破壊が起き、それを防ぐために捕食動物を導入したら、別の固有種が絶滅しそうになったという話も聞く。元々外来種が持ち込むのは自然が行うよりも人間が行う方が圧倒的に多い。それによって生じた歪みを、また人間が修正しようとすると、別の問題を引き起こすことがたびたびある。こんな繰り返しをしつつ、何度も同じ議論を行う。自然保護などという言葉は人間が何でもできるという驕りから来たのではないか。実際には、その前に自然破壊という人間の愚行があったからこそ、こんな話が出てくるようである。奈良の鹿の管理がいかに手のかかるものなのか、一度保護を始めてしまえば、そこまで手を尽くさないとうまく行かないことが多いのだ。外来種を安易に持ち込まないことは一つの論点として重要だが、起きてしまった後の対策として人間の手を入れることは何を意味するのか真剣に考えてから、こんなことを論じるべきだと思う。
これを読んでいる人の中には、小さい頃から本の虫だった人もいるだろう。家においてある本だけでは足らずに、昔なら貸本屋に通ったり、本屋で立ち読みをした人もいるだろう。自分の場合は、いろんな事情から、今は結構読むようになったが、小さい頃はそれほどではなかったと思う。それでも当時読んだ数少ない本は強く印象に残っている。
小さい頃に周囲から受ける影響はかなり強く、大人になっても残っていることが多い。だからこそ、情操教育だの、就学前教育だのと、大騒ぎをする人がいて、彼らの心をつかもうとする業者がいるのだろう。どうせ読ませるのなら、マンガよりは名作と呼ばれているものにしたいところなのだろうが、子供の方はそんな先を読んだ考えを理解できるはずもない。その時、その時で面白いものに手がのびるだけなのだ。それでもファーブル昆虫記や十五少年漂流記にたまたま手がのびて、読んでみたら面白く、今でも部分的に覚えているというところを見ると、読書の影響力もかなりのもののようである。ただ、名作と呼ばれるものの方がその力が大きいかと言うと、そんなことは必ずしもなく、あまり知られていない作家の作品でもどこかで何となく覚えていたり、印象に残っていたりするものである。活字にして残す意味を感じるのはそんなところで、すべての人たちに認められるような作品でなくても、一部の人たちにとってはとても意味のあるものが世の中に沢山あるようだ。さて、名作といえば、先月読んだ本の中に、小説家を含めたもの書きの人たちが推薦する名作の紹介を集めた本がある。何でもいいから名作と呼ばれる作品を読んでみたいという人にとっては、とても役に立つ本なのではないかと思うが、自分が読んだことのある本を含めて、それぞれの人たちの紹介の文章が中々面白いのだ。これはある新聞に連載されたものをまとめた本なのだが、こういったものに毎週触れることで、興味を抱けば本を手に入れることにし、それほどでもなければ次回に期待するとしていた人もいたのではないだろうか。そういう意味で、元々の名作と呼ばれる本だけでなく、その本を紹介する人たちの文章の質が、その気持ちを左右していたように感じた。比較的短い文章で、その本を選んだ経緯と本の内容を紹介し、さらに自分の感想を含めるという作業は並み大抵ではない。多くの人たちがたった一つしか紹介できないものを、他の人とは重ならないように気を遣いながら、選ぶというのもかなり難しいことだったのだろう。紹介者の作品を知っていたりするとそこにまた楽しみが増えて、中々面白い感じがした。ただ、一つだけ不思議に思ったことがある。それぞれの紹介の文章の長さは大体一定なのだが、ある人だけ他に比べて長い人がいたのである。新聞連載時の特集のような特別扱いのためなのか、どんな事情なのか、本の中には一言も触れられていない。その作品だけが特別とも思えないし、はてなぜなのか、さっぱり判らない。紹介している人物の事を考えると、何となく納得してしまうところもあるが、はたしてそんな特別扱いをするものだろうか。いやいや、とんでもないところに気が奪われてしまった。ちょっと説明しておいてくれればこんなことも起きなくて済むのに。
日本人は議論ベタとして良く知られているようだ。自分たちでそう思っているから、これほど確かなことはない、と考えてしまうが、実際にはもっと違った角度から、このことを捉えた方が良いのではないかと思うことがある。特に、近年の日本人にとって問題となっているのは、議論の上手下手よりも、交渉の稚拙さなのではないだろうか。
議論そのものを考えた時に、相手を負かせるということがもっとも重要であると考える人が多いだろう。議論を勝負事の一つであるとみなせば、その通りである。しかし、交渉の場合はどうだろう。交渉の場合、どこかに妥協点を見い出すことが最も重要なことであるから、簡単に勝ち負けの区別をつけることができない。議論で相手を完膚なきまでに叩き潰したとしても、そこに何らかの結論が導きだされなければ、結局交渉としては失敗となる。タフ・ナゴシエーターとして期待され、環境大臣から外務大臣になった人も、どこがタフかといえば、簡単に相手の意見に同調しないこと、なのだそうだ。これを頼りになると受け取る人もいるだろうが、それだけでは妥協点を見つけることはできない。相手の話を聞かず、自らの主張をしているだけに過ぎないからだ。また、たとえ相手が妥協点を見つけようと探りを入れてきても、同調しないという姿勢だけでは、それに対して応じることはあり得ない。戦場で槍を持って遮二無二突き進んで行く足軽のごとく、先陣を切るだけである。誰かがその後をついて、何らかの助言なり、交代して交渉に臨むことなりをする以外には、結論が出る可能性はほとんどない。そう思って、後をつく人物を考えると、更に難しくなりそうだから、困ったものである。これが政治に携わる人たちの話だけかというと、どうもそうではない。最近は自分の正体を知られずに、議論に参加できる場が増えていて、例えばテレビでの討論会やネット上の掲示板などがその例となるだろう。こういう場では匿名を使うことによって、ほんの一部の人を除けば、自分の正体を知られることなく、議論に参加できる。誰でも、有名無名に関わらず、対等に意見を述べることができるという意味で、これ自体は非常に面白い場であるはずなのだが、実際には違う観点からこの場を活かそうとしている人たちが非常に多い。正体が知られないから、普段言えない差別的な考え、極端な考えを出す人が多く、また攻撃性を前面に出す人も多い。正体が知られていないからこそ、そこでの発言に人間としての責任を持つべきと思う人は、ほとんどいないようである。いずれにしても、そういう席では、議論の勝ち負けにこだわる人がいるようで、他人の意見は聞かず、ただ自分の思うところを放出し続ける。テレビの討論会などの場当たり的なディベートではこのやり方は負けないための手法なのだが、掲示板では意見が掲示されたままになるから、その中の欠点や論理の綻びなどが露になることが多い。それを指摘されると勝ちにこだわる人は、当然綻びを繕おうとする。これが更に大きな穴をあけ、ついには目的を達成することができなくなる。結局は、意見を言い放つだけで、その後の対応をしなければ良いのだが、それでは議論とは呼べなくなるから、つい墓穴を掘るわけである。ただ、そういう人たちは始めから妥当な結論を出そうとしているわけでは決してないから、それでも別段問題は生じない。せっかくの議論の場も、こんな使い方をされるだけでは、このまま飽きて捨てられる運命にあるのかもしれない。
電車に乗っていても、町中を歩いていても、どうも最近の若い人たちの服装にはついていけなくなっている。まあ、こっちが歳をとってきただけ、なのだが、なぜあんな格好ができるのか不思議になる。服装もそうだが、最近は化粧の話で盛り上がるから、これまた面白い。人前で化粧するのは良いこととはとても思えないが、ごく当たり前の雰囲気になりつつある。
若い人と言っても、高校生までもがこういう行動に出ていて、凄いを通り越して、呆れてしまう。彼らにしてみれば、テレビや雑誌で取り上げられる都会の同世代の女の子たちがやっていることを真似しているに過ぎないのだろうが。まるで化け物としか思えない、けばけばしい化粧は最近は減りつつあるが、その代わりの傾向が出ているのだろう。ただ、こういうことに疎い者にとっては、どこに特徴があるのかさっぱり判らないから、書き出すこともできない。大形の手鏡が出てくると、さあそろそろだ、と思うだけである。電車にしても、バスにしても、よくもまあ失敗しないものだと思うが、それだけ慣れているということなのだろう。もう一つ、これは表面的なものでなく、肉体的に気になっていることだが、ヒールの高い靴を履いている人たちの中に、あれっと思えるような歩き方をする人がいる。昔も今も、高いヒールの靴を履いて、颯爽と歩くというのが素敵なのだろうが、それとはかけ離れた姿で歩いている人を時々見かける。膝を曲げたままで、腰を引き、ヨタヨタといった感じで、まったく若さが感じられない。膝にも、腰にも、背中にも、良いとは思えない歩き方なのだ。彼らのとっては、ミュールと呼ばれる紐のないつっかけのようなヒールの高い靴を履くことが、春から夏にかけてのファッションなのだろう。確かに涼しげな靴で、蒸し暑い日本の夏にはぴったりのものだと思う。しかし、履いている本人は、その靴での歩き方を意識していないようなのだ。それとも、ひょっとして、あれが最近の流行なのだろうか。さすがに流行だとしても、あれでは自らの体を痛めてつけているとしか思えない。もし、高い靴を履くとどうしてもあの姿勢でないと歩けないのだとしたら、もうそういう靴を履くことをやめて、スニーカーなどの平たい靴を履くべきだと思う。最近、姿勢の問題が取り上げられたりするが、あれなどはかなり重症な気がする。二足歩行は人間だけが行っており、腰に対する負担はかなり大きいといわれている。それでも、重心がまっすぐに上から下にかかっている時はまだましで、関節ごとに折れ曲がっているような状態では、それぞれにかなりの負担がかかる。力を抜くことが楽だからというのでは、済まされないように思う。そんなところから体の不調が出てくる場合があるとしても、本人はそれが自分の歩き方から出ているなどとは露ほども思わないのだろう。そういえば、最近は足の指を地面に着かなくなってきたと報じていた。何がどうしてそうなっているのかは判らないが、こんなところにもいろんな問題が潜んでいそうである。格好の良い歩き方が体にとっても良いのだろうが、それも意識しないとうまく行くわけがない。ちょっとした注意だけで直せるものなのだろうから、気にして欲しいものだ。では、自分の歩き方は、うんまあ、こんなものか。
絵画や音楽などの芸術作品に触れて、その作品そのもののすばらしさに感動することがある。そうは言ってもいつもそんな具合にことが運ぶわけではない。誰の作品か、ということを聞いておいた上で、やはり巨匠の作品はすばらしい、という具合に先入観を持ってこそ感動も産まれるという場合もしばしばである。いつも素直に自分の気持ちだけで、というのは簡単なようで難しいものだ。
音楽や絵画というのは趣向の問題やその場での感情の高まりなどが表に出やすく、先入観を与えられなくても結構感激してしまうことが多いから、まだ楽な方だと思う。普段触れることがない、それよりも更に複雑な世界となると、何も説明なしで良いか悪いかの判断をすることはとても難しくなる。日本の伝統工芸などもその部類に入るような気がする。蒔絵など、はででありさえすれば、それで良いと思えてしまうし、陶磁器もそういった傾向がかなりある。骨董などの鑑定でそれらのものに詳しい人物が、作られた時代背景、作者の話、その後の状況などを詳しく解説してくれて、初めてその作品の良さが判ったような気がするが、実際には作品そのものの良さに関して何も判ったわけではない。単に作品の周辺にくっついているものを知ることができただけなのだ。しかし、そういう詳しい人の話を聞いていると、実際には作品そのものの良し悪しを考える上で、背景となる情報をきちんと知っておくことは大変重要であり、そのことなくして良し悪しを語るのはおかしいとさえ思えてくる。はたして、これが良いことなのかどうなのかよく判らない。特に、骨董としての価値を論ずる場合にはこれらの背景は重要な要素になるのだろうが、自分が感じる良し悪しにとってはそんなことはまったく関係してこないはずなのだ。ただ、実際に骨董としての価値を聞いてしまうと、自分の心にも変化が生じ、結局それがはじめから良い作品であったかのごとく思い始めるから不思議なものだ。例えば、重要文化財とか国宝とか添え書きがあると、ついすごい作品のように思えるのと同じことである。実際に自分自身の判断がどうだったのか、そうなってからではもう思い出すこともできない。感性を大切にするべきなのか、はたまたそういう周辺情報をも含めた上で感動すべきなのか、そんなに簡単に決断できない。まあ、いずれにしても、いろんな雑音が周りからやってくるわけだから、何も予備知識なしで判断することはとても難しいことに違いないのだが。そういえば、先日オークションにかけられたゴッホの作品などは、判明する前と後でどんな違いがうまれたのだろうか。確かに競り落とされた価格としては桁違いのものとなってしまったが、はたしてその絵を見た人にとってどんな違いが出てきたのだろう。悪戯書きをされてしまった作品がはたしてどれだけの価値をもつのか、簡単に判断はつかないだろう。もし、うまく修復できたとして、ゴッホの描いたものが取り戻されたら、それはまた違うものになるのだろう。そこでまた、ゴッホという巨匠が描いたものと思わずに鑑賞したとしたら、などと考えても、もう既に知られてしまったものはそんな仮定をおくことができない。どんなものでも、本当にすばらしいものは、何の先入観もない状態で、十分に感動を与えるものだと言われたりするが、どうにもその辺りが信じきれないのである。本当にすばらしいとは、どんなものなのだろうかと。
子供の日ということで、子供に関する番組が数多く放送されている。次世代を担う大切な人材と見ることができるし、身勝手な大人たちによって振り回されている不幸な人たちとみなすこともできる。時と場所、その他諸々の要素によって、いろんな見方がされるのだが、自分たちだけでは自由にならない、ある意味束縛されているのが子供であるという見方が受け入れられやすいだろうか。
そんな目で見ていると、平和な国と戦争が日常となっている国では大きな隔たりがあり、後者の国で生き延びている子供達は前者の国に住む人たちから見ると総じて不幸であるようだ。確かに、砲撃の音は昼夜なく続き、突然自分の家が破壊されることもあるし、目の前で誰かが銃撃の犠牲になることがある。そんな状況をそんなことが起きるはずもない国から見れば、強いストレスの下で暮らすことを強いられているから、まともな生活もできないだろうし、ましてや自分や自分の国の将来を落ち着いて考えることもできないのではないか、と思えてしまうだろう。しかし、実際にその子供たちに聞いてみると、将来は医者になりたいとか、教師になりたいとか、はっきりとした夢を持ち、平和に暮らしている子供達が何も考えていないのと比べると、かえってより明確な将来像を築き上げているように思える。ストレスがすべてのものを破壊するというのは実際には経験したことのない者が抱く恐怖心のようなものから出てきた幻想であり、その渦中にある人たちはそれを乗り越えるためにより多くのものを自分の中や外に築こうとしているのではないだろうか。表現の仕方としては不適当かもしれないが、適度なストレスを感じることは生活を送っていく上で必要なことなのかもしれないのだ。これは何も、戦時下の状況が適度なストレスと言いたいわけではなく、ストレスが何もない平穏無事な状況が人間にとって最も適した状況であるとは言えないのではないか、と言っておきたいだけなのだ。人は自分の周りに誰もいない状況に追い込まれると孤独という類いのかなり強いストレスを感じるそうである。一方で、一人でも人間があらわれると、その人に対する感情から出てくるストレスを感じ始める。誰もいなくても、誰かいても、どちらにしてもそこには何らかのストレスが存在するわけだ。実際に問題となってくるのは、ストレスの存在そのものではなく、その存在をどう感じるのかということなのではないだろうか。現代社会を考えてみると、今はストレスに溢れた環境が存在し、それに曝され続けている人たちがいる、と繰り返されていることに気がつく。しかし、実際に今の生活と少し昔の生活でどちらのストレスがより多かったのか、明確な答えを見つけることは難しい。ただ、上に書いたように、同じ程度のストレスでもそれを強く感じる人が昔よりも多くなっていると仮定すると、現状がうまく理解できるような気もしてくる。環境ホルモンなどの汚染物質にしても、一昔前の光化学スモッグと比べたりすれば、どちらがより重いのかなどという議論は中々できないものである。まして、最近話題になっているものほど、昔の汚染濃度を調べることは不可能であり、比べようがないことも事実である。ストレスが多い社会だから、今の人たちは大変な時代を生き抜いている、ということは事実なのだろうが、以前の人たちはそれほど大変ではなかったと否定することもできない。そんなことを思うと、つい感受性の問題を取り上げたくなってしまうのだ。では感受性が高まった原因はなぜか、何となくあれかも、これかもと思うところもあるが、今のところはっきりしないと言っておくしかない。ただ、最近のような子供が生まれる状況が続く限り、この傾向に変化は起こりにくいと思えてしまう。