パンチの独り言

(2003年5月12日〜5月18日)
(中州、上辺、立言、実学、無役、記憶、直観)



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5月18日(日)−直観

 電車の中でウトウトとしていてふっと目が覚めたら、外は稔りの秋の夕暮れのようだった。おや、なんだかおかしいぞ、と思って、じっと目をこらしてみると、そこには稲穂ならぬ麦の穂が一杯の実をつけて、その色を薄い緑から黄色に変えつつあった。
 居眠りをしていたから、ということもあるのだろうが、こんなことが時々起きる。目の前に展開されるものを見慣れた風景と重ね合わせてしまうのだ。違いを見つけるためにそうすることもあるのだが、多くの場合は似ているところを見つけるためで、時にはそれによって見慣れた風景と間違えてしまうことなどもある。これは今この時に見ている風景の分析や記憶そのものとは違う話で、その分析に昔の記憶が入り込むことによって、見たままを感じるのではなく、そこにはないものまでも含めた形で感じることを意味する。どんなものでも沢山の要素からできているから、それを一つ一つ細かく分けて、いちいち分析をしていたのでは、即座の判断などできない。その代わりに特徴となりそうなところを適当に拾い上げて、それと以前の経験で身についたものの記憶とを照らし合わせることで、素早い分析と判断を可能にしているのだと思う。これはとても素晴らしいやり方だが、完璧ではない。少数の特徴を拾い上げるところで、大切な要素を捨ててしまっているかもしれないし、記憶しているものとの類似にこだわり過ぎて、情報をねじ曲げる結果になっているかもしれない。これが一生に一度の決断という時に、そんなことを軽々しくしたら大変なことになるのだろうが、実際にはこんなことで失敗をしてもあとで取り返せることが多いから、大層なことにはならない。ただ、そういった失敗の原因は分析と判断を迅速に行わなければならないところにあり、そのための特徴抽出と比較の手法を使う限り、この手の失敗はつきものということになる。これが人それぞれの範囲内のことであれば良いのだが、問題となるのはこういった判断に機械を使ったら良いのではないかといった場合である。計算速度を早くすることで、人間ではとてもできないような回数の計算を瞬時にやってしまうものが出てきたが、だからといってこういう分析と判断が的確にできるものかというと、そうでもない。こういうことの例として適当かどうかはわからないが、駒を動かす競技であるチェスや将棋などがよく引き合いに出される。コンピュータが人間の王者を破ったとして有名になったのはチェスの方だが、相手の駒を利用できないなどの制限があるために計算の複雑度は低くなるのだそうだ。だから、将棋などはそこまで強いものが出てきていない。幸いと言えるのか、まだ将棋の名人を確実に破ることのできるコンピュータは登場していないらしいのだ。確かに手数の複雑さもそうなのだろうが、直観と呼ばれる感覚が機械にはまだ存在していない。答えが明らかにならないものに関しては、それを選択することができないからだろうか。そんなことから、将棋や囲碁は未だ人間の優位が保てる競技のようだ。と言っても、初級用のソフトで苦しんでいる人からすれば、十分にその強さを実感させられているわけで、人間優位などとはどこの話なのか、ということになるのだが。

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5月17日(土)−記憶

 目の前で事故や事件が起きたとき、ほとんどの人はその場面を覚えているだろう。しかし、どのくらい正確に覚えているかということになると、人それぞれどころか、まったく違ったことを記憶している人が多く、同じ場面を見たはずなのになぜだろうかと思えてしまうほどだ。
 目撃者の記憶に関しては、既にいろんな実験が行われていて、特徴の捉え方が人によって大きく違うだけでなく、まったく違ったものとして捉えていることが明らかになっている。たとえば、そこにいた人の服の色についても、場合によっては、青と赤などまったく違った色が「目撃」されるし、体つきや年齢などについてはもっと様々な特徴を持った人が「目撃」されることになる。こういうことの原因として考えられるのは、記憶のあやふやさと間違った記憶を後から強化する作用などだが、その時頭に描いていたものとの対比などもその一つになるだろう。これはちょっと解かりにくいかもしれないが、目の前で展開された場面が元々色つきではなく、白黒のまるで塗り絵の原画のようなもので、そこに後から色を塗る作業をするようなものである。この時の色塗りが同時に行われるのではなく、後から行われるから、どこかに別の思い込みがあるとまったく違った色に塗られてしまうわけだ。意外に思うかもしれないが、画像の知覚はいろんな部品に分けてから行われるから、形にしろ、色にしろ、それぞれ別々に処理されることになる。これがじっくり時間をかけて行われれば大した問題も起きないが、あっと思うような瞬間に事件が起きてしまうと、いろんなものが誤った具合に処理されてしまう。またこの時の処理も、記憶の中にあった部品との一致を基本としているらしく、微妙な違いが大きな違いを生み出すこともあるのだろう。そんなわけで何しろ目撃者の記憶というのはあいまいなものという仮定を置いておく必要がある。人間の記憶が写真やテレビなどと同じであると思っている人はいないと思うが、これほどひどいものなのかと思えてくるのではないだろうか。全てが信用できない、などと言ってしまえば、目撃そのものに意味がなくなるわけで、そこまで思う必要もないが、少数の人の証言だけを頼りに全てを進めることに危険性を感じておく必要があるだけだ。先日のある事件でも、子供の目撃証言がはじめはあたかも正確であるかのごとく伝えられたが、その後の捜査で一部を除いて不正確なものであったように思えてきた。実際のところはまだ確定していないから、この時点で何が本当だったのかなどと論じるのは先走りすぎだが、こんなことがあり得るのだという事は言えそうだ。これは何も子供だからという類のものでなく、誰にもあり得ることなのだ。

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5月16日(金)−無役

 山の木々は青さを増し、春も深まり、そろそろ初夏といった風情だ。道ばたの草花も勢いが出てきて、色とりどりの花々を咲かせている。名も知らぬ草花のことを人は雑草と呼ぶことがあるが、野山に生えているものを野草と呼ぶのにくらべると、どこか邪魔なものといった敵意が感じられるような気がする。
 雑草というのはおそらく何の役にも立たないばかりか、自分たちが育てている庭の草花を目立たなくさせてしまうほど邪魔な存在といった感覚が強いように思うが、日本に限った感覚ではなく世界中至る所にあるもののようだ。当然悪い印象をもとにした諺などもあり、雑草の英語であるweedを使ったものも辞書などには載っている。weedは雑草という意味だけでなく、それだけで海藻という意味にも使われるが、一般にはseaweedと言う方が馴染みがある。この呼び方などは英語圏の人びとにとって、海藻が何の役にも立たないものであり、漁の邪魔になったりすることを表しているのではないだろうか。一方、日本では海藻は食べ物として昔から扱われてきたので、まったく違った印象を持たれている。代表格は昆布で、昆布巻きなどにして食べたり、おぼろ昆布のように特殊な加工をして食べたりする。基本的にはその旨味が重要で、それを活かすような調理法や食べ方をしてきたようだ。昆布だしはその例であり、じっくり煮立ててだしとして使っていた。当然昆布の旨味成分は何なのかに注目する人もいて、大量の昆布から旨味成分を取り出すことに成功したのが日本人だったのは当たり前のことだろう。さらに成分分析がなされ、アミノ酸の一種であるグルタミン酸ソーダであることが明かとなった。その後ある商標をつけて販売されるようになり、一時は頭が良くなるなどいう俗説まで流布されていたが、最近はその当時ほどの売れ行きではないらしい。それでも、中華料理には欠かせない調味料として使われているし、ラーメンに大量に入れているところもある。更には、味噌汁に入れている店があるなどという話もあり、手間を省いて味を良くする手段として重宝されているようだ。しかし、欧米ではこれが偏頭痛の原因になるという研究もあり、Chinese restaurant syndrome(中華料理店症候群)などという病名までつけられ、昔の俗説の頭が良くなるなどとはまったく違った話になっている。他の海藻では、ワカメは良く使われているし、ひじきなどもそのまま使われている。加工食品としては寒天は天草から取り出された多糖類を主成分にしたものだし、海苔も一種の加工食品だろう。海苔が外国に紹介された時に、黒い紙と呼ばれたようだが、今では一般的になった寿司屋で巻き物を美味しそうに食べるようになっているようだから、まったく変われば変わるものである。こんなに役に立っているものを使い方を知らねば、海の「雑草」と呼ぶことになる。要は、自分にとってどんな存在かということが呼び名の由来になっているわけだ。そんなことを考えていたら、ふと、「雑草という名の草はない。」という言葉を思い出した。

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5月15日(木)−実学

 不況で求人が減っているが、この状況下で就職を勝ち取るために必要な要素とは何だろうか。日本は以前から学歴社会と言われ続けていたが、大学に進学する人が全体の半分を超えるようになった今、大卒が当たり前になり、大卒という二文字がラベルとしての威力をもたなくなっているようだ。
 ブランド志向の買物客のためにはブランド名が重要であるのと同じで、大卒の二文字の前に有名大学の名前を付け加えることで、バブル期には引く手数多という状態になっていた。しかし、最近ではブランドというだけではお客さまの食指を動かすには不十分で、その品質が問題とされるようになっているようだ。ただ、品質といっても、買う側も売る側も決定的な指標をもっているわけではないので難しい。品物としては、何を自分の質として表現すれば良いのかはっきりしないから、不安な気持ちに追い込まれる。もとから自分に自信があれば、そんなことを心配する必要もなく、自信のある部分を前面に押し出して行けば良いのだが、最近の様子を見るとそれほどの自信を持っている人はほとんどいないようだ。そこで、以前のようにブランド名を手に入れることに一生懸命になり、少ない努力で大きな結果を生み出すためにはどのブランドが良いのか、などといった話が週刊誌などを賑わしたりする。さすがに、そんなに直接的な表現は使われていないが、その代わりに会社の評価が高い大学名という見出しがあったり、そこに偏差値が付け加えられたりする。本来の目的はどこにあるのかわからないが、見方によっては楽して手に入れるための道筋を示しているとも言える。ただ、このところの状況を見る限り、大学の名前だけで何とかなるわけではなく、そこにさらに付加価値をつけねば買ってもらえないようである。これが品質と言われるものなのだろうが、何しろ何をもって価値と言えるのかがはっきりしていないから、当事者たちにとっては迷路の中にいるようなものである。たまたま認められるものを手に入れたから出口が見つかったという場合が多く、こうすれば大丈夫という絶対的なものはないようだ。そんな中でも、ただ立ち止まっているだけでは埒があかないから、結局何かを手に入れようと動き回る。それが国家資格であったり、英語の国際的な試験の点数だったりするのだろう。そうやって自分の能力を高めていくことは悪いことじゃないし、自分の実力を測るためにも必要だ。ただ、そのために必要な学習の機会は大学では手に入らないから、それを別のところに求める人がいる。いわゆる専門学校だが、そこで資格を手に入れるために必要な知識や手法を学ぼうという人たちが、どんどん増えているというのだ。そういう人たちからすると、大学というのは単なるラベルを手に入れるためのところで、質を決めるのは別のところにあるということなのだ。そのことを否定するつもりもないし、それで目的とするものが手に入るのなら、十分なのだろう。ただ気になるのは、そういう学生の中に大学は証書を貰うだけのところで、他には何の役にも立たないと考える人がいることで、彼らにとっては勉学の場とはとても呼べない状態なのだ。他方、そんな状況を危惧して一部の大学では専門学校で教える科目を取り揃えて、特長を見い出そうとしているところもある。どちらも何が本分なのかというところには目が向いておらず、単に自らの目標達成のために効率の良い方法を模索しているだけなのだ。

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5月14日(水)−立言

 先週の後半あたりからだっただろうか、経済担当の大臣の顔が画面に出てくるようになったのは。株価低迷、経済指標の悪化、などなど、経済問題には事欠かないのに、なぜだか表に出てくることが少なかった。それだけ問題解決のための施策が枯渇していたのか、はたまたマスコミでさえその存在を忘れかけていたのか。
 実際に登場する機会が多くなったことはある意味で良い傾向だろうし、それによってこの国の政府の考えているあるいは目指しているところが少しでも明確になれば、それによって安心感が高められるから良い方向に向かうかもしれない。しかし、どうも様子を見るとそんな感じが伝わってこない。今回の注目の原因となったのは、ある議会の民間議員の意見が公表されたことで、それに対する政府の考えを質すために代表として登場願ったということらしい。しかし、その対応を見る限り、相変らずはっきりしないといった印象しか残らない。はっきりしないというのは、一番上に立っている人のいつもの対応のように、どっちつかずのものとは違い、態度ははっきりしているのだが、民間から出された意見に対して、自分たちが何をしようと思っているのかがわからないという意味のはっきりしないである。おそらく、民と公の立場の違いがあるから、何か明確な施策を示してしまうと、いろんな歪みが生じることを危惧しているのだろうし、実際そうなることは今までの例からも明らかである。ただ、そういった理由で直接的に意見に対する回答を避けたいのなら、別の案を出すなりの回答もあり得るのではないか、ということもある。意見に対して反対するわけではなく、そうなれば良いと思っているが、政府として民間にそのようなことを要求あるいは強制することはできない、という意見を述べていたのだが、それではお願いでもするのか、あるいは別の施策があるのか、といえば、そうもしないし、どうも何もないらしい。この時期に表に出さされても施策を講じている立場上様々な点で答えにくいのかもしれないし、あるいは何も考えていないからなのかもしれない。しかし、結果として良い方向に向いてくれれば良いというほどの余裕は、今苦しいと思っている人たちにはまったくないのだから、もう少し何とか言って欲しいものである。不思議ではなく当然のことかもしれないが、提案に対する意見を求めた時に返ってくる答えは、まるで教室での学生や講演会場での聴衆に対するかのごとく、いたって教科書的で机上のものが多くなる。身についているものから逃れることができないのかもしれないが、ある組織の代表として出ている以上、違った見方をして欲しいと思う人も多いのではないだろうか。施策を講じる政府期間は主に省庁であり、それらに対して直接的な影響力を持たないから、やむを得ない部分もあるのだろうが、なんとも頼りなく感じられる。今回の登場もどうもそういった以前からの印象をより強くするだけのものとなりそうで、大きな変化が生じるようには思えなかった。まあ学者さんとはやりにくいから、というどこかからの声まで聞こえてきそうだが、はたしてどんな方策が出てくるのだろうか。

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5月13日(火)−上辺

 植物好きの人と山を歩くのは楽しい。次から次へと植物の名前が飛び出し、それに関するお話などが聞けるからだ。鳥好きの人もかなりのものである。姿を見て鳥の種類を言い当てるのは当たり前、鳴き声だけで区別がつくぐらいじゃないと、などと言われたりする。確かに、声はすれども姿は見えずということがあるから、大切なことなのだろう。
 こういう生き物を好きな人にもいろんな人がいる。好きだからいろんなことを知りたくなり、生き物の名前やその特徴、それにまつわる話にまで知識を広げようとする人もいれば、一方で、ただ見るのが好きなだけとか、名前を覚えるよりも育てるのが好きという人もいる。どちらも生き物が好きということには変わりがないが、その気持ちの現れ方が違うといった感じだろうか。こういうふうにある特徴を持った人たちをグループ分けすることを分類というが、生物も名前や特徴を覚えるために分類されている。昔は名前だけがあって、野に咲く赤い花とか、山に咲く白い花とか、そんな名前の付け方がされていたのではないだろうか。それでは何のことやらわからないとか、地方によって呼び名が違っていて混乱するとか、まあ、そんなことで支障が出てきたのだろう。スウェーデンのリンネという人が生き物の分類法を考案した。時代も何も覚えていないが、とにかく、植物でいえば、花の特徴や葉のつき方の特徴、そういったものを色々と組み合わせて、同じように見える植物を同じ集団として扱うようにした。分類という手法は動物にも広がり、さらにもっとずっと後になって、細菌などにも適用されるようになった。植物と動物に関しては、基本的に見た目でわかる特徴を拾い上げて、それを基にグループ分けするようだ。そういう分け方にもいろんな段階があって、動物と植物をわける段階、界と言っただろうか、そこから始まり、門やら、目やら、まあ覚えても仕方がないようなものだろう。でも、科くらいになると、いろんなところで聞くことがあるだろうから、結構受け入れられているようだ。植物で言えば、マメ科、バラ科、キク科、ナス科、などと次から次へと出てくるだろう。動物で言えば、ネコ科、イヌ科、ヒト科、とあっただろうか。こちらの方は植物ほどの馴染みはなさそうだ。野生の植物を見ることは多いけれども、野生の動物を見ることが少ないからだろうか。ニホンカモシカはシカよりもウシに近い仲間、などということは聞いたことがあるだろうか。偶蹄目と奇蹄目、これまた、訳のわからない話になってしまいそうだ。ネコ科と言っても、家ネコからライオンまで、全然違うじゃないかと思いたくもなる。植物の方では、野菜の中に数多くあるナス科、あれもこれもと思えてくるくらい多いのだが、葉の形などを見ると確かに似ている。そういう見た目の特徴を捉えて分類法は発達してきたのだが、最近はちょっと様子が変わり始めている。ゲノムという生物固有の遺伝情報の集まりを調べることができるようになったので、それを利用して生物の縁の遠い近いを調べようということになったらしい。しかし、所詮は四種類の文字で書かれた暗号文である。どこをどう比べたら良いのかはっきりしないし、見た目の類似が文章でどのようになっているのかもわからないことが多い。まあそれでも、幾つかの指標となるものを決めて、その類似性で近縁の度合いを決める方法がとられているようだ。そうやって得られた結果が今までの分類法と同じだったのか、ということに関しては、どうもそうではなかったらしいが、ではどちらが正しいのかという疑問にはまだ答えられないようである。まだまだわからないことが多いからなのだろう。ヒトはラクダとクジラとどちらに近いのか、などと質問されてもなんとも答えようがない。それでもものすごく近い関係にある生き物に関しては似たところが沢山あることがわかってきたらしい。ヒトとチンパンジーの違いはわずか数%とか。ヒトが地球上にこれだけいて、こんなにお互いに違っていることを考えると、その違いはほんのわずかに見える。隣にいるヒトと、檻の向こうにいるチンパンジーとどちらが自分に似ているのか、何となく知りたくない気分になる。

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5月12日(月)−中州

 去年もそうだったが、このくらいの時期になると山あいに紫の花や白い花が目立つようになる。紫の花は、山の中だと藤の花であることが多く、里の方に降りてくると桐の花である。花の形や大きさはかなり違うのだが、遠目には同じ紫ということで区別がつけにくい。白い方もたまに藤の花を見ることがあるが、ほとんどはニセアカシアである。
 ニセアカシアは針槐とも呼ばれ、マメ科に属するから、藤の花と似た感じがするのも無理はない。小さな白い花が総状に垂れ下がっているので、花の形をよく見ない限り、区別がつかないのかもしれない。まあ、そんな素人考えは脇においておき、先日ドライブをしていたら、この木が群生しているところを近くに見つけた。道ばたに植えられていることが多く、都市によっては街路樹として使っているところもあるようだが、この場合は道ばたから河原にかけて、更に中州にまで生えていた。どうしてあんなところで増えたのか、よくわからないが、最近の河原の様子を考えると、ああいった大きな木が生えるのも何となく理解できる。上流に河川事業の一環として、下流での氾濫を未然に防いだり、発電設備として建設されたダムがあり、そこで水の流れの勢いが調節されるために、どこの川でも昔のように川幅一杯に水が溢れるということはほとんど見られなくなった。最近話題になるところといえば、栃木から茨城にかけて流れている那珂川だろうか。上流の那須辺りで豪雨になると、最下流の水戸周辺ではかなりの水量が流れることがある。しかし、昔は氾濫で恐れられた川の多くはほとんど水が流れないものになっているし、越すに越されぬと言われた大井川も普段の水量は川幅の数十分の一程度であり、増えてもそれほどのことはないと言われている。このニセアカシアの群生が見られる川は、100年ほど前は鉱毒事件で有名になったものだが、今では上流の鉱山が閉山して久しくなっていることもあり、そんな雰囲気はまったくない。それでも、この辺りは上流から流れ出た川がその方向を変えるところにあたるらしく、河原には大きな石がゴロゴロと転がっている。少し下流の方に行くと、そんな雰囲気は無くなり、石の大きさもかなり小さくなるから、この辺で流れの勢いがおさまるのかもしれない。でも、昔なら、そういった感じでこの辺りもかなりの勢いで水が流れていたのだろうが、それが今ではどうもそうとも言えないようだ。中州に大きな木が生えているなどというのは、時に水量が増し、流れが速くなるような川では考えにくいからだ。そんなことを考えながら、最近の大きな川の河原を思い出してみると、そこら中に畑があるし、グラウンド、ゴルフコースまである。場所によっては駐車場になっているところもあるくらいで、それだけ水量が増えることが少ないことがわかる。とはいえ、那珂川でも車がプカプカ流されていたし、どこかの河原のゴルフ場が泥だらけになったという報道もあった。いくら人の力で制御しようとしても、限界はあるものらしく、確率は低いがたまにとんでもないことになる。まあ、それでも次の日からは同じ日々が繰り返されるだけなのだが。

(since 2002/4/3)