パンチの独り言

(2003年5月19日〜 5月25日)
(頽齢、汚染、成長、自縄自縛、隔離、腐敗、違和)



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5月25日(日)−違和

 朝、車を走らせていると、いつもの道、いつもの風景、何も変わらないと思えてしまう。でも、それは結局自分が何も見ようとしていないからで、毎日毎時間、その瞬間瞬間に景色も変わるし、人がいたら、それも変わっていく。見ようと思えば見えるのに、見ようと思わないから見えない。まるで当たり前のことだけど、こんなことにさえ気がつかない時もある。
 こんなことから書き始めれば当然何かが変わったということだなと思うだろう。実は、変わったというほどのこともない。交差点で止まっていたら、目の前を買物袋のようなものを持った集団が渡っていっただけなのだ。人が歩いていくだけなら、何も珍しいところはない。しかし、その集団には一種異様な雰囲気があった。手に持つ袋は買物袋と言っても、スーパーなどで買物をした時に渡される例のポリ袋で、中にいる数人は何も持っていなかった。また、何も持たない人びとは女性に見え、持っている人びとは全て男性に見えた。これだけでは異様になるはずもない。実際にはすべての男性が溌溂とした雰囲気を持たず、女性たちに指示されて動いている感じだったのだ。横断歩道を渡る時も急ぐように促されていた。はっきり言えば、精神病院の入院患者のたまのお散歩の時間といった雰囲気だったのである。渡った先には入院施設をもつような病院があったから、おそらくそうだと思う。以前ならばこういった施設は町中ではなく、どこか町外れか山の中にあるというのが当たり前であったのだが、最近はそういうこともなく、ごく自然な雰囲気で町中に入院施設を備えた病院が存在している。こういう散歩、専門家の中でどう呼ばれているのか知らないが、がごく自然に周りの風景に溶け込むようであれば良いのだが、さすがにそこまではいかない。やっぱりどこか変な感じがするのである。服薬のせいなのか、別の理由なのか、皆おとなしく歩いているが、そこに生き生きとした感じが伝わってこない。何かが抑えられてしまっている雰囲気が遠目にも判るのである。精神分裂病、今は統合失調症と呼ばれているようだが、の患者は、様々な理由で社会生活を送ることに困難が伴うようになり、入院させられている人がいるが、この場合にも症状の軽減などの理由から薬を投与されているようだ。言葉は変だが、おかしなところだけを取り除ける薬は存在せず、何らかの副作用が伴うために、生き生きとした感じが失われてしまうのかもしれない。躁鬱病に関しても、症状がひどくなれば、やはり入院の必要が生じるのかもしれない。最近は、ネットを介した情報交換が盛んになり、自殺願望を持つ人たちが一緒に願いを成就したという報道もある。彼らが精神に異常をきたしていたかどうかはわからないが、不安定さを持っていたことだけは確かだと思う。こういう病院が以前とは違い、社会にある程度開かれた存在になっていることは良いことだと思うし、それが治療の一助になれば幸いだと思う。しかし、一方でこういう病院が増えているような気がするのはどうなのだろうか。以前より目に触れやすい存在になっただけなのかもしれないし、実際に患者数も含めて増加しているのかもしれない。患者が何を考えているのか判らないということが、彼らを避けようとする気持ちを働かせているのだろうが、正常、異常と無関係に自分の頭の中で何が起きているのかわからない状況では、あまり意味のないことかもしれない。特にこの頃町中で起きる事件の報道を見ていると、周囲の人びとを信用することの危険性が声高に論じられているようで、なんとも不安にさせられる。実際には、昔も今も、そういうことはあったし、不幸な目にあわされた人もいた。何が違ってきたのか、数なのか程度なのか、それとも何も変わっていないのか、いずれにしても、そういうこともあるのだという気持ちくらい持っていないとだめらしい。

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5月24日(土)−腐敗

 ずいぶん暖かくなってきた。一時期、お日さまが顔を覗かさない日が続いて、いい加減気が滅入りそうな季節に、まったくお天気の方まで、などと思っていたが、このところは少しましな感じがする。しかし、気温が上がってきたらきたで、またいろんな問題が生じる。もう少しすると鬱陶しい梅雨の季節の到来だが、食べ物の腐敗が気になるわけだ。
 食中毒の原因も、昔は腸炎ビブリオ菌とサルモネラ菌に限られている感じで、それ以外にもボツリヌス菌や黄色ブドウ球菌などというものも時々登場したが、前者は辛子レンコンによる食中毒で有名になったし、後者は最近は院内感染で問題となる多剤耐性菌、MRSAの方が有名になっている。そういう意味で、季節による流行という点から見ると、ビブリオやサルモネラの方がこれからの主役といった気がする。しかし、小学校の給食が原因だったり、幼稚園での集団感染で紙面を賑わした病原性大腸菌も、つい最近も話題になるなど、その勢いは衰えていないようだ。いずれにしても、これから食品の調理と保存に関してはより一層の注意が必要な季節に入る。話を戻すがボツリヌスによる中毒では、食品に熱を通して細菌を殺せばそれで安心というわけではない。細菌が作った毒素がその程度の熱では分解されないからだ。こんなことを書くと怖くて辛子レンコンが食べられないと言われそうだが、何が原因だったのかが判明しているから、その後は対策がとられているようなので、心配する必要はないと思う。さて、そんな食品の腐敗が簡単に起こる季節になると、台所の臭いが気になるものである。先日アサリの味噌汁を作ったが、中身を食べた残りの貝殻をゴミ箱に捨てていたら、案の定腐敗臭がしてきた。肉や魚なども腐敗するが、特に貝の腐敗臭は強烈で、耐えられない気がしてくる。ちょうど次の日がゴミ回収の日にあたっていたのでそれだけで済んだが、これがあと数日捨てられなかったら、外に放り出しておくしかなかっただろう。ただ、そうすると蠅が集って、これまた嫌な問題を生じる。いずれにしても、腐敗によって生じる臭いは、単に嫌な気がするだけでなく、実際にいろんな問題を二次的に生じて、それこそ別の形の病気を引き起こす原因にならないとも限らない。そんなことを思いながら、ゴミを捨てに行った時にふと思ったことがある。日本全国によく見つかる貝塚と呼ばれる遺跡のことだ。貝を食べる習慣ができてから、それを捨てる場所を決めていたために、集落のそばにそういう跡が残ったという具合の説明を聞いたことがあるが、実際には貝の養殖のようなこともやっていたのではないかとか、単なるゴミ捨て場ではないとか、その後もいろんな説が飛び交っているようだ。色々と想像をたくましくすることが考古学には必要なのだろうから、諸説紛々は大歓迎なのだろうが、まあこちらにとってはある意味どうでもいいことである。そんな程度にしか意識していなかったが、臭いのことが気になると、ゴミとして考えた時に、その捨てる場所を決めておくことがとても重要なことであるような気がしてきた。おそらく集落の中にそういうものを作ったら、文句が出て続かないだろうし、遠くに捨てればどこでもいいということにしたら、将来困ることが出てくるかもしれない。そう考えると、やはり少し離れたところに皆がまとめて捨てるのが一番いい方法のような気がしてくるのだ。実際に、こんなことを考えたのかどうか知る由もないが、自分の中で勝手に納得した。こうすれば臭いものに蓋をすることも簡単に思える。正しいか間違っているかどっちにしても、いろんなところで同じ風習が残るためには、意外なほど簡単な理由があったような気がする。

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5月23日(金)−隔離

 伝染病という言葉をほとんど聞かなくなってしまった。その代わりに、最近ではもっぱら感染症という言葉が使われる。どこに違いがあるのか判らないが、前者に何か不都合があり、後者はそれを補うものなのだろう。いずれにしても、心証が大切らしく、一人歩きしても誤解を産まないような配慮が必要ということなのだろう。
 伝染病というとやはり法定伝染病という特定のものを連想してしまうのではないだろうか。コレラとか赤痢とか、チフスもそうだったろうか。病人と診断されれば当然隔離されることになる。病人とのあらゆる形での接触が感染に繋がるのでこんな措置がとられるわけだ。といっても、実際には空気感染という病原体が空中を漂うような形で広がるわけではなく、直接的な接触によるものが多い。これは上に挙げた病気の場合は全て細菌が病原体であり、空中に漂う程度の量では感染を引き起こすには不十分と考えられるからだ。それに比べて、ウィルスが病原体となる感染症の場合は咳やくしゃみの時に排出される体液の飛沫に含まれる病原体の量が感染を引き起こすに十分であるために、病人と直接接することがなくても感染してしまう場合がある。多くの場合は、インフルエンザのような風邪の症状を示すものだが、中にはもっと重篤な症状を引き起こすものもある。といっても、実際にはインフルエンザさえ、毎年何人もの患者が死亡しており、風邪は万病の元の意味を知るところとなる。そんな中で、今回の東アジアを中心にした感染症の蔓延については、新種のウィルスによるものと断定されたこともあり、対策が後手にまわっている感じがする。まあそれでも、国によっては迅速な隔離措置により、拡大をいち早く免れたところもあり、手がつけられないものではないことも判ってきた。いまだに終息の兆しが見えてこない国では、結局患者数が莫大なものになってしまったために、あらゆるところに感染者がいる状態にいたり、かなり大掛かりな対策を講じても抑えられないところまできてしまったようだ。それにしても、なぜこんな大騒ぎになるのだろうか。いくら飛沫感染の可能性が強いと言っても、感染者との強い接触がないまま感染した例はほとんどなく、やはり同じ部屋にいたとか、病院内での感染がほとんどであるから、そんなに神経質になる必要はないように思える。かえってインフルエンザの方が感染力は強いのではないかと思えるくらいだ。何しろこのくらいの流行だったら、もう既に数十万人かそれ以上の患者が出ていても不思議ではない。そうは言っても症状が重くなりやすいのだから、用心するに越したことはないのだろう。まあ度の過ぎたヒステリックな言動や行動は控えるとして、自身で気をつけることは結局体力が落ちないようにすることくらいだろう。指定地域から来た人びとに潜伏期間が過ぎるまで一種の隔離をする措置がとられているようだが、これも用心のために過ぎない。これらの人びとに対して何かもっとひどい措置をとることなど考える必要はない。こんなことが取り沙汰されている最中、該当国を訪れた政治家が帰国後すぐに身勝手な行動に出たという騒ぎが起きた。彼らの身勝手さは今さら論じる必要もないが、院内感染などという下らないことで騒ぐのもどうかと思う。まあ、あの院をあの形で世の中から隔離しておけば、一般市民は安心なのだから、どっちが良いのか判らない。何しろもう既に機能麻痺同然の状態にあるのだから、どっちにしても同じである。これじゃあ、単なるブラックユーモアになってしまうか。

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5月22日(木)−自縄自縛

 裁判の制度は国ごとにかなり違うようだ。向こう三軒両隣り、ご近所のご隠居さんが仲裁に入っていた国では、まあそんなに事を荒立てなくても、という考えが中心で奉行所まで話がいかないのが当たり前だったし、一方でみんなで裁くことが国を建てていく上で重要とした国は離婚訴訟やらで、一部の人間の私腹を肥やしているようである。
 日本の裁判制度はこれといった特徴を持たないような印象を受ける。まあ、どこかよその国から採り入れられた制度であり、自分達の身近にあるものではないという気持ちがあるから、仕方がないのだろう。それに比べると欧米の国々では自分達の事として裁判制度を取り扱っているようだ。各国の制度を調べたわけではないが、日本の現行制度との違いが大きいのは米国の陪審員制度だろう。日本でも一時期採り入れられたと聞いたことがあるが、どんなものでどんな結果を産んだのかよくわからない。とにかく今ではごく普通に、裁判官がいて、被告、原告、そこに弁護士やら検察官がいるといった形式になっている。裁きは裁判官が決定するわけで、多数の裁判官による場合と一人の裁判官による場合がある。いずれにしても、裁判官が法律の専門家として判断を下すといった形式だ。それに対して、陪審員制度では裁き自体は陪審員が合議制によって行う。裁判官は裁判の進行を円滑にする役目と陪審員によって決定された裁きに応じた量刑を決定する役目を持つ。だから、実際に被告が有罪か無罪かを決めるのは、法律の専門家ではない一般市民ということになる。この制度の難しさは、日本の企業の特許訴訟や有名人の殺人事件などで色々と取り上げられたからよく知られているが、何しろ一般市民は裁判所から召還の葉書が届けられると仕事を休んで行かねばならない。陪審員には多くの召還された市民の中からあからさまな偏見や異常な考えを持たない人が選ばれるわけで、運が良ければ一日で解放されるのだそうだ。こんな形で市民参加の裁判制度が成立しているのだが、最近話題になっている裁判員制度というのはこれとは少し違っているらしい。いずれにしても、裁判というある意味密室で行われる裁きを担当する場合に、その過程が外部に漏れることは極力避けるべきという考えがある。特に、裁判の最中には外部との接触を禁じるのが米国での陪審員制度の特徴の一つらしいが、今回この類いの問題が論じられていると報じていた。個人情報の保護の観点から非公開を条文に入れるという動きにマスコミが反対しているという図式だと思うのだが、彼らの主張は秘密主義は不等な裁判の原因ともなるからなるべく公開した上で、個人情報の漏えいにならないように自らが注意するというものだったが、このところのいろんな事件とその報道ぶりを見ていると彼らの主張を鵜呑みにできないことは明らかである。ある人物の住所を詳細に報じてしまった某新聞、病人の足取りが公開されるやいなや異常な盛り上がりを見せるテレビ報道、個人のプライバシーを考慮するという言葉が信じられるかどうかをこの状況からどう判断するかはあまりにも明白だけに、こういった主張は通らないと言うしかない。元々モラルというものは道徳であるわけだから、どこかに書いておかなければ判らないというものではないはずだ。しかし、こんな状況を見ていると、何かしらの制限を明記することの必要性を強く感じてしまう。喫煙の問題も、女性専用車両の問題も、何でもかんでも、この調子でやっていくと、自らを雁字搦めに縛ってしまうことになるのだが、この国の現状はその方向にひた走っているとしか思えない。どこまで行くのか、まさかレミングじゃあないのだろうが。

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5月21日(水)−成長

 関西でオッチャン、オバチャンといったら、親しみを込めた呼び方となる。それが馬鹿にしたり、蔑んだり、逆らったり、とそんな感情が入り交じってくると、ジジイ、ババアとなるわけで、言葉一つでこれほど変わるのかと思える。まあ感情を表に出すことが悪いわけでもないから、これ自体を悪いとは言えないが、予備軍たる者たちがどういうつもりで使っているのか不思議に思うこともある。
 若い時にはほとんどの人が年寄りの一挙手一投足が気に触り、苛ついたのではないだろうか。沢山の人たちが並んでいるところで我関せずかのごとくゆっくりとことを済ませたり、電車の中で大きな笑い声を響かせながらおしゃべりに夢中になっていたり、なぜあんなに人に迷惑をかけるのだろうか、という思いできつい視線を送っていたのではないだろうか。それとも、そんなことには構わず、無視するかのごとく眠ったふりをしていたのだろうか。いずれにしても、自分達はあんなふうにはならない、あんな身勝手な大人にはならない、などという思いがあればこそ、そんな反応をしていたのだろう。しかし、自分がその年令に近づいてくると、少し見方が違ってくる。年を重ねるごとに、自分がそういう風に変化したという意味ではなく、自分を変えることはとても難しく、それよりも周りも含めて昔と変わらぬまま年月だけが過ぎていることに気がつくのだ。これはこれで中々怖いことで、成長を遂げるものと思い込み、その結果として狡さや汚さが目立つようになるのが嫌だったのに、じつは性格とか基本的な生活姿勢とかはほとんど変化なく、もっと自分から離れた環境の方が立場の変化とともに変化していることに気がつく。そう思って、今度は周囲の若者を観察してみると、別の恐ろしさに気がつくから怖い。昔、忌み嫌っていた年寄りの行動をそっくりそのまま行っている人たちが多いのだ。周囲の顰蹙を示す視線をまったく感じないかのごとくの車内でのおしゃべり、自分の世界にどっぷりと浸かっているヘッドホンステレオの大音量、それはまあこんな傍若無人ぶりはどこかで見たことがあるぞ、と思い出してしまう。車を運転していても、高校生の二列三列縦隊の自転車の列には辟易としてしまうが、これがバイクの列に変わると思えば変に納得をしてしまいそうになる。一番驚いたのは、男子高校生があるファーストフードの店で見せた行動で、顔の脂分を取り除き、サラッとさせるタイプのたぶん少しアルコールを含んだようなシートで顔を拭いていると思ったら、それが脇の下に向ったのだ。これじゃあまるで、喫茶店でおしぼりで顔から首から脇の下まで拭いている中年サラリーマンと変わらないじゃないか、と思ってしまった。これは恐ろしい時代の到来などというものではなく、昔から繰り返されてきたことだとしたら、予備軍はやはり所詮予備軍なのだろう。人のふり見て我がふり直せる人は、自覚があるだけましなのかもしれないが、直すところまでいくことは難しく、せいぜいあんなことこんなことと厳しい言葉を浴びせるくらいのものである。結局自分も似たようなことをやって、そっちの方は気がつかないということの方が多いようだ。こんな調子だと、数年したら、車内でパタパタ化粧を繰り返すオバチャンが溢れてくることになってしまうのだが、はたしてどうなんだろうか。

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5月20日(火)−汚染

 大学にいた頃、知り合いが話していたことで今でも覚えていることがある。彼が地元の有名予備校に通っていた頃のこと、トイレに入るとよくやった悪戯の話である。そこに設置してあるトイレットペーパーの端をトイレの中に入れ、そのまま水を流して紙がクルクルと出ていくのを眺めていたそうだ。高い授業料に対する反抗と言っていたが、そこまで言える代物だったかどうか。
 その当時はそれほど問題にもされていなかったと思うが、今だとこの話はすぐに環境問題の方にすり替えられてしまいそうだ。紙を無駄にするなどとは何ごとぞとか、資源を大切にすべきとか、色々とご意見が出てきそうな気がする。ただこの手の悪戯は時代が変わっても生き残っていて、よくもまあ下らないことをと思えるほどのことをやってくれる。二十歳前後はまだ衝動の方が勝ってしまう年代なのかもしれない。紙の話は環境問題の一つとしてよく取り沙汰される。最近は資源の問題だけでなく、ゴミの問題として深刻な報告がなされ、ある大都市ではそのための分別収集の徹底が市民に対して大きな負担をしいる結果を招いているようだ。それでも、捨てる場所がなければどうしようもないわけで、渋々協力しているようだが、はたしてこのままで解決の方向に向っていくのか、もっと根本的なところで対策を講じるべきなのか、明確になっていないことが多すぎるようだ。紙と並んで話題になるものに水がある。天からの恵みである水にそれほどの深刻さを描かないのは、これほど水に恵まれた土地に育ったせいだろうか。何しろ水はどこにでもあるもの、自然から無尽蔵に供給されるもの、といったこの国では当たり前と思える感覚は、世界中どこの国でも抱かれないもののようだ。そんな感覚が最近少し揺らいできているのは、例えばどこかの井戸水が砒素汚染されたとか、そんな話題が出てきているからだろうか。ずっと昔の鉱毒事件や比較的最近の同様の事件も水が絡んだものだったが、それくらいではびくともしないくらい、日本人の水に対するこういった感覚は強固なものらしい。家庭からの排水とて例外にはならず、琵琶湖での洗剤問題や油の廃棄問題など、一つ一つはたとえ少量でも集まると大きな影響を及ぼすことは明らかとなってきた。問題となれば当然対策も練られるわけで、以前ならばそれほど気にしていなかった洗剤のリン含有の問題や家庭の食料油の処理方法の問題など、かなりきちんと考えられてきたように思う。そんな中で、紙と油の問題として、ある人が説明していたことが印象に残っている。家庭で調理に使った油を処理する方法は色々と便利な道具も出されていて、それらを使う限り問題を生じないように見えるが、一方で食べる時に使った皿の上に残った油の方は少量であることもあり、処理方法が確立されているわけではない。そこで、簡便なものとして二つの方法が考えられる。一つは洗剤で油が残っている皿を洗う方法、もう一つは余分な油を紙で拭き取った上で皿を洗う方法である。前者は今まで多くの人が選択してきたもので、それほど問題がないように思えるが、実際には排水の汚染がかなり深刻になる場合がある。それを気にする人たちは、後者を選択するのが環境問題を総合的に考えて適切であると主張する。たとえ紙を作るために森林伐採が行われても、水の汚染に比べれば微々たるものであるという考えからだ。複合的な要素が複雑に絡み合ってくると、単純に環境のためと考えることが良いことに繋がるとは限らないことがこんなところから見えてくるのではないだろうか。長い目で見てどちらが正しいのか、簡単に答えは出せないだろうが、今目の前にある問題を片付けるためには、今正しいと信じることをするしかない。

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5月19日(月)−頽齢

 景気が悪いと言っても、業種によるらしい。確かに、不良債権なる大きな荷物を背負い込んでいるところでは、いつまで経っても良くなる兆しが見えないとも言われるし、リストラの効果さえ現れない業種もあるようだ。ところが一方で、最高益をあげたなどと報じられるところもあり、ものを売る商売という意味では、購買欲の減退のみで説明しきれないといったところだろうか。
 経済が右肩上がりだった頃は、ものを買う動きにとって、重要な要素は必要性だけではなく、将来にわたって価値が上昇する傾向もその一つだったのだろう。普段使いそうにもないものを将来性を考慮して購入したり、不動産を転売や賃貸を目的で購入した人もいたようだ。確かに、価格や価値が上昇し続ければ、このやり方は投資の一環として成立する。しかし、一度値崩れを起こしてしまえば、失うものも大きいはずだ。結局、その時期にかかった人たちは大きな損失をだし、投資の怖さを実感したのだろう。一方、必要なものを必要なだけ購入する人たちにとって、デフレと呼ばれる時代の到来は歓迎されるものなのかもしれない。国や世界の経済にとってデフレは大きな敵といわれるが、一購入者にとっては同じ品物が安く手に入るのであれば嬉しいものだ。ただし、それが長引けば当然収入の方にも響いてくるから、喜んでばかりはいられない。ただ個人的には今回の経済停滞をデフレとみなすべきかどうかには何となく釈然としない部分もあり、その点の議論が将来行われるべきと考える。さて、景気の良い業種の代表として挙げられるのは、自動車業界だろうか。一時低迷しかかったようだが、様々な方策を講じることによって復活した会社もあり、全体としてもうまく動いているように見える。自動車を投資の対象とした人もいるようだが、実際には必要性が一番大きな要因であると思う。辺鄙な所に住めば住むほど、その有難さが身にしみるものだ。都会のように公共交通機関が整備された所では、移動に関して心配することもないし、車の維持費を考えるとかえって持たない方が良い場合もある。しかし、田舎ではバスや電車の路線が整備されているわけでもなく、自ずと自分自身の運転で移動することが必要となる。そうなれば、一人当りの保有台数も当然増えて、一台より多くの車を持つ人が住む地方もあるようだ。こんな所では、年令に関係なく運転の必要が生じ、都会であれば高齢者パスが支給されるのに、田舎では自分で運転しなければならない。これはこれで一見便利なように見えるのだが、実際には大きな危険を伴うものであることを認識すべきである。最近は高齢者の自動車免許返上も行われているようだが、様々なことから高齢者になると危険度が増し、自損事故だけならまだしも、相手があれば大変なことに繋がる。交通事情によるこういった現象は何も日本に限ったことではなく、車社会と言われる米国ではもっと大きな問題となっている。歩道を歩いている老人を見かけることはないのに、車道をゆっくりと車を走らせている老人を頻繁に見かける。驚くべきは、その人たちの一部は車から降りると歩くのもおぼつかないということなのだ。確かに、そんな状態でも車の運転は可能だし、一方でこの移動手段を奪ってしまうと彼らは日々の生活にも困ってしまう。そんなところから社会として容認せざるを得ないのだろうが、事故が起きその当事者になったりすると、そんな悠長なことは言ってられないような気がする。社会としての支え方は簡単には結論づけられないだろうが、この国の歩む方向を考えるといつまでも放置しておけない問題のように思えてくる。

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