古い人間の特徴だろうか、小さい頃に人に迷惑をかけるなとよく言われた記憶がある。悪戯をした時、団体行動から外れそうになった時、目立つことをした時、数え上げればきりがない。こう書いてしまうと、よほど滅茶苦茶なことをしたに違いないと思われてしまいそうだが、実際にはごくおとなしい子供だったので誤解しないでいただきたい。
それにしても、迷惑とはどういうことなのだろう。国語辞典を引くと、めいわく【迷惑】他人のことで、煩わしくいやな目にあうこと。とある。何となくわかるようなわからないような、もっと強い印象があるのだが、他の人たちがどう感じるのかはわからない。昔は、迷惑をかけるなということで、いろんな行為を自制せよと戒めていた感じがあったが、その後、同じ表現が迷惑さえかけなければよいという意味に受け取られるようになった。そのうち、迷惑さえかけなければ、何をやってもよいというところまで拡張されて、さらに進んでしまうと自分が相手に迷惑をかけていないと思っているのだから、迷惑とはならないと何とも都合の良い言い訳がくっついてくるようになった。さすがに大多数の人たちはここまで身勝手な解釈をしていないのだろうが、一部の人たちは、大人子供に関係なく、こんな思いでいるらしい。いやな目にあうというのは受け取り側の問題で、その行為を行っている側の見解と必ずしも一致しない。そう考えると、人が集まるところでの行為の幾つかに思い当たるところが出てくる。まあ、迷惑という考え方自体に、いかにも日本的なところがあって、他人の領域まで踏み込んだ感覚もあるから、一概にどちらが正しいとは言えないのだろうが、こんな不一致がある中で同じ言葉を使うことがいけないのかもしれない。一方で、迷惑をかけないということに疑問を挟んでいる人もいる。人はすべて他人に迷惑をかけながら生きているのだから、迷惑をかけないようにするのは不可能だという考え方である。この考え方自体が間違っているとは思わないが、やはりこれも一部の勝手な人びとによって拡大解釈されることになる。つまり、皆が互いに迷惑をかけているのだから、自分達の行う迷惑行為も「当然」許されるものである、といった解釈が成り立つとするのだ。そういう解釈を思いつく別の意味での頭のよさには脱帽してしまうが、こういう人たちの中にある傾向があることに気がつく。あくまでも傾向であって、すべてに当てはまるわけではないのだろうが、自分がかける迷惑には無関心であるが、他人からかけられる迷惑には非常に敏感だという傾向だ。結局、迷惑などという言葉で表現するから問題が複雑になるわけで、自分がしたいことをしたいようにやるのを、他人がどう感じているのかといった問題である。そこで、他人がしたことに対して自分がどう感じるのかは、逆の場合と明らかに違った尺度によって測られ、それを基準に対応を決める。こういった人びとが自己中心的と呼ばれる所以は、この違う尺度で測るというところにある。人間は互いに支えあいながら生きていると言えば何となくよく聞こえているものを、互いに迷惑をかけるものだと言うと何だか違ったように聞こえる。ちょっとした言葉の違いなのだろうが、不思議なものだ。そうは言っても、支えあいながらというところを、だから支えてもらうのが当たり前と解釈する人が出てきそうで、困ってしまうのだが。
二つの国の人びとが話し合う場合に、必ず必要になるものが通訳である。互いの言葉をきちんと理解できる人びとだけが話し合いに参加するのであれば用意する必要などないが、正確さを期すになる場合には必ず用意するものだ。通訳は二つの言語の間で意味が同じになるように、言葉を選んで中継するわけだが、古今東西を問わず問題となることがある。
まさか最近の取材で米国での担当者が英語の意味を解せないことはないと思うのだが、先日の日米両首脳の会談の内容説明に関する日本側のあるお役所の担当者の作成した文書には、明らかで、意図的と思われる欠落があったとのことだ。こんな操作は同時に出される米国側の文書と照らし合わせれば、即座にばれてしまうことは明らかであるにも関わらず、そんなことをしたということ自体信じられないものだ。ひょっとすると件の担当者の頭の中では、取材にやってきたすべての日本人記者が英語を理解できないという思い込みでもあったのだろうか。あるいは、お上の言うことをただ素直に受け入れる従順な僕とでも思ったのだろうか。その時の欠落していた言葉とは「圧力」と翻訳されるもので、原文をそのまま引用するのは難しいが、ワシントンポストの記事によれば、"The combination of new talks and stronger pressure on the communist state..."と書いてある。これが、「対話と圧力」という日本語になり、巷に流されているわけだ。記事を読んで、ちょっと違うなと思う人もいれば、まあ大体正しいと思う人もいるだろう。ただ、日本語だけを読んだ場合、はたして英語の文章の意味通りの解釈をするかどうか、ちょっと難しいところかもしれない。いずれにしても、この文章から"pressure"という言葉を削除することにどれほどの意味があるのかよく判らない。あるいは、日本語の「圧力」に特別な意味があると感じたのだろうか。圧力という言葉のもつ意味として、精神的な圧力とか肉体的な圧力とか、そんなものがあるのだが、その強さにかなりの幅がありそうだ。弱ければ大したことのないものとなるし、強ければ強制されるほどのものとなる。だから、英語でもその前に"stronger"という言葉をつけている。今かけているものよりも強い、というだけで、強制するとは言っていない。しかし、「圧力」という言葉が一人歩きすると、強制力を伴うものと解釈されることもある。そのあたりを心配したのかもしれない。ただ、たとえかなりの地位にあるものとは言え、省庁の一職員が二つの国の政治的責任を負う人びとの同意事項を変更するというのは、信じ難いことである。このところの不祥事続きで、何をしても注目される状況であるにも関わらず、こういうことをまたぞろやってしまう。これこそ体質以外の何ものでもない、と言いたくもなる。周辺事情に配慮して行ったという言い訳も流れてくるが、両首脳の同意事項にはその配慮がなかったとでもいうのだろうか。それにしても、翻訳という作業はここまであからさまな改竄ではないだろうが、様々な細かい違いを生み出すことができる。英和辞典を調べてみれば、一つの単語に幾つもの日本語が当てはめてある。それほど、ニュアンスというものは微妙なものなのだろう。だから、意味を正確に伝えることはとても難しいわけで、通訳の役割が非常に重要であると言われるのはよくわかる。都合の悪そうなところはパッと飛ばしてしまうということもあるらしく、特に会談の際の通訳は何をどう翻訳しているのか調べようもないから注意しなければならないのだろう。一世代前の人びとの会話では通訳の誤訳を話をした本人が訂正したという逸話もあるようだが、戦後世代ばかりとなってきた今ではそれも無理である。たった一人の間違いで大きな誤解を産んでしまう場合もあるから、怖いものだ。
非破壊、無侵襲、聞きなれない言葉だろうか。破壊しない、侵さない、という意味だが、普通はそのあとに検査とか測定とか厳めしい言葉が並ぶ。たとえば機械の箱の中の具合を見るために箱を分解することがあるが、これでは同じ検査と言えども、非破壊とは言わない。箱の外から中身を見る方法を使って具合を見るのだ。
空港の荷物預かりのところでX線検査装置の中にスーツケースなどの荷物を入れ、中に怪しい物が入っていないかを検査する。これは非破壊検査の一つである。ただ、X線をあてることで何も損傷を受けないかと言えばそうではない。一時期話題になった写真のフィルムを護るための袋には鉛などが封じ込めてあり、通り抜けるX線を減らすようにしていた。最近は、検査に使うX線の強さをかなり弱めてあるので、それによってフィルムが感光してしまう恐れはほとんどなくなったようだ。人間ドックでお世話になるX線の装置、この場合はレントゲンと呼ぶことも多いが、の場合、胸部の検査用とバリウムを使った胃の検査用とでは、X線の強さがかなり違うらしい。実際には職場の検診で行われる胸部検査が最も強いものであると聞いて驚いたことがある。大きな写真を撮るから、強いX線をあてなければならないとは言えないようだ。人間ドックで行われるものの多くは無侵襲である。超音波を使って内臓の具合を調べるエコー検査も人体を傷つけることはない。心電図や聴覚検査も同様である。胃カメラや胃内視鏡検査となるとかなりの痛みを伴う場合もあるから、無侵襲とは言えないような気もするが、実際にはどちらとみなすのだろうか。しかし通常の血液検査は血液を採取しなければならないから、これは無侵襲とは言えない。ヘモグロビン量や白血球数の測定など、今はほとんどが自動化されており、驚くほど少量の試料からびっくりするほど多くの結果を得ることができる。しかし、それでも痛みを感じるわけで、それが嫌だと思っている人も多いだろう。これほど多くのことが分かるわけではないが、血液検査の一つとして無侵襲の検査があることはあまり知られていない。検査項目がどれほどあるのかよくは知らないが、ヘモグロビン量と酸素を運ぶ効率のような数値が得られるようだ。この機械は皮膚の上から近赤外線と言って、目に見える赤い光よりも少し長い波長をもった目には見えない赤外線の中でも波長の短い部類の光を使って、体の中を流れている血液の検査を行うものだ。体は目に見えるわけだから目に見えるいわゆる可視光を使ってしまうと、体そのものからの情報が跳ね返ってきてこういう検査には邪魔となる。しかし近赤外線を使うと、表面で反射される光の量は少なくなり、内部まで到達できるようになる。その上血液中の赤血球に含まれるヘモグロビンは近赤外線をある程度吸収するので、それを使って検査をしているわけだ。その上、酸素を運んでいるヘモグロビンとそうでないヘモグロビンでは吸収の仕方が違うので、それを使って酸素がどの程度運ばれているのかを知ることもできる。見えない光で、何かを観るわけで、不思議な感じがするが、研究という立場からすれば当然考えられることなのだろう。最近では、病院でもこの検査器がよく使われていると聞く。患者の痛みを伴わず、酸素を運ぶという生き物としての機能を監視することが重要視されているためだ。これ以外にも意外なところに、同じ原理が使われている。最近売られている果物に当たり外れが少なくなったという気がしているが、これも果物の糖度検査を実施している結果だという。道ばたで売られている西瓜は一目見ただけでは甘いかどうか分からないが、売っている人にはすぐに分かるのだそうだ。しかし、教えてくれるはずもなく、こちらはせいぜいコンコンと叩いて見分けようと努力するのが関の山、当らないことも多かった。これが糖度検査が実施され、ある程度より糖度の高いものだけが出荷されるようになったそうで、そういう心配をする必要もなくなったようだ。この検査も近赤外線を使って糖分による吸収の度合いを測定するらしい。いやはや便利な世の中になったものだ。しかし、そのうち、人間の何かの度合いもそうやって測定されるようになってしまうのだろうか。
本を読んだりすると、独り言を書くのが難しくなる。ラジオやテレビは、きっかけをつかむために重要な情報源だが、本は同じ書いたものというわけで、内容がそっくりになってしまいそうでどうにも落ち着かない。どうせ題材を拾うのなら、かえって不完全なあまり整っていない情報の方が扱いやすいわけだ。
読むという文字を追いかける作業は、書くこととは明らかに違う種類のものなのに、どうもすぐに影響されてしまうようだ。似ているのでは、などと思ったら最後、もう一度記憶を無くしてしまわない限り、そこで立ち往生となってしまう。それほど大層なものではないと思う人もいるだろうが、人によってはかなり大きな要因となる。小さい頃から書くことが好きで、何かをきっかけに自分なりの物語を作ったりしていた。しかし、それよりも頻繁にやっていたのは、どこかで聞いたり読んだりした話を真似して、自分なりの脚色をして話を作るものだった。どうもそんな癖がついてしまったのか、卒業文集でもどこかで見たことがあるような文章を書いている。どこで見たのか思い出すことはできないが、自分では見たような記憶があるからそれを打ち消すことはできない。こういう物真似を良くないこととみなす風潮が最近強くなってきた。独創性が最も重要視され、人まねは誰にでもできることと扱われる。そんな中からでき上がってきた人の中には、何をやらせても中途半端で完成を見ることがないというタイプの人がいる。やっていることは他の人と違うという本人の意識もあるし、周囲から見てもそう見える。しかし、独創的であるが故に、最終的なまとまりが見えてこないのだ。そういう人に、誰かのやった通りのことをやらせようとすると、かなりの抵抗にあうことが多い。人真似を極度に嫌がる性向があり、人と違うようにしたい衝動にかられるようだ。確かに、日本人は独創性が足りないとか、真似がうまいとか、そういう風潮から見ると最低の人間のように見られることがよく言われている。しかし、実際には現場で活躍している人たちはそれぞれの独創性を持ち、様々な工夫の上に他では見られないようなものを作り上げる。そういう人たちが真似を一切してこなかったのかと言えば、否である。基本的なところではまず真似をしながら、どこが大切なのか、どこに急所があるのかを見極めていく。その時点では、何かしら考えることがあっても、まずは真似ておくことが大切なようだ。そういう時期を経て、次には真似をする中で見つけた事柄を試してみたり、新しい工夫を取り入れていく。皆が皆、こういう経過を辿るわけではないが、どちらかと言えばこんなパターンの方が多いのではないか。独特の味わいを出している芸術分野のことでも、多くの人が基礎固めを経験している。その上で、自分の中にある独創性を引き出す工夫や独創性探しをするわけだ。しかし、多くの人は最後の結果の部分しか見ないから、芸術家が彼らの独創性を磨くことでその地位を築いたと思い込んでしまう。実際には、画家もデッサンから始めて、かなりのレベルに達した上で、抽象画の世界に踏み込んだりしている。絵の価値としては、デッサンはほとんどなく、抽象画になって初めて出てくるわけだから、誤解をしてしまうのも仕方のないところだろう。人がやらないことは確かに独創であるが、作って初めて独創と言えるのである。単に一人で突っ走っているのであれば、それは独走でしかない。それも、誰も走っていない競技場の裏で。
生まれながらにして身についていること、誰に教えられるわけでもなくできること、そんなものを本能と呼ぶ。呼吸の仕方は誰に教わったわけでもなく、自然にできているし、生まれてから母乳や人工乳を飲む時の乳首の吸い方もその一つだ。ただ、後者の場合は練習が必要なこともあり、色々と試しているようだ、という話を聞いたこともある。
人間の場合、本能によって司られている機能はあまり目立たないもので、生きるために絶対不可欠なものが多い割には軽く見られているようだ。それに対して生まれてから周囲の人間の真似をするなどして身につけてきたものは、とても人間らしいものとして見られ、重要な能力のように扱われることが多い。同じ人間のやることだから、そこに重い軽いの区別はないようにも思えるが、後天的なものほど複雑で高度なことのように見えるから、そう思えてしまうのも無理のないことかもしれない。昆虫のように、卵を産んだあと、親が死んでしまう生き物では、親の真似をすることができないが、鳥では子育てをするわけだから真似ができる。だから、昆虫では遺伝的要素による能力の世代間伝達しかあり得ないが、鳥では訓練を伴うものが出てくる。たとえば、鳥のさえずりはいかにも生まれながらにしてもっている能力のように見えるが、成鳥の声を聞いてその真似をした結果であることが知られている。そういえば、春先のウグイスの鳴き声はへたくそだなあと思えるが、この時期のものはとても上手くさえずっている。これも数カ月の訓練のたまものなのだろう。人間の場合は、数世代に渡る伝達が常となり、先人の経験をいろんな形で伝えるようになっている。特に大きな要素として考えられているのが文字による伝達で、これによって口伝えによって起きる間違いを防ぐことができる。世代間での伝達では、経験を基にして教えることが中心となるから、人は自分の失敗を引き合いに出しながら、それを未然に防ぎつつ成功に繋がる方法を伝達しようとする。自分が失敗したことによってかなりの労力を費やし、無駄なことをしたと考えていることから、そういう配慮も含めた伝達となるのだが、場合によってはそれが仇となるようだ。失敗したからこそ、その経験が生きて、次の機会にそれを回避するようになり、成功に結びついたとしたら、失敗談を聞くだけで十分なように思うけれども、実際には経験そのものがとても重要になってくることも多い。また、失敗と思い込んでいるけれども、そこである過程を経て習得することが、次の成功に繋がる場合もあるから、単に失敗として情報を入力してしまうと上手くいかなくなることもある。今教えようとしていることが、どちらにあたるのかを見極めるのが難しい時もあり、一瞬戸惑ってしまうが、結局色々と教えるようにしてしまうことが多いのは、やはり自分自身の犯した間違いに対する思いからなのだろうか。いずれにしても、教わる方にとってはその辺りの事情が飲み込めているわけではないから、ただ教えられたことだけを頭に入れることになる。結果は、場合場合によるのだろうが、無駄骨となることもある。最近は特に失敗を恐れる気持ちが大きくなり、なるべくそうならないように備えることが重要と思われているようだが、そのことが小さな失敗を避けるためには役に立っても、最も恐れるべき大きな失敗を未然に防ぐことができないことがある。いろんな小さな失敗を繰り返すことで、軌道修正が行われるはずなのが、それがないために実はとんでもない方向に向っているのに、それに気がつかずに手遅れになるのだろう。わざと失敗させておいて、あとからそのことを指摘するなどという人がいたら、今ならとても嫌味な人間として扱われてしまいそうだが、実際にはそうでない場合もあるのではないか。まあ、その人となりを見極めることは容易なことではないから、一概に言うことはできないが、教える際の配慮の仕方は人それぞれ、教える側にも適性があり、教わる側にも適性がある。それがうまく合致すれば良い結果が生まれ、そうでないと心の葛藤だけが残る。どんな結末が待っているのか分からないだけに、こうするべきという絶対確実な手法は存在しないようだ。
この国の道路事情に関してはいろんな見解があると思う。もっと便利にせよという意見もあれば、誰も使わない道路はいらないという意見もある。なんとも矛盾した対立意見のようだが、どういう立場に立つかによって決まるわけだから、それを考えずに妥協点を模索しても無駄なのだろう。ただ、最近はさすがにどこかの業界の繁栄のためなどという裏の事情を表に出す人はいないようだ。
道路事情を考える上で、米国の事情と欧州の事情を比べるのは面白いと思う。米国の場合、一部の地域を除けば、鉄道などの大量輸送手段がほとんどなく、長距離となれば飛行機という手段に頼り、短距離は車に頼るしかないわけだから、当然ながら道路事情はかなり整っていると言える。しかし、ニューヨークやボストンなどの北東部の大都市では、道路の建設が付け焼き刃的に行われた結果、いろんな道が入り組んでいてよそ者には迷路のように感じられるところがある。また、フリーウェイと呼ばれる高速道路に関してはかなり整備されているが、都心の道路に関しては通行量と許容量の違いからまったく機能していないところも多く、最近イギリスのロンドンで導入された都心通行料のようなものの導入が考えられているそうだ。一方、欧州の場合、鉄道網がかなりしっかりと整備されているので、道路の建設にはある程度の余裕が感じられる。交通量も一部の地域を除けばさほどでもなく、渋滞は大都市の都心に限られた話のようだ。この渋滞も道路網の整備によって解決されるものではなく、絶対量が多すぎることが原因だから、上で紹介したような対策しか解決の道はないのかもしれない。そうは言っても、必要な人は必要なわけで、金で解決するなら仕方がないと結論されてしまえば、元の交通量に戻ってしまうのだが。日本の道路事情はまさしく付け焼き刃的なものが多く、何と先見性のないものなのかと思えてしまうが、よく聞いてみると計画段階ではしっかりしていたものもあったようだ。東名高速道路は片側二車線の道路として建設されたが、計画段階では三車線としてあったようで、用地買収や建設費などの問題から縮小された結果が今の形になったのだそうだ。それでも一部三車線にしてきたし、第二東名の工事も行われているのだから、どちらが良かったのか見えてきそうである。そういう中で一番驚くべきは、首都高速駐車場などと揶揄される首都高で、片側一車線のところが多くあるが、その合流地点がとんでもない構造になっている。都心に向って多くの路線が集中し、最終的に都心環状線と呼ばれる円周に合流していくのだが、合流する度に合計の車線の数が減っていく。一車線が二つ合流すれば、同じ交通量を捌くためには二車線必要だと考えられるが、そこは一車線のままとなる。そんな繰り返しが展開されるから、場合によっては、三車線、四車線分の車が一車線の中に押し込まれてしまう。これじゃあ、にっちもさっちも行かなくなり、渋滞が起きるのも無理はない。それでも都心に更に車線を増やすことはほぼ不可能だから、回避する道路を周辺部に建設してきたわけだが、いまだに解決には至っていないようだ。結局日本各地から集まる高速道路から連絡した首都高が都心に集中する構造になっているのが諸悪の根源なのだが、これを解決する手段は色々と計画されているといっても、すぐにできるものではない。外周道路、都心通過用の深部地下道路、など建設中も含めて色々とある。はじめの時点でもう少しきちんとしておけば、などといっても後の祭り、まだまだ時間がかかりそうだ。
毎日、毎日、よくもまあ話題が尽きないものだ。自分で感心しても仕方がないのだが、誰も言ってくれないから自分で言わなきゃいけない。ただ思うのは、実際に話題などというものはどこにでも転がっているものだということ。探し回ろうとすると大変なのだろうが、転がっているものを拾うくらい誰にでもできる。あとは適当に話を作ってしまえばいいだけだ。
転がっているものとしてやはり一番多いのは身の回りのことだろう。あまりに身近なことはいろんな事情から書くことができないから除外するとして、道ばたや頭上の景色などを見ながら、はてと思うことは誰にでもあると思う。新聞やニュースなどから話題を拾って、それを調べて書くこともできるが、これはどうしても手間がかかってしまうから面倒になり、毎日とはいかなくなる。それに比べれば道ばたの草花や自然現象の話をする程度なら、それほどの手間をかけずに済むわけだ。それが草花が登場する頻度が多い理由でもある。とは言っても、昔から花の名前を覚えるのが苦手だったから、あれは何、これは何、とスイスイと事が運ぶわけではない。適当に誤魔化しながら、時には検索サイトのお世話になりつつ、やっとのことでということもある。5月に入ってから、草木が花をつけ始め、彩りが豊かになるだけでなく、様々な香りまで運んでくるようになった。その中にはちょっと変な想像をしてしまいそうなものもあるが、こういうところの話題には不向きと思われるから取り上げない。話を戻して、色彩豊かなお花畑というので思い出すのは、ある河原にあったものだ。春はポピー、秋はコスモスのお花畑になるところで、誰がどのようにして管理しているのかよく判らない。たぶん、町が管理しているのだと思うが、河川の管理はある省庁が、という話を聞いたこともあるので、はっきりしないのだ。いずれにしても、かなり広いところが一面にお花畑になるので、とてもきれいだったことを覚えている。最近もラジオで紹介していたから、その後も続いているのだろう。近郊の町からも沢山の人が訪れるらしく、ほとんどすべてが車でやってくることから、周辺の道路の渋滞や駐車場の問題が出ているのではないか。都心と違って、車で出かけられるところが気軽で良いのだが、やはりある程度知られるようになってくると問題が出てくる。当然周辺住民にとっては単に迷惑なだけだから、今後も継続していくかどうか判らないが、何とかうまい解決方法を模索しながら続けて欲しいものだと思う。この川は、それほど大きなものでもなく、名前もあまり知られていないが、どういうわけだかよく氾濫するそうだ。流域の状況などによるものなのだろうが、上流で豪雨が降るとダムもなく、どっと水が集まってくるらしく、それによって普段は何ということもないところから氾濫してしまうのだそうだ。以前聞いた話では氾濫した時、周辺の田畑に水が溢れるのは当たり前だが、その流れの中に豚が浮かんでいたそうである。その周辺は養豚で有名なところで、養豚場の一つから豚が流れ出してしまったのだろう。その後どうなったのかについては聞きそびれたが、なんとものどかな感じがした。こんな書き方をすると、持ち主にとっては他の豚も含めてかなりの損害だったのだろうから、失礼千万なのだろうが。