パンチの独り言

(2003年6月9日〜6月15日)
(命綱、バイト語、全卒、微妙、詭弁、内食、回顧)



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6月15日(日)−回顧

 この時期、車窓から外の景色を眺めていると、金色とまではいかないが、麦の稔りが見えてくるのと、その横で田植えをする光景が広がっている。この辺りではごく当たり前の事なのだろうが、前に住んでいたところでは、稲作が中心で麦畑を見ることがほとんどなかったから、なんとも不思議な感じがする。
 ひと月ほど前から、麦畑の色の具合に変化が現われ、周りの緑がどんどん濃くなるのと反対に、稔りの時期を表す黄金色を帯びるようになっていた。身の回りの植物のほとんどが、春に芽生え、その緑を濃くしながら夏を過ごし、秋を迎えて黄色や赤に色付くという周期を送るから、ついその気になっているが、中には麦のようにちょっとずれた流れを送るものもある。これから夏本番というのに、なぜ枯れてしまうのかと思うけれども、冬を越し、そろそろ苦手な季節を迎えるとでもいうのだろうか、暑さに耐えきれずに色を変えているといった感じがしてくる。生き物それぞれに、いろんな性質を持っているのであって、すべてが人間の考える形に当てはまるわけではない。どうも、なんでもかんでも、人間の考えつくところで理由を当てはめようと努力し過ぎのようで、かえってねじ曲げて理解しているのではないかと思えるほどだ。麦の収穫は梅雨の長雨が始まる前にというのが本来の形らしいが、今回眺めている限りではほとんどの麦畑の収穫は梅雨入りの前には始まらず、結局ここ数日で済ましているところが多いようだ。この辺は、結構広い畑できちんと区画が切ってあるから、機械が入ってあっという間に刈り取りが終わる。前に近くを通った時には何もなかったから、ここは単なる麦畑なのかと思っていたのだが、今回注意して見てみると、畑の傍らに稲の苗床が見えた。麦が植えられていないところでは、もう既に田圃の耕しが終わっており、田植えの済んでいるところもあるが、その麦畑はどうも麦の刈り取りが終わったあとに、田圃に早変わりするようだ。そういえば小学校の時分に、二期作とか二毛作とか習った覚えがある。その後は米余りの問題が大きく取り上げられ、減反政策が厳しく実行されたために、こういう一年に多種類の穀物を育てることも、敬遠されているのだろうか。あまり見かけなくなったような気がする。減反政策は大きな間違いだったと言われることもあるようだが、いまでは余っているものは余り、足らないものは足らない状況で、全体として一つの政策で片付けることの難しさがはっきりと現われているような気がする。自給自足があらゆるところに実現しておらず、特に農作物に関してはその傾向が著しいなどと、よく言われているのだが、一方で自給自足を遠ざける政策が実施されていたのだから、まったくわけの判らないところだ。降水量、気温など、これほど自然に恵まれ、土地の肥えた国は少ないはずなのだが、それとは違う方向に国が進んでいたのだろう。高度成長期には金さえあれば何でもできるという考えが横行し、せっかくの豊かな自然を破壊する方向に邁進していた。一度失えば、それを回復することはとても難しいことだと思っていた人もいたようだが、実際にそれを止めることはできなかった。今、失ったものを顧みて、様々な思いを抱いている人が沢山いるのではないだろうか。どうすれば元に戻せるのか、などと考えてみても、それは叶わぬこと、実際には元に戻すのではなく、そこで新たにちょっと違った何かを始めることのほうが良いのかもしれない。元通りにすることも大切な考え方だろうが、周囲の環境の変化に合わせた本来の姿を模索することも重要なことだと思う。

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6月14日(土)−内食

 昔は街道と呼ばれただろう主要国道を走っていると、道の両側にいろんな店鋪が並んでいることが多い。特に最近では郊外型の大形店鋪が、町の中心部から外れたところにどんどん進出しているから、電器店や日曜大工などの店が多くなった。それはそれで悪いことでもないのだが、一方で消えつつあるところもあるようだ。
 大学にいた頃、ちょっとずれた時間にお腹が空いてくると、車を持っていた友人を誘って国道沿いの定食屋によく出かけたものだ。当時は既に鉄道輸送よりトラック輸送が主体になっており、主要国道を夜中に走っているのは長距離トラックと相場が決まっていた。そんなトラックの運転手を対象にしていたのが定食屋で、定食として決まった組み合わせのものを出すところよりも、皿ごとに違ったおかずが準備してあり、それを好みに合わせて取って、あとから精算するところの方が多かったように思う。最近もこういった形式の店があるようだが、そのほとんどは温かいものを出してくれる。それに比べて、あの当時のところは、煮魚や焼き魚でさえも既に調理済みのものを出していた。まるで、大学内にある学生相手の食堂と同じようなものだ。それでも、仕事中に家庭の味と似たものを食べることができるというので、結構人気があったと思う。最近は、そんな店がどんどん減っているように見える。その代わりに、ファーストフード店やファミリーレストランと呼ばれる、元々米国などで成功したものが進出している。さすがに大形トレーラーがハンバーガーの店のドライブスルーを利用しているのは見たことがないが、最近はこういった店にも長距離トラックの運転手が入っているのかもしれない。それに対して、おふくろの味を売り物にしている定食屋や食堂などは、徐々にその数を減らしているように思う。気軽に洋食が食べられて、食後のコーヒーまでついているという点が気に入られる理由なのかもしれないが、昔風のところでもそういったサービスをしているところもあるはずである。それでも、どうにも客足は遠のくばかり、といった感じなのではないだろうか。さすがに、大形トレーラーを駐車できる馬鹿でかい駐車場を備えたファミリーレストランは少ないと思うが、それでもどこかここかで見かけたことがある。さらに、もっと安いところを狙う運転手の場合は、コンビニに向うことが多いようだ。コンビニの周囲の道に大形トラックやトレーラーが駐車していて、迷惑に感じたことがある人も多いと思うが、コンビニの利用客の中には、こういった運転手がいるという証拠だろう。店から出てくる人びとを見ていると、まあ時間にもよることだが、大部分がお弁当の入った袋をぶら下げている。コンビニ弁当も最近は質、量共に充実していると評判で、電子レンジで温めることで、温かいお弁当を食べることができるから、とても便利に思えるのだと思う。それにしても、なぜ、こんな形で、客が定食屋からコンビニに移ってしまったのだろうか。一つには価格という問題があるだろう。どうしても一品料理を揃えることには手間がかかり、それだけ単価が高くなることが多いだろう。それに比べれば、コンビニのお弁当は別の工場のようなのところで作っているわけで、効率からするとかなりの違いがありそうだ。その違いは運転を職業とする人たちにとっては大きいことで、毎日の積み重ねを考えれば違いは馬鹿にできないものになる。しかし、これだけとは思えない部分もある。もう一つの可能性は味のことである。味の良し悪しといっても、やはりいろんな好みがあるだろうから、コンビニ弁当が一概に不味いはずとは言いにくいだろう。ただ、大量生産をするために味付けが画一的で、暖かみを感じられないものもあるのではないだろうか。それに比べて、定食屋では手作りと感じさせるものが並んでおり、その味も昔食べていた「おふくろの味」といった表現がぴったりと当てはまるものとなる。だったら、そっちの方がいいに決まっていると思うのは、やはり古い人間のやることで、実際には最近の人たちにとって「おふくろの味」は何もイメージが浮かばないものなのかもしれないのだ。何しろ、うちで母親の作った食事を食べたことがない、という子供が大量生産される時代なのだから。

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6月13日(金)−詭弁

 何かがあると言うのと、ないと言うのと、どちらが簡単だろうか。簡単という表現は適切でないかもしれない。別の言い方をしよう。あることを証明するのと、ないことを証明するのと、どちらが簡単だろうか。それほど難しい問題ではないが、どうも勝手に混乱する人がいるようだ。
 ある、つまり存在することを証明するためには、存在することを示せばいい。一つでも存在すればいいから、それを見つければいいわけだ。それに対して、ない、つまり存在しないことを証明するためには、どこにも存在しないことを示さなければならない。これはどうだろう、簡単だろうか。そこにないからといって、どこにもないとは言えない。だから、見つからないからといって、どこかにあるのかもしれないという可能性を排除することはできない。一つでも見つかってしまえば、それまで主張できたことが根底からひっくり返ってしまう。存在することを否定するためには、存在すると言われたものが本物でなく、別のものであったとする以外には方法がないようだ。ということで、あると言うのは簡単だが、ないと言うのは難しいと言えそうである。こんな話を始めたのはなぜか、つまり、あるところであるものが存在するということを理由にある行為を開始したのだが、肝心のあるものが未だに見つかっていないことがいろんな国で話題になっているからである。周囲の反対を押し切って始めた行動の拠り所となるはずのあるものの存在が確認できていないのだ。開始後、予想よりも早く終結を迎えてしまったので、日本のような国ではもうほとんど話題になるようなことはなかった。しかし、当事国である米国と英国では結果が良かったからと言って、それですべてが解決などという具合には事が進まなかったようだ。結局、錦の御旗としていたあるものの存在は確認されておらず、存在を示す情報として当時提出された書類に間違った情報が意図的に入れられたのではないか、という疑惑が日に日に強さを増しているようである。おそらく、当事国ではこれらの問題に対してごく当たり前のように、論理的な回答を示すだろうし、理路整然とした報告書を提出することによって、両国政府は自らの正統性を主張するに違いない。しかし、これらの反応は簡単に予測できるものであり、議論もやりやすいものとなるはずである。ところが、この国には、そういった論理を展開する術を持ち合わせていない人たちがいて、永田町を闊歩しているようである。未だに見つかっていないという追及に対して、出てきた答えは詭弁としか言い様の無いものだった。曰く、某大統領が見つかっていないから、彼はいなかったと言えるのか。もし、言えないのなら、未だに見つかっていないからと言って、ないとは言えないのではないか。というものであった。あきれ果てるとは、このような話の事を言うのではないだろうか。ここで肝心なのは、あると主張したものの在り処を特定できないで、その状況でした主張には何か別の意図があったのか、ということである。何しろ、いろんな角度から検討したところで、その存在を確信したというのが当初の話だったはずだ。確信とは何がどうしたことであるのか、存在が明確にできない状況でどういう方策があるのか。そういった受け答えが期待できる場面において、まったく意外な方向に進み、詭弁に終始しようという行動には、どんな意図が隠されているのだろうか。そこまで深く読み取る必要などないのかもしれない。単に、判らないことを相手に知られたくないだけの事だろうから。それにしても、こんな子供だましを衆人監視の中で行うことができるのは、一つの才能というべきなのだろうか。政に重要なものとは思えないのだが。

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6月12日(木)−微妙

 一部の魚が売れていないと報じていた。妊娠中の女性に対して発せられた警告にまたも過剰反応が起きたためだ。この国の人びとの情報処理能力の無さにも呆れるが、それを承知で無責任な情報の流し方をするお役所と報道機関にも毎度のことながら呆れてしまう。さらにすごいと思ったのは、この影響を除こうと、今度は絶対に安全という発言を流すところがあることである。
 何を摂取しても、そこには様々なものが含まれており、それが互いにどう反応するのかがはっきりしない以上、絶対に安全などということはできない。そんなことを言うよりも、一日の摂取量としてどの位から危険と考えられるのか、妊婦の場合はどうで、通常人の場合はどうか、といった実数を示すことの方がよほど分かりやすく、明解だと思うのだが、そういう感覚はないらしい。受け取る側にも過剰に反応する回路しか存在していないようで、数値情報は記憶の中から省かれ、「危険」という言葉だけが刷り込まれるようだ。今回の警告ではメチル水銀の含有量が多い魚に関して行われたのだが、この物質は水俣病で有名になったもので、その記憶から過剰反応が出るのも無理はないと言える。このことは周知のことなのだから、いろんな手当ての仕方があったのだろうけれども、結局は警告を流しただけだったらしい。その結果、一部の魚が売れないという報道となった。このように元素によっては、その形により体に悪影響を及ぼすものもあるが、一方でたとえ微量といえども無くてはならないものもある。大量に摂取する必要もないし、かえって大量にあると有害となる場合が多いようだが、微量元素としてその影響が知られているものに亜鉛がある。亜鉛が体内で必要となるなどと聞くと、ちょっと驚くかもしれない。いろんな合金に使われている金属だが、金属そのものを摂取するわけではなく、それが水に溶けた形のものを取り込むのだ。実は、これが欠けてしまうと味覚障害が起き、食べ物の味を感じることができなくなる。生きることにとって、ものの味などというのは重要でないと思われ勝ちだが、実際には精神的にかなり大きな影響を持つ。一方で、鬱症状が酷くなった時にも同じようなことが起きるから、味覚は精神状態そのものにも関係しているのかもしれない。いずれにしても、そういう障害が起きるから、何とか摂取する必要があり、そのために適したものとして紹介されるのが牡蠣である。そういえば貝類は重金属を溜め込むものとして有名で、時には溜過ぎて有害となることがある。他にもマグネシウムやマンガンなどもあるが、先日どこかで見た記事にはヨウ素が問題となっているとあった。ヨウ素は喉のところにある甲状腺の中に多く含まれるものだが、脳の発達にも大きな影響を及ぼすらしい。これが欠乏すると精神遅滞を起こすとか、そんなところだろうか。それで思い出すのは、米国で売られている食塩のことで、そこには"iodized"と書いてあった。ヨードを含む、つまりヨウ素を添加してあるという意味だ。日本ではほとんどお目にかかったことがなかったので不思議に思ったが、あちらでは一般的なようだ。それが欠乏症を防ぐためのものであると、今回の報道でわかった。では、なぜ日本ではそういう食塩が売られていないのか、ヨウ素が多く含まれる食品を頻繁に摂取しているからである。海藻にはヨウ素がかなり含まれているそうで、日本人のようにワカメ、昆布などの海藻を大量に摂取する人にとってはわざわざ添加する必要もない、といったところなのだろう。他にも鉄の不足を問題視していたが、これは肉類、特に肝臓に多く含まれるそうだが、女性にとって苦手な食べ物の一つらしく、貧血症の人にとっては中々難しいところのようだ。結局のところ、こういった微量元素を欠乏しないようにするためには、多種類の食べ物を食べるように心掛けることが一番重要なのだろう。

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6月11日(水)−全卒

 学歴が重視される社会になっていると言われる。学歴を理由にいろんな差別を受けたとか、子供に高い学歴を持たせるために親が努力するとか、その他様々な事柄があると思う。しかし、学歴とは一体なんなのか、ということを考えてみると、思ったほど簡単には答えが出てこないようである。卒業証書という紙切れ一枚と言う人もいれば、その間に受けた教育の高さを指す人もいる。
 就職の際にも、男女雇用機会均等法の施行により、性別不問が条件となったが、一方で学歴に関しては依然として厳しく適用している会社が多い。大卒、短卒、高卒、それぞれを別々の枠として考え、それに適した職場があるような扱い方だ。確かに、専門教育を受けたかどうかで、能力に差が出てくることもあるのだろうが、実際に会社における専門性と学校における専門性を比べてみると、その違いはかなり大きいのではないだろうか。だから、どの学校を卒業したのかということが必ずしもすぐにどの仕事ができるかということに繋がるわけではない。そんなことが明らかでも学歴に対する要求にはあまり変化がない。これは専門性という意味よりも、学歴社会を昇ることによって培われた問題に取り組む技能のようなものに対する期待がそこにあるからなのかもしれない。受験を通して、きちんと勉強する能力が身についていれば、社内でもそれなりの対応が可能だと考えられるわけだ。しかし、最近はこの考え方自体を疑う人たちが出てきた。つまり、受験という明確な目的が示された場合には、決まった形の仕事をするけれども、目的がはっきりしない場合に同じことをできるとは限らず、また不定形のものに取り組む態勢はできていないと思えるわけだ。まして、大学や短大をレジャーランドのようにみなす人たちが巷に溢れる時代となっては、こういう期待感は薄れていかざるを得ない。そんなことから大学や短大での教育体制に対する疑問が数多く出されているようだ。もっと厳しく教育しなければならないとか、米国のように入学は容易に卒業は困難にすべきとか、興味を引き出すために魅力的な講義をするべきとか、挙げればきりのないほどの要望が出されていると聞く。しかしいろんな事情から無理難題としか受け取れないものも多く、悩みを抱えたままのところが多いらしい。ただ、現状を見ると、単に大卒や短卒の資格が欲しい学生と、経営も視野に入れた学校や教育を重視する先生との間にある溝があまりにも深く、容易に埋まるようには見えない。現状のままで、経営も成立し、教育も重視するとなると、打開策の一つとしては、全卒が考えられるのではないだろうか。教育機関として、何も教えずにすべてを卒業させるなどというのはもってのほかと言われるだろうが、漏れ伝わるように手取り足取り無理矢理卒業させている現状を憂えているところでは、結果としてさほどの違いはない。ただ、このやり方は教育をすべて放棄するのではなく、あくまでも本当に受けたい人に受けさせるためのものと考えて欲しい。証書が欲しいだけの人は4年間必要な金をおさめれば、それでおしまいであるが、教育を受ける意欲のある人は講義を受ければよい。無気力、無関心と言われる輩に騒音、雑音を出されて妨害されることもなく、教育する側にも意欲が湧いてくるのではないだろうか。そんなことをしたら誰も教室にやってこないのではという考えもあるが、はたしてそうだろうか。また、学校に来なくていい人たちにとっても、いやいや何かをするよりも好きなことができるだけましなのではないか。まあ、得意とする言い訳が通用しなくなるから、かえって逆効果なのかもしれないが。やってみなければ判らないが、あくまでも現状に合わせた形でのやり方の一つである。ただ、監督官庁の立場としては見過ごすことのできない行為だろうから、実現することのない方策なのかもしれない。

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6月10日(火)−バイト語

 ら抜き言葉というのが話題になっている。もう既に定着気味で、若い世代に限らず、幅広い世代に受け入れられている感じがする。ただその中で、マスコミだけは完全に定着する間ではきちんとした形と言われている方を使うように心がけているらしく、目にしたり、耳にしたりすることはなかった。それが最近、話だけでなく字幕にも出てくるようになり、そろそろかなと感じられる。
 そんな中、話し言葉に関して、いろんな指摘がなされるようになっている。特に、日本放送協会はアナウンサーの育成に力を入れてきたこともあり、それに関する本の出版もしている。なるほどと思うこともあり、色々と勉強になるが、そう思って自分の言葉を振り返ったり、周囲から聞こえてくるものを思い出してみると、かなり酷い状況にあることがわかる。自分自身も注意しているが、やはり敬語に関してはいい加減なところが多い。尊敬、謙譲、はてさて、どっちだったか、などと思うことはしばしばだ。自分のことは自分で努力するとして、周囲のことで特に気になるのは接客業における言葉の扱いである。接客を仕事とするとは言っても、最近はほとんどが正社員ではなくいわゆるアルバイトと呼ばれる人たちである。マニュアルを駆使するファーストフードのお店などでは、きちんとした事前の教育がなされていると思われ勝ちだが、意外にいい加減な言葉遣いをしている場合が多い。つい最近もニュース番組で取り上げていたが、一見正しそうで実はおかしいと思える表現が氾濫しているそうで、使っている人たちに合わせて「バイト語」と呼ばれているらしい。はじめに紹介されたのは、「こちら、コーヒーになります。」である。さて、どこがおかしいのだろう。正しい表現はあとで紹介するとして、その他におかしいものとして紹介されたのは、「1000円からお預かりします。」「以上でよろしかったでしょうか。」「紅茶の方でございます。」だったろうか、記憶は確かではないが。これらは正しくは、「1000円、お預かりします。」「以上でよろしいでしょうか。」「紅茶でございます。」となるそうだ。そういえば、よく言われるなあと思い出す人もいると思う。それなりに工夫をしているように見えるのだが、なんだか不自然な印象を受ける、とでも言うのだろうか。これらとは別に、自分自身で以前から気になっている言葉に、「させていただく」がある。これも時と場合には必要な表現なのだろうが、既に話すことが決まっていて、さあ話し始めようという時に、「話させていただきます。」というのは奇異に聞こえる。これは人によるのだろうか、確認したことがないのでよくはわからない。ただ自分としては、何とも変な具合に聞こえてしまうのだ。まあ、お互いによくわかっていない状況で、どちらが正しい表現なのかを議論しても仕方のないところで、そういう意味では「正しい日本語」などという類いの本が氾濫してくるのもわかるような気がする。皆、互いに不安になっているわけだ。さて、それでははじめに紹介した「こちら、コーヒーになります。」は、どこがおかしいのだろうか。問題は「なる」という表現で、何がなると言いたいのか、という点である。正しくは、「こちら、コーヒーでございます。」とすべきなのだそうだ。確かに、こちらの方がすんなり聞くことができる。

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6月9日(月)−命綱

 対向車線を行く車の中を見てみる。ちょっとした気まぐれなのだが、どのくらいの割合でシートベルトをしているのか数えてみた。良い時で8割から9割程度、悪い時は半分にも満たない。運転者と比べると助手席に乗る人が締めている割合はもっと低く、後部座席の場合ほとんど見えないから何とも言えないがさらに低いだろうと思う。
 いつの頃からかシートベルトの着用が義務付けられ、一部の例外を除いて、運転者と助手席に乗っている人に関しては着用しなければならなくなった。しかし、その後もその割合は上に書いた程度に留まっている。最近でも時に交通取締なるものを実施しているのを見かけるが、その目的は速度超過、酒気帯び運転、それとベルト着用が大部分を占める。前の二つは違反の程度によってはかなり重い罰則と罰金が科せられるが、ベルトに関してはそれほどのことはない。だからというわけでもないのだろうが、普段着用していない人をよく見かける。確かに煩わしさもあるだろうし、自分が安全を心がけているのだから大丈夫と思う人もいるだろう。しかし、教習所で習ったことを思い出した方が良いのではないだろうか。自分がいくら注意しても事故は起きるものだし、その際に怪我をしないためには何が大切なのかということを。実際、最近の車にはエアバッグが装備されているので、ベルトを締めていなくてもハンドルやフロントガラスに激突することは少なくなった。しかし事故の形態によっては、シートベルトの着用が命綱になることもあるのだ。助手席で着用していない人が多いのは、いろんな事情があるのだろう。運転者ほどそういう実感がないとか、煩わしさの方が先にたつとか、義務を果すべきは運転者でそこからの注意がないとか、まだまだ出てきそうだ。しかし、自分の命は自分で守る、自分が運転していないからこそ守る手段はこれしかない、という考えを持てば、もう少し違った行動をとるのではないだろうか。まして、助手席で膝の上に子供を乗せて、などという姿を見ると、一瞬幻かと思えてしまう。子供のためのチャイルドシートの装着も義務となったのではなかったろうか。子供が嫌がるから、などというのを理由にしているのを聞くと、あのままその子が大人になると親が何かにつけて保護するのかなと思えてしまう。この子が嫌がっているので、好きなようにさせて下さいと。大切さ、大事さの尺度を測る物差しが曲がってしまったのか、はたまたそんな物差しを持ち合わせていないのか、何が理由か知らないが、何とも恐ろしい親である。自分の子供だから何をしても良いという意見も聞こえてきそうだが、命の守り方を知らない親が果す役割とは何かと思えてしまう。まあ、そこまで極端な例は脇においておくことにして、もう一つ気になるのは、車庫から後ろ向きに車を出す時にベルトを締めない人たちだ。30年近く前に教習所に通っていた時にはシートベルトは長さを調整しなければならない仕掛けで、うしろを見るために肩を回そうとすると邪魔になっていた。だからその当時の教習ではバックする時にベルトをはずしていたように思う。その名残りなのか、今でもそういったやり方をしている。最近の仕掛けは長さを自動的に調節できるようになっているから、脱着の必要はないはずなのに。自由意志で決めていたものが義務になると少しは装着率が上がるのだろうが、ある程度までであり、そこから先は罰則によるのだろう。どうもそういった価値判断がすべてを決めているようで、何ともこの世の中の状況を映しているような気がしてくる。

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