数年前から話題になっている話に「失敗学」なる新しい「学問」がある。こういう造語は、本を書くときに話題性のある言葉を使うのが普通なので、そのために作られることが多いのだが、今回は本としての話題性を超えて更にその先に向ったらしく、ひょっとしたらある程度の定着が見られるかもしれない。
この「学問」の提唱者の一人に、これを学会として立ち上げた人がいて、その人が中心になって活動が始められているようだが、実際にどの程度のものができているのかは知らない。失敗は、従来何の役にも立たないもので、人の目に触れないようにどこかに隠されてきたものという一般認識がある中で、実際にはそれを経験した人が後の行動や判断にその経験を生かすものであり、その意味からその経験を共有することの意味は大きいというのが、これを「学問」のように扱おうとする意図だという。隠そうとした背景には、失敗した人を徹底的に糾弾する社会という存在があり、その標的にならないためにひた隠すという行動が当然の選択として残ったというわけだ。経験を共有することの重要性を説いたうえで、それを実現するための方策として紹介されたのは、まずは糾弾しないという姿勢の変化のようだ。共有するためには当然どこかに記録として残さねばならないが、隠す行動がその妨げになることは例を引くまでもなく明らかである。では、隠させないためには何が必要か。失敗を恥と感じない気持ちとか、失敗した側に問題があるように思う人もいるようだが、実際にはそういう気持ちに追い込んでいるのは、その人たちに対する周囲の人々の攻撃の姿勢であるという。攻撃をせずに、その失敗の問題点を一緒になって考えれば、隠そうとする姿勢もなくなるに違いないというのだ。それが可能かどうかは、実際に様々なことが進んでみないことには判らないだろうが、鶏と卵の話のように、どちらが先なのか、原因と結果が区別のつかない場合には、やってみるしかないのだろう。それはそれとして、最近特に酷さが増していると思えるのが、この攻撃性の問題である。報道関係の袋だたきの姿勢の酷さは何度か指摘したと思うが、ある方向に向うと一気に極端なところにまで到達してしまう。裁判での冤罪もさることながら、そこに至る前に既に犯人扱いされてしまう人々が出てくると、はたしてその根拠はどこにあるのかと不思議に思えることも屡々である。読者や視聴者がその行動を制するほどの情報をもちあわせていないのだから、止めることはできないまでも、良識の範囲内で意図的、作為的情報操作を感じ取る感覚だけは何とか残しておきたいものだと思う。報道ほどの責任はないにしても、この独り言が掲示されているインターネットの世界にも、精神を病んでいるのではないかと思えるほど極端な攻撃性を示す人々がいる。実際には、社会現象とまで言われた「虐め」が明確な形で現れるのが閉鎖社会の特徴で、ネット社会はその典型例なのかもしれない。匿名性をどう解釈するのかは個人によるが、正体が知られなければ何をしてもいいという解釈が成立するところに大きな矛盾を感じる人も多いのではないだろうか。そこには人間の存在、人間性、人間の尊厳、などという言葉を否定するものしかないのではなかろうか。攻撃は最大の防御なり、という人々がいて、ネットでの個人攻撃がその現れのように説く人もいるが、攻撃の必要性を論じることなく説明されても、何の意味も持たないと思う。批判と攻撃は明らかに違うという点をまず論じてこそ、この話の問題点が明らかになると思うのだが、そこがすっぽり抜け落ちていることに自分たちが気づいていないようだ。話を元に戻して、「失敗」はその性質によっては役立ち、場合によっては役立たないとなるが、それは中身を知ってはじめて判断できることである。隠されてしまっては何もできないというのは確かにその通りで、その意味でただ責めるだけでは答えが出てくることはない。「学問」として成立するかは別にして、ちょっと考えてみてもよさそうだ。
いつも、いつも、書く材料に事欠かない、ということは決してない。ラジオやテレビのニュースを見聞きして、たまには新聞などを読んだりして、色々と探し回ることもあるのだが、どうも気に入ったものがないということもある。今が、そんな状態で、はてどうしたものか、と思いつつ、書き始めてしまった。
このところ気になった話題を拾ってみると、たとえばこの頃の乱れた日本語に関するニュースがあるが、これはほんの少し前に取り上げたばかりである。あの時は、接客業の対応での言葉の使い方に関するものだけだったが、新たに意味の取り違えに関するデータが出されたようだ。まあ、こんなことは今に始まったことではなく、実際にきちんとした使い方をする人が少なくなれば自然に起きることだ。次に気になったのは、最近の株高の問題である。こちらはそれ自体は悪いことではないから歓迎したいところだが、評論家の人々は何とか自分たちの正当性を主張するためなのか、依然として警戒を緩めていない。と言うよりも、何しろ経済が悪化してくれないと自分たちの仕事がなくなるとでも思っているのではないかと、勘ぐりたくなる部分がかなり大きい。評論家という商売はそういう意味で非常に不安定なもので、それは経済に限ったことではない。ただ、経済という分野は季節ものではなく、常に必要とされるものだけに、逆に食いっぱぐれたら大変と思うのかもしれない。そんな状況もあってか、最近経済の評論家として直接助言を与える立場から、大学のスタッフとして遠くから助言を与える立場に変わる人が多くなったようだ。対岸に行ってしまえば、今までの発言に対する責任も問われずに済むとでも言うのだろうか。まあ、株高自体が彼らの主張通りに一時的なものになる可能性も否めないから、この辺りのことを書くことは望むところではない。もう一つ気になっていることは、農産物の盗難に関するニュースである。高級品と呼ばれる農産物は単価も高く、一部にはその姿とともに宝石と呼ばれるものもあるようだが、最近それが大量に盗まれたという話が流れてきた。収穫後のものが盗まれる場合もあるのだろうが、今回のものは収穫直前のものを丁寧に収穫して盗んでいったものらしく、その手口から農業関係者と疑う向きもあるようだ。今までも不思議に思っていたのだが、多くの畑や果樹園には柵もなく、誰でも勝手に入ることができるところがある。別にそんなことをしなくても、誰かが侵入して悪いことをやるわけでもなく、そんな手間をかける必要はない、という考えがあったからだろう。イノシシや猿などに荒らされたところは、いろんな対策が講じられているようだが、それも野生動物に対するものであって、人間に対するものではない。それが、今回の事件で判るように、人間が他人の畑や果樹園に侵入し、農作物を大量に盗んでいくようになった。まあ、農業に限らず、他人が作ったものを同じ業界の人々が盗むという事件が多くなったから、世の中が変わったのだろう。どうにも、周りの人間を信用するのが難しい時代になったということなのだろうか。同じ苦労を知った人間だからこそ、お互いの仕事を尊重するものだ、などという考えは、ある言葉の意味が取り違えられるようになるのと同じように、どこかにねじ曲げられた形で伝えられるようになったとでも言うべきだろうか。一見不思議に思えるのも、自分が前の時代の考え方に固執しているからで、新しい考えについていけないからなのかもしれない。言葉にしても、考え方にしても、間違っているものについて行く必要はどこにもないはずなのだが、これも不安の現れの一つとでもいうのだろうか。
前の話とよく似た話題になるのかもしれないが、最近気になっていることの一つなので、取り上げてみようと思う。始めの部分ではすこし違ったものになるけれども、最後の部分では同じ話題になる。何かしらの情報を記憶しておく媒体の話だが、以前から言われていたこととはいえ、ずいぶん進んできたものだと思っている。
首都圏のJR、つまりJR東日本では、ずいぶん前のことになるが歴史的な出来事が起きた。それまでは、大阪周辺の私鉄やJRに先を越されていた新たな検札システムの導入をいち早く決定したのだ。一つには、回数カードの一種であるイオカードという使った分だけカードから引き落とされて行くタイプのものを、意外に早い段階で導入したことで、それだけでも企業努力というか、そんなものが感じられた。ところが次に起きたことには、もっと驚かされた。スイカと言うのだったか、ICチップを埋め込んだカードを導入し、検札機の中を通さなくても作動するだけでなく、カードにためておく金額を加算できるという優れた機能も加わった。元々は、定期券のために導入されたものらしいが、これも単に便利だからというだけでなく、書き込み、消去ができるので、乗車駅、降車駅の記録を残せて、不正使用を防止する役割もはたしている。実際に、定期券を使った不正乗車はあとをたたないらしく、色んな調査をすることで摘発してきたのだが、これを使えばそういう経費が大幅に削減されるということだったのだろう。どの程度効果を上げているのか、数字が出てくることはないのだろうが、防止という目的からすると、そういった形では現われてこないのかもしれない。それにしても、ICチップは以前から注目されていて、その中に保存できる情報量の多さと書き換えが可能であることがその理由だったと思う。この例のようにカードに埋め込んで、その特性を活かす方法もあるし、つい最近報道されたように免許証に埋め込んで、様々なデータをどこかのコンピュータに保存するだけでなく、免許証自体に記録しておこうという方法が実施されるようである。ただ、この場合、もし読み取りが警察以外で可能になるようなことがあると、個人情報の漏えいに繋がるから、かなり気をつけねばならない。何でも便利になれば良いと考えて、安易に導入すると、とんでもないことが起きてしまいそうである。クレジットカードの情報が、店鋪の読み取り機から漏れて、偽のコピーが出回るなどという事件もあったぐらいだから、何でも起こりうると心配になる。ICチップは大きさも1ミリに満たないほどで、どこに埋め込んでもほとんど目立たないから、色んな使い方が考えられるが、先日紹介されていたものに本への利用があった。本には現在ISBNという登録番号がつけられ、その番号からそれぞれの書籍を認識できるようにしてある。しかし、それは一つの本の認識ではなく、その題名の本すべてに対する認識だから、たとえば本屋で手にとった本とそこに積んである同じ題名の本とは区別がつかない。そのため、たとえば万引きなどの盗難にあった本でも、実際に購入した本でも区別がつかないから、古本屋での買い取りの時に盗んだ本でも購入した本でも同じ扱いになってしまう。しかし、そこにもっと多くの個別の情報まで記録できるICチップが埋め込まれていると、それがちゃんとレジを通して購入されたものか、それとも一度も購入の記録がないものかの区別もつけられるので、盗難防止にもなるということだ。これはまた、店の出入り口に設置されている盗難防止の警報器で検知できるので、二重の防止機構が働いていると言えるのだろう。一つ一つにかかる経費はそれほどでもないが、問題は警報器やレジでの書き込み装置の設置費用で、従来のものが使えないだけにかなりの経費がかかるそうである。それでも問題がかなり大きくなっているから、需要が大きくなれば価格も自然と下がってくるのかもしれない。まあ、こんな仕掛けもいつの間にか逃げ道を見つけだす人たちが世の中にいるから、いつまでもつのか判らないものなのだが。
スーパーなどに買物に行くと、必ず出合うものがある。買物を済ませて、レジに並んで、買ったものの単価やら合計金額やらが、表示される。あそこで出合うものなのだが、30年くらい前にはなかったような気がする。機械の前に商品をかざすと、金額が表示される、あの仕掛けのことだ。
バーコード読み取り機というのだろうか、赤く光る線が見えていることもあり、どうもレーザー光をあてて、その反射か何かで商品に貼付けてある黒い線からなる認識票を読み取っているようなのだ。どんな仕掛けなのか、いまだによくわからない。始めの頃は、黒い線の太い細いと、そこに書いてある数字との関係を色々と考えてみたしたが、結局これという答えには行き着かなかったような記憶がある。実際には、きちんとして規則に則って、あの線の太さや間隔が決められているから、きちんと整理して考えれば、答えが得られたはずなのだろうが、そこまでの辛抱はなかったようだ。しかし、あの仕掛けの導入と、読み取り機の普及によって、それ以前なら、店においてある商品の価格などをきちんと記憶できる人にしかできなかったレジの仕事も、誰にでもできるようになり、まったく便利になったものだと感心させられる。その上、店ごとに独自にコードを決められるようにしたために、小分けした肉や魚などに関しても値段の表示と共に、入力が容易になった。これは実際には、売り買いのところだけでなく、商品管理においても大変重要な役割をはたしていて、特にコンビニのチェーンなどでは商品の仕入れの調整などにも活用されている。とにかく色んなものがコンピュータで管理されるようになったために実現した管理方式だが、小さな店を多数抱えるコンビニの業界では、仕入れなどで生じる無駄がつもり積もって大きなものになる場合が多いので、このシステムは中々の優れものだと思う。こんなやり方が現実のものになった一番の要因はやはりバーコードと規格だと思う。たぶん、米国から始まったものなのだろうが、今は世界中どこにでもありそうだ。バーコードを印刷したシールを貼ることのできない一部の商品を除けば、ほとんどのものに貼られていて、商品を製造する段階からきちんと導入されていることがよくわかる。ただ、最近はその番号の桁数がだんだん足らなくなってきているようで、もっと別の記憶媒体が必要であると言われているようだ。その一つに、正式名称は忘れたが、二次元バーコードのようなものがある。従来のバーコードは線の太さとその間隔で表現されていたが、最近黒い正方形の組み合わせで同じような記号化をしているものが出ているようだ。まだ商品分類の世界には使われていないようだが、別の世界で既に使われているという話を聞いたことがある。二次元的に配置することで、そこに含まれる情報量は線で表したものより、かなり多くすることができる。それを使って、かなり複雑な認識記号を表現することも可能になるわけだ。それを使って、入場券のようなものを作ったという話があるのだ。どこだったのか忘れたが、都内のかなり大きなイベント会場で、コンサートか何かの入場時に携帯電話の液晶画面を読み取らせるということがあった。これは主催者側が、入場手続きをした人たちに、二次元バーコードをメールで送り、それを受け取った人たちが入り口で液晶画面に表示させることで、手続き完了したものかどうかのチェックを受けるというもので、偽造もしにくく、処理の時間も短くて済むとのことだ。まったく色々と考え出すものだが、ちょっと時間がたつと結局偽造されてしまうのだろう。
この国には季節がある。季節の移り変わりがまったくないところは、地球上どこを探しても見つからないのかもしれないが、日本ほど目まぐるしく変化するところはそれほど多くないのだと思う。生き物はやはり何らかの変化を欲するものらしく、それがあるからこそ、飽きることなく一生を終えることができるのかもしれない。
季節の移り変わりがあると言っても、太陽や月や星の運行のように、ほぼ毎年同じことを繰り返すというわけではない。何となく、この時期にこんなことが起きる、といった程度のもので、これと決まった様式があるわけではないのだ。だから、年ごとにちょっとした違いが現われ、時にはそれが大きな違いとなることもある。暖冬、冷夏、猛暑、などなど、極端な変化もあれば、季節外れの天候ということもある。大きく見れば大体同じように毎年繰り返されるわけだから、農業に従事する人たちにとっては、それから大きく外れることのない程度に、いろんな計画をたてる必要が出てくる。今の季節、鬱陶しい梅雨の真只中であるが、これもいつもの年ならば空梅雨とか、色々と言われているはずの時期だ。ところが、今年はごく普通の梅雨である。5月の終わりに一度それらしき天候が続いたことがあり、どうしようか迷っているといった感じもあったが、結局そのまま宣言には至らず、先週ぐらいだったろうか日本列島をそのニュースが駆け巡った。その後も、天気は何となく保たれているようにも見えたが、湿度、気温とも高い日が続き、ここ数日は雨模様である。と言っても、これは地方によるわけで、これを書いているところがそういった天気になっているというだけのことである。それでも、全国的に見ても、今年の梅雨は型通りのものといった感じがする。農作物にとっては非常にありがたいことであろうが、これからさらに局地的な集中豪雨が起き始めると、またまったく違った悩みが広がるものと思われる。今年はこの時期に既に幾つかの台風が近くを通ったこともあり、台風の当たり年になりそうだといわれている。これだけは何とも分からないことで、発生数と進路の問題が複雑に絡まっているわけだから、すぐに答えが出てくるはずもない。まあ、いつもと同じ程度で済んでくれればありがたいのだが。一時は地球温暖化が大きく話題に取り上げられ、それと共にか、暖冬が話題になっていた。しかし、このところの気温の変動を見ていると、どちらかといえばごく普通の夏と冬が繰り返されているようにも見える。はたして本当に地球の温暖化なるものが起きているのか、そろそろ疑い始める人がいても、不思議ではない。ただ、こういうものは平均とか何とか、いろんな統計処理の結果でもあるから、人間が普段感じているような気温の変化と同じレベルでは考えにくいものである。これから夏に向って、はたして猛暑となるのか、冷夏となるのか、電力事情の悪化が心配されている地方では、なるべく暑くならないことを願っているのだろうが、これだけはどうなるのやら、分からない。長期予報なるものが出ているとはいえ、その信頼度はまだまだといったところではないか。それにしても、梅雨は梅雨らしく、じめじめと蒸し暑く、などと望む人はそれほど多くないのだろうか。
おふくろの味と言われて、思い出すものは人それぞれだと思う。どうも、女の人よりも、男の人に対して頻繁に出される質問のようだが、これは別に日本に限ったことではない。こういう話になるとすぐにマザコンを話題に出す人もいるようだが、そういう意味ではイタリアの男たちはそのほとんどがマンマの味に強い思いを持っていると聞く。
はっきりいえば、母親の作った食べ物をほとんどの人が高校卒業くらいまでは食べ続けるわけで、何も影響を受けないというのはかなり難しいのではないだろうか。美味しいものとしてのおふくろの味もあるだろうが、一方でちょっと遠慮したいというおふくろの味もあるようだ。いくら慣らされているとはいえ、不味いものは不味いのだと主張する友人がいた。彼は、高校時代も自分で弁当を作っていったのだそうだ。さすがに包丁さばきも見事で、女の人たちも感心していた。そういう例はこの一つだけで他にはとんと聞いたことがない。それほど母親の作ったものには良い印象を持っているのだろう。男にとっては、結婚によって違った味つけとの出合いがあり、それが吉と出るか、凶と出るか、結構重要な問題だと思う。女性の場合は、そういった受け身的な出合いは少ないと思うが、やはり引き継ぐものとして母親の手料理がある場合も多いだろう。肉じゃがやら、煮魚やら、はてさて、何が一番のおふくろの味だろうか、などと考えていても、意外にこれといったものが思い出せないことがある。先日もふとそんなことを考えていたが、それはラジオで梅干しの作り方が紹介されていた時だった。そこでは、土用の時期の天日干しにすることが梅干し作りにとっていかに重要であるかという話題を論じていたのだが、それを聴いていてふと思ったことがある。確かにうちでも梅を干していた記憶がある。何も手伝ったことはないが、梅を使ったものだと、梅干しか梅酒ぐらいしか思いつかない。小さい頃は梅干しはあの独特の酸味が苦手で、どうも敬遠していたけれども、梅酒の方は強い甘味と共に、氷水で薄めたものを真夏の暑い時期に飲んだ記憶が蘇る。つい飲み過ぎれば、案の定酔いが回っていた。天日干しで思い出したのは、梅干しのことだけではなく、もう一つ母の得意なものがあったことである。40年ほど前だと、まだ野菜が出回る時の季節感がしっかりとあった時代である。この野菜はこの時期と皆が自然に知っていたのに、今となってはさっぱり判らなくなってしまった。季節感があるということは旬があるということで、その時期には良いものが安く出回っていた。だから、ある野菜を沢山買い込むことができるが、何しろ冷蔵庫もやっと普及した頃だから、保存の方法がない。そこで代わりの方法として考えたのだろうか、今考えるとなぜと思うようなものであった。その頃であればそろそろ出回り始める頃だったろうか、秋が旬といわれる茄子である。土用の頃だったと思うのだが、母は茄子を大量に買い込んできて、それを一センチほどの太さの棒状に切りそろえ、天日干しをしていた。茄子の実はスポンジ上になっているから、乾燥すればかなり細くなり、最後はまるで切り干し大根のようになった。この天日干しの間も、たまにやってくる夕立が大敵で、ポツポツとやってくると慌ててざるを取り込んでいたのを覚えている。とにかくそうやって作った切り干し茄子を大根よりも少し辛さをきかせて甘辛く煮たものを食べていたような気がする。ただ、味の方ははっきりと思い出せない。だから、おふくろの味というにはちょっと無理がある一品だが、何となく懐かしく時折思い出すことがある。
最近の信号機を見て、気がつくことはないだろうか。並び方や点滅の仕方やその他諸々とことではなく、信号機の明かりそのものに関することである。じっと見てみると、以前はガラスのレンズのような形のものが被さっているようだったのが、最近のものの中には小さな明かりが沢山集まっているようなものがある。よく見るとそれは一つ一つの色の点が集まっているのだ。
以前紹介したかもしれないが、最近巷で見かけるようになった新型の信号機には、LED(発光ダイオード)が使われている。今までのものとどこが変わったのか、すぐには判らないかもしれないが、優れていると言われている点が少なくとも二つはある。一つは、西日を浴びた時でもどの色が点灯しているのかがよく判ること。夕方陽が沈みかけた頃、交差点を東に向っている時に正面に見える信号は、どの色が点灯しているのかわかりにくく、見間違いによる事故が多かったのだそうだ。これは、信号機のランプに被せられている色ガラスに夕陽が反射して、あたかもその色が光っているように見えるためで、反射を防ぐことが難しく、大きな問題となっていたらしい。ところが、LEDを使うと反射がほとんどない状態になるので、こんな状況下でも見間違いが起きなくなる。この効果は既に鉄道信号に使われている時から言われていたことで、交通信号への導入において重要視されたことだそうだ。二つ目は、経費などの問題である。確かに初期投資としては大量に使われている従来の電灯式のものに比べると、割高となるかもしれないが、寿命が長く、電灯式ではランプが切れるとその色が点灯しなくなるために、安全のために寿命が来るよりもずっと早く交換していたので、かなりの無駄があったらしい。それに比べると、LEDではそれぞれの色に多数のランプを使っていることと同じであり、一つ二つがたまたま切れてしまったとしても、その色全体が点灯しなくなることはない。つまり、交換にかかる経費の問題からも、安全性の問題からも、従来のものより優れているとなる。このような従来にはない良い点を紹介すると、なぜ導入されなかったのか不思議に思うかもしれないが、そこにはいろんな背景があるらしい。一説には天下りを妨げるなどという理由も出されているが、真偽のほどは確かではない。LEDも数年前までは、赤と黄色に関しては製品化されていたのだが、緑については良いものが出ていなかった。それが今特許紛争をしている二つの会社とその関係者の努力で、青色のLEDが製品化され、現在では様々なところで使われている。光の三原色が揃えば、人間の目に見えるあらゆる色を表現することが可能になるので、人が沢山集まる大きな駅前には大きなスクリーンが設置されているところもある。これもすべてがLEDによるものではないのかもしれないが、かなり増えてきていると聞く。明るく、鮮やかな色を表現できるLEDは、いろんな点で優れており、さらに多くの場面で見かけるようになるだろう。最近気がついた利用の一つに、バスの行き先表示がある。ほとんどのものはいまだにロール式の行き先表示を裏から光を当てて見えるようにしているが、時にオレンジ色に輝く表示に出合うことがある。昼間も鮮やかに見えて、わかりやすいようで、好評なのかもしれないが、ちょっと気になることがある。こちらの目が眩しいことに慣れていないのかもしれないが、夜のバスを見ているとギラギラと輝くLED表示が眩しすぎて、かえって見にくいという感じがする。車の時計表示が昼と夜で明るさを変えるように、こういう表示もそんな工夫が必要なのではないだろうか。もっと明るく、という気持ちで開発に携わった人びとにとっては、こんなことは些末に思えるかもしれないが、過ぎたるは及ばざるがごとし、時と場合を選んで欲しいと思うのだ。