パンチの独り言

(2003年6月30日〜7月6日)
(追い銭、批正、吟味、報酬、涼気、的、勲)



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7月6日(日)−勲

 先週の日曜日、不況のことを書いたからでもあるまいが、相場の方は驚くほどの動きを見せてきた。経済評論家たちは、今まで無視してきた材料に光をあてて、何とかつじつまを合わせようと躍起になり、それでもこの動きを一時的なものと結論づけるために、さらなる論理を展開しようとしているようだ。一方で、ほら見たことかと、鼻高々に自慢してみせる輩もいて、笑うに笑えない永田町周辺のようだ。
 このところの上げが一時的なものか、そうでないか、すぐに結論を出すことはできないだろう。たとえ上昇が続いたとしても、その後に下げてしまえば、結果的には一時的と言わざるを得なくなるし、一方でここで一服して少し下げたとしても、その後再び上げに転じれば一時的でなかったとなる。なんとも不思議に思えるが、結果だけがものを言う世界では、そんなものだと片付けるしかないのだろう。いずれにしても、今回の上昇を一番喜んでいたのは、上で少し触れたこの国で一番上の地位にいるはずの政治家だろう。何がどう影響したのか吟味することもなく、諸手を挙げてこの上昇を歓迎し、さらに自らの手柄にすることで、これから数カ月後にある審判を有利な方に動かそうとしているようだ。それだけならまだしも、既にその後の動きにまで言葉が及ぶようになり、一体全体どんな気持ちで、ついこの間まで、自らの口から語るものではないと言っていた話に触れるように心変わりしたのだろうか。実際にそこまで語っているのかどうかはわからないが、協力者に感謝の気持ちを込めて、といった雰囲気の話が進んでいるような情報が流れているから、まあ、そんなこともあるのだろう。こういうところが一部の人たちから見たら呆れてしまうところなのだろうが、反対にこういう発言に対する責任に押しつぶされずに身軽に動き回るところが魅力的と思う人もいるのだろう。どうにもならない、と言いたくもなるが、この国の今の状況では何か大きく変えられる切り札が出される可能性もほとんどないように思えてしまう。経済に対する不安感よりも、政治に対する不安感の方がずっと大きいと思うのだが、よってたかってそう思わせないように経済論議に花を咲かせている人たちが沢山いる。こういうところが、と思ったことがもう一つあり、それも数日前のことだったと思う。相場の好転に対して意見を求められた時に、自らの手柄のような態度を露にしたところを見て、やはり人を動かせない人なんだな、と思った。評論家たちの一部は、一時的なものと片付けることにより前言撤回を避けたようだが、ある銀行に対する救済措置を主たる原因とする人もいた。この決定がどの段階で、誰によってなされたのか、実際に明らかにすることは難しいと思うが、だからこそ、一番てっぺんにいる人が自分が自分がといった態度に出ず、担当の大臣にでも手柄を取らせてみたらどうだったのだろうか。ひょっとしたら、そんな言動もあったのかもしれないが、断片化されたニュースを見ている限りでは何もなかったような気がする。その後の動きを見れば、とても他人の手柄にするような性質のものではないと思えてくる。この機に乗じて、上手く立ち回らなければ、自らの地位を保つことはできない。そんな気持ちが前面に出ているのではないだろうか。もしそうだとしたら、今良いと思われる時期に、一気に既成事実を作ることで、道筋を決めておくことが最も肝心なことだと思える。このところの動きは、そんな考えに基づいたものだと考えると、いかにもありそうに思えてくるのだが、いかがだろうか。しかし、もしこれが事実だとしたら、これほどわかりやすい戦略をわかりやすく披露してもなお、それに対する対抗策が講じられない反対勢力と呼ばれる人たちは、どんな人の集まりなのだろうか。

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7月5日(土)−的

 また、鬱だった人が本を出版したのだそうだ。こんなことを書くと、まるでそういう人が本を書くことがいけないと言っているように聞こえるかもしれないが、そんなつもりは毛頭ない。では、なぜ、「また」などと書くのか、それは出版の目的とこの病気に該当する人たちの抱える問題との隔たりを感じるからである。
 先月紹介した読んだ本の中に、一時期人気のあった天気予報の担当者だった人のものがある。機知に富んだ話ぶりから人気が出ていたそうだが、その当時見かけたことはなく、出演していた番組を見る機会に恵まれなかったのか、あるいは時期的に見られなかったのか、いずれにしても活躍していた姿を思い浮かべることはできない。今では、鬱からの帰還とともに出版した本のテーマの方で有名になり、その手の番組に出ているのを見かける。その姿は別段特別な雰囲気もなく、その本の著者であることを知らなければ、単なる評論家のように見える。しかし、番組としては彼を経験者として出演させているわけで、その中でも非経験者ではわからないような心の動きや気持ちを細かなところまで説明する役割を負っているようだ。医者の立場からの話は専門医が登場しているので彼がする必要はなく、あくまでも患者の立場からの話を要求されている。こういう番組の役割は、本の出版の目的として紹介されたものとは少々違っていると思う。それについては後で書くとして、本の内容として特に気になったのは、闘病生活をおくっている時の状況が赤裸々に語られていることである。こんな書き方をすると、状況が詳しくわかってそれはとても良いことではないか、と思う人もいるだろうが、個人的にはその必要はないと思っているし、そこまで自分をさらけだすことが本人にとってどういう意味を持つのか理解できない。この本にしても、上で「また」と書いた本にしても、出版の目的の一つに、同じ病気に罹った人たちの参考あるいは助けになれば、とある。しかし、鬱病に罹っている人たちの症状の一つとして、こういった類いの本に必ず紹介されているのは、何もする気が起こらないということなのだ。もし、そうだとしたら、はたして苦しんでいる最中にこれらの本は意味をもつことができるのだろうか。一方、そういった症状が出る前の人びとにとっては、ああこんなに大変なんだという思いとか同情とかいった感情は出てくるのだろうが、だからといって潜んでいる病気の進行を止めることにはならないような気がする。それは、あまりにも遠くの向こう岸の話に思えてしまうからだ。そんな感覚から、この目的は達成できそうにもないと感じてしまうわけだ。では、何の役に立つのか、と考えてみると、実際に鬱で苦しんでいる人たちの周囲の人びと、家族、同僚、友人、その他諸々の人びとにとって、苦しんでいる本人の中で何が起きているのかを知るための情報源として役に立ちそうである。実際に、テレビの番組にしても、患者本人に対する情報発信というよりも、その周囲で困惑している人びとへの発信が主目的であるようにも見える。なにしろ、苦しんでいる本人にとって、そういう情報を理解しようとか、取り入れなければとか、自分は何をすれば回復できるのかとか、そんな気持ちが起きてこないことが、一番の問題であると経験者は必ず語っているのだ。もし、そうならば、本にしても番組にしても、積極的に接する機会を持つことはなく、ただそこにある、そこに流れている、多数の無関心の対象のようなものの一つに過ぎないことになる。ただ、本人以外を対象とするならば、そこに起きている心の葛藤のようなものを詳細に渡って赤裸々に語る必要があるのかどうか、何となく疑問に感じられてしまうのだ。自らをさらけだすことによって、自分の心の重荷がとれて、楽になれる、と言いたいのかもしれないが、そこまでの踏ん切りのついていないものにとっては、なんとも言えぬ不思議な感情に思え、そこまで追い込まねばならぬ心の病の重さを今さらのように認識させられてしまう。

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7月4日(金)−涼気

 夏の強い日ざしを避けるために、縁側にぶら下がっていたのは、簾なのか、葦簾なのか、よくは覚えていないが、そんな光景が記憶の中にぼんやりとある。日本の蒸し暑い夏に、ジリジリと燃えるような太陽に加勢をされたのではたまったものではない。さりとて、風の通りが悪くなっては元も子もない。そんなところから考えだされたものだろうか。
 他にも夏というと思い出すものが幾つかある。母の実家に行くと吊り下がっていたが、家にはなかったのが、蚊帳である。これも冷房装置がない頃の工夫の一つだろう。中で寝る時も母親が子供達が寝るまで団扇であおいでいた記憶がある。まあ、こっちは寝てしまうわけだから、寝るまでなどというのは想像の産物なのだが。蚊帳の中はなんだか特別な空間のように思えて、色々と新しい遊びを考えだしていたような気がする。それでも騒ぎ過ぎてはよく怒られたものだ。せっかく蚊が入らないようにしているのに、出たり入ったり忙しくしていたら、何の効果も得られないからだ。その頃からある田舎の家では部屋の四隅に蚊帳を吊るためのフックのようなものが天井近くの柱のところに付いていた。今でもそれが残っているところがあり、見つける度に懐かしく思ったりする。水浴びなどはしたことがないが、今だとビニール製のプールを広げて遊んでいる子供を見かける。川や池に遊びに行くことを考えたら、ずっと安全な遊びと言えるだろう。公営のプールに行くのは楽しいことは楽しいが、そこまでの道のりに難渋する場合もある。どうせイモ洗いのようになるのだったら、庭のちっぽけなプールでも同じことのような気がする。その他に涼しさを呼ぶものとしては、蓙があるだろうか。畳み表だけを剥がしたようなもので、適当に湿気を吸い込んでくれるためか、その上に座ったり寝転んだりしていると何となく涼しく感じられる。一時期、ビニール製のものが出回ったが、似て非なるものとはこのことか、と思えるほど悲惨な結果を産んでいた。あのベタッとした感覚は忘れられないものだ。それに比べたらさすがに本物はさらりとした感じで、確かにあの編み模様が腕や腹に刻み込まれてしまうが、汗を吸い取ってくれていることがよくわかる。先日花蓙をテレビで紹介していた。織物の機械のように色をつけた藺草とそうでないものを編み上げて花のような模様を織り出したものだ。伝統的な模様と今風の模様、登場していた人がもう50年やっているわけだから、何が伝統で何が現代なのかわからない気がした。懐かしいと思ったのは、花蓙のことだけでなく、実は藺草のことも懐かしく思い出した。学生時代住んでいた地方は藺草の栽培で有名な地域で、この季節になると電車の窓から青々とした稲に混じって、もっとずっと背の高い藺草が生えているところを見ることができた。もう少しして夏休みの時期に入ると学生を対象としたアルバイトの募集が行われていた。藺草の刈り取りの仕事である。農家に泊まり込んで、三食付きのアルバイトは一日一万円が当時の相場だったと思う。一時間五百円の仕事なら十分と言われた時代に、一日一万円はとても魅力的に思えた。しかし、結局やることはなかった。経験者から聞いた話だと、朝4時には畑に出て、午前中一杯刈り続ける。昼間はほとんど昼寝の時間で、夜には酒を飲んで寝るだけ、それほどの重労働であり、午前中だけとは言っても8時間近く働くのだからかなり厳しいものだ。一週間ももたないという噂が飛び交っていた。それでも毎年出かけていく人もいただろうか、農業の厳しさはこんなものじゃないと言われたこともあるようだ。

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7月3日(木)−報酬

 "give and take"という言葉がある。何かを与えたら、それによって何かを得る。そんな意味なのだが、常にこれが成立するわけでもないし、成立するべきものでないことも多くある。ただ、日本の伝統が育んできた人との関わりに、こういう考え方がなかったわけでもないのに、なぜだか滅私奉公ばかりが強調されて考え方の変更を強要されることがある。
 実際には、与えることによって得るという考えに反対するわけではないが、そこに目に見える報酬を仮定し、それに対する打算が働くとしたら、どうかと思うことがある。労働には常に報酬が伴うもの、という考えは、支配者階級と労働者階級の区別がはっきりしていた時に、権利を明確に主張するために重要な考え方であったのだろう。元々差別とか区別という考えの上に立った考え方であるから、それがぼんやりとしてくると意味もはっきりしなくなり、意味がなくなるのではなく逆に拡大解釈の方向に行くことも起きるようだ。労働と報酬という結びつきがはっきりとしていた国で、その考え方とは結びつかない活動が始まった時に、それをボランティアと呼んだのではないだろうか。報酬には結びつかない活動、労働を、社会のためにとか、弱者のためにとか、いろんな理由をつけて行うことが元々の考え方であり、今でもその主旨に則って行われているに違いない。しかし、その考え方自体を輸入した国では、労働と報酬の関係も輸入したことから、それらの結びつきをきちんと理解していない部分があるのではないだろうか。ボランティアなどという考え方は中から沸き上がるものでない限り、成立しないと思うのだが、現実にはそうなっていないところも多いからだ。中でも一番驚いたのは、ボランティアの経験を一種の業績として考えようとするものだ。仕事を休むのは業績の上で不利になるのだから、その穴埋めをしようという考えなのだろうが、どこかおかしくないだろうか。この考え方の延長線上に、学業の一環としてのボランティアの扱いが出てきたのかもしれない。ここまで来ると、何でも有利になることをやっておくという利己的な考え方の子供たちが報酬を期待してボランティアに参加する図式が出てくる。社会参加は重要な活動であり、それを促すことは子供達の教育にも役立つものである、というところまでは考え方として間違っているとは思えない。しかし、そこに強制的な力を働かせようとすると、命令に従う風潮は既に過去のものとして葬り去られてしまったから、ご褒美を与えるぐらいしか考えられないのであろう。ボランティアの精神を教えるべき機会に、それとは正反対の精神を植え付けようとしているわけだ。おそらくこんな活動を広げようとする人たちの中に、本質を理解しないで表面だけを追いかけている人がいるために、これほどねじまがったものが出てきてしまうのだろうが、その背景にあるのは結局のところ実体としての報酬がなければ何もする必要はない、という考えがあるのではなかろうか。何かを学ぶということに関しても、それを如実に表すものがある気がする。いわゆる学校に対しても知識を身につけるためなどという話はとんと聞かれなくなり、卒業資格が目的化している。知識は目に見える形を取ることはなく、精神活動の中でのみ働くものである。それを上手くつなぎ合わせることによって、外に対する働きかけをし、その成果で地位とか報酬を得ることが可能になるが、そのまま報酬に繋がることは少ない。だから、何かを手に入れることを期待する人びとには、目に見えるものを用意するのが、現代の教育現場の役目となっているようだ。目に見えない形の知識とか知恵とかいうものは、目でしかものを見ない人びとにとっては何の価値もないものであり、報酬にはなり得ないものなのである。目的意識自体には何ら問題はないのだろうが、目的の設け方に問題があるのだろう。生涯教育が産業の一つとして扱われるようになってずいぶん時間が経過したが、これも早晩そんなことを要求されるようになるのだろうか。向こう岸に持っていく荷物を増やしたら、途中で沈んでしまうかもしれないのだが。

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7月2日(水)−吟味

 アナログとデジタル、まったく違うもののように扱われていて、特に人間の感覚において、その違いを強調する場合が多いようだ。今、腕にはめている時計を見ると、そこに数字が現れているデジタル時計を持っている人もいれば、針が動いているアナログ時計を持っている人もいる。ただ、どちらがより良いのか、などということを論じても無駄なことは皆わかっている。
 パッと見た瞬間に時間が何となくわかるという意味では針で示した方が優れているのだろうが、正確な時間を知りたい時には数字で示してくれた方が良い。時にはその両方の機能を兼ね備えた時計も売られているので、人によっては欲張りに走るのかもしれない。ただ、いつでもどこでも、二兎追うものはという話が適用されるので、見にくい印象だけが残る場合もあるだろう。特に、近くの細かいものが見にくくなると、より大きな表示、より簡単な表示が必要となるから、多機能はかえって障害を産むことが多くなる。アナログは連続的に変化するもの、デジタルはとびとびに、これを離散的と言ったりする、変化するもの、と考えればわかりやすいと思うが、身の回りのものは一般的にはアナログ的に表現できるものが多い。ただ、時計の話でもそうなのだろうが、アナログはどうしても「大体」という感覚が強調されてしまうから、きちんと表現したい時には数字による表現が必要となる。しかし一方で、このようなきちんとした表現が誤解を産んだり、情報の操作に使われたりするから気をつけねばならない。常に当てはまる話とは言えないが、アナログ表現では様々な要素が入り混じった情報を一つの表現方法で示すことが可能になるのに対し、数字を使うデジタル表現ではその数字だけに注目することになるから、他の雑多な情報が一時的に隠されたのと同じ状態になる。注意深い人は、他の数字との比較や全体の雰囲気(いわゆるアナログ表現で表されるもの)を把握することを忘れないから、その数字だけに囚われて誤解することは少ないが、与えられた情報だけを信じ込み、それに従って判断する人の場合は、それに左右されてしまい、結局は偏った情報に振り回されて誤解することが多い。情報を発する側がこれを利用すれば、一種の情報操作が可能になり、思い通りの論理を展開できる。ただ、この程度のことで騙される人はあまり多くないので、本当に操作を必要とする場合にはさらに複雑な処理を行う必要がある。数字は正確なデータを供給するから、様々な比較検討に用いられることが多い。以前のデータとの比較や他の情報源との比較など、同じ背景で取られたデータであれば比較することが可能となる。まず、この辺りが操作の入り込む余地の一つと言われるところで、国ごとや異なる時代の調査で、その方法が違っているにも関わらず、同じ表に載せて比較することはしばしば行われる。同じ方法、同じ背景といった基礎となる情報に言及せずに数字だけを比較できることがデジタル表現の特徴で、これによってある方向性を意図した情報操作が可能となる。統計処理の観点からは基礎情報なしの比較は無意味なものと言えるから、この話もまったく馬鹿げたもののはずなのだが、かなり頻繁に行われているから不思議である。もう一つの操作は、数字の比較の仕方である。最近の経済指標でよく使われているものに、一年前の数字との比較でその間の変化を論じるものがあるが、この方法には時々意図が感じられるものがある。確かに季節的な変動を考慮するのであれば、その影響が少ない前年同月という比較対象はもっともなものと言える。これは逆に言うと、それまでの変動に変化の兆しが現れたとしても、一年経過しないことには見えてこないということになる。確かに、一年後には変化がはっきりと現れるからそれで良いと言えば、そうかもしれない。しかし、その間に変化が現れていないデータを使って、様々な議論が展開されるのである。どこかおかしな気がしないだろうか。そういう数値を見せながら、その裏に隠したものを使って議論する人がいたら、いかにも凄腕の分析屋のように見えてくるかもしれない。でも、そんなことは全体の数字を掴んでいる人にとっては、当たり前のものなのだ。まあ、そんなことは逆も言えるわけだから、簡単ではないだろうが、処理された数字を見る時には十分気をつけた方がよさそうである。

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7月1日(火)−批正

 7月に入ったからといって本州の梅雨明けが間近とは言えない。しかし、沖縄、奄美諸島と徐々にだが北上しているから、今年は順調に梅雨明けを迎えることができそうである。この梅雨明け間近の時期が集中豪雨と猛暑が繰り返されるから、要注意の時期であることは間違いない。とにかくあまり大暴れしてくれなければいいのだが。
 天候は中々思い通りに移り変わってはくれない。毎年、毎年、どこか違っていて、農業を営む人たちはそれに対応して、様々な対策を講じる。特に夏に入ってから問題になるのは、東北地方の冷夏とそれとある程度関係があるのだろうが病虫害である。稲作は関係している人の数も多いし、やはり日本で一番大掛かりに栽培されている作物であるから、何か被害が出るとかなり大きな額になってしまう。稲作の場合天候不順や病虫害の影響は、米ができないという結果に繋がり、売るものも食べるものもなくなるから、農家の被害は当然大きくなる。今年はかなり暑い夏という予報がでているから、それほど心配する必要もないのだろうが、とにかく何が起きるかわからないから大丈夫というわけにはいかない。最近の第一次産業での被害の多くは、こういった天候などによる自然災害も依然として多いのだが、一方で風評被害という言葉がよく聴かれるようになってきた。情報の伝達速度がどんどん増すと共に、雑多な情報の中には明らかに間違ったものがあるし、また間違った解釈だけが一人歩きする場合も多い。最近の大きなものの一つは有機水銀がらみの水産物の被害だろうか。妊婦に対する警告として世界的にも行われている、メチル水銀の摂取量と魚の含有量との関係については、列挙されていた魚についてその後の消費量が激減したことが報じられていた。妊婦に危険ならば、普通の人も、という拡大解釈というか、妊婦という部分を無視した解釈というか、とにかくそんな形で情報が広がり、消費者が敬遠するようになったというものだが、その割にはキンメダイなどちっとも安くなっておらず、どうしたものかと思えてしまう。それでも被害は被害ということで、今度は安全宣言のような形での情報の流布がなされ、まったく呆れるようなやり取りが展開されていた。原因がどこにあるのか、ということには触れないでおくとして、このようにマスコミが過剰な反応をした背景には、もうずいぶん昔のことになるが、関東地方で話題になった農産物のダイオキシン汚染のことがあるのではないだろうか。鬼の首をとったかののごとくの報道をしておいて、まったく対象物が間違っていたなどというのは、失態も甚だしいものだったが、結局金銭的な責任は取らずにすんだらしい。それでも、やはり影響の大きさに自らが驚いたのではないだろうか、今回はそんな雰囲気が如実に現れているような気がして仕方がない。罪があるかないか確定していないうちに、犯人扱いする傾向はかなり少なくなったとはいえ、まだまだ虐めの構造は残っているような気がする。ただ、個人を虐めることではこれほどの力をもつマスコミが、ことが政府機関になるとまったく役に立たないというのも笑えない話ではないだろうか。つい先日、社会保険制度の一つである雇用保険の保険料の運用に関する問題をある番組が報道していたが、この話他の保険料のことも含めて一体何年前から報道されているのだろうか。今回は払い下げという話題で、これまでとは論点が異なっているとはいえ、いまだに天下りの話ばかり強調し、ただ批判するばかりでは解決の糸口さえ見つからないことは、わかっているのではなかろうか。しかし、天下りを無くしたとて、運用という名の下に既にどぶに捨ててしまった金は戻っては来ない。同じ言葉を連ねて批判するのはあまりにも芸のないことに見えてくるのだが、考えてみる気もないのだろうか。

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6月30日(月)−追い銭

 家にある鍋釜の類いは何からできているのだろう。さすがに釜があるところも少なくなったと思うから、最近なら鍋フライパンとでも言うべきだろうか。それ以外に関係のあるものとしては、やかんくらいだろうか。どれも一部を除いて、金属でできている。一部と言うのは耐熱性のガラスのことで、ずいぶん前から販売されているようだが、高価なせいもあってあまり普及していないようだ。
 では、金属というのは大雑把な言い方だが、どんな金属からできているだろうか。そんなことはどうでもいいと思っているかもしれないが、まあちょっと見てみたらいかがだろう。フライパンは最近はほとんどのものがこびりつかない処理を施したテフロン加工などと呼ばれるものだが、その地金になっているのは鉄だろうか。それともアルミだろうか。他の材質もあるのかもしれないが、テフロン加工の方に目がいってしまって、よくわからない。フライパンと似たものに、中華鍋とか北京鍋と呼ばれるものがあるが、あれはどうも鉄でできているらしい。どちらかというと熱が全体にさっと伝わることが重要で、じっくり煮るという調理には向いていない。これとちょっと違っているのはやかんで、単に水を沸かすだけだから、熱の伝わり方はそれほどの問題ではない。だから、見た目の良さで選ばれるように、ステンレスから琺瑯、はては銅製のものまである。水さえ沸いてくれれば十分で、そのあとの保温などは他の道具に任せている。これらと比べると鍋にはさらにいろんな機能が要求される。煮炊きに使われることが多いので、単に熱を伝える効率が高いだけではいけないようだ。実際にはその効率が煮炊きの時にどんな作用を示すのか、よく理解できていないのだが、たとえば鍋でよく見られるのが、アルミ製のものである。アルミはある病気の原因になると一時話題になっていたが、もう過去のことになったらしく、最近はそんな話題があったことさえ忘れ去られている。それはともかく、アルミは打ち出しなどの加工がしやすいことと時間をかけて煮る場合に使いやすいことから重宝されているようだ。ラーメン屋さんでよく見かける業務用の大きな寸胴もアルミ製のものをよく見るし、カレーなどを煮る鍋もアルミ製の片手のものをよく見る。その他にも、やはり煮物にむいた鍋として琺瑯製のものをよく見かけるが、これはうっかり忘れてしまうと焦げがついて使い物にならなくなるので要注意の代物だ。さらにステンレス製のものも見かけるが、時々ステンレス製に見えるけれども変なものに当ることがある。特に安売りの鍋やフライパンに多いのだが、熱の伝わり方が何となく変なのだ。水を沸騰させてみると普通なら鍋全体に泡立つのに、そういった鍋の場合、一部のところからブク、ブクと泡が立つ。煮物や炒めものをしようとすると鍋の表面が焦げるばかりで、中身に上手く熱が伝わっていないように感じる。どんな性質がこんな結果を引き起こすのかよくわからないのだが、安いものに限ってこんなことが起きるところを見ると、材質などに関係するものなのかもしれない。結局使いにくさだけが目立つ結果となり、手持ちの他の鍋ばかりを使うことになる。それにしても、こういうものを掴まされてしまって気がつくのは、まさに文字通り「安物買いの銭失い」ということである。

(since 2002/4/3)