パンチの独り言

(2003年7月7日〜7月13日)
(不満、不安、不二、不運、不変、不軌、不逞)



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7月13日(日)−不逞

 大学のレポートで、インターネット上に書き込まれた文書をそのまま貼付けて提出することが問題になっている。少し前になるが、米国で問題となった例では、盗作が明らかになった者に関しては、卒業が取り消されたということだ。日本ではここまで極端な措置はとられないだろうが、著作権の問題、自作に関する認識、など、問題は色々ある。
 著作権の問題は、たとえ一般の出版物ではないにしろ、他人の書いた文章をそのまま盗用するようでは、最低限の良識も持ち合わせていない者と扱われるのは仕方のないところだろう。以前は、本などの出版物から文章を抜き出す場合が多かったので、特に文系の学部では限られた範囲内が対象となり、専門家からすれば容易に盗用を発見することができたそうである。しかし、ネット社会の発達と共に、雑多な文章がいかにも専門家のもののように蔓延るようになり、それを盗用する者が出てくる事態となっては専門家といえども、簡単に判断がつかなくなっている。かなり高度な内容のものも存在するとは言え、ほとんどのものは偏見に満ちた専門家から見ればかなり悪質なものが多いから、中身を読めばわかることなのだが、それが本人によるものなのか、他人によるものなのかの判断がつかない。そこに問題があるということなのだ。とにかく、ネット上では、誰の検閲も受けず、誰からも文句を言われないまま、自らの意見を公開することができるから、そういう機会に恵まれない人びとにとっては、大変ありがたい場を提供してもらったことになる。それ自体は別に悪いことでもないし、権威と呼ばれない人びとにも機会が与えられることはある意味フェアなことだと思う。しかし、一方でこういうせっかくの場を汚す人びとがいることは残念でならない。匿名性という道具を与えられたとたんに、面と向って言えないことを落書きする輩である。程度の低いことを吐き出すことによって、ストレスを解消しているとでも言うのだろうか、たとえ人間性が疑われてもそこにいるのは架空の存在、本当の自分は違うとでも言うのだろうか。いずれにしても、こういった行為が自らの首を絞めることに繋がることには気がつかないようだ。また、違った見方をすると、こういう自由発表の場でもまだ、権威に縛られる人びとがいることにも驚かされる。意見はそれを話した人がどのくらい実績を残したかによって、価値が変化するというのだ。極端に言えば、たとえ同じ人物が話したものでも、実績が出ていない時のものは無価値で、出た後では輝けるものになる、というわけである。出版物やマスコミによって情報が制御されていた時代には、そこに権威主義が蔓延ることは仕方のないことと思っていたが、種々雑多な情報が蔓延する時代になっても、まだそういう受け身でしか判断のできない人が多いことには呆れてしまう。内容を自分なりに解釈して、その意味を判断すればいいだけで、誰がそれを言ったのかということは関係がない。そういう考えを持たないと、これからの似非情報が溢れる社会では、迷子になってしまうのではなかろうか。一般の人びとが偉そうなことを書けば、不遜な意見と言い、偉い人がひどい意見を言っても、ありがたいものと受け取る。偉そうという判断は、その前に偉くない人が言うという条件が入るからで、意見そのものに対するものではない。情報が溢れる社会だからこそ権威主義だと言う人もいるのだろうが、中身はあくまでも中身である。特に、権威と呼ばれる人びとのレベルの低下が危惧されている時代には、最も危険な考えの一つと言わざるを得ない。そんな中で、自由発表の場を真の意味で活用するためには、責任ある発言をする心だけでなく、他人の意見を氏素性に囚われずに吟味する心も必要となる。言いたい放題とは、何をしてもいいという意味と受け取らねばならないわけではない。

追記:今週は、不で始まる言葉をタイトルとした。いかがでしたか。御感想は、ご意見板にどうぞ。どんな言葉にも、反対の意味があり、それを表現するために、不、非、反などが使われる。一般には悪い意味のものが多いが、そうとも限らないだろう。

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7月12日(土)−不軌

 未成年が事件を起こすと、その度に色々と話題になる。確かに子供が子供を傷つけたり、殺したりすると、心を痛める人も多いのだろうが、それも子供は純粋なものと思う気持ちがあるからだろうか。実際には、ある部分かなり残酷なところもあるし、いいわるいの区別がつかない場合も多いから、子供だからと決めつけることはできない。
 ただ、判断ができないだろうということで、いろんな意味で保護するように法律が整備されてきた。それでもこのところの凶悪犯罪の出現から、制限をかける年令を下げたり、加害者保護だけでなく被害者の保護も検討されるべきという考えもでてきたり、色々と変更が加えられているようだ。こういった措置は、国ごとでかなり考え方が違っているらしく、日本はどちらかといえばドイツを例として法整備したように見えるとのことだが、とにかく少年事件の場合、本人の名前だけでなく、素性や家族のことなどがわからないように配慮されてきた。では、現状はどうなのかと見てみると、早速在学する学校の映像がボカシを入れてあるとはいえ、簡単に放映されたり、同級生の家族という紹介でインタビューが流れたり、近所の人びとが次から次へとでてきたり、本人の周りの人びとは遅かれ早かれ知るはずなのだから、取材という形で相手に知られるようなことになったとしても、それは自分達の責任ではない、と言わんばかりの番組作りが行われているのには、ちょっと驚いてしまう。今のところ、名前も出さず、映像を不鮮明にし、音声も変更してあるから、この形で法律上問題はないということなのだろう。ただ、本当にここまでなら良いと言えるのかどうか、怪しいところだと思う。日本国中に知られることはないのかもしれないが、少なくともこういったマスコミの活動によって、事件が起きた周辺の人びとにはすべてが知られることになるのだから。また、さらにこういう形で意図的に隠す行為を行っていると、実名や写真の公開を行おうとする連中がでてくる。彼らの決まり文句は、知る権利や事件の重大さに関するもので、少年に対する配慮から生まれた考え方はそれらの前では無意味なものになってしまうらしい。以前であれば、この辺りまでで、これ以上騒ぎが大きくなることもなかった。しかし、ネット社会と言われる時代になってみると、単なる好奇心からあらゆる情報を知りたがる人びとと、それを調べて教えることによって自分の能力の高さを誇ろうとする人びと、あるいは人の知らないことを知っている喜びを他の人びとにも分け与えようとする人びとの間で、情報の交換がいとも簡単に行われるようになる。今回の事件でも、既に何件も掲示板に特定名や写真が張り付けられているそうで、法務省もいろんな形で削除依頼などの働きかけを行っているそうだ。匿名という形で、自分の素性は知られず、他人の素性を知らせるという、なんとも身勝手なやり方が横行するようになると、単に事件を起こした人間だけでなく、その人とはまったく無関係の人間にまで被害が及ぶことがある。これらの行為はどれをとっても違法行為であろうが、実際に誰がやったのかが特定できたとしても、大した罪には問えない。そんなことを知ってか知らずか、またそんな罪の意識もないのか、近所の人や友人と話す感覚で、公の場に個人の問題を張り付ける人びとがいる。これらの人びとに共通している考え方に、悪いことをやった人間に対しては何をやっても構わない、というものがあるようだ。なんとも怖い話だと思う。悪いことは悪いこと、誰が誰にやろうとも、悪は悪であるはずなのに、そこにへんてこな正当化を入れ込むことができるのは、そこにも別の形の悪が存在しているからなのだろうか。

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7月11日(金)−不変

 小さい頃、これはしてはいけない、あれはしてはいけないと、色々と注意されたことを覚えているだろうか。とてもおとなしく、悪いことなどしたことがなければ、そんなに叱られたこともないのだろうが、小さな子供の特性として、ウロウロ、チョロチョロしていたら、周囲の大人にじっとしろとか言われていたに違いない。
 小さい頃の行動がそのまま残っている人はほとんどいないと思うが、それはまだ固定化されていなかったためであって、もう少し大きくなってからの行動は今でも残っている人が多いのかもしれない。たとえば、ティーンエイジャーと呼ばれる年代では、色々と新しいことに挑戦したり、自分なりの考えを持って行動したりするようになるから、周囲の大人との関わりもそれまでとはちょっと違ったものになる。頭ごなしに言われても、何となく言うことに従っていた年代から、まず反発をしてから、はて、と自分にとってどちらが良いのかを考えてみるといった具合に、ただ従うだけの存在から、自分自身の判断が入る存在へと変わっていく。しかし、そういう形で自我が目覚めてくると、当然自分なりの形を固め始めて、他からの影響がだんだん弱くなっていくものだ。結局、自分の形が決まってしまえば、いろんな形で与えられる忠告にしても、それらを素直に聞いたり、それによって自分の行動を変えたりすることが難しくなる。こうなってくると、他人に対しては、行動の変化を求めることが多くなるが、自分に対してはある意味寛容になって、かなり強く意地をはって、変化の要請に応じないようになることが多い。判断なしで、すべてに反対する時期は、反抗期と呼ばれるが、その後もやはり自分の判断に従って、他人の判断をそのまま受け入れることは少なくなる。行動様式なども、一度決定してしまうと、中々変えられなくなることが多い。先日も朝食を食べるかどうかの調査がなされていたが、十年前の10代と今の20代が同じ傾向になることから、社会情勢が変化しても自分自身の生活様式には変化が起きないことがよくわかるなどというコメントがでていた。その考え方が正しいかどうか、それだけからではなんとも言えないが、一度決まったことを変えるのが難しいのは皆それなりに知っていることだろう。いろんな忠告を聞いて、自分でもなるほどと思ってもなお、望ましい形に変えることには非常に大きな困難がつきまとう。忠告を与える方も、実際には自分のことになれば変えられない、あるいは変える気などない、といった状態だろうから、よくわかっているのだと思う。でも、わかっていても、その間までは大変だろうから、という意味で、忠告したりするのだ。無駄なことだとわかっていても、つい老婆心から、ということになる。こんなことを繰り返しながら、年を重ねていくわけで、幾つになっても変えられないという悩みが残ってしまう。まあ、それでも少しは変化があるわけで、たとえば人に対する寛容性などにもわずかだか変化のあることがある。こう考えると、世代ごとの違いなども、時間の経過とともに、進んでいくわけだから、お互いの関係としては何の変化もない。個人の問題もまさにその通りで、どんなに注意されても変えられないものは変えられないのだ。インタビューの時に偉そうに答えているパーマ頭の人も、昔から偉そうだったのだし、彼との組み合わせで一時期人気がでたあの人も、どの年令の時もただ言いたい放題言っていたわけで、性格の部分は特に変えようがない。まあ、それをわかった上で、周囲とどう折り合いをつけていくのかがより大きな問題であり、元のところは変えられなくても、周りとの兼ね合いをどうするのかという部分を少し変えればどうにかなるはずだ。自分は変わらないまま、社会を変えようというのも、中々難しい話だと思っていたのだが、このところの情勢を見る限り、やはり難しいものであったようだ。

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7月10日(木)−不運

 一時期は年間に3万キロほど車を走らせていた。別に運転を生活の糧にしていたわけではなく、いろんな事情からこうせざるを得ない状況にあったのだ。平均すれば、一日に100キロ弱だが、実際には走る日と走らない日があったので、一日300キロほど走ることが多かった。今は、そんなことは無くなり、ずいぶん気が楽になっている。
 それでも、時には、600キロほど走らないといけないことがある。7時間とか8時間程度の運転だが、その大半は高速道路を走ることになる。危険な目に遭ったことはほとんどないのだが、まったくないとは言えない。自分が原因の場合もあるし、他の車が原因となる場合もある。疲れている時にはつい居眠りをしそうになるが、そういう時にはSAやPAに入って、少し休むことにしている。車から降りて少し歩くだけでも、何となく気分が変わって、調子が戻ることがあるから不思議だ。これらの駐車スペースを見ると、普通の乗用車が止まっているだけでなく、かなり多くのトラックが止まっている。最近使っている高速道路ではそれほど顕著なことはないのだが、首都圏に入っていく高速道路では首都高への接続の手前にあるSAやPAに、たくさんの長距離トラックが止まっている。特に、早朝より少し前の時間に多いように感じる。これらのトラックは夜が明けた頃に目的に着く必要があるようで、たとえば築地や大田の市場に魚や花を届ける場合にも、こういう場所に早めに着くようにして、ここでひと休みして時間に間に合わせるようにしているようだ。それにしても、すごい数のトラックで、こんな時間には普通乗用車を止める場所が見つからないこともある。また、PAなどの出口の合流地点にも路肩にトラックが止まっていたりして、ちょっと危険な感じのすることさえ時にはある。運送業は最近はあまり景気がよくないらしく、競争が激しすぎて運搬料を値下げしなければならず、結局、より多くの荷物、より多くの回数、より長い距離、といった悪循環に入る選択をせざるを得ない状況に追い込まれているようだ。こんな状態は様々な業界で言われていることだから、別に珍しくもないのだが、最近別の方面から注目されるようになっている。働けど、働けど、という形では、さらに長時間の労働をせねばならず、いろんな形で疲労がたまる状況が作り上げられている。それが原因と考えられるような事故が多発していて、運送会社の管理体制の不備や社員の健康への配慮の欠落などが厳しく追及されている。それでも、明らかに居眠り運転と思える事故が次から次へと起こり、高速道路での渋滞で最後尾に停車した時に、よほど注意しなければならないと思えてくる。まあそんなことを言っていても、実際に何か起きてからでは遅いから、何とか自分の身を守る手だてを考えようとしている。簡単なことではないが、最後尾についた時には、やはり逃げる場所を考えておく必要もあるのだろう。それに輪をかけて恐ろしいと思えるのは、常習的な飲酒運転が最近よく摘発されることである。そういう習慣を持つ人びとは自分の責任でやっているのだから、それほどひどいことにはならないと思う人もいるようだが、彼らの載っている車はトレーラーなどといった大型車で、事故を起こせばかなりの被害者が出て、時には死ぬ人もいるのである。自分が動かしているものは時には凶器に変わりうるのだということを理解しておいてくれないと困るのである。しかし、居眠り、飲酒、どちらにしても、そういう車に突っ込まれたら、こちらの命の保証はまったくない。会社の管理にせよ、常習飲酒にせよ、何らかの措置をとることが重要で、何とかなってくれればいいと思う。

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7月9日(水)−不二

 7月に入って、山開きが行われているところが多い。もう少しすると、今度は海開きとなり、いよいよ夏本番となる。そんな中で昔から有名だった海岸が海水浴客を迎えられないと、ニュースになっていた。海岸の侵食が激しく、砂浜の維持が難しいということらしいが、海岸の砂も流入と流出のバランスの上に成り立っているわけだから、ただ流れ出ないようにとは行かないようだ。
 ただ、海水の汚染度はどこの海水浴場に関しても問題がなかったようで、下水処理の整備が功を奏しているということなのだろうか。こちらの方は海水中の細菌数、実際には大腸菌の数だったと思うが、によって、汚染度を測るようにしているが、結局排泄物などの汚物の流れを制御することが、この数値の多少を左右するようである。一方、山の方にはこんな汚染指標は設けられていない。どの山が汚いから、入山禁止、という話は聞いたことがないし、山を流れる川の汚染度を測定したという話も聞いたことがない。確かに山を流れる川は清流と呼ばれることも多く、見た目はきれいなものだが、実際にはその上流にキャンプ場があれば、かなり汚れた水が流れ込んでいる可能性もあるし、間違ってもきれいで美味しい水などと言わない方がいい場合もある。山でのマナーの問題は、いろんなところで話題になっているから、あえて書く必要もないのだろうが、山小屋の設備に文句をつける登山客や空き缶やゴミを持ち帰らない人びとが、どんどん山に入ってくるようになったから、昔の感覚で見ていると信じられないような光景が目の前で展開することになるそうだ。マナーを知らない人には教えれば良いと思うのは、浅はかな考えのようで、注意したりすると文句を言われ、はてには暴力に繋がることもあるから、気をつけねばならない。最近山に入るようになった人がすべてこんな風、などと言ったら、怒られてしまうので、念のために書いておくが、大部分の人はきちんとマナーを守り、ゴミの片づけや動植物の保護などにも気を配っている。ほんの一部の人たちの非常識が、やっとのことで保たれているバランスを崩しているわけだ。こんな話の代表格と言われるのが、日本の誇りなどと呼ばれたりもする富士山である。東海道新幹線の車中から雪を冠った姿が見えたりすると、やはり形の整ったきれいな山だと思うが、最近流れているニュースを見るとその汚染度はかなり高いようである。スバルラインという道路が整備されて、5合目まで車で登れるようになった時に、樹が枯れてしまうのではないかと自然破壊を心配した声もあったが、今問題になっているのは、車でやってくる人びとの捨てるゴミと排泄物などらしい。これらの人びとを登山客と呼ぶのはおかしいと思うが、山にとってはかなり重大な問題となっていると聞く。しかし、これ以上に問題ではないか、と言われているのは、実際に頂上まで登っていく人びとのようだ。山頂にもゴミが落ちているという話も聞くし、まして山小屋の排泄物の話など、ちょっと信じられない状況である。これは、単に山を登る人びとの問題だけでなく、そこに生活の糧を求めている人たちの問題でもある。遠目にはきれいに見える山も、実際に登ってみるとかなり汚れている。富士山だけに当てはまる話ではなく、どの山もそんな状態にあるのだろう。

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7月8日(火)−不安

 外出する時、戸締まり、火の始末など、ちゃんとしたか気になることは無いだろうか。外に出て、いざ玄関のドアの鍵を締めようとした時、はてと思い立って引き返したことは無いだろうか。車を運転し始めて、鍵を締めたかどうか気になって、また戻ったことは無いだろうか。旅先で、家のことが気になって眠れなくなったことは無いだろうか。
 こんな書き方をするとかなり大袈裟な印象を受けるが、実際に玄関の鍵を締める段になって、火の元、窓の戸締まりなどが気になり、再度点検をした経験のある人も多いと思う。ただ、何も異常は無く、安心して出かけたという人がほとんどではないだろうか。ちょっと不安がよぎっても、まあ大したことも起こらず、再度点検すればそれだけで安心して、出かけることができるのが普通だが、そういうことができなくなる人たちがいる。事実を確かめることによって、それまで抱いていた不安を払拭できるのが当たり前だと思っている人には、何度確認してもその度に不安が再来して、完全に払拭できないという行動は理解できないものに違いない。しかし、世の中にはこんな思いに取り憑かれてしまった人びとが沢山いるようだ。毎朝仕事に出かけるために家を出る時に、駐車場と家の間を数回往復する儀式を行っている人、仕事場への運転中に誰かを轢いてしまったとか、何かにぶつかったとか、そんな気がしてならず、何度か現場を見に引き返してしまった人、電車の中に荷物を忘れたような気がして降りられなくなった人、傍で見ていると冗談ではないかと思えるほどの行動だが、やっている本人は本気なのである。時には、他の人びとに確認する行動に出るが、確認されようがされまいが、結果は同じことで、何度も確認作業を行わなければ気がすまない。自分が信用できないとか、他人が信用できないとか、そんなことがあるのだろうが、確認による安心よりも、別の形で心の中を占領している不安の方が常に勝ってしまうことが、堂々巡りが続く原因なのだろう。しかし、一方で不思議に思えるのは、これらの儀式的なものが、終わりのない繰り返しではないということである。何度も、何度も繰り返さなければならないが、いつかはその呪縛が解かれる。別の不安が出てくることによって、前の不安が一見無くなったようになってしまうのか、それとも儀式の反復が徐々にでも不安を解消する方に働いているのか、よくわからないが、少なくとも終わりのないものというわけではなさそうだ。このような心理的な障害は、いろんな形で起こるようで、たとえば手洗いを繰り返す人も、その一つに数えられる。なにしろ自ら確認しているにも関わらず、それに自信を持てないわけだから、繰り返すしかないのだろう。本人の抱いている不安を解消することは非常に困難で、たとえば他人が一緒になって確認しても、満足しないことが多々ある。また、確認が必要ないと叱ったり、厳しく指摘したりしても、逆効果なのではないかという指摘もある。心の不安を取り除くために、精神病の治療薬が使われたりもするが、あくまでも症状を抑えるだけであって、原因を取り除かない限り、解決には届かない。それぞれの場合で、様々な原因があるようで、一概に断定することは難しいし、それを取り除くことも容易ではないことの方が多いだろう。結局は、職場を変えるとか、仕事の負荷を軽くするとか、そんな方法を取るぐらいしかないようだ。ただ、症状が重くなれば、単に繰り返すだけでなく、肉体的なストレスもかかり始め、嘔吐に繋がる場合もあると聞く。そこまで来ると、やはり仕事上の障害も増えてきて、正常な業務に携わることができなくなるから、自然と軽い業務や一時的に休むことが必要となる。この不安が単に仕事上のストレスから来ているのであれば、それを取り除くことで軽減されるが、次に負荷がかかる時にはより大きな不安を感じる場合があるかもしれないから、なんとも複雑なものである。渦中にある人たちからは、今さら遅いと言われるかもしれないが、不安が大きくなり過ぎる前に対処することが大切なのだろう。

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7月7日(月)−不満

 いつだったろうか、急に陽水の「限りない欲望」という歌を思い出した。陽水としての最初のLPに収録されていたと思うが、白い靴をやっとのことで買ってもらった子供が青い靴を見て欲しくなるという内容で、他愛もない子供の気持ちを歌ったとも言えるのだが、これが結婚、死を迎えてと繋がるところが彼らしい。同じ頃、「感謝知らずの女」も頭の中を巡っていた。
 こんな曲を思い出す羽目になったのには、一応理由がある。人と接していて、何かしら矛盾を感じていた時に、ひょっとしてこの人は、と陽水の曲に登場する人びととの共通点を見い出したような気になったのだ。実際にはかなり違った話なのだが、満たされることのない欲望が目の前にいる人から湧き出てくるのを見るのはあまり気持ちの良いものではない。特に、子供の純粋な欲望は新しいものを見た瞬間にそれを欲しくなるという形で素直に出てくるが、大人になるとそこにいろんな理由やこじつけをくっつけて、その欲望を何とか正当化しようとする。そういう態度があからさまになればなるほど、見ている方にはかなわない状況がうまれる。なぜ、こんなに下らないご託の付き合いをせねばならないのか、なぜ、他人の欲望の付き合いをせねばならないのか、ついついこんな考えが出てきてしまう。まあ、それでもそれが一度きりのものであり、長い付き合いにならないものであれば、諦めもつくだろうが、仕事上の相手であり、逃げ場のないものとなれば、諦めることもできなくなる。こんなところでそんなことを書くことに意味があるとは思わないが、どうにもこんな人種が多いような気がするから、いつもの調子で書き始めてしまった。欲望に素直も何もあったものではない、と言われてしまうのかもしれないが、素直な欲望には対処しやすいという気がしている。それに対して、変にねじ曲がった、ひねた欲望には曲がっているだけにこれといった対処が見つからない。実際には、欲望というよりも、現在の状況に対する不満といった方がいいのだろう。その不満を解消するためには何か新しいものを手に入れるしかないのだが、それに対する積極的な気持ちも出てこないから厄介なのだ。周囲のあらゆることに不満を感じて、しかしそれに対して自ら対処する気持ちはまったく見せない、あるいは不可能であることを強調する。これは話し相手にとっては、まったく生産性の上がらない仕事のようなものになる。何を言っても始まらない、ただ同情が欲しいのかといえば、それも受け付けない。なにしろ、もしできることなら、その不満がすべて解消されるような大業をして欲しいわけだ。そんなことできない相談ということは、不満を並べている本人も、話し相手も百も承知なことである。そんな状況下で、いつまでも同じことを繰り返す。ハテは、他人の状況が恵まれていると言ってみたり、他人の仕事ぶりが大したことないと言ってみたり、どちらにしてもそんなことはどうでもいいことで、今目の前にある仕事をどう片付けるのかが問題なのである。現実に目を向けて欲しいと思ったことが何度もあった。というのは、不満の列挙はいかにも現実を直視しているように、本人には思えているのかもしれないが、他の人びとから見れば単に目を逸らそうとしているに過ぎないからである。つまり、不満を並べても、その対処に当たれないということは、不満をどこかに投げ出したいという気持ちの現れだからだ。自分の中である程度の諦めを入れつつ、何とか改善したい気持ちがあれば、そちらに力を集中させるのに、すべてのことに諦めきれない気持ちを表し、何もできない環境を自ら築き上げている。こういう人たちを救う手だてはないに等しい。もし、彼らが救われるとしたら、大変ですねと相槌を打つだけの人との出会いがあることだけだろうか。

(since 2002/4/3)