パンチの独り言

(2003年7月14日〜7月20日)
(漏洩、相応、微量、仮想、上質、隠顕、挿げ替え)



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7月20日(日)−挿げ替え

 今年の梅雨は順調に、とどこかで書いたような記憶があるが、実際には中々明けない状態が続いているようだ。こういうのは、結局オホーツク海高気圧と太平洋高気圧の力比べに寄るものらしく、南からの押しが弱いのが原因とか、それでも、ここ数日の集中豪雨の便りを聞いていると、そろそろ終息が近いという気がしてくる。
 カラッと晴れてくれないと、いつまでもじめじめしていて嫌な気がしてくるし、室内が湿気ていると、カビやらダニやらのことが気になってくる。それでも、あと数日、来週一杯くらいかななどと勝手な期待をしたりするのだが。ただ気温の方はなんとか高くなっているようで、湿度との関係からはあまり歓迎したくないところだが、夏の植物にとってはそろそろ良い季節なのかも知れない。道ばたの花壇には色とりどりの花々が咲き競っているし、それぞれの家の庭にもいろんな花が咲いている。この季節に花を咲かせるのは何も花を鑑賞する植物ばかりではなく、稲もそろそろ花の季節を迎えようとしている。こちらの方はこの時期の日照時間と気温によって、作柄が決まると言われているから、梅雨が長引くことに対して心配する人も多いと思う。今年は長雨の問題というよりも低温の問題の方が大きいらしく、特に東北地方では深刻になりそうだという話も出ているようだ。これで梅雨明けが遅くなり、それによって、また夏場の日照時間が短くなるようだと、さらに心配は大きくなる。季節が暦通りに変化してくれることが植物にとっても一番良いようだ。花の話に戻すと、庭の花は育て上げる感覚があるが、どうも道ばたの花壇の方はそうでもないらしい。昔は花壇の花も、種を蒔くところから始めて、花が咲くまでといった感覚で世話をしていたのだと思うが、最近はそんな非効率的なことをしていたら、花を楽しむことができないし、せっかくの花壇なのだから花が咲いていなければ意味がないとでもいうのだろうか、常に花が咲いている状態のところが多い。植物園や公園などは以前からそういったことをしていたところも多いが、道ばたの花壇にまでそういうやり方が及んできたようだ。きれいな花が咲いているなあ、と思っていたら、ある日突然掘り返されており、別の植物が植えられている。それも花が咲きかけているか、すぐに咲きそうな感じのものばかりである。確かに、綺麗なことは事実だし、そういう楽しみ方があると言えばそうだろう。でも、何となく、納得できない部分もある。まるで壁にポスターを貼るような感覚、とでも言うのだろうか。季節外れになったり、時期外れになったら、剥がして貼り替える。これを当たり前と思えば、そうなのだろう。しかし、また、でもと思ってしまう。こういうのは結局パソコンで言う、リセットみたいなものだろうか。以前人間が人間に対してそういった感覚を持つ怖さを紹介したことがあるが、こんな形で生物に対してもごく当たり前に思えるものなのかも知れない。ポスターと植物、無生物と生物の違いなどないと言う人もいるだろうが、もしそうなら、それが人間にまで及ぶことに関してはどうなのだろうか。感覚の問題だけに、何となく怖い気もするのだが。

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7月19日(土)−隠顕

 春以来、周辺の動植物にどんなものがいるのか見てきた。そんなに真剣に見渡しているわけではないが、時々鳥や昆虫が飛んでいたし、植物もいろんな花を見ることができた。ただ、その名前を調べようとすると、これが大変なので、そちらの方は放り出して、ただ眺めていると言った方が良いのかも知れない。
 鳥の方は、日本中どこへ行ってもいる雀やちょうど渡ってきていた燕を見るくらいかと思っていたが、神社の森近くでよくオナガを見ることがある。ただ、尾が長いというだけで、本当にこの鳥なのかは調べていないが、おそらく間違っていないと思う。まだ、春と夏だけの観察だから、この地域に居着いているものなのかどうかはわからないが、ほぼ毎日見るから、今はこの森に棲んでいることだけは確かなようだ。他にもさえずりが上手くなったウグイスも時々声だけ聞くことがある。鶺鴒が歩いているのを見かけるが、セグロなのか、ハクセキレイなのか、しっかり見ていないからよくわからない。あとはほとんど見かけないだろうか、そういえばカラスやひよどりはほんのたまに見かけるだけだ。暖かくなってからは、蝶を時々見るようになった。春先はスジグロチョウやシジミの類いを見かけていたが、最近クロアゲハを見た。さすがに大きくて目立つし、どちらかというと明るい所を飛んでいるので、とても目立つ。他には一時期アオスジアゲハを見たような気がするが、記憶が確かではない。昔はよく見かけたものだが、最近は数が減っているのだろうか。蝉の声もとんと聞いていない。数日前都心の公園で蝉の声がしたとラジオで流れていたが、特に夏のはしりの頃の蝉であるニイニイゼミがかなり減っているらしく、早い時期に蝉の声を聞くことが少なくなったのは、そのせいであるらしい。他にも、小さな昆虫としてはハナカミキリの類いを見かけることもあるが、これはあまりにも種類が多すぎて、何が何やらさっぱりわからない。蟻はどこへ行ってもいるけれども、クロヤマアリをよく見るくらいで、他の蟻となると少し拡大しないと、どんなものなのか区別もつかない。この辺りでは見かけたことがないが、少し山の方へ行った時に、ムネアカアリなどという蟻を見たこともある。これも大きい蟻だから、パッと見ただけで区別がつくし、わかりやすい方である。もっと小さな蟻だと、よほど詳しく観察しないと区別がつかない。拡大鏡で見てみると、頭の部分に網がかかったようになっているものまでいて、驚かされる。中学生の頃、色々と調べたことがあるが、蟻に関する図鑑が少ないことには閉口した。唯一蟻専門の本が出ていたので、それを参考にしたが、そこには100種類以上の蟻が紹介されていたような気がする。どこにそんなにいろんな蟻がいるのだろうかと疑問が浮かんだが、ちょっと集めただけでも身の回りだけで10種類ほどいたから、いるのかも知れないと納得した。そろそろ蜻蛉の季節のような気もするのだが、こちらではまだ見かけていない。地域ごとにそういう違いがあるのは当たり前のことだが、周辺の環境の違いもあるから、単に見る機会がなかっただけで、ちょっと水辺に出かければ見ることができるのかも知れない。もっと多くの種類の動植物がいるのに、気がついていないだけ、というのが正しい解釈なのだろう。

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7月18日(金)−上質

 体の調子が悪いとき、どうするのだろうか。よく聞く話なのだが、風邪をひいてどうしても熱が下がらないとか、節々が痛んで苦しい時とかに、病院に駆け込んで、注射や点滴を要求する人がいる。どんな処置をするのかを決めるのは医者であるはずなのに、そんなことはまったく気にかけていないようだ。
 診断と治療は直接結びついたもので、医者にだけ許可された行為である。医者に対してある特定の治療を要求することは、たとえ患者自身でも許されるものではないし、その治療に対する責任はあくまでも医者の方にあるわけだ。それでもまあ、病は気からといった感覚を持ち合わせている医者の場合は、ブドウ糖液の点滴でもやっておくかとか、せいぜいちょっとビタミンを入れておくかといった程度の治療でお茶を濁したりする。これでは治療ではない、と文句を言い出す人がいるかもしれないが、風邪を治す薬があるわけではなく、それに起因する症状を緩和する薬を投与しているだけであるから、症状が軽いと判断すれば何もしなくても自然に良くなるわけだ。風邪の場合は、こんなことで済むが、もっと重い病気の場合、色々と複雑なことが起きるようだ。たとえば不治の病と言われるものに罹った患者が来た場合、診断を下したとしても、治療による完治の見込みがなく、診断そのものに意味があるかどうか、迷うところとなる。最近はそうでもないが、いわゆるガン、悪性腫瘍になっていた場合、たとえ手術で患部を切除したとしても、治る見込みの無いものが多いときもあった。当時は、ガンという言葉が死刑宣告のように捉えられて、患者自身に知らせず、その家族に知らせるにとどめる場合が多かったようだ。最近は早期発見が可能になったことや、治療の技術も向上したので、ずいぶん多くの人たちに診断が下されるようになってきたが、それでもその言葉を受け取った人自身の心の葛藤は計り知れないものがある。そういう心の問題を扱う部署を設ける病院も多くなったから、担当医にとっても色々な面で気に病む必要がなくなってきたのかも知れない。ただ、こんな状況になると逆に、以前ならば患者やその家族の気持ちの変化を考えて、言わなかった言葉を自分の感じる責任から逃れるためにぶつけてしまう医者も出てきているようで、その理不尽さに憤慨する場合もあるようだ。こんなケースには驚かされるが、一方で医者のすることで気になることの一つが、延命治療と呼ばれるものである。これは色々と話題になっており、かなり難しいものとして捉えられている。治療は完治させることも含めてすべて延命を目的としているから、延命治療という言葉自体は当たり前のような気もするが、治る見込みの無い者に施すものという意味から、場合によっては苦しみを与えているだけではないか、という見解が出てくる。特に、末期のガンや自力の呼吸や心臓の拍動が停止してもなお続けられる治療と呼ばれる行為に対しては、賛否両論があり、その現場に居合わせたりするとはたして意味のある行為なのだろうかと考えてしまうらしい。意識を失っている場合にはそんな気持ちが起きてくるのも無理もない気がするが、最近は特に、手術などをしても痛みや違和感だけが残るだけで治る見込みのない場合には、別の処置を考えることも大切なのではないか、と言われることがある。Quality of Life、QOLと呼ばれる考え方で、たとえ生き延びたとしてもそこに生活の質の低下が伴うのであれば、別の選択肢も考える必要があり、それによって余生を意義深いものにすることも大切なのではないか、というものだ。こういうものをある尺度で計るというのはとても難しいものだから、そんなに簡単に片付くものではないが、単に命の長さだけを考えてきた人びとにとっては別の見方をさせるものとして、考えさせられるものであるに違いない。

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7月17日(木)−仮想

 昭和30年代のものを甦らせようとする運動が、全国で盛んになっている。町並みをその時代のものに戻すことによって、観光客を呼び戻すことができた地方都市や、その時代に流行ったものを見せたり売ったりすることでお客を呼ぼうとしている都会の新名所など、都会地方に限らず、同じようなやり方で成功している話を聞く。
 では、実際に古いものを護ろうとする動きに関してはどうなのだろうか。上で紹介した地方都市の例も、戻したわけで、護ったわけではない。つまり、30年代の町並みを一度は取り壊して、新しいものに変えたのだが、何の特徴ももたない場所では誰の関心も得られず、結局衰退の一途を辿るしかなかったのに、思いきって昔の姿、と言ってもそのものではなく復元しただけなのだが、に戻したら、意外にも観光客の昔を懐かしがる気持ちを刺激したらしく、あっという間に注目されるようになったというのだ。都会の新名所に関しても、周囲の風景はまったく新しい建物ばかりで、懐かしく思えるものは一つもない。その代わりにその一角だけがいわゆるタイムスリップを起こしたような状態にあって、それが予想を上回る効果を生み出し、結局人気が出たというのだ。ただ、前者の観光地にやってくる人びとは30年代に既に成人していた人が多いのに対し、後者の場所にやってくるのは、今小学校に通うくらいの子供をもつ親たちで、30年代には生まれていなかったか、あるいは物心ついていない年令だった人びとである。この違いはどこからやってくるのか、すぐにはわからないが、何か、どこかに、違いがあるのだろう。保護とか、保全とかいった類いの運動が実際に起きていない理由は色々とあるのだろうが、一方でただ古いものを残すだけではダメという考えもあるのだろう。これは結局古いものを残したとしても、その使い勝手の悪さばかりが目立ってしまい、良い結果を残せないということも原因の一つになりそうである。特に、昭和30年代の建物に何か特別な特徴があるのかといえば、戦前からの流れを断ち切り、高度成長期と呼ばれる時代になって、ある意味での効率を考えたものであったはずなのだが、実際にはその過渡期にあったがために、結局使いにくさをも併せもつ、魅力に欠けるものになってしまったようだ。そんな事情から、建物をそのまま残す運動は出てきていないし、また町並みに関してもそれほど強い運動は行われていないようだ。そんな中で、その時代の始まりの時期に、現在では若者が集まる街として有名な都心の一等地に建っていたあるデパートの建物の取り壊し開始の知らせが届いた。今は、小学生が行方不明になっているとして報道されている所だが、学校帰りの子供達で溢れていると言っても過言でない気がするほどの場所である。もうすぐ50年になるだろうそのビルもおそらく使いにくさばかりが目立っていたのではないだろうか。懐かしいと思う人びとにとってはそのまま残しておいて欲しいものなのだろうが、貸す側、使う側にとってはそうもいかないのだろう。そんなことを思いながら、昔懐かしいという意味でこれまで作られてきた明治村、大正村などに、ついに昭和も仲間入りなのかと、なんともいえない感覚を持ってしまった。

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7月16日(水)−微量

 20年ほど前の話になるが、米国ではビタミン剤の店がものすごく流行っていた。当時の日本では、総合ビタミン錠やビタミンCの錠剤が売られていたが、あちらでは、各種ビタミンが単独で配合された錠剤だけでなく、その他のミネラルと言われるカルシウムや鉄剤などが売られていたように記憶している。妊娠中に欠乏しそうなものを補給するという目的はあるにはあったろうが、それ以外の理由の方が主体だったようだ。
 その当時、そういう店が流行るのを横目で見ながら、なぜ食事の形で摂取しないのだろうかと不思議に思っていたのを思い出す。そういえば、肉食に極端に偏っている人がいる一方で、普段はサラダしか食べないという人びともたくさんいた。どちらかというと、後者の方がビタミン中毒になっていたような気がする。健康志向が強ければ強いほど、そういうミネラルの欠乏に対して病的なほど気を遣う人が出てくるようだ。それまでにビタミン不足に関して、日本で話題になっていたのは、おそらくビタミンAの不足だけではなかろうか。脚気などの症状を引き起こすビタミンB1の不足も一時は大きな問題になり、医者としての森鴎外が話題になったことでも有名だが、通常の食事を摂取している限りはそこまで至ることはないようだ。それに比べて、夜盲症を引き起こすビタミンAの不足はかなり深刻であったらしく、小学校に通っていた当時肝油の販売を学校内で行っていた。一時期はそれほどの問題と捉えられていたようだが、最近はそんな話はとんと聞かれなくなった。ちゃんと摂取できるようになったからだろうか、それとも別の理由があるからだろうか。総合ビタミン錠や栄養ドリンクなどと呼ばれるものを飲むと、小便を排泄した時に独特の臭いがする。あれは大部分、ビタミンBによるものだが、そのことから気がつくのは摂取したあと一時間ほどで排泄されるということである。これは、これらのビタミンが水に溶けやすく、そのために血液に吸収されたあと、大部分が排泄されてしまうからである。そう見ると、何ともったいないことだ、せっかく取り入れたばかりなのに、すぐに出してしまうとは、と思ってしまうが、実際にはそういう状況の方が体にとって良い場合がある。上で少しだけ触れたビタミンAの場合、それが多く含まれるのが肝油ということからもわかるように、水よりも油によく溶ける性質をもつ。ビタミンの中では、AとEが脂溶性のものとして有名だが、これらのビタミンはたとえ過剰に摂取してもすぐに排泄されることはなく、大体体脂肪の中に溶けた形で貯えられることが多い。過ぎたるは及ばざるがごとし、が当てはまらなければいいのだが、実際にはこれも例外とはならず、多すぎるのは良くない結果に繋がる。なければ困るが、あり過ぎても、といったところなのだろう。それに、貯えられるという性質から、一度取り過ぎてしまったら、ある程度の期間その状態が続くことも、気をつけねばならない理由の一つとなる。水溶性のものは過剰な状態が比較的速やかに解消されるが、脂溶性のものはそうはいかないわけだ。こんな話を読んだりすると、山のようにビタミン錠を飲んでいる人たちは大丈夫なのだろうかと心配になったりする。食物から取ろうとしたらとんでもない量を食べなければならないものも、ほんの一粒飲めば大丈夫、などというのは実際にはおかしな話である。ビタミンではないが、先日も亜鉛の取り過ぎの話が新聞で取り上げられていた。適量を無視して、良いものは多ければ多い程良いと考えるのはあまりに危険な考え方で、体重にも適正な範囲があると同じように、体の中のミネラル分も太り過ぎややせ過ぎは禁物なのである。

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7月15日(火)−相応

 久しぶりの晴れ間、洗濯日和、布団も干せる、などとまあ、主婦みたいなことを言ってしまいそうになる。それでも、天気が良ければ、やはり気持ちの良いもので、昨日までと比べても動きが良いような気がしてくるから不思議なものだ。最近はどちらかと言うと、いろんなところにガタが来ている感じだから、余計にそんな気になるのかもしれない。
 一年ほど前からだろうか、肩の具合が今一つという状態が続いている。最近では、ちょっと遠くにあるものを取ろうと腕を伸ばしたり、後ろの方に腕を回そうとする度に、肩の関節に違和感を覚えている。どんな感じなのか、自分なりに分析してみると、関節の油が切れているような感じで、ギィギィと音がしそうなのと、その部分に異様な痛みが走るのだ。痛みがひど過ぎると痺れたように感じることもあり、深刻なところまでいっているのかもしれない。これらは、昔で言えば、四十肩、最近は寿命の伸びと共に五十肩と呼ばれるようになった症状とそっくりである。医学的には肩関節周囲炎と呼ばれ、肩の関節に炎症が生じているために、無理に動かすと痛みが出るということらしい。一般には、腕を肩より高く挙げようとすると痛むとか、背中の後ろで両手の平を合わせようとしてもできないとか、そんな症状があるそうだが、こちらの場合は片方の肩だけなので、後者の症状は出ていない。原因としては、色々とあるのだろうが、結局は加齢現象の一つであって、年をとったからと言われたら、反論のしようもない。ただ、症状が出る年令は人によるわけで、昔は四十肩、今は五十肩と呼ばれているのも、その辺りから来ているようだ。自分の場合は、以前肩を外しかけたことがあり、その後遺症の一つと思っているが、以前は激しい運動をした時だけ痛みを感じたものが、今はちょっとした動きだけで痛むことを考えると、それだけどこかがおかしくなったということなのだろう。そんな調子で、壁のスイッチを押す時にまで痛みを感じるようになっていたが、つい先日、寝っ転がっていたら、その肩がコキンという音をたてた。あれっと思って、肩を触ってみると、以前飛び出していた肩の関節の骨が若干引っ込んだように見える。その後は、痺れと痛みという症状は緩和されたが、違ったタイプの痛みが出てきた。まあ、ことはそんなに簡単ではないということだろうか。いずれにしても、以前のような油切れの症状は無くなったので、少し楽になったが、今度は何がやってくるのか、まったくわからない。加齢現象だと言ってしまえばそれまでだが、誰だってそういうことが起きない方が良いと思っているに違いない。防ぐための努力など、ネットを検索したらいくらでも出てくるのだが、効果のほどは定かではない。目のことにしても、記憶のことにしても、だんだん気になることが多くなるが、それはそれで仕方のないこと、それなりに過ごせるように対処すれば良い、と思うことが大切なのではないだろうか。悔やんだり、悔しがったり、残念がったり、まあいろんな心の動きがあるのだろうが、ならないようにする努力と共に、なってしまった時に現状を受け入れる気持ちの切り替えも必要となる。こんなことで勝ち負けが決まるわけでもないのだから、などと言うと負け犬の遠吠えなどという言葉が返ってくるかもしれないが。

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7月14日(月)−漏洩

 朝から、馬鹿げたメールの返事を書いていると、疲れがどっと出る。こちらが指摘した問題や間違いに対して、怒りにまかせてなどと書かれた日には、ああそうですか、と言いたくなる。人は誰だって、自分のやったことの間違いを指摘されたら嫌なものだ。でも、そこで、なぜ、どうして、と考えることが、大切なはずなのだが。
 そんなことで、一日の始まりは最悪となってしまったが、まあ今日の独り言は、またぞろ下らない話にしようと思っていたから、さらに悪い結果を産んでしまうかも知れない。先週からいろんなところで話題になっている少年犯罪の話を少し書こうと思っていた。加害者の人権は保護されているのに、被害者の方の権利は無視されているように見える、という指摘がよく紹介される。被害者の家族にとって、加害者が何を考え、何をしたのか、などといったことが一切明らかにされないことが問題視されているのだ。加害者本人やその家族が特定されないような配慮がなされているのは、少年という事情を考えればこの国では当たり前のこととして扱われている。ただ、これも国によって事情が異なっているから、人間の考えるごく当然の事柄と見なすことはできないようだ。結局、いろんな配慮から、様々な判断能力ができ上がっていない年令の子供達には、その罪を罰するよりも、その判断や意識を植え付けさせることの方が大切だと考える国もあれば、罪は罪、判断能力の有無とは無関係であると考える国もあるようだ。この辺り、心神喪失者に関することとの絡みからすると、そんなに簡単に結論を出せないような気もするが、まあ、それぞれの考えといったところなのだろう。とにかく、この国ではいろんな意味での保護がなされているはずで、加害者がいろんな調べごとなどで話した内容は被害者の家族でさえも知ることができない。そんな形で、ニュースやワイドショーでは伝えていたと思う。もしも、これが事実だとしたら、なぜ、警察の発表によればとか、警察の取り調べでとか、そんな形で犯行の内容の一部が伝えられるのであろうか。第一、警察が取り調べることができない年令、と始めの頃に伝えられたにもかかわらず、警察が枕に出てくることが不思議である。さらに、犯人が特定されていない時点で、いろんな証拠が提示されていたが、その中のビデオに関する件もかなり不思議に思えるものがあった。若い男から、学生に変わり、さらに中学生に変わったところで、その学校を特定する証拠が出てきたと伝えていたものがあったが、この件に関して警察はその後で全面的に否定した。中学生のような服装とまでは特定できたが、それ以上は困難だったということだが、もしそうなら、誰がどうして、学校の特定の話を流したのか、あるいは流れたようにしたのか、わからないことばかりが出てくる。想像にしか過ぎないが、ああいう不十分な情報を流すことで、自首を促したのだと言えなくもないが、はたしてどうだったのだろうか。もう、その話はどこかに消し飛んでいるのだろう。現在流れてくる話は、なにしろ本人が話している内容とのことで、はたしてそんなものが関係者でさえ知ることができない状況下で、マスコミに流されてしまうのか、不可解としか言い様がない。おそらく、のちのちには、いろんな形で否定されるのであろうが、今流れている情報は確かに流れているのである。誰かが流さなければ、どこにも流れはできないだろうし、それが事実だとしたら、困ったことだし、憶測で流している人がいるとしたら、とんでもないことである。知る権利と知らせない義務、はたしてどちらが勝っているのか、あるいは権利も義務も関係ない世界なのだろうか。

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