パンチの独り言

(2003年7月28日〜8月3日)
(忙閑、手間、愉楽、適応、遭遇、老境、盛夏)



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8月3日(日)−盛夏

 かなり蒸し暑くなり、関東方面にも梅雨明け宣言が出された。すぐ翌日に雨が降るとばつが悪いという理由からか、何度か見送られた末のことらしく、平年に比べて二週間近く遅いとのこと。いつもの通りなら、いつものことで、暑いと文句を言い、いつもと違うと、また文句を言う。まあ、そんな程度で済むのだから、気楽なものなのだろう。
 やっと夏らしくなって、夏祭りが開かれている地方はホッとしているのではないだろうか。そう言えば、ついこの間まで海水浴場はガラガラで困っているとのことだったが、この暑さで少しは忙しくなったのだろう。夏祭りも、子供の頃のことを思い出すと、なぜだか祭りの勢いがなかった時代らしく、それほど派手な場面を思い出すわけではない。どちらかと言うと盆踊りの方に力が入っていて、近くの空き地にやぐらが組まれて、数百人の人が集まっていたような記憶がある。千人には届いていなかっただろうが、その周辺では結構有名な盆踊りの会場になっていたらしい。毎年の夏の楽しみの一つで、輪に加わってよく踊ったものだ。やぐらの上ではベテランの人たちが手さばき、足さばきを見せながら踊り、下の輪の方ではそれを真似て踊る子供達がたくさんいた。炭坑節もよく覚えているが、郡上音頭も懐かしい。郡上踊りで有名なところが近くにあったからか、好きな人が多かったらしい。郡上音頭と言っても色々とあるのは後になって知ったことで、あの頃流れていたのは、「かわさき」というものだ。30年ほど前に、その空き地の所有者が駐車場に使いたいということで、会場が小学校に移り、さらにその後、もっと小さな公園に移っていってからは、だんだんと参加する人の数も少なくなっていった。盆に里帰りする人たちが少なくなったこともあるのだろうが、子供達の数が減少したことも大きいのだろう。今まで住んだところで、あれほど派手に盆踊りをやっていたところもなく、やはり今は夏祭りの方が歓迎されるのかも知れないと思っている。こちらの夏祭りも今ちょうど開催されているが、中々派手にやっているようだ。数日前には既に屋台が大通りに並べられ始めたが、その頃ちょうど車を走らせていると、一見してわかる怖い顔をした集団が通り沿いを歩いていくのを見かけた。普段見たことのない人ばかりで、不思議に思ったが、どうも夜店を出す人たちのようだった。たぶん、店の並び方や規則などの確認をしていたのだろうが、なんとも言えない雰囲気の人びとだった。夏祭りの特徴といえば、浴衣姿の若い人たちと言えそうだが、最近の柄はちょっと変わっているらしいが、豹柄のを見た時には正直びっくりした。それと夜店で売られていたのだろうが、自転車に乗って帰っている中学生ぐらいの女の子たちが背中に誰かをおんぶしているような姿にも驚いた。どうもビニール製の風船のようなもので、アニメか何かのキャラクターのようだった。あんなものが出回っているのかと、びっくりしたが、ああいうものほど新しいものが好かれるから、毎年色々と新しいものが出ているのだろう。昔流行っていたお面は最近ではどんな具合なのだろうか。輪投げなどもあるのだろうか。気にはなっても、さすがに一人で出かけて観察しようとは思わないのだけれども。

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8月2日(土)−老境

 年をとると口うるさくなると言う。気になることが増え、何とか伝えねばという気持ちになり、つい口数が増えてしまうのかも知れない。面白いのは、これが一過性のものであり、さらに齢を重ねると気になることが少なくなるということだ。何を言っても、どうにもならぬ、なるようにしかならないということ、と悟ったように呟く。
 では、うるさい年寄りは必要無いのかといえば、そうでもないらしい。人はもともと自分勝手なものだから、どこからも苦言が出されなければ、どんどん自分の思う方向に向う。良い方向に向いているのならばいいが、悪い方向に向いていても同じなのだから、時には修正が必要となる場合もあるだろう。特に、自分が気付いていない間違いや誤りなどの場合は、周囲からの一言は重要な役割をはたす。まあ、年寄りからのものである必要はないのだが、若い者からに比べると受け入れやすい面もあるのかも知れない。しかし、こういう面があるとは言え、実際に小言を言っている人からすると、その効果が上がっているようにはとても思えない。段々、そういうことばかりが続いていると、諦めの境地というものが前の方に出てくる。言っても無駄な者たちに、何を言っても無駄なわけで、それが解ってくるに従って、口数が減ってくるわけだ。もともと小言の少ない老人も含めて、ある程度の年令に達すると無駄なことをしなくなるそうだ。何を言っても変わらないのであれば、言わなくても同じという考えもあるし、一方で自分達で考えるくらいの力は持ち合わせているのだろうから、それに任せてしまおうという考えもある。いずれにしても、彼らの口から何かが出てくることは期待できない。では、本当にそうなのか、本当に期待しているのか、本当に任せているのか、と考えてみると、そうでないことも多いのである。あちらから口を開くことがないから、何も意見がない、というのはいかにもこの国の会議の時の光景だが、実際には考えているし、意見もあるのである。ただ、自分の方からそういう働きかけをするほど積極的な気分ではないのであろう。ちょっと意見を求めれば、それなりの答えは返ってくるし、それが重要な意味を持つことも多い。しかし、年寄りから見れば、そんなことは次の世代のものたちが自分で考えれば済むことであり、わざわざ自分の口で伝える必要などないとなるのだ。先日、齢八十になろうとする人と話す機会があったが、世の中に向って言いたいことは別にないと言う。自分自身はやるべきことはやってきたから、もう、次の世代の人たちに任せたいとも。しかし実績を残してきた人だけに、助言をあおぎたいとする人が多いことは明らかで、その場合はどうするのかと聞いてみた。答えは簡単、好きなようにすれば良い、というだけであった。それでも、何をすれば良いのかを教えてくれと言われたら、という質問には、やはり自分の好きなことを、と答え、もしそれが見つからないと言ったら、仕方がないから死んだ方が良いのでは、と結ばれてしまった。まあ、確かに言われる通りであり、やりたいことが見つからない者にとってすべきことはそんなに多くありそうにもない。とても冷たい言葉なのかも知れないが、他に選択もなければ温かい言葉なのかと考えると、はてどっちなのかと迷ってしまう。

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8月1日(金)−遭遇

 思わぬところで思わぬ人と出会うという経験はないだろうか。近くに買物に出かけて、近所の人と会う、という話ではなく、たとえばどこかへ旅行している時に、知り合いとばったり出くわす、といった話のことである。時と場合にもよるのだろうが、なんたる偶然と思うことが多い。
 これまでに鉄道の駅で仕事関係の知り合いと遭遇したり、海外の空港でやはり仕事関係の別の知り合いと遭遇したことがある。これだけ多くの人がいて、世界や日本はこんなに広いはずなのに、どうしてなのだろうかと考えてしまう。ただ、こういう場合にも、ものすごく低い確率のはず、と単純に考えてしまうのは正しくないようだ。確かにこんなことが起きる確率は低いのだが、どの程度低いのかは、色んな要素を考慮に入れてから論じなければならない。たとえば、駅や空港を利用する頻度に関しても、仕事の性質上そういったことが頻繁に起こるのであれば、通常と比べてどの程度高いのかを数字で表さねばならない。また、海外旅行では利用できる路線の数が限られているから、同じ日本人ということであれば、さらに確率は高くなる。驚いた話として伝える場合には、こんな細かい数字のことなどどうでもいいのだが、実際にどの程度低い確率なのか、などということを問題にされてしまうと、説明は急に難しくなる。なにしろ、色んな要素が複雑に絡み合っているので、さっと単純に説明することは容易ではない。仕事上の知り合いなどというのも、そこにいる理由に何か共通のものがあれば、出会うのが当たり前という場合もある。たとえばある会合で、知り合いに会う確率は、とても低いとは言えないだろう。こういった状況ではなく、共通の理由もない場合は、やはり偶然と言えるくらい低い確率であることは確かなのではないか。それでも、もう一つの偶然の出来事とは比べ物にはならないだろう。これも海外での出来事だが、乗るはずだった飛行機がエンジン不良のために欠航となり、次の日にずれ込んでしまった。仕切り直しの飛行機に乗るために、航空会社が用意したホテルから空港に移動して、ゲートが開くまでの時間、アジア系の人と話をしていた。その時、こちらはまったく何も気がついていなかったのだが、どうもあちらは何か感じていたようだ。帰国して税関を通り抜けていざ出ようとしたところで、後ろから呼び止められたのだ。何と、中学時代の同級生であった。お互いに日本語で話したわけでもないし、こちらは相手の年令をかなり若いと思っていた。さすがに、これ以上の驚きは経験したことがない。偶然の例として、確率の話でよく話題になるものに、同じ誕生日の人がいる確率が二分の一より高くなるためには、何人の人が集まればいいのだろうか、という問題がある。意外に小さな数字で驚いてしまうが、23人いればそのうちの二人が同じ誕生日である確率は二分の一を超えるのだそうだ。そんなに少ないはずはない、自分はそんなことになったことがない、と思っている人がいると思うが、実際には、自分と同じという意味でないことに注意して欲しい。23人のうちの誰か二人が、というのである。ある特定の人と同じ誕生日、と限定してしまうと、話は全然違ってくる。そこのところに注意して欲しいのだ。確率を論じる時にはこれがとても重要な意味を持ってくる。不特定を対象とした時と、特定を対象とした時で、まるで違う数字が出てくるわけだ。一般に確率の話をする時には不特定を対象とする場合がほとんどだが、その話を聞いている人の多くは自分も含めた特定の話と受け取ってしまうことが多い。そんなところから誤解が生じてしまうから、確率で話をすることはとても難しくなる。なにしろ、聞いている方が、まったく違った受け取り方をしてしまうからだ。また、一方で、二分の一の確率と言われた時に、自分にそのことが起きるのが二回に一回と思う人はほとんどなく、実際に起きてしまった時のことを考えるだろう。実際には、起きるか起きないかなのだから。この辺りも確率が集団を相手にして議論するのに対して、それぞれの人間は個人を頭に浮かべて同じ議論をしようとするから、話を混乱させる原因になっているようだ。天気予報でも最近は降水確率がごく当たり前のように扱われているが、この話とてそんなに簡単には議論できそうにもない。

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7月31日(木)−適応

 雨の日が続いていたから、湿度が高い状態だったのだろうが、そろそろ気温も上がりそうで、不快指数がかなり高くなっているようだ。さすがに梅雨明けの知らせがありそうな気もするが、もうこうなってしまうと気象庁が何を言おうが関係ないと思っている人の方が多いのかも知れない。
 それにしても蒸し暑くなったらなったで、やはり気温が低い方が良いなどという勝手な声が聞こえてきそうだが、これで日照時間が増えてくれれば農作物にとってありがたいことになる。お天道様とはよく言ったもので、そこら中に神様がいることになっている日本ならではの考え方なのかも知れない。気温が上がり、晴れ間が見えてくると、やはり花の色が目立ち始め、それまで気にも留めなかったものに気がつくことがある。ムクゲはもうずいぶん前から咲いていたが、夏の花の代表と言われるヒマワリの黄色や百日紅の桃色も明るくなると鮮やかさが増して見える。いよいよ夏本番を感じさせてくれるけれど、歓迎すべきかどうか、ちょっと躊躇してしまう部分もある。夏暑く、冬寒いのはごく当たり前のことなのだろうが、その一方で、冷暖房完備の部屋に閉じこもることが多い。わずかずつ気温や湿度が変化すると言っても、外の変化に比べれば無いに等しく、それだけ変化に対応する能力も落ちているのかも知れない。外からの刺激に対して反応したり、適応したりすることは気温などについても重要なことなのだろうが、対人関係などの刺激も最近は話題になることが多い。中でも、いじめという言葉から始まったハラスメントが特に注目を集めているようだ。そういう状況をうまく表しているのが、ハラスメントの前に付く言葉の種類が豊富になってきたことだろう。性的いじめという意味でのセクハラという言葉が米国から輸入されてから、以前に取り上げたアカハラが一部の業界で使われるようになったと思っていたら、この頃新聞でパワハラなどという言葉を見かけた。パワーハラスメントの短縮形だが、はてどんな意味なのだろうかとすぐには思いつかなかった。力を使ったいじめと言われても、特にいじめをする場合にそこに力の優劣は当然存在するものだから、何も特別な意味をなさないのではないかと思ったからだ。結局、地位を利用したという意味であるらしく、性別の問題に焦点を絞った形でのセクハラと内容的にはほとんど変わりない。上司が部下に対して叱咤激励するとか、命令を下すとか、そういった状況で、行き過ぎたことがあればこれに繋がるとのことだが、これはまた大変な時代になったものだと感じた人も多いのではないか。なにしろ、ハラスメントが表すいじめは、いじめた人間がその意識を持つかどうかに関わらず、いじめられた方がそういう被害を訴えることだけが決め手であるから、以前ならばそれほど気にする必要のなかった言動に関してもかなりの注意を必要とする場合が出てくる。そこに力の優劣が存在する限り、ここで言うところのいじめは日常的に起きていると言ってもいいからだ。それでも救いになるところは、このような行為が単発的に起きている場合には取り上げるところまではいかないということだろうか。つまり高圧的な態度で部下に接したとしても、その後に様々な手当てを施せば、問題が大きくなることはないというのである。しかし、そんなに簡単なことなのだろうか。単発的に起きていることが、その時々に手当てをすることで、問題視されることがなくても、単発が頻発してしまえば、結局のところ同じことである。他の人の前で叱るとか、書類を何の指示もないまま突き返すとか、ごく当たり前と思ってきたことでも、それが繰り返されれば、訴えられる理由となりうるわけだ。手取り足取り指導するために、指導法を手取り足取り教えてもらわねばならないという時代になりつつあるようだ。

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7月30日(水)−愉楽

 車のラジオをいつものAMからFMに切り換えて、朝の音楽番組を聴いてみた。懐かしい曲が流れてきたので、そのままにして職場まで走ってきた。民放ではパーソナリティーと呼ばれる人たちが、朝から元気に番組を組み立てていて、それはそれで楽しい時もあるのだが、単に音楽が流れるだけというのも時にはいいものだ。
 今朝、流れていたのは、ベートーベンの交響曲「田園」だったが、何となくでも覚えているところがあって、音楽の不思議が感じられた。クラシック音楽は小学校高学年から中学校までの音楽の時間で、多くの生徒から忌み嫌われたものだが、抵抗感がほとんどなかった者にとっては、これがまた不思議で仕方なかった。音楽は音楽、流れてくる音を楽しめばいいのではないか、と思っている人間には、クラシックはつまらないとか、だるいとか、退屈だとか、そういった評価が出てくること自体、変だなと思えていて、音楽の時間が無くなればいいのにという同級生の言葉に驚いたりした。結局、楽しむための音楽は苦しさが漂う勉強の時間には馴染まなかったのかも知れないが、そんな時間だからこそつかの間の休息を楽しむという気持ちになればよかったのではないだろうか。歌謡曲やGSの音楽は楽しいが、クラシックは楽しくない、という気持ちは結局理解できなかった。一方で、それから10年ほどしたら、周りの人びとの一部にはロックが流行り始め、音を凶器にするような大音響に閉口したわけだから、音楽がすべて楽しいという考えが正しいとは言えないようだ。それにしても、クラシックというだけあって、流れてくる曲のほとんどは19世紀の始め頃までに作られたものであり、その後に作曲されたものが現代音楽などと表されて、まったく違った曲調のものになっている。なぜ、最近の作曲家は以前のような和音のきれいな曲を作らずに、あんな不協和音の曲を作るのだろうかと、一時不思議に思っていたが、つい先頃聞いた話では、クラシックの和音の進め方ではもうほとんどの音の進行が試されてしまったので、これから作るとしても誰かの曲の真似と言われてしまうから、ということだった。確かにそういうこともあるのだろうが、どうも不協和音としか思えない、変な音の並びを聞かされると落ち着かなくなってしまうから、現代音楽を好きになることはなさそうである。音を楽しむと書く音楽は、本来はやはり楽しむことが大切で、それを学校で教わる教科とすることには無理があるのかも知れない。役に立つとか立たないという観点からすれば、和音を聞き分けたり、曲の調を言い当てたりすることに意味はなく、単に流れてくる音楽を楽しむことだけできればいいのかも知れない。ただ、楽器を演奏したり、歌を歌ったりする時にはこういう基礎知識も必要となるから、やらなくてもいいとは言いにくい。そんなことを言っても、好きな人、やりたい人が習えばいいので、やりたくない人はしなくてもいいようにすべき、というのが最近の考え方のようだから、ひょっとすると今後は無くす方向に動いたりするのかも知れない。たぶん無理矢理聞かされるクラシック音楽やテレビから流れてこない文部省唱歌の類いは、一番始めに教えなくなるのだろう。そういえば滝廉太郎などの日本の歌曲が教科書から消え始めたという話を数年前に聞いた。楽しめないからやらなくていいという考えなのかも知れないが、楽しさを教えられないから引っ込めてしまおうとしているように見えてしまうのは、曲った見方だろうか。

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7月29日(火)−手間

 梅雨が明けたところとまだのところ、天気に変わりがあるわけじゃなし、という気がするが、実際のところはかなり違うようだ。今年の場合は、関東から東北にかけて気温の低い状態が続いていて、このままだと冷害になるとまで言われている。特に東北は低温と日照不足の二重の被害が出そうで、米の生産にとってはかなりの痛手となるかも知れない。
 春先の長期予報で、これほどの冷夏が予想されていたのか、また長梅雨が予想されていたのか、そういう記憶はほとんど残っていないから、何とも言えないが、電力不足の話題が出ていた時に冷夏で大丈夫かも知れないなどという何とも不謹慎に感じられるような話はなかったから、予想が外れていたのだと思う。まあ、そうは言っても、夏の本番はこれからであって、関東や東北でも梅雨が明けてしまえば、猛暑になるとも限らない。そうなってくれれば稲の生育も何とかなるのだろうが、花が付く時期が大切と言われているから、これまた間に合わなければ何ともならなくなる。まったく自然を相手にするものはいつでも大変なのだな、と思ってしまう。数年前の冷害の時、ほとんど被害を受けなかった田圃があり、周囲の田圃と比べて稔りの程度がかなり違っているという報道があった。その時違いとして指摘されていたのは、田圃の水を涸らさないこと、であったと記憶している。今年の場合も既にそのあたりの話が出ているから、かなり厳しい状況だと思えるのだが、水を張ることがなぜ低温に対して被害を抑えることになるのか、はっきりとした説明がなかったような気がする。結局、水が夜の気温の低下を最小限に抑えるからだと思うのだが、どうだろうか。土と水の熱を保つ力の違いだが、水は同じ熱を与えても、土より温まるのが遅く、放熱の方も同じことが言える。その違いから、一日の昼と夜との温度差が小さくなるのだろうから、低温被害を抑えることができるのだろう。では水を張っておくためには、何が大切なのか。田圃の端の畦のところに開いている穴を塞げば良い、というだけなのだそうだ。穴が開くのは、もぐらの仕業だそうで、実際にかなりの頻度で起きているらしく、毎日朝夕見回りをしないといけないのだそうだ。そうなると兼業農家の場合、色々と難しいことが起きる。外での仕事が主体となっている場合は、朝は何とか出社前に見回ることができたとしても、夕方の見回りはかなり難しい。夜遅く帰ってから見回ることはできるのかも知れないが、暗がりで穴を見つけることも難しくなる。そんな事情から、以前の冷害の時には、専業農家できちんと管理しているところではほとんどでなかった被害が、兼業のところではかなりひどく出るという結果となった。その時の経験から、おそらくそういった対策は行われているだろうから、今年はそこまでひどいことにはならないのだろうが、それにしてもこれは絶対的な対策とはならない。日照不足の方は、水を張ることでは何も変わらないのだから、そちらの方の影響が大きく出れば、どうしようもないのだろう。いくら自然に恵まれているといっても、時にはこういう不順な天候になることがある。そういう時に、手をかけるという意味をやっと理解できるのだろう。放っておいても育つ時は育つが、何かあれば手をかけねばならない。これは何も稲などの農作物に限ったことではないだろう。今色んなところで起きていることに関しても、同じようなことが言えるのではないだろうか。

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7月28日(月)−忙閑

 用事やら仕事やら、重なる時には色々と重なるものである。以前から予定していたものの他に、気がつくと別の用事が入っていたりして、慌てて調整しようとするが、中々うまい具合にはいかないものだ。特に、時間的な調整が難しいことが重なると、お手上げといった気持ちになったりする。いずれにしても、なるようにしかならないのだが。
 今日はまったくその通りの一日だった。朝からバタバタしている間に時間だけが過ぎていき、気がついてみたらこんな時間に独り言を書く羽目になっていたのだ。いくらさっさと書いているとはいえ、やはり30分ほどの時間が必要なものだから、ちょっとした時間が取れない時には苦労することもある。細切れに書いておいて、あとでうまくつなぎ合わせればいいのかも知れないが、それはそれでまた苦労する。勢いで書いた方が楽なことが多いからだ。特に話題が二転三転するような場合、時間をかければかけるほど話が込み入ってくるし、部分的に書いているとどうしても話の辻褄をあわせることが難しくなる。そういう思いがあるから余計にさっと書いてしまおうという気持ちが強くなる。ところが時間が取れなければそれもまた難しいということになるわけだ。そんなこんなで、それこそ、こんな時間になり、その日のうちに書き終えようと頑張ることになっているわけだ。仕事の仕方も人によるわけで、こういう形で締切りぎりぎりまで自分を追い込まないと動き出せない人もいれば、余裕のある時にきちんとやっておかないといけない人もいる。特に後者の場合は、追い込まれるとさらに厳しい状況になってしまい、結局何もできないという結末になることを恐れているから、さらに慎重になり、準備を整えようと躍起になる。書ける時に書いておく、という気持ちでいれば、精神的に追い込まれることもないから、何も問題が起きないはずなのだが、この辺りは性格によるというしかないのだろう。さて、自分の場合はどれだろうかと考えてみたりするが、どうもはっきりしない。どちらかというと、その場その場で違っているような気がするからだ。気分屋、と言ってしまえばそれまでかも知れないが、まさにそんな感じなのである。こうやって書いていても、まあ、時間内に終わらなければ仕方がないなと思う気持ちと、何としてでも終わらせねばと思う気持ちが入り混じっているような感覚だ。これが仕事となれば、何とか形を整えてでも、時間に間に合わせようとするのだが、そこまで迫られているようでもない。まあ、何とかなるだろう、という気持ちなのだろうか。それでも、もうそろそろ時間切れとなる。さすがに、ここまで来たら、時間内に納めたくなるのも、無理のないところだろう。まるで他人事のようだが、その通りなのかも知れない。その辺りはご勘弁願うとして、今日のところは、この辺でやめにしておこう。いくら忙しくても、時間を作ろうと思えば何とかなるはず、という戒めはどこかで聞いたことがあるような気がするが、今日の例はまさにその通りかも知れない。ただ、タラレバを言ってみても始まらないのだ、あとの祭りとはこのことなのだろうから。

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