台風などがやってくると、ついお天気の話ばかりになりそうだ。それにしても、昨日警報が出ていたこの付近では、川はいつもの数倍の幅の濁流に変わり、木の枝などが散乱していた。少しくらい水位が上がっても平気な地域と言っても、あの流れを見ているとちょっと不安になってくる。それでも、一夜明けてみると、水かさは減り、空はまさに台風一過。
お天気はどんなに荒れていても、時間とともに変化する。嵐が過ぎ去るのを待てば良い、とはよく言ったものだ。やまない雨は無いというわけだ。しかし、自然現象と違って、人間が関わるものには、この理が通用するものなのだろうか。長い目で見れば、どんなことにも波があって、上昇することもあれば、下降することもある。そんな波の中を人びとは生きているわけで、悪い時でも何とかやり過ごせば、良くなってくるはずとなる。ただ、この変化の周期と人間の寿命の長さを比較すると、必ずしも悪い時から良くなるまで、生き延びることが可能かどうか定かではない。その辺りが、天候の変化と同じ感覚で捉えることが難しくなる原因だろうか。まあ、百年くらいのとても長い周期に対しては、期待をすることは難しいし、一方で過度な心配をすることも無駄に思える。それでも、次の世代のための準備と称してしなければならないこともあるから、すべてが無駄とは言えないかも知れない。いずれにしても、多くの人が心配するのは、十年くらいの期間の変化であり、それが良い方向に向えば、なるべく長く続くことを望み、悪くなればすぐに終わってくれることを願う。望んだり、願ったりすることは、たとえ悪くなりつつある場合でも、今の状況をあえて変えることなく、他の要因が変化することに期待するわけだが、そうすることが良いのかどうか、難しいものだ。多くの場合、悪くなったことには何らかの原因があるから、そうならないように現状を変えることを考える。それによって、何か良い打開策が見つかり、それが功を奏すれば、良い結果に結びつくからだ。確かに、その通りだと思うし、そうすることが良い場合もあるだろう。しかし一方で、それまでうまく動いてきたやり方が、なぜうまくいかなくなったのか、そこを考える必要もあるのではないか。やり方が決定的に悪いのならば、なぜ以前はうまくいっていたのだろう。様々な状況の変化に対応できなくなったから、悪い結果を産むようになったのだろうか。それとも、別の理由があるのだろうか。この辺りの見極めが難しいのは誰にでもわかることだが、実際に目の前に立ちはだかる問題を解決するためには、何かしなければならないような気がしてくる。たとえ、それが無駄なことになるとしても、だ。その辺りの見極めがとても大切なもののはずで、それまでに築き上げてきたやり方をすべて否定することによって、より良いものを見つけだせる場合もあるだろうし、逆に混沌の真只中に自分の身をおくことになる場合もある。どちらになるのか、予想をつけることは可能だが、当然外れることもある。さて、今はどっちなのだろうか。家の中で嵐が過ぎ去るのをじっと待つのが良いのか、はたまた外に出て動き回るのが良いのか。
今回の台風は日本列島縦断となったようだ。梅雨の長雨が終わったと思ったら、今度は台風ということで、どうも雨の多い夏となってしまった。はたして、気温や日照時間の方はどうなるのか。既に稲の作況指数も発表されていて、かなり低い値のところもあるようだが、今後もこんな天気が続くようだと、さらにひどい結果となるのかもしれない。それも稲だけの問題に終わらずに。
そんなことを言ってみても、自然を相手にして、何とかすることは無理である。まあ、せいぜいいろんな策をして、被害を最小限に抑える工夫をするくらいのものなのだろう。天候などに比べたら、人間を相手にする場合には、もっと簡単なはずなのだが、どうもそうは行かないことが多いようだ。自然を相手にするときには諦めが先に立つはずのものが、人間が相手だと、つい何とかなると思ってしまい、そんな努力が無駄になる場合がある。単純に無駄になるだけならまだしも、それが傷を残すことにつながると、さらに悪い結果が残る。心の傷は後遺症として残り、次の機会に臨んだときに、それが災いとなるからだ。こういうサイクルに入ってしまうと、抜け出すことが難しく、周囲との人間関係を保つことが難しくなることが多い。外にでてくる症状には色々とあるのだろうが、特に困るものの一つに、被害妄想がある。他人の言葉に素直に反応していたときには考えられないことだが、言葉の端々に悪意を感じてしまい、どんな言葉も自分に対して被害を及ぼすものと受け取るのだ。相手をしている人々にとっては、意外な反応であることが多く、まったく理解できない場合が多いし、さらに自分が悪い人間にされるわけだから、たまったものではない。何度かそういうことになると、もう相手をすることさえ難しくなる。そういう変化が起きている途中で、何かいいきっかけがあればいいのだろうが、被害妄想を抱いている本人も含めて、その重大さに気がつかないまま過ごしてしまうと、かなりの深みに入ってしまう。極度な場合には、あらゆる言動に対して、同じ結果に結びつけることになるから、全ての人を遠ざけることになり、症状はさらに悪化することになる。そうなってしまうと、本格的な治療が必要となるから、素人には手が出せなくなる。でも、だからといって、何もしないことがいいのかどうか、この辺りに関してはいろんな意見があるようだ。大雨が降っている心に、傘をさしかけてやることができれば良いわけで、それをすることがある特定の人々に限られるものではないとも言える。簡単なことではないけれども。
地球温暖化のせいとはとても思えない冷たい夏と長雨で、湿気の多い毎日が続いていたが、欧州は猛暑で山火事まで起きる事態になっているという。特に雨がほとんど降っていないことが一番の問題で、そのためにどんどん燃え広がっているらしい。数年前には米国の西海岸からロッキー山脈にかけて、猛暑と山火事に襲われていた。
こういう世界の気候の動きを見ていると、単純に平均気温が上昇するという変化ではなく、局地的に猛烈な熱波に襲われたり、歴史的な大雨が降ったり、とにかく極端なお天気になることが多くなっているのかも知れない。これも、異常気象の一つの現れであり、温暖化という現象がまわりまわって、まったく違った方向に向った結果なのかも知れない。とにかく、季節ごとに季節本来の姿を示してくれれば、少しくらい暑くても、何とかやり過ごせるのだが、こちらの期待とあまりにかけ離れていると、どうにも適応できない状況に追い込まれてしまう。そんな異常気象の中、やはり温暖化の影響が農業生産に及んだ場合にどんなことが起こるのかを検証している番組があった。農産物それぞれに対して、どんなことが起きるのかを予想していたのだが、基本的には平均気温が上昇することによる影響を主体に考えていたようだ。比較的温暖な気候を好む稲の場合、今より数℃気温が上昇すると稔りの程度が落ちて、収穫量が減るのだそうだ。一方で今年心配されているような東北地方の冷害に関しては、心配しなくて済むようになるのかも知れない。その他、果物や野菜に関しても、たとえばみかんは現在栽培の北限が群馬県の辺りにあるはずだが、宮城県の辺りまで北上すると考えられ、現在の生産地では栽培が困難になるといった話が聞かれた。いずれにしても、この調子で、現在行われている農業生産の収率がかなり落ちることになると結論付けていたのと、自給率が低いこの国では外国からの輸入に頼っている面が大きいから、そちらの国の天候の変化によって、農作物の総量が不足するようになると論じていた。そういう心配を想定することも必要だろうし、どんな形にせよ対策を練っておくことは大切である。ただ、こういう議論の展開を眺めていて、いつも不思議に思えてくるのは、気候の変化に応じて、生産すべき作物を変えるといった案が出てこないことである。生産者側から言えば、消費者側が変わってくれないと、勝手に変えても需要が見込めず、損ばかりが増えてしまうとなるのだろうが、こういう大きな変化が起きた時にも、消費者の心理が変化しないと結論付けてしまう理由が理解できない。食べ物の趣向に関して、そんなに簡単に変化しないといった考えがあるのだろうが、その割には、米の消費量は減っていくばかりだし、ファーストフードの人気はかなり衰えてきたとはいえ、まだまだかなりのものだ。こんなに変化があるのに、変わるはずがないと決めつけることができるのは、どんな前提からなのだろうか。もう一つは、価格の問題で、もし、予想されているように、生産量が減り、他の作物や穀物が取り入れられたとしたら、そこには自ずと価格の変化があらわれるはずであろう。タイの米が入ってきた時にはかなりの抵抗があったが、あれも一過性と思ったからこそ、取り入れなかったという解釈もできるのではないか。諦めなければならなくなったら、違う反応もありそうだ。とにかく、そういう要素も考えずに、こんな議論が進められるのには、いつものことながら、ため息が出てしまう。心配することの大切さは認識できているはずだから。
長雨が続いていたせいか、夜空を見上げることもほとんどなかった。真っ黒な空を見ていても、何も楽しいことはないからだ。先日久しぶりで星が見えていたので、ちょっと眺めていたら、やけに目立つ赤い星が輝いていた。そう言えば、ひと月くらい前から新聞やテレビが騒いでいたような気がする。
太陽系の惑星の名前を覚えるのに、すいきんちかもくどてんかいめい、と唱えたことがあるだろうか。太陽に近い順で、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星と並んでいる。一時的に順序が変わることもあるが、まあ全体のほんの一部だから、気にすることはない。この順序で覚えておけばいいわけだ。その中でも地球に一番近い惑星としてこのところ話題となっているのが火星である。何十年か何百年か知らないが、まれにみるほどの大接近と言うことで、この機会を逃してはいけないと、解説されている。しかし、そんなに近くにやってきても、望遠鏡で見ると、丸い姿が見えるくらいで、あまり期待を大きくするとがっかりしてしまいそうだ。昔の人たちが観たと主張した火星上の運河を見ることができるわけでもなく、ちょっとした模様が見える程度なのだろう。これはたとえかなり高価な望遠鏡を使って覗いたとしても、そんなに変化の出るものではない。いくら近いと言っても、地球の衛星である月ほど近くにあるわけでもないから、月面に見えるクレーターや海などの模様ほど鮮明な像が得られるわけでもない。過度な期待をすることは裏切られた時の落胆を考えると良いことには思えないが、望遠鏡を売る側にとっては、千載一遇のチャンスといったところのはずで、この機を逃してはならないということになる。望遠鏡での観察で最も有名なのは、ガリレオの木星の衛星の観察であり、あまり性能の高くない望遠鏡でも木星の4つの衛星を見ることができ、それを記録にとってみると、これらの衛星が木星の周りを回っていることがわかったというものだ。これによって、地球も太陽の周りを回っていることが推測できて、それはそれで神を冒涜するものと捉えられてしまったが大発見であることには変わりない。しかし、子供にとって、望遠鏡で覗いた時に、ちょっと大きな星の周りに小さな星が4つ見えるなどというのは、それほどの驚きには繋がらない。初めて覗くのなら、やはり土星が一番印象に残るだろう。なにしろ空に輝く星で、あれほど神秘的な形をしたものはないのだから。これも高級機で覗かないと見えないというものではなく、口径5センチほどの望遠鏡でもはっきりとその輪を見ることができる。他にも星雲や星団を見ると中々面白い場合があるが、見つけるのが大変だし、たとえ見つけても暗すぎてぼやけた像にしか見えないことが多いから、苦労の割には印象に残らないことが多い。こういう話題が出てくるとつい望遠鏡を購入してしまう場合もあるのだろうが、実際にはほんの数回覗いただけで後はお蔵入りとなってしまうことの方が多いようだ。第一には町の灯りが明るすぎて、星があまり見えないことがあり、もう一つには星の位置などの予備知識が不足していて、どこをどう覗いていいのかわからないということがある。前者は車を一時間ほど走らせて山の中腹にでもでかければ解消できるかも知れないが、後者の方は自分で何とかしなければならない。まずは、この時期、頭の上にある夏の大三角形くらいは覚えておくべきだろう。地上の光がほとんどないところでは、その中に天の川が横たわっているのが見えて、感動的なのだが、かなり暗いところにいかねばならず、都会の周りではちょっと無理なようだ。いずれにしてもその形さえ覚えておけば、後は天文雑誌などを参考にして、他の恒星や惑星を見つけることもそれほど難しくはないはずである。星の観測で一番大切なことはそれを見つけることであり、そのためには星座を覚えるとか、惑星の大体の位置を覚えておくとか、そんなことなのだ。
最近は街を歩いていても、電車に乗っていても、地べたにべったりと座っている若者をよく見かけるようになった。特に、制服を着ているからはっきりとわかる高校生は、男女の区別なく、見事にべったり座っている。一時期は注意する大人を見かけることもあったが、最近はごく当たり前の光景となっている。
一昔前は、そういうことをしてはいけないと親から教えられていたものだが、最近はそんなことを言う親もいないのだろうか。それとも、地べたは汚いから座ってはいけない、などと注意しても、汚くないという反論が返ってきてしまうのだろうか。先日テレビを見ていたら、欧州の観光都市でフン害が問題となっている話が紹介されていた。日本でフン害と言うと、まず思い出されるのはドバトではないだろうか。カラス同様、異常繁殖した鳥で、塔やビルのそばでのハトの糞による道路の汚れや衣服への付着の問題が、大きく取り上げられていたことを思い出す。伝統あるかの国々の街で問題となっている糞は、馬糞のことである。観光の目玉として、これらの年で注目されているのは、昔懐かしい馬車で、それを使っての市内観光に人気が集まっているとのことだ。しかし、馬は可愛く見え、馬車も情緒のあるものなのだろうが、その後ろにボロボロとこぼれる馬糞には、可愛さも情緒もない。単に汚いというだけである。ある都市では、それが風とともに舞い上がり、カフェテラスでくつろいでいた地元の人びとの方に向ったそうで、それ以来外でコーヒーを飲むことはやめたそうだ。こんなことから、フン害を無くそうと、各都市が苦慮しているそうで、清掃車を走らせているところもあるが、かえって埃のように舞い上げてしまうみたいで、逆効果に見える。一方、フンが道にまかれるのを防げばいいという考えから導入されたのが、おむつのような器具で、馬のお尻のところに布の袋をぶら下げるというものだ。これなら、汚いものを元から絶つことになり、効果が上がると思いきや、別の都市で使われているものは大きさが不十分でほとんど効果を上げていない。いずれにしても、観光地としての評判を落としかねないことだから、なんとかいい解決方法を見つけようと市当局は頑張っているようだ。この話を見ていて思い出したのは、昔のそういう都市では馬の糞がそこら中に散らばっていて、非衛生きわまりない状態だったという話である。このことと下水設備の不備が色んな伝染病の蔓延を招いたことは有名で、その後下水道の整備と道の清掃などの徹底により、衛生状態はかなり改善されたということだ。それほど昔のことではないとは言え、日本でも場所によっては30年ほど前までは下水設備が普及しておらず、大雨で道が冠水した時には伝染病の心配をしなければならない場合もあった。その後の整備によって、そんな心配は無くなり、またガムやたばこを道に捨てる人たちの数も以前に比べれば減っているだろうから、道路や歩道がきれいになったと感じるのも別におかしなことではない。しかし、だからといって、ああいうところでべったりと座り込むことが汚くないとは、思えない。清潔感に関しては、他人が使ったものを使いたがらないとか、抗菌グッズが爆発的に売れるなど、異常なほどの潔癖性に思える人びとがいる一方で、こういう汚れを気にできない人びとがいる。時々、同一人物がこれらの二面性を持ち合わせていたりして、驚かされるのだが、この辺りの釣り合いのなさはどこから来るものなのだろうか。まさか、彼らなりの絶妙のバランスとでもいうのだろうか。
生命を賭けた、と言えば、かなり大袈裟となるが、なにしろ力の入った大きな仕事という印象を与える。とはいえ、本当に自分の命をかけるのではなく、職業としての地位や立場を失うことを前提に、ある仕事に打ち込む場合によく使われる。地位を失えば、それまで築いてきたものをすべて失うことになるという意味なのだろう。
そんな大袈裟な呼び込みを最近のマスコミはよく使う。政治生命を賭けたなどという話はよく出てくるが、その人が失策を犯しても、いつの間にか再登場して、あの世界では命が幾つもあるのだということを知らされる。そんな具合だから、大袈裟な呼び込みを聞いても、ふりむきもしない人が多いのだと思う。では、これは政治家に限ったことかというと、どうもそうでもないらしい。そのまま同じ業界で、復活をかける人もいるのだろうが、一方でそういう人たちの行き場を提供している業界がでてきたことに気づく。人材として考えれば、どんな業界にせよ、登り詰めた人にはそれなりの才があるわけだから、こういうことが悪いと一概には言えないが、どうも腑に落ちないことも多いから、大歓迎というわけには行かないだろう。はて、何の話かと、不思議に思っている人もいるだろうが、こんな始め方をしたのも、この間の休みの日に、アナリスト生命を賭けて、などというタイトルをつけて、今後の株価予想をしている人たちがいたからである。こういう時に必ず登場するのは、もう何度も紹介したと思うが、悲観派の代表選手であるM氏で、今回も下げの余地がたっぷりあることもあって、勢いよく持論の展開をしていたようだ。一方は、当然逆方向への展開を示す人が出てくるわけだが、これまた今年前半の株価の戻り、と言ってもそのまた前半はかなり悲惨な状態だったが、を予言したことを武器にさらなる上昇を予想していたようだ。下がった後に上がったことが、V字回復と言えるらしく、そのことを強調していたのが印象に残った。こんなことを書くと、いかにもこの番組を真剣に見ていたと思われるが、実際には、その辺りでご勘弁願った。その後の展開は、いつもの通りのはずだろうし、あっちとこっちで違う材料を使い、違う解釈を用い、違う結論を導くわけだから、結果が出た時に初めて、どちらが勝ちで、どちらが負けかが決まるわけで、今の時点でどちらの論に価値があるのか、などと考えても無駄だからだ。それにしても、生命を賭けるなどと書いてあっても、その意味をなさないことは彼らの様子を見ているだけでもわかる。なにしろ、数カ月前の同じような議論でも、同じような両極端の結果予想が示されたにもかかわらず、そこに同じ顔ぶれが登場するのである。まあ、長い将来を見渡しておけば、どういう結果が出たとしても、予想との差異には何らかの言い訳が示せるわけで、まったく下らない演劇を見ているような気がしてくる。その上、最近のこういう業界の動向を見ていると、次の職場を探し回っているのか、あるいはそういう広告塔になりそうな人物を物色しているのか、いつの間にか肩書きの変わっている人がいて、魂を売ったというのは言い過ぎとしても、一つの生命を捨てても、別の生命を拾うことができることに、少々面喰らってしまった。才能を活かせる場を見つけていくことを考えれば、これは大変良いことに違いないのだが、何となく納得できない気持ちが残るのはなぜなのだろうか。それも、以前ならば識者としての責任が問われる職場であったはずのものが、最近は放言のみが飛び交う職場となりつつあり、このことがその傾向をさらに強めるものとなるように見えるから、少しの間注意してみていた方がいいのかも知れない。
人間の性格は千差万別、あまりにも色々とあり過ぎて、幾つかに分類することもできない。一方で、履歴書などには自分の長所、短所を書き込む欄があり、性格にあたるものをそこに書き入れたことがある人も多いと思う。ただ、同じように見える特徴も、人によって長所にしたり、短所にしたり、まあ受け取り方次第ということだろうか。
昔は性格という範疇でひと括りにされていた特徴が、最近は違った形で扱われるようになっている。それはまず学校から始まったことらしく、ご多聞に洩れず、外国からの輸入品である。自分も含めて、小学校の頃のことを思い出すと思い当たることもあるはずだが、授業中に落ち着きのない子供達がいた。周囲の子供とお喋りをしていることが多かったようだ。これはあくまでも程度問題だから、その当時でも教室に居られずに外に飛び出す子供もいたのかも知れないが、最近はその程度のこともよくあるようである。違う形の扱いというのは、こういう行動をする子供を見ても、よほどひどいことでもない限り、落ち着きのない子供という性格の一部としての扱いをすることが当たり前だった時代とは違い、この頃はこれは何らかの障害を原因とする異常行動であるとする考え方が導入されたことだ。障害とは、一般的には修復不可能な傷や後遺症のことをさすから、この場合もどこかにそういったものがあるという意味なのだが、実際にはどこに問題があるのかを正確に指し示す証拠は見つかっていない。この考え方が起きた国では、かなり多くの子供にこのような障害があり、その原因も治療法も見つかっていないが、少なくとも問題行動を抑制するための処方が導入され、これらの子供達に施されているとのことである。ここで話題にしているものは、アルファベットでADHDと呼ばれるもので、日本語では注意欠陥多動症と呼ばれている。実際に脳の一部の構造に欠陥があるためという説もあるようだが、その証拠が得られていない以上、決定的なことを言うことはできない。にもかかわらず、脳の欠陥、脳の障害、といった言葉が飛び交うようになり、まるで視覚障害者や聴覚障害者のような扱いをされたり、ひどい場合には精神病患者のような扱いを受けることもあるという。この国では、学校での話題は色々と大きく取り上げられることが多く、いじめの問題に注目が集まった頃もあったが、最近は学級崩壊などという現象に有識者だけでなく、一般の人びとも注目するようになっていると聞く。これは生徒の行動を制御することができないために、授業が成り立たないというものだが、この時のきっかけを作るのが多動症の子供であるという話がでたこともある。実際は、その他大勢の子供達の行動に自己制御がかかっていないことの方が大きいという意見もでているが、原因と結果を結び付ける決定的なものはないようだ。それにしても、多動症として分類される子供の数は、昔の類似した行動をしていた子供の数とさほど変わっていないにもかかわらず、性格ではなく障害と扱ったとたんにこんなに注目されるのは不思議な気がする。今の時点では、原因が究明されていないのだから、はたして障害とすべきものなのか疑問に思えるからだ。また、症状を抑えるための薬も精神病に使われるもので、その効果、副作用に対する心配がないわけでもない。そちらの判断は専門家に任せるしかないが、外国の状況を見る限り安心できるとも思えないところがある。原点に戻ってみれば、性格は心理的なものであるから、脳の関与は当然あるはずであり、その違いが性格の違いとして表面に出てきていると言える。とすれば、問題となっているADHDにしても、脳に違いがあるのは当然となるのではないだろうか。長所にしろ、短所にしろ、性格は個人の持つ資質の一部である。これを都合の悪いもの良いものと決めつけ、薬物のような外的要因を用いて制御することに抵抗を覚えることは、ごく自然のことに思えるのだが、どうなのだろう。