パンチの独り言

(2003年8月11日〜8月17日)
(時流、放縦、法曹、反応、情報源、為、支援)



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8月17日(日)−支援

 サーバーの管理というのは予告通りにいかないものらしく、今回も肩透かしに終わってしまったようだ。無料のホームページの設置を可能にしてくれているのだから、文句を言うつもりなどないが、なぜ毎回予告通りの作業が行われないのかと、不思議に思ってしまう。管理者側にはそれなりの都合があるのだろうが、理由が使用者に知らされることはない。
 今回の作業はかなり大掛かりなものらしく、その上夜半から一日中という予定が入っていたため、はじめから独り言のアップは諦めていた。独り言の閲覧自体は単なる表示だから、今日の作業では支障が出るものではなかったのだが、書き込みのための方法が使えないということだったので、無理だと判断したからだ。しかし、夜半過ぎても、またこの時間になっても、別段支障が生じていない。ということは、今日の作業は中止されたのか、はたまた何か別の問題が生じたために延期されたのか、まあ、そんなところなのだろう。何のための作業なのかという説明もないのだが、このところ色んな会社の合併などがあり、インフォシークに統一されたためにかなり巨大化したように感じられる。それ自体が問題を生じるかどうかはわからないが、単に寄せ集めをしただけでは今後より大きな問題を生じる恐れがあるから、何かきちんとした形に整えておこうとしているのかも知れない。自分のパソコンのデータの整理もきちんとやれない人間にとっては、はるかに大量のデータを保存している場合にどんな問題が生じるのか想像できないが、このところ時々うまく動かないことがあったり、小さな障害の報告があったりするところを見ると、やはり肥大化したことによる弊害が出ていると考えるのが妥当な線のようだ。コンピュータを使う世界では、データを保存しておく場所であるデータベースは何よりも重要なものであり、会社などのデータベースでは必ず二つ以上のものを設置するようにして、どこかに障害が起きても大切なデータを失うことがないようにしている。このサイトのようなホームページを設置する場合には、同じデータを保存しておくのは、使用者の責任であり、設置場所の管理者の責任ではないから、何か大きな障害が起きると、すべてのデータが失われる場合もある。その可能性はないとは言えないし、今回のような管理作業の途中で何か起きてしまうこともある。確かに頻繁に写しをとっておくことが必要なのだろうが、やはり何となくといった感じで忘れてしまうことが多い。今ももしデータが失われたら、掲示板のほとんどの書き込みは回復不能だし、その他のものも失われてしまうものが多い。そうなったら、まあ仕方ないか、といったいい加減なやり方をしていることは、承知しておいていただけるとありがたい。一方、米国北東部で起きた大規模停電のようなことがあると、せっかく複数のデータベースを設置しても、同一地域内にあるために機能しないこともあるだろうし、そうでなくてもかなりの混乱が起きる。結局電気がなければ動かないのが、文明の利器であり、そうなったらまず諦めるしかないのだろう。発電機を設置したとしても、周辺の電力供給が止まってしまえば、結果は同じことになる。ああいうことにもバックアップが必要であり、本来はそのように考えられていたはずなのだが、実際には別の効果が出てしまったようだ。支援体制などと言われたりするが、存在していても機能しなければ何にもならない。今回の停電はそんなところから起きてしまったことらしいのだが。

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8月16日(土)−為

 夏らしくない夏休みももう半分を過ぎてしまった。そろそろ周囲がざわついてきて、宿題の山をどうにかせねばならない時期が近づきつつあるのではないだろうか。と言っても、計画的な子供の場合、始まりから終わりまできちんとこなしているだろうから、まったく問題ない。逆の場合、まだ勝負の時は来ていないといったところか。
 こんな具合に、押し付けられた課題をこなすのに悲鳴をあげている子供達にとっては、勉強というものは何のためにあるのかわからない代物になるようだ。子供に聞かれて困る質問の一つに、何のために勉強するのか、というのがあるが、まさに、当事者にとっては何もわからず苦しまされるのが苦行以外の何かとは思えないといったところだろう。坊主になるための修行やら、名選手になるための練習やら、苦しさがあるものには確固たる目的や目標があるもので、それだからこそ、苦しみに耐えられるのだと言いたくなるらしい。しかし、実際には修行にしても練習にしても厳しいものにはたとえ目標がはっきりとしていても耐えられないものが多い。いずれにしてもそう簡単なものではないのだ。さて、話を元に戻して、子供達にとって勉強は何のためなのだろうか。大人に聞くとよく返ってくる答えは、自分のためにするのだ、というものだが、これが最近あまり通用しなくなっている。じゃあ、自分は必要無いと思うからやらない、と答える子供が増えたからだ。自分のためと大人が言うのは、今この時には必要無いかも知れないが、将来役に立つことが必ずあるだろうから、やっておいた方が良いという意味の将来の自分のためであって、今の自分ではない。ところが受け取る子供の方は素直にそのまま受け取るから、次の答えを用意しないと、勉強は必要無いとなってしまう。これでは困ってしまうが、こういう質問に、相手の要求している目的論で答えることに意味があるのだろうか。何にでも目的があり、それを達成するために対策がある、というのが最近の効率を重視した考え方なのだろうが、どうも腑に落ちないことも多い。目的があることを否定するつもりはないが、その達成のための対策というところに、落とし穴があるような気がするのだ。勉強のことで言えば、良い成績をとるための技術の習得を促すのが、有名塾の役割となるが、これは単に技術的なものだけであって、本来のものを考えることと必ずしも一致しないことが多い。もし、勉強というものをこんな形で捉えているのであれば、それは必ずしも必要とは言えないと答えてしまいそうな気がする。人生の成功者になるためには、必ず通らねばならない道と言われそうだが、外れてもそれなりのところに到達できると思えば、そんなに絶対的なものではないと思えてくる。そんな勉強は脇において、ここで話題にすべき勉強の場合、やはり目的意識を強くするよりも、人間であるための最低限の知識として必要なものを身につけるという程度のものではいけないのだろうか。これも目的と言えば言えなくもないが、こんな目的は意味がないと言われてしまうだろうという期待を込めて、書いてみたのだが。大人になって始めて、あの時あそこで習ったものはとか、それを知っておいてよかったとか、そんな気持ちが出てくると、つい子供達に自分のためと言いたくなるのだろうが、言われた方の気持ちになれば、ためにならないことなのだろう。文句を言わずにやっておけ、といった命令口調が姿を消してしまった今、納得させることが必要となり、どんな言い方が良いのやらさっぱりわからなくなってしまったようだ。

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8月15日(金)−情報源

 ここを毎日読みに来てくれる人の数はほとんど変わっていない。そういう人はホームページの方にも参加しているから、安定しているからだ。その一方で、毎日数人ずつの割合で、一見さんがやって来る。ホームページ経由の人はおそらくヤフー辺りからの流れなのだと思うが、時々直接入ってくる人がいて、どこで知ったのかと不思議になる。
 そんな経緯から、最新版の上にあるような注意書きを書き加えたが、心配した通り誰も書き込んでくれないようだ。ネット社会の匿名性というのもこんなところに出ているのかと思ったりするが、直接話を聞いたことが無いから本当の理由はわからない。一応、ネット検索を使って、どこかに勝手にリンクされていないかどうか調べたりするのだが、今のところそんな場所は見つからない。そんなことは勝手な独り言を言い放っている人には関係ないだろうと思われるかも知れないが、ちょっと気になっているわけだ。自分の中で自分に向って独り言を言う人々にとっては、周囲の人間が何をしようが気にならないのだろうが、ホームページで独り言と称して勝手なことを書いている人たちは、やはり何らかの反響というか反応を気にしているのだと思う。パンチも御多分に漏れず、何かしらの反応を期待している。書き込みとしての反応はそれはそれなりに楽しみになるが、単なる訪問者としての反応も気になる。感想を書いて欲しいとするつもりはなく、どちらかというとどんな関連でこういうところに行き着いたのかということに興味があるからだ。毎日のように、こういうものを書いていると、次は何を書こうかと困ることも出てくる。いろんなところに話題の種を求めているのだが、どこにでも転がっているという代物でもない。無理にこじつけると、中々文章が続かずに結局途中で諦める結果となるから、書き始める前に大体の流れを考えたりすることもある。そうなると中途半端な話題では繋ぎができずに、元の木阿弥となってしまうから、慎重になってしまうこともある。大体の場合は、話題を絞ったうえで、適当に考えながら、適当に繋いでいくだけなのだが、いつもそういった形式で進められるわけでもない。以前にも書いたが、独り言の話題として自分に関係したことばかりを書くつもりはない。このことはすべてに渡ってのことだから、取り上げられない話題が自ずと多くなってしまう。この辺りはネット社会の良いところでもあり悪いところでもあるのだろう。氏素性を明らかにした上で、自分に関係ある事柄に関して論じている人もいるが、一方で、そういうものとは無関係に普段から自分の思っていることを率直に表現しようとしている人もいる。この場合、名前を出したり、職業や地位を出したりすることは、かえって妨げとなるから、どこの誰とわからない状況で普段言えないことを書く人が多いのだろう。面白いと思うのは、読み手の中に、書き手の有名無名で内容の区別をしようとする人がいることだ。同じ文言でも、書き手の良し悪しによって、受け取り方が変わるそうで、とても面白いことだと思う。内容はまったく同じでも、受け取り方がその人の心の持ちようで変わるということは、書いたものの内容は書き手の意図も入っているとはいえ、結局は読み手の心理でかなり大きく左右されるということだ。読み方の大切さと言われるのは、こんなところにあるのかもしれない。内容の良し悪しは書き手の良し悪しではなく、読み手の良し悪しによる、などと書いたら、おかしな顔をされてしまうのかも知れないが。

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8月14日(木)−反応

 経済指標の一つがつい先日発表され、とても明るい数字だったので、市場の方も素直に反応したようだ。そうは言っても、一本調子で上昇を続けるほどの力は今の経済状況では想像できないから、適当なところで利益確定が出て、調整が行われるのだろうが、久々の確かな数字にホッとした人々が出たということだろう。
 それにしても、発表の日の様々な報道には、ある特定の思惑が背景にあるとしか思えない姿勢が見え隠れしていて、何とも情けなくなってしまった。元々、発表する側も予想外の高い数字だったこともあり、どこか作為を疑われるのではないかという思いから、かなり慎重な姿勢を貫いていた。あれがあの人の発表であれば、天井だけを見つめて、鼻高々の大演説となったのだろうが、そこは一応学者の端くれ、慎重にならざるを得なかったのだろう。そんな心理がその情報を受け取る側にも伝わって、何しろ信じがたい数字が発表されたといった感覚の報道に繋がった。姿勢がきちんと決まれば、内容は自ずと明らかになる。数字だけからすれば経済の回復が明らかになりつつあると言ってもいいところを、数字とはかけ離れた実感が国民の中にあるということを明確にしようとするものとなった。こんなときによく使われる街頭インタビューは、こういった姿勢で臨んだ場合、最も使いやすいものの一つになる。何しろ、こちらの意図に合致するものだけを選び出して流せばいいのだから。取材をした人々の中には、どんな印象が残ったのか、テレビ、ラジオ、新聞の前にいる人々には知る由もない。また、どんな意見が大勢を占めていたのか、更に同じ人でも全体の中のどの話が紹介されたのか、そういった情報は一切出てくることがない。報道の怖さはこういったところにあるのだと思うが、一方で話をする人々にも心理的な縛りがある場合がある。せっかく機会を与えられたのだから、皆に理解されやすい、今受ける話をしようとする人も多い。リストラの話や給料が減った話を出せば、この時期共感を得られるはずで、その流れから話を進めていた人もいた。しかし、生活の中の実感としての「実感」の紹介はほとんどなかったのではないか。リストラは自分の話ではないし、給料の件もそうでないかもしれない。こんなうがった見方をしながら、流れていく画面を見ていると、皆一緒といったこの国特有の考え方が現れているような気がしてきた。もしも、バブルの頃の経済状況に思いを馳せているのだったら、今の状況など悪いとしか言えないだろう。何も考えずに、何でも買える時代が良い時代と思っているのだとしたら、その方がおかしいと思わないのが不思議なのだ。必要なものを必要なだけ手に入れ、その中で確かな生活を送るということを考えず、人が買うから自分もとか、贅沢な暮らしをしたいとか、夢の一つなのかも知れないが、現実を前にしてどの程度のことが適当なのか考えてみるべきだと思う。まあ、今更バブルのことを言っても仕方のないことだが、思っている人がいたら、どうにもならない感じだ。今回の経済指標にしても、以前との比較であるから、下向きだったものが少しでも上向きになれば正の数字が出る。その実感がない人々が沢山いたとしても、それはまだ自分たちの周りに現れてきていないと見ても良い。悪いままという場合にも、動かねばゼロであり、少しでも良くなれば、正となる。ちょっとした数字の発表で、こんなに頑張って否定的意見で満たそうというのは、どうにも納得できない。まあ、これもすぐに忘れ去られてしまう程度の話なのだが。

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8月13日(水)−法曹

 大学の世界も、国立大学の法人化という訳のわからない制度改革によって、波風が立っているように見えるが、では私立大学の方はどうなっているのだろうか。大学に進学する世代の子供の数が減り続けているから、当然お客さんの数が減ることになり、様々な弊害が出ているはずなのだ。
 客商売などと言ったら、教育関係者に怒られるのだろうが、どうもそういう傾向を示した時代があったと言うくらいなら許してもらえるだろうか。まるで大人の遊び場のような感覚の大学が開設されたなどというニュースが流れたこともある。立地条件に厳しくなっていたのもその頃で、逆に言えば都心にあった有名大学がこぞって静かで何もない地域に移転をしていた時期でもあった。勉学をする、学問をする、といったことから言えば、環境は抜群であったはずなのだが、実際にはそうならずに、魅力に欠ける存在となったところもあるようだ。結局、よく学びよく遊ぶという観点からすれば、片方が欠けたところではもう片方も危ういものになってしまうということなのだろう。そんなことを論じている間に、さらに学生気質は暴走して、大学はよく遊びよく遊ぶところと化したから、どこにあるべきかは明確となってきたようだ。そんな中で、次の打開策として期待されたのが、法科大学院の設置ということらしい。国立、公立だけでなく、かなり多くの私立大学が参入しているようで、力の入れようも尋常でないと聞く。司法試験による資格の獲得という現行の唯一の制度の下では、大量に有資格者を出すことには限界があると見えて、別の制度を導入しようということらしい。米国のロースクールの制度をまねたものとのことだが、細かい点ではかなり違ったものになるのだろうと思う。なぜ有資格者を増やさねばならないのか、という疑問に対して大した答えが用意されていたとは思えないが、導入すると決めたらそうするのがこの国のやり方だから、現場の方も何とかそれについていこうと必死なようだ。ごく最近、その大学院に関する試験が行われたという報道があった。まるで入社試験の時の常識問題のようで、大学院の試験とはとても思えなかったという意見が出ていたが、受験資格を限定していないのだから、仕方のないところだろう。様々なところから、優秀な人材を集めようとした結果で、つまりはそれまでの知識を問うわけにはいかない状況を作ったからだ。この辺りがこの国特有の考え方なのだろうが、専門を問わないとしても、これから新たに学ぶ上でどんな資質が重要となるのかについての議論はほとんど行われない。まあ、常識があれば大丈夫だろうということなのだろうが、その程度をどこに設定するのかはっきりしない。一方、受験する側には既設の大学院とさほど変わらないものを期待した向きもあり、専門性のない試験に唖然としたのだろう。これでは受験産業は大した稼ぎを期待できないかも知れない。専門性が問われれば問われるほど、それをくぐり抜ける技術の伝承が重要視される。そうなれば、それを教える専門家集団の意義が出てくるはずなのだ。それが、ごく普通の常識問題などとなっては、なんとも手の出しようが無くなるのかも知れない。このまま進むとは思えないが、はたしてどんな人材を求めているのか、何をやらせようとしているのか、はっきりしないままだと、こんな制度もあっという間に陳腐化してしまうのではないだろうか。

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8月12日(火)−放縦

 電車の中でのマナーの話がずっと以前にラジオで取り上げられていた。他人のどんな行為が気になるか、車中のどんな行為をマナー違反と見なすか、などといった話題だったと思う。気になることは皆同じようなもので、お互い同じ感覚を持っていると実感したが、その一方でその行為をしている人びとの持つ感覚とは何だろうかと思ってしまった。
 世の中色んな人がいるから、電車の中で携帯電話を使う人、化粧をする人、座席に荷物をおく人、などと出てきても、そんなに驚くことはない。つまりどこかで見たことがあるからで、誰も見たこともないような行為を目撃したら、やはり驚くのだろうと思う。ちょっと考えてみても、そんなものを見かけたことがないから、ここで実例として挙げることはできない。いずれにしても、周囲の目を気にしていれば、やりそうにもないことをやっているわけだから、その人びとはそんな感覚を持っていないと考えるしかない。さすがにそこまでとは思わないが、電車の中で気になることの一つは親子連れの行動である。おとなしくしている子もいるが、はしゃいで走り回る子がいたり、座席の上で飛び跳ねる子がいたりする。そこまでいくこと自体、ちょっと驚きなのだが、親の方を見ていて、もっと驚くことがある。単純に言ってしまえば、見て見ぬふりとでも言うのだろうか、そこには誰もいないといった素振りを見せる。短い距離の移動であれば、少しの間の我慢とこちらも思うから、無視する場合が多いが、数時間の移動ともなれば、少し様子を見て、何も起きないようだと、注意することがある。子供にきつくあたっても仕方がないので、やんわりと注意するが、親の反応は、ほら怒られたでしょ、といったものが多い。こちらは返す刀で、もう一言、それなら親御さんがはっきりとおっしゃればいい、と言ったりするのだが、さすがにばつが悪くなるようだ。こんなやり取りで開き直られたりすると困るのだが、放任主義という言葉が使われることがある。つまり、子供のしたいようにさせて、その結果子供が色んな場面での色んな出来事から自分なりに学ぶところがあるだろうというもので、親は傍で見ていても、まさに見て見ぬふりをするのだそうだ。なるほどそういう論理があるのか、などと感心する気持ちはまったくない。放任自体が悪いこととは言えず、自分なりの解決法を見つけだすことの意義も確かにあるからだ。しかし、その前に最低限のこと施しておくべきことがあるのを忘れてはならない。理由を説明したり、論理を考えたりすることなしに、していいこと悪いこと、ものの善悪、といったものがある。その区別を教えることなしに、自分で判断できるはずと考えるのは大きな間違いであろう。それじゃあ、猛獣を遊ばせているようなものだ。猛獣使いでも、芸を見せるという場でのやるべきこと、やってはいけないことを身をもって示すのである。放し飼いの猛獣を育てたいというのなら話は別だが、きちんと周囲の状況をみて判断できる子供や大人に育てるために、最低限必要なものがあるはずである。それを教えた上で、放任するなり、放し飼いにするなり、してみてはいかがだろうか。

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8月11日(月)−時流

 日本語の乱れが話題になるようになって、どのくらい経つのだろうか。こんな質問をしたら、どんな答えが返ってくるのだろう。正しい答えは無いに等しい。何故なら、言語というものは常に変化するものだから、前の時代から見れば、その時代の言葉など乱れ切っているからである。
 こんなことを書くと、おかしいと思われるかも知れない。ただ、だからと言って、何でもいいというわけでは無いことも理解しておいて欲しい。時代の移り変わりとともに、新しいものが出てきて、つまらないものは消えていくのである。この現象は、このところ年末に話題になっている新語大賞のようなものによく現れているので、そちらを参考にして欲しい。とにかく、ポッと出て、さっと消えるものでさえ、一時的には話題をさらうのである。瞬間芸のようなものなのだろうか、その時は笑いをとれるが、後に残らない。そういう乱れた日本語の中で、最近問題視されているものに外来語がある。日本語の特長は、三種類の文字を持つことで、漢字は意味を表すのに使い、平仮名は言葉をつなぐのに使う。片仮名は以前は平仮名のように使われていたが、最近はもっぱら外来語の発音をそのまま表現するのに使われ、日本語の柔軟さを表す指標として紹介されることもある。しかし、外国語をそのまま表現するから、そこに意味が含まれるかどうかは、その言葉を知っているかどうかに依存する。じっくり時間をかければ、それなりに意味が通じるようになってくるが、最近のように様々な言葉が凄まじい勢いで流入するようになると、時間をかける暇も無く、次から次へと新しいものの山が築かれる。そこで国語研究所が先頭に立って、意味不明の外来語を漢字を含む言葉に置き換えて、意味をもたせる作業が始められた。これが意外に難しい作業で、改めて外来語なるものを安易に取り入れる心理を理解することとなった。先週の新聞に一部が紹介されていたが、ごく最近に導入された言葉もあれば、もう何十年も経って、埃にまみれているものもあった。こういうものの中には、おそらく始めは漢字で表現されたにもかかわらず、馴染めずに片仮名になってしまったものもあるのだろう。コアとか、コミュニケなどはその典型だろうか。コアを中核とするのは、やはり「核」が別の意味を代表する言葉だからだろうか。最近よく聞く外来語はコンピュータに関わるものが多く、ログインとか、データベースなどがそれにあたる。コンピュータも、実際には計算機と言われていたが、計算以外のものもするから、意味違いとなってしまった。こんな調子でいちいち翻訳していたら大変だという意見もあるようだが、実際にはこの方が健全な気もする。今より前に、外来語が大量に入ってきたのは、明治の始め頃だろうが、その時代には安直な方法をとらずに、きちんと意味を捉えて漢字に置き換える努力をしたようだ。科学、哲学などといった学問分野を表す言葉はほとんど輸入品で、それを漢字に置き換えた。その調子で、色んな分野の言葉を作り出したのは、その時代の人たちが偉かったと言ってしまえばそれまでだが、漢字の意味を正確に捉えた上で、作業を行ったことがもっとも大きな功績だろう。同じ漢字を使っても、中国では一時音をまねるだけで、意味を無視した置換をして、ゴミを大量に生産したことがある。面白いのは、明治時代に日本で考案された漢字による表現をかなりの部分あちらに導入したことで、本家がどちらなのかわからなくなる。音と意味を兼ね備えたものとして気に入っているのは、「型録」という言葉で、確かに当て字と言われればそれまでだが、中々の案と思う。さすがに中国も最近は当て字の愚かさに気づいたらしく、意味を持つ新語を作ることにしたらしい。コンピュータは「電脳」となったそうで、これはこれでまあまあのものだろう。外来語は音を表現するから、それはそれで意味のあるものなのかも知れないが、本当にその言葉を習得するのなら、その言語を習うべきだろう。誤解も含めて、それも乱れの一因になっているのだから。

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