私たちは色のある世界に住んでいると思っている。しかし、実際には光を発するものを除けば、もともと色をもっているものは無いと言われる。ほとんどの人は、目の前に見えているものにちゃんと色がついているんだから、色があるに決まっていると反論するに違いない。でも、それは外から来た光の一部を反射したり、吸収したりすることによって、特有の色に見えているだけなのだ。
こんな話を知らなくても、どうってことはないし、困ることもない。身の回りのものを眺めて、きれいな色とか、面白い色合いとか、そんなことを言っている方がよほど楽しい。色が見えるというのはたとえば太陽の光が何かに当って、そこからある色の光だけが反射した時に、その色に見えるというわけだから、その色を含まない光を当てると、全然違ったように見えるわけだ。このように、色を観るということには、何となく受け身的な感覚がある。ただ、地球上のほとんどのところでは、これで問題ないわけだから、やはり生きていく上で必要な知識というわけではなさそうだ。色の感覚については、色んなことがわかってきているようだが、かのニュートンとゲーテがまったく違った立場から論じたくらいのものだから、まだまだわかっていないことが多い。それでも色彩心理学という分野では、どんなものがどんな色に見えるのかとか、どんな組み合わせだと色の見え方はどう変わるのかとか、そんな研究を行っている。なにしろ感覚的なものは、表現の仕方なども人によって様々だから、これという決定版を作り出すことは難しく、そんな調子で客観的な指標を見つけることが難しくなっているようだ。一方、物質的なものに関しても色々と難しいことが多い。ある色の反射とか吸収が物質の違いからなぜ起こるのか、説明することはかなり難しいのだ。たとえば同じものでも、環境の違いによって違う色に見えることがある。染色をしたことのある人はその辺りのことをよく知っていると思うが、そうでない人でも小学校の頃に見たことがあるはずである。理科の実験をやったか、最近ではやったことのない人も増えているようだが、少なくとも教科書の上での知識くらいは残っているのではないだろうか。酸性とアルカリ性を調べるのに使う紙で、リトマス試験紙のことを覚えているだろうか。酢などの酸性の液につけると赤くなり、重曹などのアルカリ性の液につけると青くなる。リトマス試験紙は、もともとリトマスごけを搾った液を原料とするという話だが、どんなものなのか見たこともないのでさっぱりわからない。しかし、植物は全般的にこういう性質をもつ色素をもっているから、たとえば紫陽花の花の色とか朝顔の花の色は土の性質によって変化すると言われている。花の色にはたとえば真っ黒なバラの花とか、追い求められているものがあるが、これもほとんどは濃い赤が黒く見えるものである。さらに難しいと言われるものに、青いバラがあり、英語のa blue roseは不可能なことを意味するくらい、誰にもできないものと言われていた。そこに食物で悪者にされている遺伝子組み換えの技術が導入されて、青いバラも青い色素を作るようにしてやれば簡単にできると思った人もいたようだ。実際には、どんな環境でも青く見える色素というものはほとんどなく、それこそ酸性アルカリ性の違いによって色ががらりと変わってしまうので、単に色素を作ればいいというものではないらしい。結局未だに登場していないようだが、不可能は不可能のままで放っておくのがいいのかも知れないし、何とかして手に入れたいという人間の欲望を満足させるのがいいのかも知れない。それこそ、植物が水を吸い上げると共に色素を吸い上げるのを利用して、青い水をバラの花に吸い上げさせて青くするなどという邪道が登場したこともあるのだそうだ。これでひと財産築ければと考えたら、やりそうな話である。こういう詐欺的なやり方は結局人の欲望を利用した結果だから、古今東西変わらぬものなのだろう。青が欲しければ朝顔でも買ってくればいいのに、というのは趣味の世界に生きられない者の吐く言葉だろうか。
例年とは違う気候であろうが、例年通りの気候であろうが、不満の起きない時はなく、何かしら不快なところ、何かしら異常なところ、そういったものを見つけだして文句を並べている。結局のところ、どうあれば満足なのかと聞かれても、それに対する答えを持ち合わせている人はほとんどいない。なにしろ、文句を言いたいのである、暑すぎる、寒すぎる、乾きすぎる、湿りすぎる、そんな具合に。
文句を言うだけなら、季節の変化など必要ないはずなのだが、どうも変化がないとそれはそれで文句の原因になるようだ。この国に暮らしていると、春夏秋冬、あるのが当たり前という気がしてくるが、実際にはこんなに変化に富んだ場所も珍しい。そんな四季の繰り返しがずっと長いこと続いてきたから、それに対応した変化が身の回りのあらゆることに当てはめられている。衣食住をそれぞれ考えてみれば、着物については暑さ寒さに応じて変えなければならないし、住むところについては、高温多湿の夏と低温乾燥の冬を乗り切るために、様々な工夫がなされている。今では四季を通じて寒い時には暖房、暑い時には冷房、湿度が高ければ除湿などと、機械を使って家の中の状態を調整することが当たり前となり、それに伴って、断熱密閉性の良い住居が求められるようになったが、本来の日本家屋はそれほどの断熱性も密閉性ももっていない。ちょっとした工夫とは、障子の桟と和紙の位置関係とか、畳の材質などといったもの程度で、最近の建築物ではかえって邪魔な存在であり、デザイン性だけが生き残ってきたような感じである。食に関しても、季節感の喪失は深刻であり、特に野菜に関しては、現在出回っている野菜の本来の旬がいつなのか知らない人も多いのではないだろうか。春野菜、夏野菜、秋野菜、冬野菜と呼ばれているものを思い出せる人も少なくなってきたのは、結局普段目にする野菜に季節感が無くなってしまったからで、せいぜい、秋茄子とか、冬瓜とか、季節を表す漢字が付いている場合に限って、知っている程度のことになってしまっている。いつでも、食べたいものを食べることができる、という考えが優先され、その時季にできたものを食べる、という考えはどこかに忘れ去られてしまったようだ。見た目はほとんど変わりなく、栄養価も変わらないと言われているが、実際に気がつかない程度の違いがあり、それが重要な役割をもっているのかも知れない。これだけはデータを示さない限り、認められることはないのだが、栽培に適した時季に結実したものと、まったく違う時季に結実したものでは、何かが違っていても不思議はないように思う。適した時季にとれた野菜は、時には食べきれないほどの量になるかも知れない。そんな時に、旬の野菜の一番美味しいところを、何とか長い時間食べられるようにできないかと考えだされたのが、漬け物や乾燥食品であろう。年末に大根や白菜を大量に漬けていたのもずいぶん前のことになってしまい、今ではそんな光景を見ることもない。一方、乾燥させると言ったら、どの野菜を思い出すだろうか。まずは大根で、切り干し大根はほとんどの人が知っていると思う。他の野菜も保存するために乾燥させることがあるそうだが、あまり食べたことがないのでよくわからない。ただ、茄子のことだけはなぜだか鮮明に記憶している。真夏が旬の夏野菜である茄子は、今ではいつが旬なのかわからないほどいつでも出回っているが、40年ほど前となるとそんな状況にはなかった。そこで、旬の茄子をもっと長い期間楽しめるようにと、この時期に千切りにした茄子を天日干しにして、カラカラに乾燥させて保存することがあった。干し茄子は水で戻して、甘辛く煮て食べた記憶がある。どんな味つけなのか、どうやって乾燥させるのか、つい聞きそびれて今となっては闇の中だが、一度は試してみようと思っている。
高校野球も一時ほどの盛り上がりが無くなってしまったのだろうか。地区代表と言われても、地元出身の選手がまったくいないような高校が出場してくるようでは、いかがなものかという意見が聞こえてくるし、以前からそうだったのだろうが、勝ち負けにこだわったり、自分が目立とうとする素振りが見えるのも、無い物ねだりのファンの勝手な気持ちを逆なでしているのだろう。
この夏の大会は、目立ちたがりの始球式参加というとんでもない話題もあった。そのせいでもないのだろうが、天候に恵まれず、日程がずれ込んだりして、体調を整えるのに苦労している選手もいるだろう。それにしても、怪我をおして出場している選手を見るとそんなに無理をしなくてもとつい思ってしまうのだが、彼らにとっては生涯一度の機会だろうから、逃すわけにもいかないのだろう。一方で、義足をはめた選手がいたことはかなり大きな話題となった。既に3年生なのだから、地元などでは以前から話題になっていたのだろうが、全国的には甲子園出場ということで知られることとなった。その姿を見て驚いたのは、義足をはめているという感じがまったくしないことで、特に前後左右の俊敏な動きを要求される三塁手としての守備にもまったく変なところがなかった。障害者として捉えるべきかと問われたら、必要無しと答えるしかなさそうだ。そうは言っても、本人にとっては、色んな苦労があるのだろうから、他人が気軽にそんな言葉を吐いてはいけないのだろうが、まったくごく自然であるので、それ以外の言い様がないというのが正直な感想だ。これまでに紹介されていた障害を持った野球少年たちは、明らかにハンディと思える症状を示していたし、だからこそ同情の念を込めて紹介されていたのだと思う。それに対して、今回の例は、あまりにもかけ離れたものであり、健常者である他の選手との優劣を同じ座標に載せて考えられるといった感じだ。どうも一部にはプロ野球が食指を動かしているという報道があったりするようだが、真偽のほどは確かではない。確かに、高校生のレベルとして見れば、上の方にあると言えるのかも知れないが、はたしてプロ野球で通用するのか、なんとも言えない気がする。そんなことを考えていて、ふと思い出したのは、海の向こうの大リーグでの話である。日本人選手の数が増えてきて、日本の野球のレベルの高さを示すものだと言われているが、その大リーグでプレーしていた障害者がいるのである。初めて彼のことを知ったのは、確か日米大学野球大会のときだったろうか。Jim Abbottという名前の選手は、アメリカの代表の主戦投手として参加していた。既にその時話題になっていたのだが、彼の右手は手首から先がない。左手用のグラブを右手の手首のない先のところに引っ掛けて、左腕で投球する。投げたと思ったら、すぐに右手から左手にグラブを持ち替えて、守備の体勢をとる。小さい頃から、このやり方で野球を続けてきただけあって、素早い動きで驚かされる。投球自体もかなりのものだったが、大リーグで通用するかどうか、疑問視されていた。ところが、カリフォルニアエンジェルスが指名したのである。話題性だけと言われたこともあったが、結局1989年から99年までで87勝しているのだそうだ。彼の中には、障害者という意識はなかったのではないかと思うが、勝負の世界では当然のことなのだろう。同情されて勝てるわけではないし、負けたのをそのせいにできるわけでもない。淡々と投げているのをテレビで見ていて、ごく自然に見えたが、そうでなければこんな成績を残すことなどできなかったのだろう。
今年の夏は、東と西でかなり天候に違いがあるようだ。ニュースが東京中心に偏り過ぎている状況では、なにしろ寒いだの、冷たいだのという言葉が頻繁に飛び交っているが、その程度を見てみると、東海以西と関東以北では、かなりの隔たりがあるように思える。何でも全国版が一番のように扱われるが、全国を代表する場所が天気についてもあるとはとても思えない。
十年ぶりの冷夏と言われているが、特に深刻なのは東北のようだ。既に梅雨に入る前頃から日照時間の短さが話題になっていたが、その後もその遅れを取り戻そうという動きはないようだ。この時期の日照を最も必要とする農産物といえば、当然米であるが、日本全体の生産のかなりの部分を占める地方の問題として、深刻にとらえているのも仕方のないことかも知れない。とは言え、十年前との大きな違いは備蓄米の量で、今回の場合は今年一年に限ってみれば、緊急輸入をしなければならなかった時とはかなりの違いで、凶作でもさほど問題にならないと言われている。そんなことを言うと、生産者の人たちから怒られてしまうが、消費者の立場からはそこのところが問題になるのだから、理解して欲しいと思う。他にも、かなり多くの農産物に被害が出ていると伝えていたが、その場合は日照時間の問題だけでなく、雨の問題も大きく影響しているようだ。路地栽培のようなものの場合、雨が降ると収穫が難しくなり、どうしても流通量が減ってしまう。このところ葱の値段が上昇していると報じていたが、これもそのためと解説していた。そのニュースの中でおかしいと思ったのは、法蓮草が画面に出てきた時だ。法蓮草は強い日ざしの下では育ちにくく、夏場には流通量が激減する野菜の一つである。その代わりとして、最近はモロヘイヤなどという変わった野菜が流通するようになり、葉ものの不足を補っていると思っていたが、一年中同じ野菜が流通することが当然と消費者が思っているので、どの野菜も何とか栽培できるようにしているらしい。しかし、この寒さで暑さに弱い法蓮草が影響を受けるというのは解せない。まあ、ことのついでに流したのかも知れないが、季節感を失ってしまった今、そういった感覚を要求しても仕方ないのだろう。冷夏ということで、様々な産業に悪影響が出ているようだ。すぐに思いつくのはエアコンだろう。こんなお天気では慌てて買いに走る人もおらず、たぶんかなりの数がだぶついているのではないだろうか。その一方でホッとしているのは、原発騒ぎでどうにも首が回らなくなっていた某電力会社だろう。このままでは米国西海岸で起きた停電のような大騒ぎが起きかねないと言われていたが、何ごともなく夏を過ごすことができたのではないか。ただ、米国北東部の停電の原因が明らかになると、これまた何らかの対策が必要となるかも知れないから、別の心配が出てきているのかも知れない。他にも、大打撃を受けたものとして、避暑地と呼ばれる観光地や海水浴場などが挙げられる。では、寒い夏にはすべての人たちが被害を被ったのかと言うとそうでもないところがある。どこかに出かけたいと思っている人たちにとっては、たとえ天候が悪くなってもその意欲が減退するわけでもないらしく、どこかに代替えの場所を見つけるらしい。寒ければ、温かくなるところ、ということで温泉地は賑わったのだそうだ。確かに酷暑の真夏に温泉に入りたいと思う人は少ないのだろうが、寒いとなれば話は別だろう。損をする人がいれば、得をとる人がいる。まあ、そんなところなのだろうが、損保の方は別の被害が出ると言われている。しかし、保険とは何のためのものか考えれば、こんなことで大騒ぎする方がおかしいと思うのだが、どうだろう。
コンピュータウィルスの話題が出ていた。日本ではほとんどの会社が休みになり、官庁も休暇をとっている人が多い時期だったので、対応に追われた人もいたようだし、休み明けに被害が集中する恐れもあって、かなり色んなところで話題になっていたようだ。実際には、当初の被害だけで済んだらしく、予想されていた大規模なものは回避されたようだが、ネット社会の脆弱性を示すしるしとなったようだ。
今回のウィルス感染は様々な面から現在の仕組みの問題点に対する警鐘と捉えた方が良さそうである。これまでの例のように、メールやホームページの閲覧などを介したものではなく、インターネットに接続しているだけで感染するものであっただけに、使用者が注意すれば済むという問題解決は通用しなかった。その代わりとして要求されたのは、コンピュータを動かしている基本ソフトの最新版を取得することで、元のソフトがもっている欠陥を修正したプログラムを組み込むことだけが、感染を防ぐ唯一の手だてとなっていた。世界の大部分を占めるパソコンに搭載されているこの基本ソフトには様々な欠陥が次から次へと見つかっており、その度に使用者が修正プログラムを取得し、最新版にする必要が出てくる。これは、使用者責任として当然のことのように思い勝ちだが、はたしてすべてのことがそうだと言えるのだろうか。ずっと昔のことになるが、この基本ソフトを作っている会社があるソフトを売り出した時に、修正版を無償配布ではなく、売りに出した時の不可解さが心の中で未だに尾をひいている感じだ。同じような事故を起こした日本の会社では結局修正版を無償配布することで、信頼回復に努めたが、実際にはどちらの会社も今は何もなかったかのごとく存在している。つまりはどんな対応をしようとも、市場の大部分を独占する役割を担ってしまえば、何とでもなるということを示しているのではないか。とにかく、今回のウィルス感染に関しては、幾つか注意しておいた方がいい点が明らかとなったようだ。一つは、ネット接続だけで感染をすることから、使用者が意図したアクセス以外にも、常に外部からのアクセスが可能になっているということ。これは、常時接続が常識化し始めていることから、かなり大きな問題と考えるべきであろう。あとから少し書いておくが、これが起きる原因として考えられていることが、実際には独占的支配の兆候を示しているとも考えられるからだ。もう一つは、今回のウィルスの場合、感染が広がったあとにこのソフトを売っている会社の中枢とも言える施設への攻撃が意図されていたということだ。どのような仕組みでそれが可能となるのかは知る術もないが、感染が始まってから数日後に攻撃が行われるような命令が含まれていたとのことだ。今回は、この期間が比較的長かったために、対応のための準備が整い、被害が出なかったようだが、これがもっと短い期間に大規模に感染が広がった上で、攻撃も行われていたら、どんなことが起きていたのか、おそらく思いもよらない影響が出ていたのだと思う。このような攻撃に備えるために、使用者の注意を促すというだけで十分かどうか、誰にも保障はできない。と言うよりも、誰にでも使えるということでこの世界に首を突っ込んできた人たちに、そのような協力を要請することはどこかボタンのかけ違いのようなものがあるような気がする。もし、使用者の責任がとわれるような訴訟が起こされたら、どうなるのだろうか。先ほど原因として紹介するとしたものは、実はこの基本ソフトには外部からの閲覧を可能にする仕掛けが備えられているのではないかということだ。これを使用するすべてのパソコンにあるデータを誰かが秘密裏に覗くことができるとしたら、それは一種の支配と言えそうだ。噂でしかないが、今回の事件もその辺りに対する警告を込めたものという受け取り方もあるのである。
予防接種などで使う注射の針は、昔は何人もの人に使っていたが、最近はそうしないことになっている。理由は、注射針を介したウィルス感染が疑われているためで、医療従事者が患者に使った注射針を過って自分に刺してしまったことによる感染が時々報道されているのを見ても、かなりの高頻度で起きることに思える。
血液を介した感染の疑いのあるものには、ウィルス性肝炎がある。もうずいぶん前のことになるが、A型肝炎、B型肝炎などと分類され、当時はそれ以外のものを非A非Bと呼んでいた。これは、この病気の原因であるウィルスの抗原抗体反応による分類が使われていたためで、ウィルスであることは確かになっていたが、どんな方のウィルスなのかが特定されていないために、こんな呼び名をつけていたわけだ。その後、20年ほど前のことになるだろうか、非A非Bの中に、新たに特定されたものが現れ、それをC型肝炎と呼ぶようになった。それでもすべての非A非BがC型となるわけではなく、他の型があることも明らかとなった。その後特定されたものとしては、Eという型があったように記憶しているが、定かではない。また、他の型が今後も特定されていくことは確実だと思う。とにかく、こういう型の違いは、ウィルスの殻を作っているタンパク質の違いによるもので、当然それらがもっている遺伝子にも違いがある。いずれにしても、それぞれの型で症状は違っていて、さらに同じ型の中でも患者によって短期間で死に至る劇症肝炎を引き起こす場合と、慢性化する場合、さらにはほとんど症状を表さない場合さえも出てくるから、ややこしい。日本人にはB型肝炎の患者が多いとされているが、これは母子感染によるものが多く、まだ免疫系が確立されていない乳児の場合に感染する確率が高いとされている。それに対して同じB型肝炎でも、成人の間での感染は母子感染にくらべればかなり低いとされている。免疫反応によるものなのか、他の理由によるものなのかは知らないが、とにかくそういった傾向があるようだ。最近特に増えているのはC型肝炎の感染者で、40代から50代にかけての年齢層に特に目立つようだ。多くの場合、輸血が原因とされているが、昔はこれらの肝炎ウィルスに汚染された血液の検査体制が整っていなかったことや、肝心のウィルス自体が特定されていなかったために、輸血用血液あるいは血液製剤中のウィルスを見つけだせなかったためであるとされている。ただ、患者の中には輸血の経験がまったくない人もいるようで、その場合には小学校や中学校の頃の予防注射が原因である可能性もある。昔のことを思い出してみると、予防注射で大体二人か三人くらいが同じ注射針を使っていたように思うし、結核に関するツベルクリン検査では五人が同じ針を使っていたように思う。これが多いか少ないか、そんなことを確率で考えても仕方のないところで、もしもこれが原因で感染してしまったとしたら、運が悪かったとしか言い様がない。つい先日も、BCGの注射で間違って同じ針を使用したという事故が報道されていたが、何かを予防するための処置で、別の何かに感染してしまったとしたらかなわない。特に、C型肝炎は肝硬変、肝臓癌に移行する場合が多いと聞くから、こんな間違いは起こさないで欲しいものだ。知らずにやっていたから諦めがつくというわけではないが、これほど危険性が訴えられているにも関わらず、事故が減らないというのはなぜなのだろう。医療従事者にとっても、こういう事故を減らすことは重要であり、そのための対策が求められ続けているのだが。