真夜中に急に体調が悪くなった経験のある人もいるだろう。ひどい場合は救急車のお世話になり、病院へ担ぎこまれるわけだが、そこまでのこともなく、自力で何とかしたいと思った人もいると思う。頭痛なら頭痛薬、発熱なら解熱剤、下痢なら下痢止めといった具合に、症状に対応した薬で痛みや熱を緩和しようとする。それで一晩寝て治ればしめたものだ。
しかし、ここで問題が出てくる。症状に対応するための薬が手元にない時はどうしたらいいのか。何でも便利になった世の中では、夜中にお腹が空いたら、近くのコンビニに走ればいい。場所によっては24時間営業のスーパーがあるところもある。食べ物などの日用品が簡単に手に入るのに、なぜ薬が手に入らないのかと不思議に思った人もいるだろう。薬を売るための資格が必要で、その資格を持った薬剤師がいる場所でしか購入できないからだ。それに対して、栄養ドリンクなどの医薬部外品がコンビニでも販売されるようになったことから、この制限をもっと緩和しようとする動きが出てきた。問題が生じたらどうするのかなどということはこんな運動をする人たちにとっては気がかりにはならないらしい。なにしろ便利であればいいのである。自分が欲しい時に手に入る体制を作ることが最重要課題であり、それによって新たな問題が生じたとしてもその責任を負うつもりはない。というよりも、そんなことで問題が生じるなどという考えがどこにも存在していないと言った方がいいだろう。こんな調子で管轄する厚生労働省にかなり強い圧力がかかり始めた。しかし、現在の担当大臣はなにしろ医者であるから、この辺りの抵抗はかなり強いものとなっている。実際にどんな制度がいいのか、便利であれば、責任は購入者本人が負うのか、はたまた問題が起きてから対応策を考えるのか、はっきりしないまま、現場の方が動きだしてしまったようだ。あるディスカウントストアーが薬剤師を常駐しないまま、薬の販売を開始した。この場合、各店鋪に薬剤師が常駐するかわりに、店鋪からテレビ電話を通じて、遠くにいる薬剤師と購入者が直接顔をあわせるようなシステムを導入したのだ。結局、役所はこのような奇策を認めず、販売を禁止したが、それに対して、では無料で配布すれば問題なしと判断して、なんとも不思議なサービスを開始した。これに対しても当然ながら認められずという判断が下され、現在宙に浮いたような形になっている。雁字搦めの制度の打破するためには、強行手段に訴えるしかないというつもりだったのだろうが、どうも空回りしてしまったようだ。テレビ電話による診断に関しても、病院での手術や診断が通信を介して行われるようになった現状では、十分に可能で認可されると読んだのだろうが、どうもあてが外れたようだ。薬が必要になった時にすぐに手に入るような体制を整えたいといった時に、薬剤師の常駐は不可能と決めつけている理由も理解できないが、一方で利用者の方もずっと昔のことを思い出してみたらどうかと思う。それは富山の薬売りと呼ばれる人びとがいた時代のことだ。今でも家庭常備薬という形で置き薬を届けてくれる制度は細々と生き残っているようだが、昔にくらべればずっと少なくなった。ちょっと田舎にいってもすぐに薬が手に入る環境が整ったからなのだろう。しかし、常備する意味の方を忘れたために、今問題となっていることが起きているのではないだろうか。常備は面倒、必要な時にだけ何とかしてくれ、という欲求が第一とされるからこんな問題を議論しなければならなくなっている。便利という言葉が絶対的な威力をもっている証の一つだろう。もう一つ、この問題で忘れかけていたことを思い出した。近所の薬局のことだ。昔はどの町でも近くに一つや二つは薬局があった。そこへ行って、薬剤師である店主に相談して、薬を買ってくるのが当たり前で、時には夜遅くや朝早くでも無理を言って、薬を売ってもらった経験のある人もいると思う。大きなドラッグストアがそこら中にできて、一見便利になったように見えるけれども、これが結局無理が通らない世界を作り上げてしまったのではないだろうか。近所の薬局は商売が成り立たず、どんどん店を閉めてしまった。便利の一言が生み出すこんな不便のことを問題にしてもいい頃なのかも知れない。
夕方、うちに帰ると、蜘蛛がせっせと巣を張っている。結構大きなものもいるが、ほんの数ミリの大きさのものまで、ちゃんと巣を作っているから驚きだ。いい加減に整理整頓のできない人間から見ると、毎日巣を張り直している几帳面さには頭が下がるが、これも生存のためと考えれば当たり前のことか。ただ待ち伏せているだけの狩猟法だから、肝心の網が傷んでいては何にもならない。
蜘蛛の糸は、絹などと同じタンパク質でできた動物性の繊維である。主成分であるタンパク質は同じ性質をもつことから、絹タンパク質と同じ名前をもっているようだ。蚕の糸の研究は明治時代から国策として行われていたが、最近はその勢いはかなり衰えてしまったらしい。蜘蛛の糸は、というと、こちらは興味をもつ人びとはいたようだが研究対象とする人は少なく、ごく最近やっと糸そのものも研究が行われ始めたばかりらしい。その理由の一つとして、蜘蛛の糸の縦糸と横糸の性質の違いが挙げられる。縦糸は、自分の体を支えるのと同じ性質をもつ糸で、粘り気をもたない。だから、この上を蜘蛛は渡っていくことができる。それに対して、横糸は獲物を捕らえるためのものだから粘着質の液滴をもち、そのために一度絡まったら簡単には逃れられないようになっている。そんな性質をもつ横糸は研究対象としては不向きで、今行われている研究ももっぱら縦糸(牽引糸)に関するものになっているようだ。蜘蛛の糸と言えば、すぐに思い出されるのが芥川龍之介の小説だろう。おぼろげな記憶を辿ると、地獄に落ちた大泥棒がその昔蜘蛛を踏みつぶさなかったことから、その行いを天上の釈迦が認めて、蜘蛛の糸を地獄に垂らし、それを頼りに大泥棒は地獄から極楽へ逃げ延びようとする。しかし、彼のあとを地獄に落ちた他の人びとが追って、糸を昇ってきたために、糸が切れることを恐れた大泥棒は、それらの人びとを追い払おうとし、それが原因か結局糸が切れてしまい、地獄にまっ逆さまという話だったと思う。まあ、何を言わんとしているのか、確か中学の国語の教科書に掲載されていたくらいだから、何かしらの意味を込めたものだったのだろう。読んだ生徒たちが何を思ったのか、今となっては思い出すこともできない。研究者の立場からすると、この場合も糸の長さと糸の強度から、人が何人くらいぶら下がれるものなのかの計算をしたりして、まったく職業病としか言い様のない様子である。小説を書く立場としては、そんな強度などということはどうでもよいことで、人の意識、気持ちをうまく表すものができればいいだけなのだ。この辺りは立場によって大きな隔たりがあると言える。では、読む立場からするとどうなのだろうか。蜘蛛の糸が極楽から地獄まで伸ばされると書いてあれば、それをまず信じて疑わず、話の展開を読み進めることだろう。しかし、一方で蜘蛛の糸に絡んだ人生訓というものをどう解釈するのかも、読み手にとってはどうでもいいことになる場合もある。書いてあることをそのまま受け取り、やはり心の貧しさがいけないことと思う人もいれば、そんなことを口に出そうが出すまいが切れる糸は切れると思う人もいるだろう。まったく、書き手の意図と読み手の受け取り方、うまく合致するのかどうかが、名作に繋がるかどうかの分かれ道なのだろうか。そうなれば、これもまた読み手次第の世界と言えるのだろう。なるべくわかるようにと意図したとしても、その気のない読み手にかかれば微塵もなく壊されてしまう。なんとも難しい世界のようだ。
収集とか、蒐集とか、当てはめられる漢字は色々だが、ものを集めることという意味は変わらない。また、集める対象は人それぞれで、小さい頃に多くの人が辿った切手収集の道や一部の男の子たちが熱を入れた昆虫採集もその一つである。ある目的を持った収集は研究などという大きな題目を掲げているものもあるが、単に集めたい欲求にかられてというものも多い。
こういう行動の大切なところは、誰にも害を及ぼさないことという暗黙の了解があったのだと思うが、どうも最近はそうとは言えないものが増えているようだ。確かに、子供の頃のもの集めは母親が大嫌いな動物や昆虫を対象としたりして、悲鳴を上げられたり、始末をさせられたりしたものだが、こんなのは可愛いものだという気がしてくるほど、最近の収集に関する話題は極端な方向に向っている。一つは何でもかんでも集めてくるという一種の収集癖と呼びたくなるようなもので、その程度がある限度を過ぎるようになってしまうと周辺でゴミ屋敷などと呼ばれるものが出現するようになる。戦後の混乱期を過ごした人たちの中にはものの無いことに対して病的なほどの恐れを抱く人たちがいて、それが原因となって何も捨てられない状態が続くことがある。しかし、捨てないだけなら家の中が一杯になり、庭にまでそれらが溢れるなどといった状態に至ることは少ない。実際にはこれが高じてしまうのか、まったく別の理由から、どこか別のところに捨ててあるものを拾ってくる行為が大きな要因となっている。本人からすれば、勿体無いということなのかも知れないが、実際には膨大な量のものを一ケ所に集めることになるので、早晩溢れかえることになる。中には、他人とのかかわりを持つための手段として再利用をきっかけとしたのに、ある時点でそれが原因でかかわりを持てなくなってしまった人もいるようだ。精神的な不安定が原因となる場合が多いらしく、人間関係の難しさを考えさせられる事象である。一方、危害を及ぼすようなものを集める人たちが最近増えていることには憂慮せざるを得ない。たとえば、危険な野生動物をペットとして飼う人びと、あくまでも趣味の域をでないわけだから、施設の整備が不十分で逃げ出してしまったとか、手に負えなくなって放り出してしまったとか、なんとも無責任な輩が沢山いるようだ。もともと、人が持っていないものを手に入れたいという欲求が強く働いた結果なのだろうが、現実を見つめればそれができることかどうかわかりそうなものだと思ってしまう。これとは別に最近話題になり始めているのが、武器の収集である。国内では武器の所持に関してかなり厳しい法律があるので、収集品としての武器に対しても当然同じ形で取締がなされているはずである。たとえば、刀剣の類いではきちんとした登録が義務付けられているし、猟銃のような武器として使用するものだけでなく、単に飾り物として収集された銃に関しても同じ制限がかかる。にもかかわらず、この頃武器の収集が原因で暴発事故を起こし、本人が死亡してしまった事件など、複数の事件が起きている。この場合、拳銃などといった小さな武器ではなく、戦争で使用される砲弾などが集められているから驚かされる。以前の事件では演習場から不発弾などを集めていたようで、それらの管理を徹底するなどといった対策がとられると報じられていたが、最近の事件では当事者がかなり広範囲に渡る武器を収集していたことでその入手経路など様々な問題が浮かび上がってきている。収集は個人的趣味なだけに、その理由などの理解は不可能だと思うが、危害を及ぼす可能性のあるものまで自由にというわけには行かないだろう。自分が良ければそれで良いといった考えが念頭にあるのかも知れないが、それが生み出す影響のことを考えずに趣味に走るのは、その資格さえも失っていると言えないだろうか。
このところ、ある大都市近郊の工場地帯で事故が相次いでいる。一つは製油所の火災で、タンクの洗浄中に気化した引火性の油に何かの拍子に火がついたもので、何人か死者が出た。つい最近起きた事故は、製鉄所の爆発で今のところ原因等はわかっていないという。いずれにしても、工場というのは一つ間違えると大事故に繋がるところだから、注意して欲しいものである。
日本は工業国と言われていて、電化製品や自動車などの最終製品、完成品を輸出することでよく知られている。確かに、これらの製品の質は高く、新しい技術を取り入れることによって、他の国ではできないものを作っているから、注目されるのは当たり前だが、一方で最終製品に組み込まれる部品やその素材の分野にもかなり秀でたものがあることを忘れがちである。電化製品などはその製品に対する需要が無くなってしまえば、まったくの無駄なものになる。たとえば新製品がぞくぞく開発される携帯電話は、ちょっと古くなってしまうともう見向きもされなくなる。コンピュータもより高い機能をもつ製品が出れば、それで価値が無くなると言われるくらいだ。まあ、とにかく完成品はそれはそれで利潤が高いことなど利点があるが、一方で危うい点も数多くもっている。それに対して、部品は多くの場合ある製品専用のものというよりもある程度の汎用性をもっているから、そういう変化にも強い場合がある。さらに素材となれば、その利用分野は広くなってくる。とにかく、そういった具合に利用される分野や業界に広がりをもっていると、一つの素材の供給がかなり広範囲の分野に影響を及ぼす可能性が出てくる。今回の爆発事故では、ある製鉄所に被害が出て、それによってそこで生産されている鉄製品の供給に注目が集まった。そこでは圧延鋼板が主として生産されていたのだが、これの利用範囲はかなり広い。さらに、最も大きな利用分野が自動車の車体ということで、この供給が滞ってしまうと自動車生産にかなりの影響が出るのではないかと危惧された。こんな心配が出てきた背景には幾つかの要因がある。一つは自動車業界そのものが抱えた問題で、以前国内最大手の自動車メーカーに部品を供給していたある会社が火事でその工場のほとんどが使えない状態になった時に、かなりの打撃を受けたといわれる話である。この時には、部品の供給を維持するために、普段取り引きをしたことのない工場にまで注文を出したという話だ。部品の注文だから当然その仕様を相手に知らさねばならない。相手は、競合するメーカーの下請けもしているところだから、秘密があったとしても守れなくなる。結局のところ、守るべきは生産量ということで、他社にまで注文を出す前代未聞の対応となったのだが、結果としてうまく行ったのだろう。もう一つの要因は、まったく別の分野の話なのだが、中国地方のある工場の火災に端を発したものだ。エポキシ樹脂の生産工場だったと記憶しているが、火災の記事は小さく、全国ニュースでも取り上げられなかった。それに対して、米国の企業から問い合わせが殺到することになり、この事故が非常に深刻なものであることが伝わった。この素材はICなどを覆うためのもので、この工場の生産量が全世界の6割だったかを占めているものだったのである。こうなれば、当然生産が止まった場合に、どこがその分を補うのかといった問題や回復までにどのくらいの期間がかかるのかといった問題が出てくる。それを確かめるための問い合わせがなされるまで、肝心のこの国の人びとはほとんどことの重大さに気がつかなかったということなのだ。素材のことを考える上で、それが利用される分野のことを考えることは重要であるにも関わらず、そういった考え方が身についていなかったわけだ。今回の事故を見る限り、その辺りの配慮もなされたようだから、ある程度学習したということなのだろうか。
夏休みも終わって、学校が始まった。子供達も久しぶりに友達に会えるというので、喜んでいるのだろうか。小さい子供にとっては、幼稚園に通っているか、保育園に通っているかによって、この辺りに大きな違いが生まれているのかも知れない。文部科学省管轄の幼稚園は学校の一つとして扱われ、夏休みのあるところがほとんどのはずだが、厚生労働省管轄の保育園は労働者の子女の為のものだから、そうはいかない。
幼稚園と保育園の違いは学校かどうかの違いだけかと思っていたら、どうもそうでもないらしく、他にも色々と違いがあるようだ。最近そんな話題が出てくるようになった背景には、幼稚園と保育園の区別を無くそうとする動きがあるからで、特に幼稚園でそのまま保育所のような形態をとることができれば、更に長時間の滞在が可能になることが大きな理由なのではないだろうか。40年以上前の頃には、まだ共働きのところも少なく、幼稚園に通っている子供の方がはるかに多かったと記憶しているが、いつの頃からか共働きがごく普通のものとなってきた。そうなると、お昼前には帰宅してしまう幼稚園は、様々な背景から都合の悪いものになり、保育所あるいは保育園と呼ばれる施設の方へ移行することとなった。この場合、場所にもよるがかなり長時間の保育を依頼することが可能で、夫婦の両方が働きたい場合にも十分に対応できる。それでも施設の絶対数が不足していたから、あずけることのできる条件が厳しく設定されていたり、未承認の施設が作られていたりした。幼稚園児の年齢層だけでなく、小学生の年齢層に対しても、学校が終わったあとに滞在することのできる施設が作られるようになったが、これもどちらかといえば行政主導ではなく、実際に必要に迫られた親の集まりによって設置されたものが多いそうだ。学童保育という制度ができたのもその時代からである。しかし、これらは承認を受けていては現実にある必要性に応えることができないというわけで、見切り発車だったところが多く、事故が起きれば大変なことになるような状態だったようだ。とにかく、幼稚園が午前中だけのものに対して、保育園はその目的から全日を前提としたものになる。となれば、当然昼食の扱いが問題となるから、そこに大きな違いがうまれる可能性がある。実際に、今回の統合を目指した動きにおいて、大きな問題となったのはその点で、給食施設に関する基準の違いが取り上げられていた。昼食を出すからといって、それが即座に給食施設を整備することに繋がるわけではないと思うのだが、厚生労働省の規定では保育園に関してはその設置を義務付けている。それに対して文部科学省が定める幼稚園に関する規定では、その必要性が認められないこともあって、そんな義務はどこにも見当たらない。ということは、当然ながら既設の幼稚園には給食施設がなく、もしこれを保育園と同じ扱いにしようとすれば、新たにそれを建設する必要性が出てきてしまう。これが大きな障害となるということで話題になっていたのだが、実際にどんな解決が図られるのか定かではない。なにしろ利用者の必要性から出てきた統合の計画案だから、できるだけ単純な手続きで実現させたいという気持ちがある。それに対してお役所仕事的には、規定に反することを認めるわけにはいかないという当然とも言える反論が出てくる。合理的な考えからすれば、給食の必要はあってもそのための施設を併設する必要はないとなるし、現実に小学校や中学校で給食を行っているところも、以前とは違って給食センターのような施設を利用するようになっている。だから、外部にそういう施設を設け、それを複数の園で利用するようにすればよいという考えが出てくるのも当然のことだろうと思う。どんな決着を見るのかわからないけれども、それにしてもこういう縦割り行政の弊害にはいつも考えさせられる。同じ子供達を対象にしながら、まったく違う規則が当てはめられる。簡単に解決する問題ではないのだろうが。
少年野球と言うと軟式ボールを使ってとなるが、リトルリーグでは硬式ボールである。興味のない者にとってはどうでもいいことだが、まったく違うものだそうだ。軟式ボールは日本の発明で本場にはなく、テニス同様日本発祥のスポーツということになる。リトルリーグの日本代表チームが世界大会で優勝したとのニュースが入っていたが、先日このチームのことが紹介されていた。
この大会はいかにも本場米国の気持ちが現れていて面白い形式をとっている。まず、参加チームは二つのグループに分けられ、それぞれで勝ち抜き戦を行う。分け方は、本場かそうでないか。つまり米国の地方代表チームと各国の代表チームが別々のリーグでそれぞれの代表を決めるわけだ。そして最後に勝ち残ったチーム同士で優勝を争うというものである。いかにも本場が一番と言いたげな感じがしないだろうか。まあいずれにしても、そんな大会で優勝したチームは数年前までさほど強くなかったとのことで、新しいコーチが来てからどんどん強くなっていったのだそうだ。その指導方針は自主性に任せるが基本で、試合中も投球の球種は投手と捕手の間で決めさせ、ベンチからはサインを送らない。これは当たり前のように思えるが、高校野球でも監督がすべての投球を指示しているところもあることからして、中学生、小学生にはかなりの負担に思えてくる。その他のプレーも、戦術的なものを除けば選手個人の判断に任されている。理由は簡単で、自分で考えて判断できる能力を養おうとするものだそうだ。一方個別の指導においても、叱るより褒めることが主体で、子供達がのびのびと練習し、試合で結果を出すことができるのだそうだ。この辺りは微妙なバランスだと思うが、根性主体の指導法が当たり前と思われていたところに効果を上げることができたのだから、やはり意味があるといわざるを得ない。とにかく、そんな指導法が浸透して、選手はのびのびとプレーし、日本国内で優勝できるほどになった。それが今度は世界一となったわけだが、その試合たるや豪快そのもので、リトルリーグだから外野フェンスはかなり手前にあるのに、スタンドまで運ぶ本塁打をかっ飛ばす子がいたり、封殺プレーを基本通りに行う子がいたり、さすがと思わされる。自分で考え、自分で工夫することで、より大きな楽しみを手に入れることができるということなのだろうが、それにしてもたったそれだけなのかと思えてしまう。ただ一方で、このことが一般社会にもよく当てはまることだと思うことがあった。何でも指示待ちの人びとが世に溢れているからである。自分で考えればいいのにと思うことでも、指示が出るのを待ち続ける。場合によっては、上司に指示を促すこともあるそうだ。自ら判断すれば、全責任を負わねばならず、そんな気持ちはないから指示を待つ、ということなのだそうだが、困ったものだ。これが自分の命がかかる場面でも最優先される考えになるから、さらに驚きである。地震のあとに襲ってくる津波の恐ろしさは経験者にしかわからないというが、避難の際の最重要点はまず逃げることである。揺れがおさまるかおさまらないかの時に、すぐに避難を開始しないと、直後に襲ってくる津波の場合には間に合わないのだそうだ。にもかかわらず、最近の調査ではまずテレビ、ラジオの津波警報の有無の確認をしてから避難という人が非常に多くて、それじゃあ間に合わないということになる。集中豪雨の時も避難勧告、避難命令などが出されるまでじっと待つという人が多く、自分の判断で避難する人が非常に少ない。勧告にしても、お勧めするだけだから嫌なら動かなくてもよい。まあ、これはこれで自己判断だから、いいのかも知れないが、逆に大丈夫と言われたからというのでは自分の身を自分で守ることを放棄したようなものである。情報の溢れる世界に生活していると、自分の判断よりも他人の判断を優先するようになり、特に公的な判断を最優先するようになる。誰が自分の命を守るのか、ちょっと考えてみた方が良さそうだ。
これを読んでいる人のほとんどは経験のない話だろうが、今現在これほど豊かになったとは言え、この国でも一時期食うに困ったことがあった。最も近い時でも既に60年近く経過しているから、さすがにここの読者にはそれほど長く生きている人はいないと思う。食べるのに困らなくなると、次に来るのは健全な生活だろうか。健康志向の上昇が顕著になって、最近は行き過ぎとも思えるほどである。
今でも、毎日の食事に困っている人はいると思う。しかしそういうほんの一握りの例外を除けば、大部分の人は単に食事をするだけであれば何の問題も持っていない。そうなってくると、何を食べるのかが問題になる。人によっては、毎日好きなものを食べる。ラーメンはその典型らしく、このところすごい勢いで店の数も増えているせいもあって、情報誌なども沢山出ている。その担当者の中には毎日毎日ラーメンを食べている人がいるというのでびっくりする。一部の例をひくのでは不十分かも知れないが、大体予想されるように体脂肪率が高そうである。おそらく塩分摂取量も半端ではあるまい。しかし、彼らはその生活を楽しんでいる様子で、体調が悪いという話は聞こえてこない。好きなものが毎日食べられて、それを仕事にできるなんて、何と幸せなことか。と、まあ、こう言ってしまえばそれまでだが、本当に健康に良いのかどうかはよくわからない。そこまで行かなくても、毎日昼食はざる蕎麦という人もいるだろうし、なんと言っても牛丼が一番などという意見も聞こえてきそうだ。こういう例のほとんどは、好きなものを何回でも、という心理から出てきているのだろうと思う。それに対して、健康志向はこれらとはまったく違った観点から出てくるものである。何が自分の健康にとって良いのかという場合、そこには自己管理があるのではなく、どこか色んなところに情報源を持ち、健康に良さそうなものを次から次へと取り入れる人たちが多い。これは食品に限ったことではなく、サプリメントと呼ばれる医薬品とは違う薬品や、運動や音楽などの癒しのためのものなども含まれる。とにかく、健康に繋がるものであれば何でもよく、その目標に向って邁進している人もいるようだ。それにしても、これほど健康、健康と連呼されるのだから、世の中の人びとはそれほど不健康かといえば、さすがにそんなことはないだろう。確かに、成人病疾患と呼ばれるものによる死亡率は依然として高いし、常に体調がすぐれていると思っている人は少ないだろう。でも、この国の場合、平均寿命があれほど高いのである。もっと、もっとという気持ち以外に、この健康志向を説明できるものはないのではなかろうか。そんな中で食品に対する興味はかなり高いものらしく、ブロッコリーの芽が癌の発生を抑えると聞けば、早速毎日山のように食べたり、胡麻が健康に良いと聞けば、また山のように食べるわけだ。ここで一つ面白いのは、たとえばポリフェノールの例に見られるように、どの食品に沢山含まれているのかが話題になるとそればかりに集中する。たとえ、他の食品にもちょっと少ないけれど含まれていると言われていてもだ。この辺りの心理はとても不思議なものだが、この傾向を狙うのが業界の鉄則のようだ。サプリメントも同様の傾向にあり、なんであんなに躍起にならなければいけないのかと思えてしまう。もともと、食品を多種類摂取することが、体にとってよいのであって、いくら効果的な成分を含んでいるとしても、それだけしか摂取しなければ、他の作用が期待できない。思いつく限りの効果をサプリメントで補うことによって得たとしても、思いつかなかったものには何もないのである。だからと言って、一日30食品を目標に定め、無理矢理食べまくるというのもまたへんてこな話。もっと気楽に構えて、好きなもので多種類になるようにと考えれば、それで平均すれば十分な種類のものを取り入れることができる。何ごとにも、やり過ぎのないように、楽な気持ちで取り組みたいものだ。