パンチの独り言

(2003年9月8日〜9月14日)
(単純、警戒、使い様、基底、補完、煽動、通り道)



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9月14日(日)−通り道

 いやはや、それにしても暑い。冷夏、冷夏と言っているうちに、いつの間にか夏が戻ってきて、真夏の天候が続いている。東北から北ではそんなことはないみたいだが、関東は9月に入ってから、西日本は盆の頃から本格的な夏の訪れとなったようだ。まあ、はっきり言えば、ひと月遅れで夏がやって来たという感じなのだろうが。
 それにしても、暦というか季節の移り変わりの方は、ひと月遅れることはない。真夏のような気温と湿度が続くと言っても、虫の声は秋を表している。セミも、既にツクツクホウシだけが鳴くようになり、アブラゼミもクマゼミもミンミンゼミもどこかへ行ってしまった。夜になると、秋の虫の声が響き渡り、コオロギ、スズムシ、マツムシなどが鳴いている。最近のマツムシは外来種の方が大勢を占めていると言われているが、どんな名前がついていたのか今は思い出せない。飛んでいる虫の方はと言えば、トンボが目立つようになったが、ヤンマの姿は少なくなり、赤とんぼが増えているように感じる。赤とんぼは、ナツアカネとアキアカネがいるから、季節をそのまま表すわけにも行かないのだろうが、全体の数として増えてくるとやはり秋を感じるようになる。蝶の方はそのまま季節を表すことは難しいように思える。今は大型の蝶が目立つようになり、アゲハチョウがたくさん飛んでいる。アオスジアゲハは西の方では当たり前の蝶で、不思議にも思わなかったが、東の方は少ないのだということをこの間何かで読んだ。楠との関係からだそうで、昔は自生の楠が少なく、最近街路樹などで増えたために、蝶の方も目立つようになってきたのだそうだ。生態というのは、いろんな要素が絡むもので、以前書いた温暖化の影響かも知れないクマゼミの話とは少し違う事情によるものらしい。他に目立つ蝶としてはクロアゲハがたくさん飛んでいるのを見かける。これも何種類もあって、白い斑点をもつもの、すじの感じが違うもの、とても覚えられるものではない。ただ、飛んでいるのを見ると、毎日同じようなところで見かけることとか、日の当たるところを飛んでいるように見える。こんな疑問から、蝶には通り道があるのではないかと考えたのが、先日話題に出した動物行動学者で、研究を重ねて、それぞれ蝶の種類によって、通り道が決まっているという結論を導いたのだそうだ。こういう話を聞いて、すごいと思う人もいれば、そんなの偶然じゃないかと思う人もいるだろう。しかし、少し見方を変えると、これがちゃんと理由のあることだと言えるから、不思議なものだ。生き物には、そのままで子孫を作るものと、雄と雌があって交配によって子孫を作るものがある。細菌などは前者に含まれ、どんどん増えていく。しかし、後者の生物は交配をしなければならないから、色々と面倒な手続きを踏むことになる。面倒という観点からすると、何故雄と雌が必要なのかと思えてくるが、遺伝とか進化とかそんな見方からは、これが有利になるのだそうだ。そんなことから地球上の生物のかなりの種類に雄雌の区別がある。雌雄の区別は交配のためだけだから、生き物によっては普段は自分たちだけで増えていて、いざというときだけ掛け合わせをするものもいる。中々複雑な生き方だが、いろんな利点を使うために選ばれてきたのかもしれない。話を蝶に戻せば、交配するためには雌の蝶と雄の蝶が出合う必要がある。せっかく卵から幼虫、蛹と育ち、羽化しても、子孫が残せなかったのでは、絶滅してしまうからだ。そこで、どこかに出合いの場所を設ける必要があるが、メモが残されているわけではないから、通り道や卵を産み付ける植物などを特定する必要がある。そんなところから、それぞれの蝶に特有の通り道があると考えると、何となく納得できるのではないだろうか。まあ、こんな理由などというものは、人間が勝手に考えることだから、蝶にとったら全然別の理由があるのかも知れないが、それはそれとしてこういうものを考えることが楽しいという人たちがいる。

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9月13日(土)−煽動

 このところ、経済指標の上方修正が続いているように感じる。経済が上向きになってきている証拠だと思えるが、まだまだ警戒を解いていない向きも多い。では、実際の生活はどうなのか、新聞やテレビなどのマスコミからの情報を無視して、考えてみたらどうなのだろうか。この場合、人それぞれの結論が出ることは確かだと思う。
 経済などと言ってもいろんな面があって、人それぞれに見方が違う。毎日の生活のことを中心に考える人、家のローンなどの借金の返済を中心に考える人、リストラなど職のことを中心に考える人、一見同じものを観ているようだが、実際にはまったく違うものを観ていることになる場合だってある。デフレが叫ばれ続けているが、こういう状況下では毎日の生活に関して不自由を感じることはほとんど無い。だからこそ、警戒せよとマスコミや有識者は叫び続けているのだが、買い物をする限り、安けりゃ安いほうが良いに決まっている。それが周り回って、自分たちの給料に響いてくることになると言われても、現実のものになるまでは、さほど気にすることもない。また、給料が下がったとしても、物価の下落がそれ以上であれば、表向きには不満が残るが困るところまではいかないだろう。一方で、物価の下落を適正な価格への修正と見る向きもある。適正なところへ落ち着こうとする動きを、物価の下落という面からだけ捉えてデフレと称するのはどうなのか、こんな話を出してくる人がいないのは有識者の有識者たるゆえんだろうか。全体の議論の流れに乗るかどうかが、有識者と認定されるかどうかの指標だから仕方のないところかもしれない。いずれにしても、インフレ、デフレとは、何かに対する相対的なものだから、こうなることは当たり前のことで、その当たり前を盾にしてどんどん論が進められることにこそ警戒すべきなのかもしれない。次の借金の話はよくわかる。給料が減らされれば、上がることを前提に設定されていた返済が滞るのは当たり前のことである。当然苦しくなってきて、いろんな方策に走ることになる。その点、借金の仕方を色々と変更することができるから、ある程度の調整ができるようで、それによって急場をしのいでいる人も多いのだろう。しかし、そういうことが上手くできない人は、別の借金に走って、首を絞めることに繋がる場合もある。こうなってしまうと悲劇だが、始めのところにある前提に関して、何か議論すべきと思うのはおかしなことだろうか。家のローンの場合、持ち家を欲しいというところから始まっているが、それを当たり前とすべきではないと思う。そのために生じた借金で苦しめられているのであれば、その原因そのものに関して、もっと考えてみる必要があるのではないだろうか。自分の土地、自分の家を持つことが、当たり前というのであれば、そのために借金で苦しめられるというのは話が違ってくる。当たり前じゃないから、苦しいという考え方をすれば、買うこと自体に疑問を持つべきだろう。まあ、今苦しんでいる人たちからすれば、あの頃そんな話は無かったとなるだろう。無かったのではなく、思いもしなかったのであり、皆がするからという考えが中心だったのではないだろうか。そこのところは今後のこともあるから、注意しなければならない。最後に、リストラの話である。これも当事者は悲劇であると報じられることが多いが、実際には早期退職制度などで、かなりきちんとした手当てをしてもらっている場合も多い。だから、良いのだというつもりはないが、人生設計として、そういう形も考えられるようになったということだろう。その後どうするのかは、人それぞれ、きちんとできたかどうかはわからない。一方、その対象とならなかった人たちにとっては、どうも仕事がやたらに増えたらしい。その辺は一概に論じることはできないが、不当な扱いと見ることもできるだろうし、それこそが適正な業務であると見ることもできる。結局、何が真実なのかなどというものが無いから、何とも言えないわけだ。まあ、いずれにしても、こんな調子で、色々とあったのだが、結果として指標は上向き、さて、こうなると不況の主張はどうなるのだろうか。旗を振って、大声をあげていた人々は、今守りの姿勢に入っているようだが、数年我慢すれば大丈夫、皆忘れているだろうから。

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9月12日(金)−補完

 春先の今夏の猛暑予報が見事に外れてしまったことに関するお役所の反省と総括が新聞に掲載されていた。まあ、原因は既に結果を見たあとだから、簡単に見つけることができる。ただ、こういう極端な場合に関してこの経験が今後活かされるかどうか、簡単には言えないだろう。冷夏を予想した人についても、極端な例を当てた功績はあるだろうが、的中率が高いかと言えばそうでもないことが多い。
 これは経済に関しても言えることで、極端なことを言う人は常にその線に沿って持論を進めていくから、極端なことが起きた時に注目されるが、何も特別なことが起きない時にはただ極論を述べる論客と見なされる。予想とか予報を比較的的確に言い当てる人は、通常の変化には対応できるが、極端な場合には大外れする。しかし、まあ、どちらを参考にすべきかは、経済に関わる人たちの趣味の問題に過ぎない。一発屋は常に投機をし、堅実派は常に投資をするわけなのだから。さて、気象の話に戻ろう。久しぶりの冷夏で農作物は大打撃を被ったということだ。特に夏場の気温と日照にその収量が左右される稲作では、関東から北の地方では被害が大きく、西日本でも例年以下というところが多い。このところの猛烈な残暑で何か変化が出てくるのかどうか、実際には受粉ができたかどうかの問題だから、手遅れという場合が多いようだが。それでも10年ほど前の大凶作に比べると被害が少ないと言われている。その理由は、前回の大凶作の際にとった対応によって作柄が左右されたという経験から、今回は多くの農家がきちんと対応したということと、冷害に強い品種に変えたということがあるそうだ。稲にも、冷害に強い品種とそうでないものがある。南北に長い日本列島の各地で稲作が行われていることを考えれば、気温の高低に応じて異なる品種が栽培されていることは容易に想像できるが、たとえば同じ東北地方で栽培されている主要品種でも、ささにしきとひとめぼれがあり、ひとめぼれの方が冷害に強いのだそうだ。そういう対策もとられていたせいか、大凶作とはいかないまでも作柄はかなり悪くなってしまった。そんなところへ冷夏と長雨の影響で豊作になっているものがあるというニュースが飛び込んできた。たいていの農作物は想定された日照と気温が達成されないと予定した収穫は望めない。その中でこれほど予想外の天候が続いたにもかかわらず豊作になるのは何だろうかと思ったら、それは秋の味覚の代表格の一つである松茸であった。キノコにとって乾燥と高温は禁物で、今年の特に東北地方の気候は長雨が続き、気温が低いままに抑えられたから、豊作は当たり前の結果なのかも知れない。それでも、この時期に出回る東北産の松茸に限った話のようで、西日本は夏の後半から高温と乾燥が続いてしまったからそれほど期待できないとのことである。人工的に栽培される農作物の場合は想定したものとの違いによって収量が左右されるのだが、野山で実る木の実やキノコといった類いは天候に応じてあるものが沢山採れる年もあれば、別のものが採れる年もある。村の古老に言わせれば、田畑の収穫が少なかった年は、野山の収穫が多いとのことで、全体として見れば何とかバランスがとれるのだそうだ。穀物とキノコを並べて考えるのはかなり無茶な話には違いないが、他のものに関してもある程度当てはまる話なのだろう。経験から伝わってきた話だから、よほど極端な時を除けば、この法則に従うと言っても良いのだろう。ただ、食べる側から見て、この季節にはこれがないと駄目だ、などといった考えを押し付けようとすれば、こんな話も聞こえないし、目の前にあったとしても見ることができない。何でも手に入るという豊かさは、心のゆとりとか柔軟性を無くさせているのかも知れない。

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9月11日(木)−基底

 遺伝と言われたら、どんなイメージを抱くだろうか。身近なところを思い浮かべる人は、親子の関係を考えるのではないだろうか。一方、ある意味真面目な人の中には、学校で習ったメンデルのエンドウ豆を思い出す人も入るだろう。いずれにしても、世代を越えて伝わることを遺伝と思う人が多いはずだ。伝わるものには良いものもあり、悪いものもあり、受け取る立場から選べないところがつらいと思う人もいるだろう。
 それにしても、遺伝の一言で片付けられると様々なことが逃れ難いものになってしまう。親子の見た目が似ている程度の話ならまだしも、性格が似ている、行動が似ている、などと矢継ぎ早に言われてしまうと、何とか抵抗を試みたくなるものだ。実際には、似たところを見つけだして指摘しているのだから、別段抵抗などせずにそういう風に見えるものかと軽く受け取っておけばいいのだけれども。一方で、遺伝の呪縛から解き放たれたいと思う人はかなり沢山いるようで、様々なことが遺伝と関わりないことを強調する。面白いと思ったのは、学校での勉強に関するもので、得意科目には遺伝しないものがあるという調査結果が流布されている。調査の手法など何もわからないで論ずるのも変な気がするが、これを楯に自分の出来の悪さを主張する人たちが出てくるとなんともおかしな気持ちになる。こんな時必ず話題になる科目は数学で、学生時代にいかに苦しめられたか、後々まで残っていることがよくわかる。その調査によれば、数学はその能力が最も遺伝しにくいものの一つだそうで、著名な数学者は突然変異のごとく出現するのだそうだ。この話の面白いところは、前半部分は一般的な人たちの調査によるものなのに、後半部分は特殊な人の話であるところで、前半部分の話を強化するために引き合いに出したのだろうが、あまりにもかけ離れた話でかえって逆効果なのではないかと思えてしまう。実際には、数学の能力も親子や兄弟で似ている部分があるはずだが、それを端から否定したいという気持ちがどこかにあるのではないかと想像してしまう。確かに受け取る側にしてみれば、この一言で安心できる場合が多いからだ。まあ、そんなことはさておき、遺伝に対する反感が色んなところで出ていることを実感するのは、科学者の書いた本を読んだ時だ。たとえば、能に造詣が深い免疫学者のT氏や翻訳本で有名な動物行動学者のH氏によれば、遺伝で決まらないことが沢山あるのだそうだ。免疫では、抗原抗体反応というのが重要な役割を果たしていて、外からやってきた異物に対して抗体を作ることで、細菌やウィルスなどの病原体に対する抵抗力を獲得する。この場合、抗体は生まれつき持っているものではなく、生まれたあとで経験したものに対して作られるから、遺伝は関係ないという主張が出てくる。確かに、遺伝因子がすべてを決めているわけではないが、遺伝因子の再編成というある組み合わせで抗体が作られることを考えれば、遺伝は関係ないなどとはとても言えないものである。しかし、遺伝という呪縛から解き放たれたいと思う人にとっては、この主張が非常に重要なものとなる。行動に関しても同じようなことが言える。確かに生得的なものよりも、環境からの影響を受ける後天的なものの方がその人の行動を決める要素として重要となる。だから遺伝は関係ないとしたくなるのも当然のことかも知れない。しかし、そうやって身につける行動に関して何も制限がないかと言うとそうでもないのである。ある範囲内のどれを選ぶかといったところに、経験的なものが強く影響してくる。範囲を決めているのは、やはり遺伝という縛りと言わざるを得ない。これも、よく言われることだが、狼に育てられた人間の子供は人間本来の行動とはかけ離れたものを示した。だから、遺伝による縛りは大した役割を持っていないという主張がここから出てくる。解釈の問題と言えばそれまでだが、これとても何とでも言えるのである。結局、そんなに肩に力を入れずとも、まあそんなものだなという程度にしておけば、もっと気楽に構えられるのではないだろうか。

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9月10日(水)−使い様

 車を運転する機会が多いので、道路の整備について強い関心がある。特に、長距離運転の場合は高速道路を利用するわけだから、道路公団の絡んだ事業に関しても気になるところが多い。最近は総裁の馬鹿げた発言が連続していて呆れ返るばかりだったが、それも一段落したようで静かになった。組織を堅持することだけを目的にした行動は常軌を逸したものに映り、自らをさらなる窮地に追い込むことに気がつかないらしい。
 高速道路の問題を論じる会議に、車を運転することができない委員が出席して、無用論を声高に論じているのは、なんとも不思議な光景に映るが、これもいかにもこの国らしい感じのする出来事である。何も変わらないという前提をおいて、すべてのことが始まるから、議論のための議論を展開することによって、会議の意義が出てくると信じている。もしもその展開によって、仕事の方向が左右される立場にある人物がいたなら、迷惑千万と文句の一つも出てくるのだろうが、現実はどんなものなのだろう。高速道路の整備は十分過ぎるという意見と不十分という意見が真っ向から衝突しているようで、立場の違いによってこれほどまで極端な発想ができるのかと感心するのみである。ただ、実際に走っている者から見ると、その料金の高さには閉口するが、実際に整備が進むにつれて便利になっていることが実感できるし、道路の状況も悪くはない。たとえば、開通当時は世界最長のトンネルとして紹介されたあるトンネルは、通行車が整然と走っており、とても走り易い構造となっている。ただ一つの欠点を除けばなのだが、それは換気の悪さなのか夏場にはトンネル内の気温が異常に高くなることにある。これに気がつくと、この中で足留めを食わされると大変なことになるのではないか、と想像してしまい、ついつい早く抜け出したい気持ちになる。他にも色んな特徴をもった道路が整備されていて、それぞれしっかりとした設計がなされているから、走り難いという印象を持ったことはほとんどない。唯一の例外は首都高速道路だろう。無理矢理作ったことがはっきりとわかる構造になっていて、制限速度で走っていても恐怖を感じることさえある。一つには道路のカーブの曲率の問題があり、もう一つには出口の構造の問題がある。どちらも付け焼き刃的な設計によるものだろうと想像するが、本当の理由は定かではない。道路は必要だから建設するというのが当たり前の考え方なのだろうが、どうも最近の議論を聞いているとそうでもない気がしてくる。例え話として有名になってしまったが、一日の通行量がヒグマ一頭などという道路があるという話もあるくらいだ。この議論を始めた担当大臣に言わせれば、こういう道路は無駄なものということになるのだが、道路だけが視野にあるだけでその周辺の状況が切り捨てられていることが気になる。つまり、道路はそこを通行する車のためにあるわけで、それらの車はその道を使ってどこかへいくことが目的である。逆に言えば、その道路を建設した理由はどこかへ人びとを移動させるためであり、そのどこかはどこなのかという議論を今一度するべきなのではないかと思う。確かに、現状を見る限り、他の道路で十分なのか、あるいは目的地の目的地たる価値が予想を下回っているのか、そんなところなのだろうが、もし後者ならば価値を予想通りかそれ以上にする方策をも検討すべきだろうと思う。ただ、道路だけを見て、それだけで議論するのであれば、建築の意図を無視するものとなると思う。昔、新幹線の駅を無理矢理田舎の田圃のど真ん中に設置した代議士がいたが、その駅の周辺も今では様々な整備が進んで、乗降客もかなりの数になってきた。そこまで来るには、会社の誘致、周辺交通の整備など、様々な要素が必要となったのだろうが、それらの整備を誘うことが目的だったはずなのだ。道路に関しても、何でもかんでも無駄という先入観しか持てない論者だけでなく、経済状況が悪い時に思いきって投資できるような環境を考え出す知恵者を飛び込ませるくらいの配慮があってもいいのではないだろうか。

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9月9日(火)−警戒

 いつものように車を走らせていて、前を走る車をみたら、後ろのガラスに青いステッカーが貼ってあるのに気がついた。車椅子の形をロゴ化したそのステッカーは、車を運転する人が身体障害者であるか、あるいは身体障害者を乗せるための車であることを示しているのだと思う。それによって、たとえば公共施設の特別な場所に駐車したり、道路の通行に便宜をはかってもらえているのだと思う。
 車に貼ってあるステッカーとして、最も有名なのは初心者マークだろうか。免許を取得して一年以内の運転者に対して提示を義務付けているものだが、たぶん30年ほど前に導入されたのだと思う。車の運転に慣れていないので、突発的な行動に出るかも知れないということを周囲の人びとに知らせるのが目的なのだと思うが、知らされてもどうにも避けられないこともあるから、効果のほどは怪しいものなのかも知れない。それでも運転している初心者にしてみれば、これによって相手がこちらのことを理解してくれるという安心が生まれるのだろうから、そちらの方に効果が上がっているというべきか。まあ、初心者だから何をやっても許されるなどと思われたのではかなわないが、それも含めて安全運転に励んでくれれば良いのである。なにしろ、ちゃんと運転ができることが認められたからこそ、免許が渡されたわけで、そうでなければ何のために試験が行われているのかさっぱりわからなくなる。先日も、こちらが右折しようとするところにそちらの道からズルズルと出てくる車があって、こちらが待つとの思い込みからだったのだろうが、面倒なことがあった。確かに、色んな思い込みをもって運転する人はいるもので、それが互いに折り合いをつけた形になれば良いのだろうが、逆になれば事故に繋がる。初心者だからといって、やってもいいというわけでもないし、誰しもそれなりの注意を払わねばならないところだ。確かに、免許を取得してからの一年間の事故率は高いようだから、こういうステッカーの意味はあるのだろうが、絶対的なものではないことも確かである。最近、ここ10年くらいだろうか、あまり見たことのないステッカーを貼っている車を見かけていたが、意味がわからず考え込んでしまった。その後、運転者を観察することでたぶんこれかと思っていたのだが、ある時それが高齢者の運転者を示すものだということがわかった。そちらの方は義務付けられているのかどうか、外見からではわからない部分もあるから、なんとも言えないが、高齢者社会と言われるだけあって、最近どんどんその数を増しているように見える。こちらも、高齢者だから運転の仕方が違うので注意してくれと言っているのだと思うが、何を注意するのか今一つ理解できない部分がある。確かに、通常よりもゆっくりと運転している人もいるし、突然方向指示器も出さずに右折や左折をする人もいる。だけど、これは高齢者に限ったことでもなく、性的差別と言われることを覚悟して言えば、女性の運転者に多い癖のように思える。まさか、突然目眩がしたり、動悸がしたりして、運転ができなくなるということを想定しているわけでもないだろうから、このマークの意味するところを理解するのは難しいように思える。本当にそんなに危ないものなら、運転することを止めるべきだろうし、そういう勧告があってもいいのではないかと思う。ただ、交通事情などから自家用車を運転するしか移動の手段がなく、その日から困ってしまうという人たちに、何の整備もせずにそのような勧告をするわけにもいかないだろうから、こんな措置に踏み切ったのだろうか。なんとも理解に苦しむものの一つだ。それにしても、これらのマークは自分のためではなく、他の運転者や歩行者などを対象としたものなのだろうが、それによって何を喚起しようとするのだろうか。何かが起きる可能性があるからさける準備をせよというのだろうか。何となくわかったような気になって受け入れてきた制度だが、その辺りの目的を考えるとわからなくなってしまう。
 こんなことを書こうと思って来たのだが、朝一番のメールで知り合いの訃報を聞いた。突然の死を知らされて驚くと同時にその存在の大きさから今後の影響のことを考えてしまった。確かにそういう年代になりつつある人びとがいるから当然のことなのだが、改めて実感させられてしまう事件だ。

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9月8日(月)−単純

 レゴという玩具を知らない人はまずいないだろう。北欧生まれの組み立てブロック、正式にはLEGOと呼ばれるプラスティック製の玩具だ。主に直方体のブロックからなり、それらをつなぎ合わせて、立体的な形を自由に創りだせるもので、子供の想像力、あるいは創造力を伸ばすのに良いものとされている。構造を見るとよく考えられているのがわかる、組み立てた時に簡単に外れないようになっているのだ。
 この玩具は、たぶん50年近く前に作られたのだと思う。もっと昔かも知れないが、初めて見たのは40年以上前だから、そのくらいかなと思っただけだ。これに似たものでもう少し単純な形のプラスティック製のブロックを父親が欧州からお土産で買ってきたのが、その頃である。円筒形の入れ物に一杯のブロックが入っており、それを組み合わせるのだが、レゴが円形の突起をもっているのに対して、そのブロックは正方形の突起だったから、組み合わせの種類が少なく、始めの頃は面白かったがすぐに飽きてしまったような気がする。その後、別の機会にレゴを買ってきてくれて、そちらで遊んだことを覚えている。それでも当時に比べると、現在売られているものはブロックの種類も増え、様々な小さな部品も増えて、ドアや窓など家を作る際に必要なものも揃ってきた。さらに、動力装置まで導入され、それこそプラモデルに近い雰囲気さえしてくるほどだ。創造力を豊かにするためには、こういう工夫も必要なのかと思えてくるが、逆にいうと使用目的の限られた部品が増えてきているから、独自性は発揮しにくくなっていると言うべきか。これ以外にも欧州で流行していた玩具を幾つかお土産で買ってきたようで、小さい頃にそういうもので遊んだ。当時は、木製の積み木は少々敬遠されていた時代で、新しいタイプの玩具が次から次へと導入されていたようだ。今は木製の積み木の面白さが再認識されて、ドイツ製や北欧製のものが輸入されているようだが、当時は古臭いものとして敬遠されていたらしい。その中で、よく遊んだものに、鉄製の沢山の穴のあいた板をボルトナットで止めて、形を作り出すものがあった。長方形の板や棒状の板があり、またL字型に曲ったものなどもあって、それらを組み合わせることで、たとえば風車小屋のようなものまで組み立てることができるようになっていた。これも様々な部品があり、うまく組み立ててれば自由に形を作り出すことができるものだった。当時はそういったタイプの玩具の隆盛期で、形のでき上がったものやプラモデルのように決まった形を作り出すものよりも、自分で考えて自由に組み合わせ、まったく新しいものを作り出すことを目的としたものが急速に増えていったように思う。その原形とも言えるものが積み木だったのだが、それだけでは面白くないということで、レゴのようなブロックが考えだされていったのだろう。発売された当時、これほど長く売れ続けるものと思っていたかどうかわからないが、色んな工夫がなされていたとはいえ、基本的には単純な形の組み合わせというところが、自由な変化を生み出す原動力となり、長く愛されるものとなったのだろう。親の遊んだブロックで子供が遊び、そろそろ孫の時代に移ろうとしている。もう一つの驚きは、意外なほど長もちすることである。プラスティックの問題は廃棄する時にあると言われるが、その逆で何十年も同じままで残っていることはある意味驚きだ。いずれにしても、その後様々な玩具が登場しているが、ほとんどのものは歴史的に見れば瞬間的に流行しただけで、すぐに忘れ去られてきた。単純な遊びはすぐに飽きると言われたりするが、それはそこからの発展がない場合なのだろう。単純でも工夫一つで新たな展開があったからこそ、これほど長続きしてきたのかも知れない。

(since 2002/4/3)