パンチの独り言

(2003年9月22日〜9月28日)
(鍵、仕切、帽子、地方、仕立て、指標、岡目)



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9月28日(日)−岡目

 自分のやっていることは中々わからないのに、他人のやっていることはすぐに理解できる。そんな経験を持つ人が多いと思う。良いことにしても、悪いことにしても、それを行っている本人は気がつかないのに、周囲で見ている人たちにはよくわかる。他人のふり見て、とか言うのは、そういったところからでているのだろうか。
 このての話は何にでも当てはまるから、話題に事欠かないのだが、いざ自分が関係する話となると、また話題に出しにくくなる。こういう身勝手さは誰しも持っていると思うのだが、確認したことがないので確かな話ではない。そんな事情から、また話は喫煙に関わるものとなる。喫煙者の行動には彼ら特有のものというよりも、結局は人間が持っている性質がそのまま出ていると思えるものが多い。昔、新幹線に禁煙車両が導入されたとき、客室ではなく車両間のデッキと呼ばれるところで煙草を吸っている人をよく見かけた。さすがに苦情が多くなり、デッキも禁煙という注意書きが出るようになってから、徐々に少なくなっていったが、今でも吸い殻が捨てられているところを見ると掟破りがいるようだ。個室に入ってしまえばこちらのものといった感覚からか、トイレの中で吸う人はまだいるようだ。これも飛行機のトイレのように警報器をつけない限りなくならないだろうし、それをしてもまだ続ける人がいるところをみると不可能としか言えないのかもしれない。何しろ一万ドルの罰金を実際に科せられたとの報道があっても、我慢できない人がいるようなのだ。と言っても、新幹線はほんの100メートルほど移動すれば、そこには喫煙天国があるのだから、事情はまったく違っている。これも導入初期の話だが、禁煙車両の乗車口の列に並んでいる人がプカプカやっている時期もあった。当然の権利とこれから数時間の我慢の前といった心理からか、凄い勢いでやっているので呆れてしまったが、これもホームの禁煙が導入されてからはほとんど見なくなった。列車の禁煙で面白いのは、都心などの混雑する区間では禁煙になっているのに、周辺地域に入るとその制限がなくなる路線で、その狭間にある駅では皆の動きが突然激しくなる。顔つきからしても、もうこれ以上の我慢はならぬといった感じで、何ともへんてこな雰囲気だ。禁煙区間にある駅でも、以前はホーム禁煙がなかったから、列車から降りてしまえば喫煙可能となっていた。しかし、その開始の瞬間が人の心理をよく表しているように思えたものだ。律義な人たちは、ちゃんと降りてから煙草を取り出してといった行動をとるが、そうでない人たちは、まず席を立つ頃から煙草を口にくわえ、出口に立つ頃にはライターを握り、開いた瞬間には火をつけるといった具合で、ひどい場合には車内で一息吐いて出るから、煙が車内に残されることになる。本人はあくまでも降りている気でいるわけで、まあ身勝手としか言いようのない行動なのだが、ごく当たり前の行動と思っているに違いない。これだけ禁煙区域が世の中に増えてくると、元々煙草の煙が嫌いな人たちは更にそれに対して敏感になってくるから、更に難しい状況が出てくるようだ。たとえば、新幹線はまだ禁煙と喫煙が混在しているから、喫煙車両を通り抜けてきた車掌の身体からはかなりきつい煙草の匂いが出ているし、場合によっては誰も車両内で煙草を吸っていないのに匂いのすることがある。これは、おそらく換気の具合によるものなのだろうが、はっきりしたことはわからない。しかし、気になり始めるとどうにもたまらなくなるようだ。米国流の考え方が主流となっている航空業界では国際線でさえ全面禁煙となったが、同じかそれ以下の所要時間の新幹線はそこまで極端なことが導入されるとは今のところ思えない。ただ、極端な方に流れないためにも、お互いにマナーを守っていきたいものだ。

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9月27日(土)−指標

 何かの程度を表す表現として指標と呼ばれるものがある。別にこれと決まった規則はないのだと思うが、結構いい加減な雰囲気のものもあり、それが重要視されるほど首を傾げたくなる。指標ということで、分かり易くするために数字にしてあるのだが、数字になる前の段階を考えると誤魔化されているように感じられるからだ。
 元々数字で表されていないものを数字として表現することを数値化という。数字にすることで大小関係がはっきりするし、それまでに得られたデータと比較することもできる。とても便利な方法で、理解を助けるだけでなく、それに基づく議論もやりやすくなるように見える。確かに、道具として考えるとその通りで、実際にいろんな場面で使われているのを見ていると、いかに多くの人が使っているのかがわかる。しかし、だからといって、その方法が必ず正しいと言えるわけでもないし、逆にその便利さを悪用することで、うわべだけの主張を繰り返すことができるから、結果に基づく議論でも結果そのものの妥当性を検討する必要が出てくることもある。これは誰が関与していても同じことで、会社が自社に有利になるように数字を操作するのも、政府が政策の妥当性を主張するために数字を改ざんするのも、なんら変わりがない。操作や改ざんなどというと大袈裟に聞こえるだろうが、何を基準に数字に置き換えるのかという単純なことで行われる。そこに何らかの意図が入れば意図的なものとして操作とか改ざんと呼ばれるものになる。意図せずに変な置き換えをする人たちもいるようだが、それよりも意図的なものが多く見受けられると思う。何故、数字に置き換えねばならないか、それは指標を決めるときの調査の方法に由来する。たとえば、景気が良くなったと感じるかという質問をされたとしよう。そこでは、はい、いいえという答えを設けることもあるだろうし、もう少し細かくして、どちらかといえばという項目を新たに設けたり、どちらとも言えないを加えて、全部で5つにすることもある。いずれにしてもかなり大まかな、数字で表現する意義を疑いたくなるものである。だから、大体の場合、細かな設定をしたとしても結局はプラスかマイナスの方向でまとめて、最終的に全体の割合を出すことで指標として発表する形式をとる。大きく二つに分けるのだから、十分にその時の感覚を表していると解釈する人と、そんなにいい加減な分け方では、感情的なものを表すだけで景気そのものを分析したものにならないと思う人と、まあ色々と出てくるだろう。しかし、そういう途中のことは脇において、結果としての割合だけが外に出てくるわけだ。これはほんの一例だが、こんな数値も元は感覚的なものと理解したうえで受け取ればいいのだろうが、まるで重要で絶対的なものと受け取り、それに一喜一憂している人がいたとしたらちょっと困った感じがする。極端な例を示したが、他のものでも数字の選び方、調査対象の選び方、いろんな処に意図の入る余地がある。こんなところばかりに目が行くのも困ったものだが、まったく行かないのも困る。まあ、たまたま出た数字と軽く見ておけばいいのかも知れないが、それじゃあ指標とは何だということになる。調査機関の仕事だからといえばそれまでだが、せっかくだからその周辺事情まで少し考えを広げてみたらどうだろうか。数字に弄ばれるか、数字を弄ぶか、人それぞれなのだけれど。

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9月26日(金)−仕立て

 この国が豊になったせいだろうか、と思うことがある。高度成長期には皆そろって豊かになろうという気持ちがどこかにあって、その目標達成に向って邁進していた。しかし、何となく豊かさを実感できる時代がやって来ると、皆一緒という気持ちはなくなり、自分がという気持ちが前面に出てくるようになった。
 これは個人主義などと呼ばれるものだが、個人が先にある欧米のものと違って、後から来る個人はどうも落ち着かないようだ。いずれにしても、個人個人がそれぞれ違った感覚を持ち、それぞれ違った状況にあることは当たり前のことだから、そこに何かしらの違いがあるのも当たり前である。これは、経済的な状況や生活環境の話のように受け取られたりするが、元々個人個人が違う資質をもっているわけだから、その結果として違ってくるのが当たり前という意味に受け取って欲しい。ただ、当たり前と言っても、そこには当然の帰結ということではなく、いろんな偶然の重なりから自分でも予期しない結果となってしまった人たちがたくさんいる。それを社会のせいにしたり、周囲の人たちのせいにしたりする人もいるが、結果は結果なので何ともならない。まあ、自分の心が満足するのなら、そういうのも一つの方法なのだろう。いずれにしても、資質などというのは元々身に付いているものだから、自分の思い通りに変えられるはずのないものと思い込んでいる。しかし、基礎となるところだけなのだから、そのあとの努力も大切で、それをなしにして何とかしたいと思う気持ちもわからないでもないが、これもまた一種の身勝手なのではないかと思う。個人主義という言葉が出回るようになってから、いろんなものに個人というか個別の考え方が導入されるようになってきた。たとえば、最近話題になっているものに、医療における個別の話がある。確かに治療を受けるのは個人なのだから、そこに違いがあるのは当然と思えるが、ここで言う個別はそういう意味ではなく、薬の効果や治療の方針に個人差の考え方を導入すべきという話である。つまりこの個別とは、人間それぞれがもつ遺伝子の違いによる違いを表していて、それに応じて処置の仕方を変えるべきという考え方だ。こんな話が出てきたのは、ゲノム解析という遺伝子をすべて明らかにする研究が進んだからなのだが、実際に可能かどうかは専門家の間でも明確にはなっていない。確かに個人差はあるのだろうが、それが遺伝子を見比べるだけでわかるのかとか、数万の遺伝子をどう比較するのかといった問題がほとんど議論されないまま、個々の小さな違いだけでわかるはずという見込みで動いている面があるかららしい。将来、どちらの考えが正しいのか徐々にわかってくるのだろうが、今のところ何とも言えない状況のようだ。しかし、製薬業界にとっては大きな獲物であるから、当然食い付いていくしかない。さて、これが吉と出るか凶と出るか、様子を見ていくしかないのだろう。いずれにしても、自分たちが材料となるようなはめには陥りたくないものだ。

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9月25日(木)−地方

 株価が上がり始め、経済指標が回復を見せ始めて、やっと重い腰を上げ始めた人々が経済の回復を報じているようだが、大都市と大企業に限った話で、中小企業や地方都市にとってはまだまだ厳しい時代のようだ。それでも一部の例外は頑張っているわけで、結局のところは売りがあるかどうかによるといってしまえばそれまでだろうか。
 大都市も、プロ野球チームの何年ぶりかの優勝にあやかろうとしているところはまだまだ回復の兆候も見えてこないようだし、大企業も、依然として明るさの見えてこないところもある。そんなところを相手にしなければ良いと言ってしまえば簡単なのだが、そうもいかないのが難しいところだ。一方、地方都市の方はもっと複雑な状況で、お上からの金を狙った合併騒ぎなどは様々な思惑が入り組んで、そう簡単には理解できない状況に陥っている。はっきりしていることは、主導権を握った町以外には大した利点はないだろうということで、既に大きな町に吸収された小さな町や村のその後の状況を見れば簡単に理解できる。確かに大きな組織になって得をしたところもあるのかも知れないが、実際には発言権という大きな権利を放棄することによって失ったものも大きい。各自治体にはそれぞれがもつ発言の権利というものがあったようだが、それが他の自治体に吸収されてしまうとその中で議論したうえでしかお上に対して陳情する手段が無くなってしまう。結局、そういった権利の方が重要ではないかと思う人がいるようで、そうなれば大きな組織の一部になることにどれほどの利益があるのかわからなくなるという指摘が出始めている。にもかかわらず、依然として大きな町へという動きは止まりそうにもない。何しろ、じり貧になってしまったらおしまいという不安に苛まれているわけで、それを打ち消すことができるほどの自信はほとんどの地方都市が失ってしまったようだ。そんな状況下でも、何とか自分たちでじり貧から脱しようと努力する町もあるようだが、これもまた旧来の手法に頼っているようではどうなるのか、あまり明るさが感じられないような気がする。少し前、付帯する施設の崩壊が伝えられたある県の展示・会議施設は、いわゆる箱作りの典型のようなもので、立地条件や交通の便などを考慮すると、はたして意味のあるものになるのか疑問視されているようだ。実際に、地元のラジオが伝えていたところでは、県民から反対の声が上がっていたようだから、やはり誰しも同じようなことを考えるみたいだ。結果としては、問題無しという結論になっていたが、今後どう転がるかわからない。それに、展示や会議などを開催すると言っても、これからちゃんとそういう申し込みが続くのか、大都市にある施設でも困難が伝えられているのに、はたして地方にそれだけの集客力や魅力があるのかどうか。疑問に思う人がいるのも無理はない。まあ、そうは言っても、作ってしまったものはこれからも何とかしなければならない。どんな努力がなされるのか、まずは見物と言ったところだろうか。こんな文章を書いて、今朝アップしようとしたら、モバイルがしくじってしまった。まあ、仕方のないところだが、そんな事情で、今日のアップはこの時間。でも、何とか間に合ったようだ。

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9月24日(水)−帽子

 山際をとんびが飛んでいる。と思いつつ、よく見てみるとなぜだか、色つきのとんびがたくさん飛んでいた。赤、青、緑、多くは原色のもので、上昇気流に乗って、旋回しているが、やはりとんびは茶色だから、まったく違うものだ。パラグライダーというのだろうか、パラシュートを改良したもので、山の上からの滑空を楽しむものだ。
 こんな書き方で始めるといかにも目か頭がおかしくなったように思われるかもしれないが、先日豪雪地帯へとつながる高速道路を走っているときに見かけた風景である。たぶん、その世界では有名な場所なのだろう、十以上のパラグライダーを数えることができた。休日ともなると多くの人が訪れ、空からの眺めを楽しんでいるのだろう。しかし、ああいった不安定な状況で空に上がることを楽しいとは思わない人間にとっては、とても不思議なものに映るし、自分でやろうとは一切思わない。ちょっと違う話だが、飛行機に関しても、日本では少ないけれども、米国では個人所有の飛行機での旅行を楽しんでいる人がいて、一度誘われたけれども乗ろうとは思わなかった。ただ、なんとなく心配、というだけのことだが、この辺りの心理は人それぞれといったところだろう。山々が連なり、そのふもとには田園風景が広がるその付近には、まいたけの工場があったりして、その土地の特徴を表したものとなっているが、よく見てみるとそれ以外にも道路そのものに他の土地では見かけたことのないものがあることに気がつく。高速道路には行き先表示や道路案内などの指示板や電話の設置地点の案内などと共に、交通量を調査したり、車の特定などに使われるテレビカメラが設置されている。カメラがいくつも並んでいるから、それぞれが多分違った機能をもっているのだろうが、普通の光量で作動するカメラ、暗いときに作動する赤外線カメラ、後はなんだろうか。とにかくそうやって、各車線に三台ずつのカメラが設置されていたと思うが、それぞれは長方形の箱に入れられている。ここまではどこの道路でも同じだと思うし、そこに違いがあるかどうかは運転しながらちょっと見ただけではよくわからない。しかし、ぱっと見ただけでもわかる違いがそこにあることに気がつく。長方形の箱がなぜだか屋根を被っているのである。それもとんがり帽子のような先にかけて尖った屋根を被っており、その先には板がついているように見えた。この辺りはわき見運転が過ぎるようになってしまうので、あまり詳しく観察することができなかったが、とにかく屋根つきのカメラである。始めに書いたように、その辺りは昔から有名な豪雪地帯であり、特にその辺りの雪は乾いたサラサラの雪ではなく、べたっとした重い雪だから何かに積もってしまうとかなりの重さになるのだろう。さらにそれがきっかけとなってそこに雪が積もっていくと大変なことになるのではないだろうか。そんなところから、きっかけをなくすためにとんがり帽子を被って、雪が積もらないようにしているのかなと思った。何しろ雪が電線にくっつき始めるだけで大変なことになるらしいし、色々と雪とは馴染みのない人間にとっては思いつかないようなことが起きるとのことだ。そういうところから生まれた工夫なのだろうが、なるほどと思わされた。他にもいろんな工夫がなされているのかもしれないが、一度通っただけではわからないし、まあひょっとするとどこかで紹介されているのかもしれない。ただ、あんなところを見ると、やはり冬の雪の季節にあの辺りを走りたいとはちょっと思えないものだ。

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9月23日(火)−仕切

 経済が停滞してきたからなのか、はたまた生活全体が落ち着いてきたからなのか、これまで蔑ろにされてきたある意味細かくてどうでもいいことを気にするようになっているようだ。どうでもいいというのははっきり言い過ぎだが、職場の環境を整えようとする動きも、心理的不安定を訴える人や他人の行動に過敏になっている人たちに対処するためという場合も多い。
 多数の人々が働く現場では、それぞれの間に築かれる関係は非常に複雑に入り組んでいて、そう簡単に理解できるものではない。ある目標に邁進しているときには、そんなことを気にかける暇もなかったから、気にするもしないもない、という状態だったのだろうが、目標を達成してしまったり、見失いかけている状況では以前は些細だと思っていたことにまで気が向くようになってしまう。そんな状況で、職場の人間関係はとても難しい様相を呈していて、まとめることが困難になっているようだ。そういう職場環境の中で、問題とされているものはたくさんあるが、中でも喫煙問題はかなり大きなものとなっているようだ。そんな問題は既に解決済みと思う人もいるだろうが、一部の企業や公的施設では様々な対応がなされ、喫煙者にとっても非喫煙者にとっても過度な負担にならないような環境が築かれるようになった。この国は、喫煙者の天国であると、ある宣伝が訴えていたが、これにはいろいろと仕掛けがある。喫煙者の権利が守られているという意味では、嫌煙運動の盛り上がりが今一つの欧州各国はかなり喫煙者よりの状況にある。ところが最近は煙草の宣伝などに対する制限がかけられるようになるなど、そろそろ厳しさが増してきそうな雰囲気である。一方、嫌煙運動の先頭を独走している米国は、あらゆる公的建築物内での喫煙が禁止され、喫煙者は外に出て寂しく煙をはいている状態だ。特に、冬場の寒冷地では外気温はかなり下がるから、危険が伴うのではないかと思えるほどの環境で、そこまでする必要があるのか疑問に思う人もいると思う。こんな米国の喫煙者から見るとこの国は天国に見えるというのが、件の宣伝の中身で、そのこころは多くの建物の中に喫煙場所が指定されていることにある。確かに制度上の違いから出てきているものなのだが、忘れてならないのは指定する際に劣悪な環境を放置するのではなく、きちんとした環境を整備するという考えである。喫煙者はどうせ自分の煙草の煙を吸い込んでいるのだから他人のものも我慢せよ、という考えはあまりにもひどいものだが、一時的にこのような状態になったところは多かったと思う。それに対して空気清浄器を整備すれば、喫煙者の健康も守られるという考えが出てきて、それを備えた施設が急激に増えてきている。健康を守るということと喫煙との関係に関しては、この際本人の問題であるということで問わずに、他の人々の健康を優先するという意味で、喫煙場所を指定しそこを整備するという方向に動いたわけだ。分煙化と称されるこのような動きは、どこでも勝手に煙草を吸いたい人にとってはとても迷惑なものなのだろうが、多くの人々と共存しなければならない状況では、仕方のないところなのだろう。この国では、こんな形で両極端な立場にある人々の共存を図ったわけだが、海の向こうでは一方の極端に向かって爆走しているわけで、そこから見れば喫煙者の天国に見えるということなのだ。嗜好品として煙草を見なすことに対しては賛否両論があるのだろうが、たとえば香水やコーヒーの香りなどに対しても迷惑に感じる人がいると聞くと、体の健康だけでなく、心の健康が問題視されるこの頃では、単に拒否、排除するだけでは無理があるように見えてしまう。どちらが正しいかという問いに対する答えは出てきそうにもないのだから。

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9月22日(月)−鍵

 ほんの10年ほど前までは、何かわからないことがあって調べるとなると、百科事典や辞書などの本にあたることが多かった。資料としては文字情報に頼ることがほとんどで、それが載っているもの、メディアというのだろうが、は書籍や新聞という類いしかなかったと思う。だから専門的なものになると非専門家の一般人には近寄りがたいものとなるのも致し方なかった。
 その様相を一変させたのがインターネットという代物である。誰でも参加でき、その上色んな資料が溢れている。こんな状況は今までなかったし、想像もできなかった。ただし、このような状況になったからといって、全てが上手くいくというわけではない。ちょっと話がずれてしまうが、コンピュータの中に資料を構築する場合の話から始めたいと思う。もう10年以上も前のことになるが、当時パソコン上に資料を構築する必要が色んなところで出てくるようになった。そのためのソフトも開発され、データベースと呼ばれる資料を簡単に作るための道具として注目された。しかし、初期のものには致命的な欠点があり、使い勝手の悪さを伴って、どうにも身動きのとれない状況を作り出していたように記憶している。欠点とは、データベースの柔軟性で、出来上がった表にあるデータを入力する場合には、その項目も既に固定されているから問題ないのだが、新たにデータベースを構築する場合には、その進捗状況に応じて項目の増減が必要となることが多く、そのためには構築時の項目が固定されてしまう当時の方式は、全く使い物にならないものだった。これは、今でも残っている慣習のようなものだが、ソフト製作者の頭の中はきちんと整理されており、当初から完璧な図式が完成されているようで、その線に沿ってつくられるソフトにも柔軟性のない始めから完璧であるべき使用方法が想定されていた。その後数年経つとさすがに欠点は少なくなり、柔軟性も出てきたので、最近のデータベースソフトはかなり使いやすいものになっている。このように個人レベルでも資料の作成が容易になってきたから、ネットワークを通じて他の人々のデータを利用することも簡単になった。では、次に起こる問題はどこにあるのだろうか。データを利用することができるといっても、以前の書籍をめくるようにそれぞれのデータの全てに目を通すという作業を行わなければならないとしたら、単に仕事を増やしたことになるだけで、実際には何も役に立たないとなってしまうかも知れない。そのために、データの選別を行う必要が出てきたので、開発されたのが検索ソフトと呼ばれるものだ。ある文字列を入力し、それと同一の文字列を含むデータを拾い出すことが基本となるが、さらに関連語句や一部が一致するものを拾い出すものもある。これによって、ネット上に溢れている膨大なデータの中から自分が必要とするものを取り出せるようになったと思いたいのだが、実際はそうなっていない。二つの問題がそこにあり、一つは検索を行う人間が意図している事柄を言語化する、つまり語句にする段階で的確な作業が行われにくいことであり、もう一つは的確な語句を使っても対象となるデータが多すぎてそのままでは点検に手間がかかりすぎるという問題である。これらの問題を解決する手段はある程度のものが開発されているとはいえ、完璧なものはできていない。特に、前者は使用者によって思考過程が異なるわけだから、それらの全てに応えられるものを構築するのは不可能に近い。また、後者を含めて、肝心なことの一つに検索対象とされた語句と関連のある語句の提示があるのだが、これも個人差があることやそのような機能には膨大なデータが必要となることなどがあり、なかなか難しいようだ。結局、検索を行うのが人間だから、人間のやっていることを真似るのが一番なのだろうが、真似るためのお手本の形が茫洋としているために、近づきにくいものになっているのだろう。そうなると、頼りになるのは自分だけ、やっぱり検索エンジンを使うときは、色んなことを考えてキーワードを入力するしかない。その点は専門家だけが資料にあたることができた昔の形態と大して変わっていないのかも知れない。

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