パンチの独り言

(2003年9月29日〜10月5日)
(名札、利便追求、劣化、日焼け、試練、空即是色、秋色)



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10月5日(日)−秋色

 もうとっくの昔なのだが、暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもので、お彼岸を過ぎた途端にそれまでの残暑はどこかに吹っ飛んでいってしまい、秋らしい爽かな晴天が続いている。秋らしいと言っても、一部では雨が降らないことを心配する向きもあり、お天気に完璧などというものがないことがよくわかる。
 秋の草花は、春や夏のものと違って、何となく地味に見えるものが多いような気がする。色も赤や黄色よりも、紫や青系統のものが多いから、余計にそう感じられるのかもしれない。今道端に生えている花で目立つのは、萩だろうか。花の色は派手なほうだが、花の大きさが小さいので派手には見えない。他には、いろんなところでお祭りの名前に使われ、実際に群生も見られる秋桜があるが、こちらはどうも人為的な雰囲気があって自然の香りがしない。種さえ蒔いておけば、簡単に育てられる園芸種だから、広場一面にということもそれほど難しくない。そんな理由と秋桜に対する独特の感慨からか、日本人に好まれる花のようだ。自然のものといった感じがして、どちらかといえば派手に見えるものとしては、この時期限定の彼岸花、別名曼珠沙華、があるだろう。秋の花には珍しく真っ赤で派手な雰囲気があり、仏教と関係するような名前をもらっているが、ちょっと不似合いな感じもする。今年は、天候不順からかある地域では例年になく早く咲き始めたらしく、冷夏から秋の訪れも早まったと報じられていたが、実際には多くの地域でいつもより遅い開花となったようだ。例年であればお彼岸をはさんでどうやって測ったのかと思えるほど正確に咲くのだが、今年は彼岸頃に咲いたとはいえ、今でも田圃の畦道や林の中で木漏れ日を浴びながら咲いている。何となくいつもよりも長い期間咲いているように見えるのだが、どうなのだろう。これは一つには今年はこの時期にまったく雨が降っていないことによるのかもしれない。それにしても球根で増えると言われる彼岸花が群生しているのは理解できるのだが、それ以外にも点々と咲いているのを見ると、球根が土の中を移動できるわけでもないから、何か別の移動手段をもっているように思える。花が咲くのだから、種ができてもいいはずだが、それを見たことがないから自信を持って言うことはできない。でも、たぶんそういった増え方もあるのだろう。余り効率の良いものではなさそうだが、新しい土地に広がるためには、そんな方法も身に付けておかないといけないような気がする。それにしても、あの赤の鮮やかさは目を見張るものがある。別にこちらを見てくれといっているのではないのだろうが、まるでそう言われているような気がしてくる。

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10月4日(土)−空即是色

 テレビが街頭に並んでから50年ほど経ち、人によると思うけれど家庭に入り込んでから40年余り、色が付いてから30年余りだろうか。それまでは音声と文字や写真でしか伝えられなかった情報が、動きを伴うものとしてごく当たり前に皆に伝えられるようになった。では、それはより正確な情報を提供することに繋がったのだろうか。
 こんなことを考えるのはちょっとひねくれた性格によるものかも知れない。しかし、自分の目で見たことを一番に信じて、人から聞いたことはその次という気持ちでいると、情報を流す人の顔が見えない場合には特に心配になる。情報の担い手として文字をみた場合、そこにかなりの情報量があるし、いろんなことが伝えられる。しかし、文章は人によって受け取り方が違う場合があって、流す方はそれに常に注意を払って真意と異なる解釈が起きないようにする。とはいえ、無理な部分もあり、人それぞれの解釈が行われてしまうことも多い。一方、写真はそこに見えている出来事をそのまま伝える強力な手段で、それを一つ付け加えるだけで文章では語れなかった内容まで読み手に伝えることができる。ただ、日常の生活ではスチール写真のような静止画を見ることはなく、止めることによって別のものが見えることもあって、違う形の誤解を生むこともある。そんな中で昔で言えば映画の形式で伝えられていたニュースが、テレビという担体を通して毎日時々刻々の出来事を伝えるようになった。そこには静止画も含まれるが、大部分は動画であり、動きを伴うことでより多くの情報が含まれているような気がしてくる。画像で相手に訴えかける方法は、何もテレビのニュースに限ったものではなく、講演会や学校の授業でも以前に比べれば多くの画像を使う機会が増えている。これもちょっと前までは、スライドやオーバーヘッドプロジェクターと呼ばれるものがほとんどで、そこで紹介できるのは静止画像でしかなかったが、最近はパソコンの普及と液晶プロジェクターの開発によって、パソコンの中で再現される動画をスクリーンに映し出せるようになり、動画の威力を最大限に活かそうとする試みが出てきている。こんな状況になっているのは、やはり言葉による表現よりも画像による表現の方が受け手に送り手の意図が直接伝わるからで、目に見えるようにすることの意味は大きい。しかし、気になることは残っているもので、確かに情報量は増えたのだろうけれども、結局全部を伝えることはできないから一部を切り取ることには変わりないし、画像を通して見るものは実際にそこで見るものとは明らかに違う場合があることに気をつけねばならない。前者は簡単に理解できるだろうが、後者の問題はすぐに思い浮かばないかもしれない。これは、ビデオ画像が1秒間に30コマの画像を流すことによるもので、それより速く動いているものに対しては見えないことになるから、受け手には実際に起きていることも起きていないと映るわけだ。良い例かどうかわからないが、動体視力を説明する画像など、その場で見たときとビデオで見たときでは明らかに違うのに、後者を使うから視聴者は凄いと思ったりする。有るものが無いように見えるわけで、これでは真実を伝えているとは言えない。これに似た現象は沢山あり、それらによって騙されていることもあるかも知れない。まあ、情報の一部切り取りに比べれば大したことのない話だが、ものがそこにあるのかないのか、まるで哲学の問題のようなことが起きていると言えそうだ。

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10月3日(金)−試練

 証券関係のサイトにありながら、経済関係の話題にはとんと馴染みの無い者が書くので、経済ネタは異常に少ない。まあ、相場の上下で苛々しているところに、またその話題では休まることもないだろうから、時に此処で休んでいけばいいのでは、などと自分の無能を脇において、無関係なことをあれこれと書いている。
 それでもたまにはそういった話題が飛び込んでくることもあり、まったく違うことと結びつけることで、何となく話をまとめてしまう。最近円高が急速に進み始めて、それに対して不安を訴える人たちや早急な対応を求める人たちがいる。国全体の経済を考えたときに、急激な変化は歓迎されないものだが、一方で市場がそれを求めているのは何らかの要因によるものと考えると、それを無理矢理止めてしまうことにも不安を覚える。まあ、そんな状況で担当部局はそんな悠長なことは言ってられないので、何か対応策を練らねばならない。今回の騒動は、首脳会議が開かれた後に起きたので、様々な思惑があって中々行動に移せず、それに乗じて更に円高が進むといった悪循環にも思える様相を呈していたが、結局介入という形で心を決めたようだ。これはこれで、思いきった決断であるから、それなりの評価をしなければならないが、その後の動向を見ているとその効果のほどは疑わしいとされる。そうなると更に難しい問題が出てきて、無理を更に通すべきかということになる。ここまでやって来ると関係者の間にも別の考えが出てきて、市場が求めているのだから無理に止めようとせず、介入せずに今後の更なる円高への対応を考えたほうが良いという意見も出てきているようだ。つまり、今必要なのは急激な円高によるショックを与えることで、それを受け止めたうえで次の段階に経済を押し上げていく力が試されているのだ、といったものである。まあ、ショックで立ち直れなかったときにはどうするのだという反対意見も当然出てくるわけで、どちらが正しいのかは事前には誰にもわからないし、後になっても別の選択肢を選んだ結果を正確に検証できるわけでもないから、結局何が正しいのかはわからないままとなる。しかし、最近の動向を見ていると、ショックを受けてみて、それに対応しようとするよりも、ショックを受けないようにするにはどうすればよいかという選択が好まれているように思える。転ばぬ先の杖、といった感じなのだろうか、あらゆることにこういった志向が見られ、経験に基づく助言や対策がその根幹を成しているようだ。これに関してもどちらが正しいのか言えないものだが、ことによってはあれもこれもと手を差し伸べることがかえって悪い結果を生むように思える。喩えが悪いが、歩き出した子供に杖を貸す老人がいるだろうか。転んでこそ次の発達があると見ればこそ、褒めたり勇気づけたりする方に力を入れる。回復途上にある経済にとって、この試練はどういった意味をもっていたのか、後にならねばわからぬことだが。

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10月2日(木)−日焼け

 全国的にとは言えないかも知れないが、このところ良い天気が続いている。ちょっと雲が出ていても、次の日には晴れるという具合で、高気圧帯に覆われているといった感じなのだろうか。そういえば、この時期になると学校では運動会が行われるから、なるべく晴れる日を選ぼうとする話がある。これが晴れの特異日の話題につながり、去年の今頃も取り上げた気がする。
 休日の決め方が生活主体となって、ハッピーマンデーなるご都合主義の休日が出てきてから、月曜日の使い方がとても難しくなった。学校の授業は月曜日に割り当てられたものが、他の曜日よりも二割ほど少なくなるみたいだし、会社での行事や決められた曜日に行う業務や打ち合わせなども月曜日に関しては非常にやりにくい状況となっている。確かに連休を実施することによって、ゆっくり休めるのは事実だと思うが、それによってどこかに出かける羽目になり、さらに疲れて週明けの出社となってしまっている人もいるのではないか。ゆっくり休むという習慣のあまりなかった国民には、この制度が本当に良い方向に働いているのかよくわからない。特異日の話で言えば、東京地方に限った話だが、昔の体育の日は晴れの特異日だったのだそうだ。それに対して今ではハッピーマンデーなる形で、それとは違う日が体育の日になり、運動会が雨に降られることが多くなったような気がする。気がするというのは、何も統計をとったわけではない、という意味で、先入観を持って見てみると、いかにもそうだと思えるという意味だ。さて、こんなに晴れの日が続くと、日光を浴びる機会も増えるだろう。そろそろ秋本番となり、長そでを着るようになってきたから、夏ほどは浴びないのかも知れないが、とにかく気温も適当でさわやかな陽光といった感じで、気持ち良くなっているのではないだろうか。しかし、最近の健康関係の話題を見ていると、紫外線の危険性に注意を払う必要があるように思えてくる。昔は、夏休み明けにはくろんぼ大会などと称して休みの間にどのくらい日焼けしたかを競ったものだが、最近は大人だけでなく子供に対しても日光の紫外線による日焼けが、必ずしも健康に良いというわけではないと言われている。どこがどう変わったのかよくわからないが、特に白人の日焼けによる皮膚ガンの発生率の上昇などの研究からこういったことが言われるようになったようだ。実際に、日本人の場合にどうなのか、どのくらいの調査がなされたのか知らないが、まあ同じ人間なのだからあちらで危険ならこちらもと考えておいたほうが無難という気持ちもあるのだろう。とにかく、ガンの発生という意味では、紫外線、特に波長の短いものは遺伝子を構成するDNAに傷をつけることが明らかになっているから、確かに危険と考えるべきである。しかし、一方で日光を浴びないことによって引き起こされる病気もあるわけで、どのあたりが適切であるのか難しいもののようだ。いずれにしても、最近は地球の両極のオゾンホールが話題になるくらいで、従来遮断されていた短波長紫外線が地表にまで到達するようになっていると言われるとさらに不安感は増してくる。適度と言われても、光の強度がわからないのに、一日何時間日光を浴びたら良いなどと決めることはできないし、危険と言われればやはり気をつけねばならない。そういえば、日傘も最近は暗色系のものが増えて、かなり強力に光を遮るようになった。このあたりも市場の要求に応えていると言えるのだろうか。

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10月1日(水)−劣化

 このところ、工場火災が相ついでいる。昔から悪いことは連続して起こると言われ、その典型として飛行機墜落事故の話が引き合いに出されるが、結局は偶然の出来事に過ぎず、連続すると記憶に残りやすいだけである。企業の事故が頻発することと最近の人員削減を結びつけて論じる人もいるようだが、実際にはもっと長期に渡る管理上の問題が原因の場合が多いようだ。
 人減らしをする場合に必要性の低い部署からという考えで行われることが多いらしく、その意味では安全管理部門は標的になりやすいと考える人が多いようだ。確かに、定期検査だけが業務となれば、時々動けばいいだけと考えたくなるのも無理はない。しかし、実際には検査すれば全て大丈夫とはならず、その結果に応じて対処しなければならないから簡単には済まされないことが多いようだ。とにかく、実際の原因として考えられるのは人員削減よりも従業員の連帯責任意識の方にあると以前から強調されてきた。つまり、以前であれば全ての構成員がお互いに部署全体の安全管理に配慮していたのに、最近は担当部署の限定が構成員の心の中にあり、自分の担当以外には関心を持たないといった状況になっている。さらにそれが進むと自らの担当の中でも誰か他の人が見てくれるといった思い込みを持つ人が大半となり、事故が起きるまで誰も気がついていなかったり、気づいても誰か別の人が対処すると考えるようになっている。こういう事態はこれまでにはなかったもので、これを解決するために連帯意識をもっと強く持たせるべきなのか、それとも担当部署をはっきりと限定し責任の所在を明確にすべきなのか、どちらがより良い策なのか模索しているのではないだろうか。どちらにしても、意識を持たせることが大切なことには変わりがなく、人それぞれで向き不向きがありそうな気もするから、多人数で構成されるところほど対処が難しいようだ。意識が変化してきたうえに、それがさらに消滅するという状況になるまで、対応しなかったつけが出てきているようにも思える。最近の事故もこういった問題が表面化したものかと思っていたのだが、それにしてはあまりにも連続するのでちょっと不思議に思っていた。そんなある日知人と電話で話をしていたら、別の可能性を指摘され、そういうこともあるのかと感心した。全ての場合に当てはまるわけでもないのだろうが、たとえばある工業地帯に集中して事故が起きた場合には、そこにある設備の耐用年数の問題が関係しているのではないかという指摘だ。つまり、同時期に建設された工場では、同じくらいの期間機械やタンクを使用しているわけで、それが徐々に劣化していった結果、これらの事故を引き起こしたと考えられるというわけだ。色んな機械があるのだから、それぞれに耐用年数も違うだろうし、こんな考え方がさっと当てはまるとは思いにくいが、一つの可能性としては面白いものだと思う。特に、最近の企業の業績の悪化から設備投資の減少が指摘されてきたことを考えると、この可能性も容易に否定できない。業績悪化が新たな設備に対する投資を断念させたという話はよく出てくるが、既存の設備も当然古くなれば問題を抱えるわけだから、そちらに回すべき金も必要となる。それが不足した結果、古い機械や設備をだましだまし使うことになり、事故が引き起こされたのかも知れないのだ。一人で考えていると一つの考えに凝り固まってしまうけれども、時に他の人と意見交換することで思いがけない考えに触れることができる。一人で多くの見方を身に付けることも大切だが、違う見方をする人と付き合うことも大切なのだとつくづく思った。

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9月30日(火)−利便追求

 一時は街中に溢れていた公衆電話が姿を消しているのだそうだ。携帯電話が普及するにつれ、その必要性が無くなっているからなのだそうだが、全員が持っているわけでもないから不便を感じている人も多いと思う。ただ、ある程度の数は確保しなければならないことになっているので、まったく見つからないという事態にはならないと思うのだが。
 公衆電話も昔の形式のものは硬貨を投入せねばならず、長距離通話となるとジャラジャラと音をさせながら、電話ボックスに向かっていた。しかし、プリペイドカードが導入されるとそんな手間もなくなり、とても便利なものに思えていた。しかし、世の中が荒廃の方に向かい始めたからか、偽造問題が噴出するようになり、便利でお得な高額カードが姿を消し、今度は何枚もカードを持って電話に向かうようになった。その代わりに登場したのが、IC電話と呼ばれる公衆電話で、より複雑な機構になっていることとまだ普及率がさほどでないことから、偽造問題はあまり出ていないようだ。しかし、クレジットカードで既に偽造が問題にされているくらいだから、早晩対処を迫られることになるのだろう。偶然なのかも知れないが、最近利用したカード式の公衆電話でカードを使えないことが何度もあった。どちらも隣に設置してある国内専用電話には問題がなかったから、どうも国際電話が絡む場合に限ったものではないかと疑いたくなる。つまり、これもまた偽造問題なのだが、最近は特に外国人に偽造カードが出回っているから、その不正使用を妨げようとするものと思えるのだ。イタチごっことはよく言ったもので、たとえ低額に限定しても偽造は偽造であり、安価で手に入れることができるのであれば、利用者は減らない。結局、こういう違法行為が利便性を犠牲にすることになり、特に外からやって来た連中に邪魔をされるくらい頭に来ることはない。外国人による犯罪の横行が話題になっているが、治安の行き届いた国と言われていたのが犯罪天国などと呼ばれるようになっているのは聞くに耐えないことである。利便性を追い求めることは単に利用者のためだけではなく、その仕掛けを考案し、製造する人たちにとって重要なことである。あらゆるところにそういった考えで導入されたものが溢れ返っており、その必要性に疑問を抱く場合も多い。一方、当初は疑問視されたものでも、ある程度普及してくると数の問題から利便性が明らかになってくるものもあり、こちらの考えの及ばぬことが多々あることに気がつかされる。まだ、その段階にまで到達していないのかも知れないが、高速道路の料金支払いシステムに関してもその動きが目立ち始めた。ハイウェイカードなるものが導入されたり、クレジットカードでの支払いが可能になったりと、色々と便利になっているのだが、最近高額ハイウェイカードの販売が中止され、来年早々には使用できなくなるといった動きがあり、今後の展開が注目されていたが、この動きに呼応するように自動支払いへの移行を勧める運動も激しさを増してきた。ETCと呼ばれるシステムは、Electronic Toll Collection Systemの略で、料金徴収ゲートをくぐり抜けるときに車に積んだ機械とゲートとの間で通信を行うことで、指定された口座から料金を引き落とすもので、単に自動化するだけでなく前払割引なるものを導入して、以前の高額ハイカと同等の割引率を実現している。元々は料金所での停車によって引き起こされる渋滞を緩和するために考え出されたものだが、諸般の事情により割引やらの特典も加えることにより、利用者にとって有利なものという印象を与えようとしているようだ。こちらも様々な理由で先日まで購入を控えていたのだが、クレジットカードとの組み合わせが可能になったことから思い切って購入し、利用してみた。確かに、通過はスムースだし、利用記録もネット上で手に入れることができる。また今のところ普及率がさほどでないから、ゲートの通過に手間取ることもない。ただし、一度はゲートと接触したらしい車が前方を塞いでいたから、そういう事故はまだ減らないようだ。何とか素早くすり抜けたいという心理からそちらのゲートに無理やり突っ込む人がいるからで、かなり宣伝に努めているとはいえ、聞く耳を持たない人たちには効果が上がらないことを示しているように思える。今後、管理側のデータ利用が問題となるだろうが、既に監視カメラで見張られているのを承知している者としては何が変わるのかと首を傾げたくなる。いずれにしても、この便利さが無くならないように願いたいものだ。

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9月29日(月)−名札

 生活が豊かになるとともに、心が満たされていけばなんの心配もないのだろうが、そうはいかない人が多いようだ。愛玩動物を飼ったり、植物を育てている人たちが全てそうだというつもりはないが、最近大流行の癒しという言葉に結びついた対象として、ペットやらプランツやらが出てくるのは当然の帰結なのか、はたまた多数の中の一つに過ぎないのか。
 ペットを飼う動機の一つには慰めが欲しいということもあるだろうし、話し相手が欲しいというのもあるだろう。単に、目の前に現れた玩具の一つとしか思っていない人もいるかも知れない。さすがに最近は投資の対象として考える人は少なくなったようで、このあたりにもバブル全盛期との違いが明らかになっているようだ。いずれにしても、別の言い方をすれば欲望の対象と言えないわけでもないから、欲が熱しやすく冷めやすい人がいたり、可愛い対象がやたらに大きくなれば困ったと思う人もいるだろう。一時的な気持ちの動きから大きな荷物をしょい込むことになる人もいるわけで、何とかその大荷物をどこかに下ろしたいと思うようになる場合もある。そんな事情かどうか、はっきりしたことはわからないが、昔からペットだった動物達がどこかに捨てられるという話はよく聞いた。たぶん一番有名で、さほど大きな被害を及ぼしていなかったのは、神社にいる亀だろう。多くのものはイシガメとか元々そのあたりに棲んでいる亀なのだが、中にはどう見てもミドリガメのでかいやつとしか思えないものがいる。10センチにも満たない可愛い亀がどんどん大きくなり水槽にどかんと座り込んでいるようになると、ちょっと可愛いとは思えなくなり捨ててしまうのだろうか。これらの亀は生態系には大きな影響を与えているのだろうが、人間に危害を加えるわけでもないからそれほど話題にもならなかった。それがペット熱が高まるとともに、珍しいもの欲しさに明らかに危険と思えるものを飼う人が出てきて、結局その中の一部は野に放たれてしまった。こちらの方は凶暴な様相もあり、住宅地で目撃されるとすぐに話題として取り上げられる。それどころかワニや大型の蛇までが登場するようになると、これはもうどうにもならなくなる。飼っていた人たちの気持ちは全く理解できないし、逃げてしまったのか、捨ててしまったのか、どちらにしても、どうにかして欲しいと思うのが普通だと思う。こういう話題に飛びつくのが最近のテレビ番組の特徴だから、あっという間にそんな話題ばかりをかき集め、あれもこれもと紹介している。釣りの対象となるブラックバスは別段ペットとして扱われたことはないが、魚の中にも話題になるものがいるらしく、先日も凶暴な肉食魚として紹介されていたものがあった。倍々ゲームのように大きくなるその魚はすぐに持ち主の手に余るほどになるそうで、今回話題なっていたものにもそんな解釈がなされていた。こんな調子でペットとして購入したものを、手に負えないとして捨ててしまう人たちがいることから、それに対する対策の必要性が唱えられ、その認識証なるものを作ろうという動きがあるようだ。犬、猫に限らず、全てのペットにこれを付ければ、捨てる輩がいなくなるという考えなのだろうが、果たしてそうなのか疑問に思えた。もし誰のものかわかるのであれば、捨てるよりも殺す選択をするかも知れないし、認識証を除去しようとして結果的に殺すことになるのではなかろうか。何でも表に出てきた問題に直接対処しようとするのが近年の傾向のように思えるが、これもその一例だろう。動物の命とか責任とかそんなことをどこかに放り出して、結果のところだけを相手にすれば、それに対抗する手段がすぐに考え出されるように思う。この頃のやり方はこんな形ばかりで、次から次へと対抗策がぶつけられて、何が何やらさっぱりわからないことになっている。まあ、それだけ根本を考えなくても済む時代になっているのかも知れないけれど。

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