パンチの独り言

(2003年10月6日〜10月12日)
(差異、scent、模擬、審美、証書、三文、幻影)



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10月12日(日)−幻影

 テレビで流れている番組で紀行ものが好きな人も多いのではないだろうか。どこかに旅して、そこで見た風景があって、誰かと出会って、土地のことを知って、といった具合に話が進んでいくものがあり、ずっとずっと昔から続いている民放の遠くへ出かける番組や放送協会の小旅行の番組など、色々とある。
 地方限定というのもあって、関西では私鉄の宣伝を兼ねた旅行番組があるし、関東ではぶらりと出かけるといった趣向の番組もある。それぞれ特徴があって、見ていて楽しいものだし、人によっては出かけた気分になることもあるだろう。それとは逆に、そこに紹介された土地にどうしても行きたくなって、つい出かけてしまったという人もいるに違いない。行ってみての感想は中々面白いものだと思うが、これは番組制作の意図によってかなり違ったものになりそうである。画面で見せている風景や人の営みはそこにあるものだから事実に違いないが、それが演出によって作り出された仮想現実のようなものか、はたまた本当にそのまま伝えられたものなのか、映像を見ているだけではわからないことが多い。それがそこへ出かけてみると、何の造作もなくどちらだったのかがわかるわけで、百聞は一見に如かずに近いものがある。製作者の立場としては、そこに話ができるようにと意図することはある意味当たり前のことで、事前に組んできた流れになるべく乗せるように努力するのだろう。しかし、現実はそんなに甘くないから、思い通りに事は運ばない。そこで、どちらにまとめるか迷うところとなるわけだ。まあ、そんなこんなで見せられているほうは、そんなことには気がつかずにありのままと思い込んでしまう。それはそれで、旅行を愉しむという意味では間違ったことではないのだが、その場に出かけて体験しようとする人にはなんとも迷惑な情報発信となる。最近話題になっている番組に、有名作家が寺を訪ね歩くという番組がある。観光名所としても名高い場所ばかりだから、そこにまつわる話を作家が番組中に紹介し、美しい眺めが広がると、つい出かけたくなる人もいるのではないだろうか。しかし、ちょっと見ているとおかしな点に気づかされる。たとえば、人っ子一人いない室生寺の塔や人もまばらな清水寺へつながる坂道を作家が歩いている姿を見ると、はてあれほど観光名所になっているところがなぜ、と思うのも無理はない。実際にどうやって撮影したのか知る由もないが、観光客で溢れかえったところで話をするのでは、せっかくの作家の声も喧騒にかき消されてしまうだろうし、何しろ事が思い通りに運ばないだろう。そんなことを考えながら眺めていると、ああこれも作られた現実なのだなと思えてくる。テレビの中のものはすべてまぼろし、と思えばどうということもないが、魔法の箱からぽんと飛び出した素敵な風景は、手の届かないところにあるのだろう。

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10月11日(土)−三文

 何が何だか解らないうちに予定通り解散なのだそうだ。人の考えは時間の経過とともに変化していくし、周囲の状況が変化するとともにそれに対応して変わらねばならない。それは分かっているのだが、しかし、今回の経過には理解しがたいものが多い。テレビでは今回の解散の名前を探す動きが伝えられていたが、思いつきとかお約束とか、薄っぺらなものが出てくるのかも知れない。
 このところの政治の流れにはちょっと不思議に思えるところがある。以前からそんな雰囲気があったといえばそうなのだろうが、見せ物小屋の安い芝居を観ているような気がするのだ。満員御礼ならいざ知らず、ぽつんぽつんと座っている政治記者という常連客を前にして、客席の受けを狙って様々な演目を演じていく総理やら党首やらの役者たち。とにかく目の前にいる敵役をやっつけることに主眼を置いて、芝居の進行など気にならぬ様子の役者と、その下らない口上に耳を傾けているふりをしながら、無関係なところで拍手を送る客たち。芝居小屋の外には、その様子が歓声やら拍手やらの音で漏れてくるが、中で何が起きているのかは外の人には分からない。芝居が終わったあとに、外に出てきた客から聞こえてくる話は何が何だかさっぱり分からないもので、人それぞれに勝手な話をしているように思える。しかし、実際のところは、芝居自体が何の脈絡もない話がつながった瞬間芸の連続のようなもので、ストーリーを順序立てて組み立て直すことは容易ではない。無いものから、あるものを作らねばならないのだ。そんなわけで、客たちはそれぞれに勝手な話をでっち上げ、あたかもそこで一大スペクタクルが演じられていたようにしてしまう。最近の政治では、有権者と呼ばれる、ここでは小屋の外にいる人たちが、まるで映画や芝居のダイジェストを見せられているようで、本当の中身を覗き見ることさえできていないし、その気もなくなっているのではないだろうか。このまま進めば、今回の解散後の選挙も盛り上がりを見せず、後になって何のためのものとしか思えないものになってしまう。小屋の中にいた役者と客という形の当事者たちは、何とかみんなの関心を呼ぼうと必死で頑張るのだが、本質が語られるわけでもなく、ただその場しのぎの話の連続となれば、さらに関心は下がるのみだ。政策論争などと言っても、政権を握ったことが無いものには実現できないなどと繰り返すようでは、政策そのものを論じることにはならないし、本人にもその気もその知識もないと思えてしまう。では、一方の政策はどうかといえば、これまでの経済の回復という時流に乗っかっただけで、以前からの言葉を繰り返すのみ、変化は見られない。そういう頑固さがお気に入りの人も多いのだろうが、どこまでついていけるのか試されていると思ったほうが良いのではないか。これだけ討論番組などで取り上げているのに、世の中の人々がそれに対して関心を持たないという現状をどう考えるのか、ご本人たちにそんな余裕はないのかも知れない。もう始めてしまったものだから、さっさと終わらせるしかない。これもまた安物の芝居、そのもののように思える。まあ、これからころっと変わって、皆の関心が急激な盛り上がりを見せるのかも知れないが、ちょっと期待できないような気がする。

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10月10日(金)−証書

 教育産業という言葉は相場の世界でも聞くことがある。しかし、それが指すのは学校教育のための補助教材や就学前の幼児教育、予備校などであって、学校教育そのものに企業が参入することはなかった。ところが、何でも自由化という調子の良い流れに乗って、この世界にも企業経営の波が押し寄せようとしている。
 そんな雰囲気で教育への企業参入を紹介していたが、現実にどうなっていくのかは誰にもわからない。学校教育と無関係な分野や大学合格などといった対価を提示できる予備校と違って、一般の学校教育にはこれといった明確な報酬を示すことが難しいという状況がある。私立の中学や高校ではまるで予備校と同じかそれ以上の形で、上の学校への合格率を宣伝文句にするところがあるが、市場からの要求とはいえ、なんとも不思議な図式のように思えることがある。少子化が進んでいるとはいえ、学校教育、特に義務教育を受けている子供の数は、それを顧客と見なした場合、凄まじい数となる。さすがに、児童生徒を顧客と見なすと明言する人はいないだろうが、現在の一部の学校の状況を見ているとそれに近いものがあるようにも見える。さすがに、これから参入する場合に、それを一番の売りに掲げるのは危険な気もするし、人間としての教育が一部で話題になっているように、単に試験をくぐり抜けるような技術を教えることの弊害も指摘されているから、もっと別の志向をもった組織が作られるのではないか。そんな実現不可能な話を掲げるほうがよほど危険と思う向きもあるだろうが、自由化という観点からすればただ教え込むのではない学校が出てきても不思議はない。一方で、このところ高齢者の意欲が強くなっていることから、生涯教育なるものにかなりの力が注がれるようになっている。実際には、通常の学校教育を終えたあとに受ける教育のことを生涯教育と言うわけだから、年齢には関係なく単に物事を知りたいという意欲を持っている人から、何らかの資格獲得を目指す人まで、色んな人々が対象となる。また、系統立てて一つのことを極めたいという人には資格が主眼でなくとも、大学院のような専門教育を行っている機関が対象となる。そんな雰囲気が満ちてきたせいか、はたまた別の理由があるのかわからないが、巷に大学院が溢れるようになっている。以前は認可を出すことを躊躇っていたお役所も最近はこの傾向が何かにつながると考えているせいか、かなり劣悪な状況の学校に対しても申請を認めるようになり、その後の実情がどうなっていくのかちょっと心配する向きもあるようだ。いずれにしても、こんな形で教育機関の充実は図られているのだが、一方で義務教育から大学教育までの通常の教育自体は様々な問題を抱えている。約半数の人々が大学教育を受けるようになった現代では、何かを学ぼうと積極的に進学する人の割合は徐々に減っているらしく、とても教育現場とは呼べない状況のところもある。ここにも資格を絶対視する人がいて、何を学ぶかではなく、納めた金に対する報酬として卒業資格を見ているようだ。こういう場合には学校と考えずに何かを売っている企業と考えたほうが分かりやすいと思うのだが、まだそこまで一般の考えは進んでいないようだ。いずれにしても、今回の自由化が教育とは何かを見つめ直すきっかけとなればいいのだが。

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10月9日(木)−審美

 綺麗な景色を見ると、それを何とか残しておきたいと思う。何か変わった出来事を目撃すると、他の人に知らせてやりたいと思う。そんな気持ちを持つことは人間だれしもあるのだろう。この感情が時代を超えて存在することは、遺跡に残る壁画などを見てもわかる。スケッチという手段が存分に使える人にはいとも簡単なことだが、絵を描くことが苦手な人には難しい。
 古代の人たちと違って、現代は文明社会である。何が文明って、単に機械や道具を使うことができるというだけなのだが。とにかく、今生きている人たちにとって、目の前に広がる風景や光景を記録に残すことは容易いことである。写真、ビデオ、何でもあるからだ。40年くらい前のこととなると、ビデオなど放送関係者以外には使える代物ではなかったし、写真もデジタル写真は存在せず、写真といえばフィルムを使って撮るものというのが常識だった。今はデジタル写真が主流になり始めているから、それとの区別をするために銀塩写真などと呼んでいる人もいるがどうも馴染めない感じだ。デジタル写真はついこの間登場したものと思っている人も多いが、実際にはソニーが試作品として紹介したのが既に20年ほど前の話で、さすがに商品化に手間取りすぐには市場に出なかった。当時ある仕事でその利用を考えたことがあるからよく覚えているのだが、記録をコンピュータに残す上手い手段と期待しつつ、あっという間に時が過ぎてしまった。銀塩写真に話を戻すと、小さい頃には既に写真はどこの家庭にもカメラがあるというほど普及しており、当時は動きが欲しいというので8ミリカメラが流行っていた。色んな手間がかかる8ミリと違って、やはり写真は手軽で誰にでも愉しめたから、老若男女を問わずカメラを持ってどこかに出かけるということが多かった。当時の大衆カメラは誰にでも簡単にきれいな写真が撮れるように、広角レンズをはめて距離も露出も合わせずに済むものが多かった。広角レンズは距離の合う範囲が広く、明るいものが多かったから、大抵のところで問題なく写真を撮ることができた。当時使っていたものに、コニカの前身であるさくらが出していたカメラがあり、それはレンズの両側にある二つのボタンを順に押すことで撮影できるものだった。フィルムは35ミリではなく、2B版というちょっと大きなフィルムで、二眼レフと呼ばれるカメラに使われていたものだと思う。とにかくそんなもので遊んでいたことを思い出す。次に使ったのは母親からのお下がりで、距離、露出を自分で設定するという型だった。これは急に難しくなる。距離も絞りも勘で合わせるしかなく、外れればぼけた写真となるし、下手をするとうっすらとしか像が残らない。距離も絞りも大体とはいえ、適正に近い値を設定しないと良い写真が撮れない。それでも、白黒フィルムを使えば、まあ何とか我慢できるものが多く、色々と撮りまくっていた。こんな調子で深みにはまり、一眼レフを買ってもらうようになって、フィルム現像や焼き付けにも手を出していたが、これは後年仕事の上で役に立った。デジタルカメラが登場したときに、その役目を譲りたいと思ったものだが、相手の方に逃げられてしまったようだ。ごく最近まで一眼レフ形式のデジタル機が登場しなかったが、プロの眼には不満に映っていたのだろう。解像度も上がり、さらに廉価版が登場することで、一般にも普及し始めたようだが、まだまだ銀塩フィルムにこだわる人もいる。何事にも見る目を持つと、こだわりたくなるものらしい。

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10月8日(水)−模擬

 管理サイトにアクセスしようとしたら、クッキーが無効ですとのコメントとともに、拒否されてしまった。ブラウザの設定は当たり前のことだが有効になっていて、何が起きたのかさっぱりわからない。とにかく、機械は何度でも根気よく同じ返事を返してくる。以前にも起きた症状だが、結局は出入りをやり直すしかないようだ。仕掛けがわからないから原因もわからない。
 最近事故が多すぎて、何がどうだったのか、すぐに忘れてしまうことが多い。何しろ、次から次へと起きてくるから、全てを把握してさらに覚えておこうなどというのは無謀ということなのだろう。つい先日も、鉄道工事用の道具の一部、といってもかなり大きなものだったらしいが、を、線路上に置き忘れて、始発列車がそれと接触し、数時間不通になる事故があったが、隣の路線にまで影響を与えていたから、JRでも一番混雑する箇所ということでどのくらいの人に影響が出た想像できない。単なるうっかりミスという類いのものだが、こんなことでも数万人単位の人に影響が及び、その損失の合計は計り知れなくなるわけで、公共交通機関としてうっかりとは言えないものとなる。これとは別に周到に準備されたはずの工事がとんでもない結果を生んで、数時間で済むはずのものが半日以上滞ってしまった話もある。開かずの踏切は都内ではそこら中にあるが、その解消のために高架化したり、地下を通る形式を導入するのだが、その切り換えの時に事故が起こったとのことだった。信号、ポイントなど、様々なところに不具合が出て、原因がわからず右往左往したらしいが、最終的には何とか正常に戻ったとのこと。しかし、その間にも鉄道の不通に対処するために運行されていたバス輸送を復旧前に予定通り打ち切るなど、問題が起きてからの対処には相変わらずの不手際が出ていた。リスク管理などと巷で言われても、当事者達はリスクの想定さえ行わず、どうにかなる主義が蔓延っているから、どの業界を見ても不手際ばかりが目立つことになる。本人達はその場で必死に対処しているのかも知れないが、想定もせずに急に対処法を捻り出すのは、特に被害が大きい場合ほど難しい。何しろ、一つのことだけでなく、多くの複雑に絡み合った出来事を解消するための方法を短時間で編み出さねばならないのだ。絡んだ糸を解すときに、焦ってはだめといわれる通り、これもまた急げば急ぐほどうまくいかないものだ。それにしても、今回の事件は結局設計図の段階での間違いが原因だったようで、様々な方向から検討を重ねたという話は意味を持たなかったようだ。記憶が定かではないが、以前京都市内で停電が起きたときの原因は、変電設備の切り換えの配線を設計段階で間違えて描き込んだことで、その場で何度チェックしても間違いには気付けなかったようだ。いずれにしても、こういう公共的なものに起きる事故やミスはその影響が甚大であるから、たとえ小さなものでも起きないように配慮する必要がある。だから、色んな方向から見て、相談や打ち合わせをきちんとして、という方向に進めがちなのだが、もっとも効果的なものは実際には多くの人の頭で考えることではなく、たった一つの想定実験、シミュレーションなのだ。設計図が間違っていた場合、それを基にして話をするのでは、結局そこにあるミスを見つけることは難しい。また、設計そのものの専門家は多数の参加者のほんの一部だから、彼らが気づく以外にミスが見つかる可能性は少ない。そんな状況で何度話し合いを持っても、この手の問題が解決することはない。しかし、実際に回路を組んで、どう働くかを検証してみれば、結果は誰の目にも明らかとなる。最近はそのための設備も揃っているはずだが、どうもそのあたりの準備がきちんと行われていないような気がしてならない。これは、ちょっと前のメガバンクの馬鹿げた事故による大騒ぎにも当てはまる話で、小規模でも良いから試しておくべきだったという指摘がある。それぞれの部署に任せることは大切だが、最終的に検証することを忘れてはならないし、それができる環境にあることを再認識すべきだろう。

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10月7日(火)−scent

 先日、ある賞の授章式に出てきた。ルネッサンスの頃には一つの枠の中に入っていたと思われる二つの分野が、その後専門化の一途を辿りついには遥か彼方に分かれてしまったことから、それらの融合や出会いを目指す人々に対して作品を募集し、優秀なものに賞を授けるというものだ。面白さとつまらなさが混在する、何とも言えぬ雰囲気のものである。
 受賞作品についてあれこれと論じるつもりもないし、それぞれがそれぞれなりの特長を持ち合わせていたから賞が与えられたのだから、文句を言っても仕方がない。面白いと思えたのもあるし、つまらないと思えたものもある。まあ、これはどんなときもこんな感じだから、ごく当たり前と思う。式の後にパーティーが開かれ、式の時の三倍ほどの人々がそこにいて驚いたが、主催者の意図なのか、招待客の人選の問題なのか、さっぱりわからない。それにしても、賞の目指すところの一部には自分を売り込もうとする人々が関わるところもあるから、こういった現象はまた当たり前と言えるのかも知れない。人の功績の内容を知るよりも、自分の顔と名前を覚えてもらうことが大切なわけで、そういう機会として重要と考える人もいるのだろう。そんな中で旧知の人と話をすることはとても楽しいことで、普段とは違った新たな刺激が加えられるから、こういう会での一番の愉しみとなる。と言っても、ほとんどは他愛のない話で、今回もっとも印象に残っているのは、ドイツ出身の人の自然の香りについての話だった。この時期、道を歩いているとおやっと思う香りが漂っていることに気がつく。普段なら、周辺の店から流れてくる食べ物の匂いが優勢となっているが、それを上回る香りを放っているのは庭木の金木犀だ。どこを歩いていても匂うので見回してみると気がつくのは、多くの家の庭に金木犀が植えられていることで、日本人がこの香りをいかに好んでいるのかがわかる。このドイツ人も今は日本人と一緒に暮らしていて、日本の四季の移り変わりに対して特別の思いがあるようだった。ドイツでの生活がどのようなものだったのかは知らないが、この国ほど自然の豊かさを感じられるところはないらしく、他の国に旅をしていても思い出すものらしい。そんな人が金木犀を語るときに、この時期が一番好きとか、この香りを身にまといたいとか、そんな話が中心になる。生活が豊かになるにつれて、必需品だけでなく他のものにお金を使うことができるようになったから、女性だけでなく男性も化粧品に手を出すようになってきた。特に、香水などの香りを身に付けるものは非常に多く出回っていて、それらがそれぞれ違う匂いを発するから、人が集まるところに行くと単品ならば良いはずがまぜこぜになって台なしと思えることもある。天然素材を使っているものが多いはずだが、やはり人工のものも多いらしく、そのドイツ人に言わせれば人造の香りがするのだそうだ。それに比べたら、金木犀の花の香りは天然のものであり、強すぎず弱すぎず心地良く感じられるのだそうだ。まあ、確かにそうなのだろうけれども、こんなにそこら中に植わっていると、さすがにちょっとしつこく感じられることもある。特に、花粉アレルギーを持っている人にとっては、こういった匂いもちょっと過ぎるとくしゃみのきっかけになる。外国から来た人々にこういう形で日本のものを褒めてもらうのはとてもうれしいことだが、だからといってみんなが庭木にとなると、ちょっと止めて欲しい気持ちも出てくる。

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10月6日(月)−差異

 日常的に気になることが多いので、つい、ここで何度も書いてしまうのだが、物の見方の重要性が高まっていると思う。他人の見方を鵜呑みにする人が増え、それを利用する人々が増えるに従って、その波に呑み込まれないための知恵として、違う角度から物を見ることを常に心がけておく必要がある。
 些細なことでも、そういった心がけをしながら見てみると、意外に違ったものが見えることもあるし、それによって新たな発見のある場合もある。その度に表に出していると、周囲の人々からは批判家として見られてしまうかも知れないが、そういったことも時には必要となる。見方によって違ってくるものは沢山あるけれども、人の性格もその一つだろう。最近の履歴書にその欄があるかどうかわからないが、自分の性格を書く枠があったように記憶している。気が長いとか、逆に気が短いとか、我慢強いとか、協調性があるとか、色んなことを書く人がいたのだろうが、同じ行動を示すものが違う表現によってまったく違ったもののように受け取られることがある。たとえば、短気なことに起因するものでも怒りっぽいとか飽き性とかに対して、決断が速いとか言えなくもないし、気が長いことに対しては、我慢強いとか柔和であるとか言う代わりに、煮え切らないとか物事の白黒をはっきりさせられないと言われてしまうこともある。協調性に関しても、あることが絶対条件のように言われることがあるが、人に合わせすぎて自分の意見を持てないと見なされることもある。同じような行動も、どこに線を引くかによって、過ぎたるは及ばざるがごとしとなってしまうわけだ。同じものが捉え方によって違ってくることはある程度仕方のないことなのだが、これがその次の段階の扱いによってさらに重大な問題につながることもあるから、どうでも良いと放っておけないところもある。性格というのは持って生まれたものだから、一生変わらないと思っている人も多いが、部分的にはちょっと様相が変化することもあり、一概に不変であるとは言いにくい面をもつ。ただ、多くのものはわずかな変化を伴うだけだから、総じて若い頃から気長な人は気が長いままであろうし、忙しく動き回る人はわずかずつ動きが鈍くなるにしてもそういった性癖は変わらない。だから、こういうものはどこかに刷り込まれたものがそのまま一生続くものと考えたくなる。一方、この頃学校などで話題になっているそわそわして教室にとどまれなかったり、落ち着かないという子供たちは脳の中のどこかに問題があるとして多動症などと呼ばれたり、まったく別の問題行動として自閉症などが紹介されたりする。これらの場合、必ずと言っていいほど、どこかに障害があって、それによって問題行動をすると説明されるが、中には性格と言ってもいいくらいのものが沢山あるのではないだろうか。どこに線を引くのか、明確な答えはないのだろうが、その場その場で症状を見極めながら判断が下されているようだ。しかし、何が原因なのか不明であり、人それぞれでかなりの違いがあることから、障害とすべきものなのかどうか疑わしい感じもする。性格も脳の違いだろうし、これらの症状も脳の違いから来ると考えると、その間の違いはどこにあるというのだろう。確かに、社会生活を営む上で問題のあるものといった捉え方で分けられているような気もするが、性格と言われるものにもかなり逸脱したものがある。当事者や関係者にとって、これらの分類を重要なものと扱いがちだが、はたしてそんなものなのだろうか。性格と障害、扱いの違いによって、何が違ってくるのだろう。多様性と片付けられないものだから、異常とか障害とか言ってしまうにしても、これほど不明瞭なものはないと思うのだが。

(since 2002/4/3)