パンチの独り言

(2003年10月13日〜10月19日)
(誤報、乗っ取り、先頭、基準、怖れ、おと、綾)



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10月19日(日)−綾

 地下鉄に乗っていたら、制服の子供たちがどやどやと乗り込んできた。当日は土曜日で学校は休みのはずでは、と思ったが、私立であれば休みでないところが多い。大変だなあと思いながら横目で眺めていたら、小学生らしい女の子が二人近くに座ってきた。手にタコ糸で作った輪を持ちながら。
 ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら、彼女たちが始めたのは、あやとりである。懐かしいなと思いながら、時々そちらの方に目を向けていたら、どちらも一人あやとりを愉しんでいる様子だった。手指が覚えてしまっているような感じで、すいすいとこなしていき、次から次へとそれらしい形を作っていく。あやとりも折り紙などと同様、教本のようなものが売られていて、それを眺めながら覚えていく人もいるかも知れないが、ほとんどの人は友達や親兄弟あるいはおばあちゃん辺りに教えてもらったのではないだろうか。一つの輪を指に引っかけて、あっちへこっちへと移していくだけで、複雑な絡み方ができ、それによって色んな形を作る。川だったり、はしごだったり、この辺りはすぐにわかるが、かえるやらトンボなどとなるとちょっとすぐにはそれとわからないものになる。四段ばしごやホウキなどの単純なものを作って遊んだことはあるが、複雑なものは実際に作ったことがないからどんなものがあるのか知らない。しかし、あんな遊びをする子どもがまだいるのを見て、なんとも懐かしい気持ちが出てきた。しかし、それにしても、手も素早く動いているが、口の方もかなり滑らかなようだ。ちょっと離れていたので、話の内容はまったく聞こえてこなかったが、色んな形を作りながら、その話でもしていたのだろうか。そのうち、片方の女の子があやとりに飽きてしまったらしく、もう一人の子にヒモを使った奇術を見せ始めた。指の間をヒモで輪を作りながら通していくと、そのまま見たところでは絡んでいてほどけそうにもないのに、端の一本を引くだけで、するするとほどけていく、というものである。不思議に思う人もいれば、どんな絡め方をするのかと注意深く観察しようとする人もいる。見せられていた女の子は、どちらかというと今一つ興味が湧かないと行った感じで、ちょっと不思議そうな仕草をしたが、そこまでだった。そして、その間も、ぺちゃくちゃが続いていた。ひとしきりすんでしまい、静かになるのかなと思っていたら、どうも降りる駅に地下鉄が近づいてきたようだ。二人とも慌てて座席を立って、出口の方に急いでいった。その時、出口の周りには立っている人がいて、すぐには出ていけない。そこで、一人が、「降ります!」と声を上げた。黙って、人を突き飛ばしながら降りていく人が多い中で、これはこれで当たり前のことなのだが、何だか安心させられた気持ちがした。

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10月18日(土)−おと

 ラジオから音楽が流れてくる。歌謡曲、ニューミュージック、クラシックなどと色んなジャンルがあるが、それらの中に含まれないものも多い。分類がどうなっているのか知らないし、時々CDを買うときに探すのが大変なくらいで、あまり気にならない。最近は「癒し」を売りにしたものが多いが、どれも静かに聴ける。
 音楽には気持ちを楽にさせてくれるもの、落ち着かせてくれるもの、盛り上がらせてくれるもの、などなど、色々とあるが、一方でいらいらさせられるものもある。そんなのは聴かなければいい、と言うのは簡単だが、実際にはそうはいかないことも多い。電車の中でどこから漏れ聞こえてくるシャカシャカという音に、不快感を覚えたことのある人もたくさんいるのではないか。日本の電気メーカーが作った持ち運びのできるテープ再生機は、とても便利なもので使ったことのある人も多いが、最近はそれがCDからMDと変わり、小型化されてきた。また、耳の方を見ているとイヤホーンからヘッドホーンと変わってきたが、音が外に漏れるのを完全に抑えるものは少ない。また、音楽によってはかなりの大音量で聴いている人がいるから、結構うるさいと思える車内でも高音のシャカシャカは嫌でも聞こえてくるわけだ。これを音楽と呼ぶべきかどうかは何とも言えないが、元々は音楽、でもちょっとしたことで他人に不快感を催させるものとなる。これとは違うが、先日目の前を走っていた車から流れてきた大音量音楽は車をビリビリと震わせるほどのもの、仕方なく車間を空けて信号待ちをした。これもまた迷惑だが、後の窓を開けてまで大きな音で聴く神経は理解しがたい。挙げれば数限りなく出てくるものだが、音楽そのものに話を戻すと、色んな思い出や記憶を取り戻させる力を持つと言えるのではないか。昔、その音楽を聴いていたころのことを思い出す人もいれば、歌詞がついたものであればその内容から、何かを思い出す人もいるだろう。単なる唄ではないかなどという人もいるだろうが、その通りとこういった思い出との結びつきを感じた人もいると思う。特に、日本以外の国に行ったときに、それを強く思うことがあるのではないか。移住して長い間訪ねていなかった国の歌が偶然流れてきて、驚くとともに感動したという話もある。慣れ親しんだ音楽だからこそ、より強く記憶中枢に働き掛けるのかもしれない。本を読んだり、話を聴いたりするよりも、ずっと強い効果をもつ場合もある。音楽が世界中あらゆるところで流れているのは、こんなところに理由があるのかもしれない。たった一度だが、それに近い経験をしたことがある。外国のショッピングモールで買い物をしていたとき、ずっと流れ続けていた音楽が急に雰囲気を変えた。おやっと思いながら耳をすませると、そこにはイルカのなごり雪が流れていた。

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10月17日(金)−怖れ

 最近、世の中が荒れていると感じることが多いのではないだろうか。凄惨な事件が報道され、町中でも異様とも思える光景に出くわすことがある。経済的には恵まれているはずなのに、精神的には満足が得られず、何を求めたらいいのかさえわからずに、行き惑っているようにさえ見える。原因は色々とあるのだろうが、はっきりとはしない。
 こんな現象はこの国だけのものかといえば、そうでもない。世界中、どこでも、いつでも、似た現象が起きているし、この国にやって来る外国人が同じような事件を起こすところを見ると、この国特有のものとは言えそうにもない。ただ、一部の人々は、現状を教育制度のせいにしたいらしく、色んな形で管轄官庁を非難することに力を注いでいる。実際には、そういう流れを作る原因はどこか別のところにあって、この国ではそれが教育制度の改革という形で現れているに過ぎないのではないだろうか。そう考えないと、世界中、特に先進国と呼ばれるところで、同じような悩みが出てきていることを説明できそうにもない。ただ、とにかく、報道によれば、かなり深刻な状況になっていることは事実のようで、何とかせねばならぬという大合唱が毎日のように流されている。報道によるというのが実際には鍵になっているという指摘もあり、昔から凄惨な事件はあったし、若年層による重大事件も同じかそれ以上の数発生していたという話もある。まあ、いずれにしても、重大な事件を起こす人々の精神がどんな状態にあるのか、凡人には解りかねるところがあるので、それを論ずるつもりはない。ただ、毎日の生活で、身の回りを見渡していると以前は気がつかなかったような出来事が起きているのは実感するから、何かが変わってきていることは確かなのではないだろうか。特に、最近の出来事を耳にすると、そこに恐怖というか、そんな感情が減退しているような感じがすることがある。こんなことを書くと変に思われるかも知れないが、最低限の縄張のようなものがそれぞれの人にはあって、その中には他人を入れないと思えるのだが、まったく誰を相手にするときもその線を感じさせない人が増えているような気がする。色んな詐欺事件の話を聞くかぎり、信用という感覚が、疑惑という感覚を、あらゆる面で押さえつけているとしか思えない。これも、相手を怖れるという感情がどこかへ行ってしまったからと考えると、何となく理解できるような気がするのだ。では、一方で、対人恐怖症のような人はどうなのかと指摘する人もいるだろう。確かに、最近そういった心理的な問題を抱えている人が増えているようだが、この場合の恐怖と上で紹介した怖れとは何か違ったもののような気がしている。あらゆる瞬間に恐怖を感じるというのは、感じるべきときに出てくる感情とは何か違っているのではないだろうか。専門家ではないのだから、これ以上難しい話はできないが、恐怖という感情を考えたときに、ひょっとするとこれは人間社会にのみ適用されるものではないという気がしてきた。というのも、野生のニホンザルが最近山から里に降りてきて、農作物を荒らすという話がよく紹介され、さらには人家にまで堂々と侵入してくるようになった。これは、確かに山に食べ物が減ったことにもよるのだろうが、越えてはいけない一線を越えるようになった証拠なのではないか。つまり、野生動物にとって人間は恐怖の対象となりえなくなったのではないだろうか。無茶な関連づけだが、動物保護がやかましく言われるようになり、色んな形で運動が行われた結果、共生が恐怖で引かれた一線を消し去ったのかも知れない。動物に対する感情と人間に対するものとが同じである必要はないが、そんな考えが頭をよぎった。

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10月16日(木)−基準

 鯨尺というのを知っているだろうか。鯨のヒゲから作ったものさしで、尺寸単位の長さを測るものだった。公式には、尺貫が使えなくなり、鯨も様々な要因から捕れなくなったので、もう見かけることはなくなった。ただ、尺寸に関しては、業界によってはまだ使っているところもあると聞く。自分たちで作った単位が、外から入ってきた単位に置き換えられることによる不便が大きいためだろう。
 こんな話はどこの国に行ってもあることで、欧州の場合はほとんど感じないが、米国では非常に強く感じる。毎日の天気予報では、天気だけでなく、気温も伝えられるが、それは日本を始めとした世界基準となっている摂氏(℃)ではなく、華氏(°F)で表記されている。一般的とは言えないが、科学実験の世界ではどこへ行っても摂氏表示が当たり前となっているのに、こと気温に関しては華氏が使われたままである。面白いのは、科学者たちの感覚で、実験室の気温や水温などは摂氏でなければならず、しかし一度外に出ると華氏で気温を感じるわけだ。まあ、別物と思えばいいのだろうが、混乱しないのかと不思議になる。これとは別に、距離、長さの単位もややこしいものになっている。最近頻繁に放映されるようになった大リーグでは、投手の投げる球の速度がマイル表示されており、それをキロメートル表示に変換して伝えている。また、ゴルフは英国を発祥の地とする競技で、米国が最も優勢となっているからか、ヤード表示が使われ、日本では一時的にメートル表記が導入されたが、混乱を来したためか、いつの間にかヤードに戻されてしまった。国際的には、メートル表記が標準とされているが、これは仏国から始まったことで英仏の特殊な関係が反映したためか、いつまでも頑なな態度を続けているようだ。但し、これも科学の世界では、ごく当たり前にメートルが使われている。その辺には標準に対する考え方がうかがわれるのだが、実生活は別物とでもいうのだろうか。どちらとも違う日本が尺貫法からメートル法にさらりと変更してしまったことと比べると、不思議に思えるものだが、当事者たちは教育の難しさや歴史や伝統を守ることを主張しているようだ。それなら、この国の人々はそういうものに対する配慮がないということになってしまうのだが。さて、これらの問題は当分の間片づきそうもないが、先日新たな問題が持ち上がった。小数点表記と桁数表記の問題である。日本では、小数点はピリオド、桁数は三桁ごとにコンマを使う。これで習ってきたから、世界中どこでもその通りだと思っていると、これまたそうでもないのだ。今度も欧州と米国の戦いといった様相を呈しているのだが、独国や仏国を始めとする欧州では、ピリオドとコンマの使い方がまったく逆なのである。これらの国を旅行したことのある人は気がついたかも知れないが、あれっと思ったはずである。何かの間違いではなく、それらの国ではこの使い方が正しいのである。経済的には圧倒的な優勢を保つ米国に対し、こと単位に関しては基準となっていることを自負する仏国は、この違いに関しても自らの主張を通そうとしているらしい。但し、ここで再び科学の世界を覗いてみると、そこでは日本や米国で使われているものが使用されている。但し、これも英語だからと言われればその通りで、言語との結びつきを無視するわけにもいかないのだろう。いずれにしても、この議論の決着はそう簡単につくとも思えないし、今や米国一辺倒と見なされる日本がどちらにつくのかは明らかと思われる。いずれにしても、世界標準とは面倒なものだ。

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10月15日(水)−先頭

 バブル期、日本の経済は米国を抜く勢いで成長を続け、このまま天井知らずに伸び続けると思い込んだ人もいたようだ。当時は一番になることが最重要で、それさえ達成すればあとは何でも思いのままと信じる向きもあった。しかし、実際には、そんな幻想を抱くのは無茶であり、その後の展開をみるかぎり天井知らずどころか、深い穴に落ち込んでしまったと感じる人も多い。
 人間誰しも一番になりたいという欲求をどこかに持っていると思う。学校に通っている頃には、クラスで一番、学年で一番といった目標を持っていた人もいるだろう。勉強で達成するも良し、運動で達成するも良し、その他隠し芸のようなものに才能を輝かせていた人もいるだろう。ただ、一番というのはある集団の中でということなので、年齢を重ねるごとに集団の大きさが増してくるし、高校や大学に入るようになると集団ごとの質の違いが明らかになってくる。そうなると、常に一番をとることができる人はいつもたった一人であり、同じ目標に向かって進んできた人たちの中で熾烈な競争が繰り広げられることになる。こう書くと、いかにも達成不可能なものに向かっていく人々といった感覚を持つのかも知れないが、逆の考え方をすれば、たった一人とはいえ、必ず一人はいるわけである。一方、集団の中の一番は別の集団に入れば必ずしも一番になれるわけではない。こちらは一番の難しさを表していると思う。日本の場合、よく引き合いに出されることに、日本で一番を強調する人が多いという話がある。確かに、まずは手近なところからトップであることを主張しなければならないから、当然の話なのだがこれで完結してしまうところに問題があるというわけだ。つまり、世界で見たら大したことはないが、国内ならば何とかなると主張しているわけで、井の中の蛙みたいなものと同じと言われる。しかし、実際には大海を知らずなわけではなく、大海を知ったうえで意図的に井戸の中の話に限定しているのだから、悪質であると言われるわけだ。そんな狭量さに嫌気がさしたわけでもないだろうが、最近は一番、つまりナンバーワンよりも、オンリーワンを目指すべきであるという話がよく聞かれるようになった。一番は、集団が大きくなれば達成不可能に思えてくるけれども、一方で必ずどこかにいるものであり、さらにはある枠の中での競争だからどんぐりの背比べのようなちょっとした差を大きく取り上げることになりかねない。そんなことから、その一番がいなくても、二番以下がいるだけで十分と捉える人もいて、ナンバーワンにはそれほど価値がないと主張する。それに比べると、他の誰もやっていないことをする、オンリーワンは特異なものとか、奇抜なものとか、色んな表現があろうが、とにかく唯一というわけで、他と比べようもないから傑出したものとなる。だからそちらの方をもっと評価すべきとなるわけで、特に独自性を尊重する風潮が目立ち始めた頃からそんな声が届くようになった。ただ、この評価はとても難しい。誰もやっていないことが必ずしもすごいこととは言えないからだ。始めは評価されなかったものが、後になって高い評価を受ける場合も多く、その辺りの難しさを語っている。特に。真似が得意で独自性がないことを悩みの一つにしてきた国にとっては、その辺りの評価を行わずに唯一と捉えることに魅力を感じる人も多いから、さらにオンリーワンを重んじる傾向が出てくる。実際には、独自性は十分に発揮されているが、それを評価する能力にいささかの欠陥があるわけで、それを理解していればこんなことをする必要はない。何とかワン、ということに拘るのではなく、まずは目の前で起きていることを冷静に見極める心を持つことが大切なのではないか。

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10月14日(火)−乗っ取り

 毎朝、車で通勤するときにラジオを聴いている。NHK第一放送なのだが、いつも必ず、あるところを通るときに混線する。誰か別の人がしゃべっている声が聞こえるときもあるし、何か音楽が流れるときもある。走っているとほんの一瞬だが、そこにある信号で止められたときにはもう少し長く聴くことができる。しかし、混線の度合が低いので、結局のところよくわからない。
 西の方に向かって走っていると、かなり強い出力をもつはずのラジオ放送でも、混線することがある。特に、それは夜に限ったこととなる。ほとんどはハングルで、北の方からまるで妨害電波のように飛んでくるのだそうだ。目的も、内容も、何もわからないが、一聴き手としては大迷惑な話である。国を挙げて、そんなことに力を入れるなどというのは、さっぱり理解不能なことで、不可思議としか言い様がない。まあ、あの国はほとんどの国際的な規則に参加していないようだから、こんなことをしても何も非難されないのだろうし、元々罰則規定が存在するわけでもないようだ。始めに紹介した話は、これとは少し違ったものと思われる。というのは、局地的に混線が起きるのは、同じ波長の電波で発信したものではなく、発信局の近くではより強力な電波が受信され、それによってまったく違った波長にまで入り込んでくることが考えられるからだ。こんな現象の一つとして何度も経験したものに、幹線道路における混線がある。大きな道路を走りながらラジオを聴いていると、ガリガリという大音響とともに、うるさい声が聞こえることがある。注意して観察すると、そのほとんどは大型ダンプやトレーラーとすれ違ったときに起きていることに気がつく。また、信号待ちで前後にこれらの車がいると、その間中ガリガリと不快な音が入り込み、スイッチを切らざるを得ない。内容は世間話がほとんどだが、中にはネズミ取りの情報や渋滞の状況を知らせるものもあるようだ。とにかく、そんなことを経験してから、これらの方の車とすれ違うときに運転手の様子を窺ってみると、マイクを片手に話している人がいることがわかる。ただ、その時でも混線が起きるときと起きないときがある。この違いはどこから来るのだろうか。簡単には使用している通信機器の違いということになる。混線しないものの多くは、ハムと呼ばれる、アマチュア無線の免許を持つことを示すステッカーを車の後部に貼っている。それに対して、混線するものにはそんな表示はなく、アンテナなども大げさなものが多い。これらは、CB無線と呼ばれる免許がいらない無線を使っているのだが、問題はその出力にある。ハムも出力制限はあり、免許制だからちゃんと守られているのだが、CBの方は免許がいらないからその辺り徹底されておらず、不法な大出力機器を売ったり、改造したりする店もある。当然、出力が大きいほど鮮明に遠くまで通信できるから、不法と知りながら使う人々がいる。道路の沿線のコンビニの自動ドアが誰もいないのに開いたり、テレビの画面が乱れるのも、これが原因と言われ、通信を管轄する旧郵政省、現総務省もその取締に力を注いでいるが、何しろ移動局だから捕まえにくい。以前から問題視されていたが、世の中が自分中心的考えに向くに従って、一層被害は増しているようだ。

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10月13日(月)−誤報

 某全国紙一面の広告上にある編集者によるコラムは、昔から大学入試の題材として使われるほど話題になっていた。時事的な事柄を捉えていたり、昔懐かしい話を取り上げてみたり、とにかく主題は様々だが、結局のところ読者に何かを語りかけようとする姿勢が見てとれて、内容、文章とも評価が高かったようだ。
 しかし、その評判も最近はとんと聞かなくなってしまった。入試に使われていることは続いているのだろうが、最近のものを採用するより、ちょっと昔のものをといった傾向も出ているようだ。そのうち、逆の評判が聞こえてくるようになってきた。最近の書き手はかなり程度が低く、取り上げる内容も劣悪だが、文章にもかつての鋭さが見えなくなっているなどといった話である。この欄を担当する編集者はずっと同じというわけではないから、内容の傾向や文章の巧拙などが違ってきても不思議はないのだが、評判が落ちている理由はそれらが許容範囲を超えるものということからのようだ。毎日注意して読んでいるわけでもないから、批評ができるわけでもないが、少なくとも文体はかなり違ったものになっていることに気がつく。どちらかというと、本人より一世代下の人たちが使いそうなものを使っているように感じるからだ。そのあたりが、うるさい読者や同業者に批判されるようで、内容も同じように対象読者を変えたように思えるわけだ。まあ、色んなものが時代の移り変わりとともに変遷していくわけだから、新聞のコラムなどどう変わろうと知ったことではないのかも知れぬ。ただ、一方で新聞が事実を事実として伝えることだけでなく、そこに論評のように何かの意見を加えていくことがその役割の重要な要素であることを考えると、こういった傾向には警戒したくなるものである。最近は特に、署名記事ということがうるさく言われるようになり、誰が書いたものか、つまり誰の意見なのかを明確にすることが求められている。新聞社という看板があればそれですべてが語れるというのではなく、個人を特定することの方が重要視されるようになったわけだ。この背景には、事実を事実として伝えることが達成されていない場合が多く見られるようになったことがあるのではないだろうか。事件では、警察の発表をそのまま転載したり、どこから漏れたかわからないガセネタを掲載することがある。裏をとれ、とうるさく言われていたと昔の記者たちは語るが、今の記者たちは気にしていないのだろうか。冤罪と言われることの多くはこんなことで起きている。また、新聞の程度の下落を示すものとして、編集段階での見落としが挙げられることもある。先日の石油精製所の火事の記事に、「鎮圧」を見出し、本文ともに使っていた経済紙があったが、こんな用法は見たことがなかった。辞書で見るかぎり、この使い方が正しいとは思えない。まさか、新しい試みとも思えないのだが。

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