パンチの独り言

(2003年10月20日〜10月26日)
(秋実感、悪法、冤罪、嘲笑、公僕、偵察、有意差)



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10月26日(日)−有意差

 冬に向い始め、気温が下がるとともに、乾燥した日が続くようになってきた。水道水も冷たくなって、温水を使うことも多くなるのだろう、手荒れが気になる人もいれば、単に乾燥しているだけで、肌がかさかさしてくる乾燥肌に悩まされる人も増えてくる。加齢現象の一つとして、この乾燥肌も挙げられるようだ。
 肌に潤いを、という宣伝文句がよく聞かれるが、こちらの方はどちらかというと、顔に限定されたものが多いようだ。当然ながら、女性向けのものがほとんどで、年齢を重ねるとともに、といった言葉がつけられていたりする。別に顔に限ったことではなく、体中の肌に同じ現象が起きているわけで、それが乾燥肌と呼ばれることもある。コラーゲンがどうこうという話も聞くが、体外からの処置が有効な場合は少なく、やはり、身体が作りだすように何らかの働きかけをするのが一番効果的なのだろう。それが難しいから、色々と外からの処置を施しているわけなのだろうけれども。肌がかさかさしてくると、痒みを感じることも多いし、肌着との関係も考えねばならない。ということで、クリームを塗って、痒みを和らげたりする必要も出てくるわけだ。一方で、風呂で身体を洗う場合にも注意が必要となる。脂汚れを取り除くために石鹸を使うわけだが、身体の中からそういう成分がすぐに補われているうちはさほど問題にならないとはいえ、成分補給が滞り始めると、結局汚れの落とし過ぎが問題になったりする。強いものではなく、なるべく弱めのものを使い始めるのも、こういう時期になるのだろう。そんな時代なのか、身体を洗う石鹸、といっても固形のものはあまり見かけなくなってきたが、に関しても、いろんなものが売られているようだ。こんな成分が含まれているというのが、宣伝文句になっていて、たとえば保湿成分と呼んだり、潤いを与えると称したり、その他諸々の売り言葉が並んでいる。実際には、グリセリンなどのアルコール類が含まれていることが多く、ドロッとしているから効果的なのかなというくらいしか、考えつかない。ただ、これらの成分を混合したものに新たな呼び名を付けることによって、新開発という印象を与えるものもあり、成分表示と宣伝文句の違いに戸惑う人もいるのではないだろうか。そんな製品の中に愛用しているものがあり、成分表を見ながら不思議に思ったりするのだが、先日もっと不思議に思わされることがあった。容器の廃棄がゴミ問題と重なるためか、最近は詰替え用のものが売られている。当然割安になるようになっているようだが、その中に不思議があった。通常、一つで売られているものが、徳用として二つ入りで売られており、これが安売りの対象になっている。表の表示はまったく同じなのだが、袋の裏の表示が微妙に違うことに気がついた。製品名の後にbというも字が入っているのだ。おやっと思って、成分表示を見ると微妙に違っている。つまり、同じ製品ではないようなのだ。しかし、表は同じであり、消費者は同じものと思って、得をしたと思いつつ購入する。こういうやり方は違反ではないと言えるのだろうか。表示は確かにあるとはいえ、すぐには気がつかないようになっている。また、成分の違いが何を意味するのかもわからない。まったく不思議なお話である。

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10月25日(土)−偵察

 子供の頃、何かわからないことを調べようと思ったら、辞書を引くか、百科事典のようなものを開くしかなかった。まあ、それでも色々とわかることは多かったが、百科事典のない家の場合、それも簡単なことではなかった。確か、ノーベル賞をもらったある人は、父親の百科事典で色々と勉強したという話だが、それもかなり恵まれた環境からということだろう。
 今は、百科事典よりも強力な味方がいる。インターネットというある環境さえ整えば、誰にでも使える強力な組織だ。これも、思いつきで、あそこ、ここと訪問するだけなら、大して役にも立たない。そんな方法では、手に入れようとする情報が入っている箱を開ける確率など、ほとんどないからだ。インターネットというシステムだけだと、こんな状況になってしまっていたのだと思う。しかし、実際には、いろんな人たちが知恵を出しあって、もっと効率良く、適切な場所に案内してくれる道具を開発してくれた。それが、検索ソフトというものである。ある鍵となる言葉を入力して、その言葉が存在しているところを探させようとするもので、いかに素早く的確に機能するかが重要である。元々、文章や書籍など、文学の分野で使われていた手法を導入したのだと思うが、今ではそれよりも更に効率の良いものが巷に溢れている。それぞれに特長があるのだろうが、詳しいことはさっぱりわからない。その代わり、あれが使いやすいとか、これが的確だとか、そう言った情報が入ってきたり、自分の経験から、自分にはどのソフトが向いているかなどといったことがわかってくる。繰り返し使っていれば、探したい項目に対して、どんな鍵を入力したら良いのか、などといったこともわかってくるから、どんどん上達していくものである。しかし、ソフトの方はどうかというと、あるところから余り進んでいないように感じられる。特に、何度も失敗した経験のある人にとっては、何が悪かったのかわからないわけだから、何度も試みる代わりに、たとえばどんな鍵を使うべきか教えてくれるものが欲しくなる。つまり、自分の入れた言葉から連想される別の言葉を提示してくれるものが欲しいわけだ。その連想から、更に連想が広がり、結果的に欲しいものが手に入れば理想的なわけである。ただ、これは言葉のつながりという難問が解決していないから、中々実現しにくいものらしい。つながりは個人個人で違うために、一つのパターンを作ればそれで良いとはならないからなのだろう。まあ、そちらの方は更なる発展を期待するとして、では現状で、何故検索はあんなに素早く行われるのだろうか。実は、検索エンジンと呼ばれるものは前もって多くのデータを貯めておいて、それを鍵と照らし合わせるという方法をとっている。実際には、ネットを走り回っているわけではないのだ。だから、事前の登録が必要な場合も多いし、定期的に見回りをやっているらしい。確かに、数日前、あるところから何度もアクセスがあった。あれも、たぶん、そうなのだろう。

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10月24日(金)−公僕

 公務員のモラルが話題になることが多くなってきた。モラルの低下と言われるけれども、これが実際には昔からあったことが発覚しやすくなったのか、あるいは以前なら考えられないようなことをするようになったのか、どちらなのかははっきりしない。いずれにしても、税金の無駄遣いという言葉で片付ければまったくその通りで、財政が厳しい状況では、矢面に立たされるのも無理はない。
 モラルの低下は、何も公僕に限ったことでもないが、一企業内の出来事に比べると、より大きな注目を浴びるのは致し方のないところだろう。特に、影響の大きさを考えると地方公務員の所業より、国家公務員の不祥事の方が罪が重いように思えてしまう。実際には、どちらも法を破ることには変わりなく、見かけの罪の大きさよりも、犯した罪の実態の方が重要なのだが、心理的なものはそれとは違うようだ。国家公務員も、構造改革という制度改革によって、その地位が危うくなっている人々がいて、現政権の下では次に何が起きるのか予想できず、不安に苛まれている人もいると聞く。それはどこかの会社と同じ状況だと思えば、大したことないとも言えるが、そういう経験のないものにとっては針の蓆の如くのものなのだろう。最近新聞ざたとして取り上げられていたのは、ある国立大学の教授の話で、外部から得た研究費の運用に不正があったとのことで、停職という処分が下されたとあった。このようなことは以前からあったことと言い出しそうな気がするのだが、今のところ件の人物は沈黙を守っている。ただ、高貴な人物の主治医などの役職を辞す事態に陥ったほどの状況だから、様々なところに影響が及んでいると考えられ、本人にも周囲の人にも黙っていることが大切なのかも知れない。こういった事件で停職というのはあまり話題になったこともないが、以前から色々と起きていて、その昔写真週刊誌にすっぱ抜かれた赤い絨毯の部屋事件や、学生の奨学金横領事件など、特に最近は多くなっているように感じられる。ただ、これらはすべて新聞報道などによるもので、そういう形でないと一般市民が知りえないことだから、増えているのか変わらないのか、少年事件の例と同様に実際には判断しがたい。今回の事件に関して言えば、停職処分を下したということでいかにも厳正な処罰が行われたと感じられるが、実際には、ついこの間同じ人物が別の研究費絡みで、より短い停職処分を受けたことを思い出せば、まったく別の見解が浮かび上がってくるだろう。同じ時期に行われていたことが、別々の時期に発覚したのだから、二度に分けての処分が適当と考える人もいれば、一度処分されたものに別の不正の存在が明らかになったのだから、期間という重さではなく、処分のレベルとしてより重いものを科すべきと思う人もいるだろう。どちらが適当なのかは判断が分かれるところとして、お金の運用方法に不正があった場合、着服さえしなければ横領に当たらないのか、考えさせられる事件である。こういう処分が下されるたびに、公務員は常に安泰と思う人もいるわけで、今後その枠を外されると思うと不安になる人がいて当然なのかも知れない。

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10月23日(木)−嘲笑

 昨日、真夜中に車で帰っているときにラジオを聴いていて、大声で笑ってしまった。落語をやっていたわけでも、漫才をやっていたわけでもない。ましてや笑いを誘おうとするものでもなく、ごく真面目にニュースが流れていただけなのだ。しかし、事実を伝えるだけの真面目なはずなのだが、その内容に呆れながらつい笑ってしまった。
 このところ、政治の方が騒がしくなって、公約なるものがカタカナに姿を変えて、心機一転、まるで実現可能なごとく主張されている。細かく見れば、それぞれ中々面白いものなのだろうが、看板書きが変わったとはいえ、所詮は思いつきかと色眼鏡で見る者にとっては何も変わっていない。新しいことを始めようとすれば、古きを良しとする人々の反抗にあって、散々揉めた揚げ句、元の木阿弥となる。そんなことばかりを繰り返してきたわけだから、鵜呑みにするわけにはいかない。とはいえ、論争となるべきものが少ない時世だから、何とか新鮮な売り言葉を見つけようと努力しているようだ。その中で、言い古されたとはいえ、実現可能性の低さからあまり強調されていなかった高速道路の通行料金に関する話題が注目を集めていると伝えられている。せっかく、ETCを設置したものとしては、ちょっと待ってよ、という気になるが、そんなことはあちらの知ったことではない。実現不可能と主張する人々と、可能と主張する人々の、それぞれの論点はすれ違いの様相を呈していて、どちらを選ぶかという問題で、現状と違うものを導入すればそこには破綻の可能性があるというだけだ。これに関して、昨夜のニュースでは政権与党の若手大抜擢と話題になった人の発言を伝えていた。当然、不可能であるとの主張だが、そこでは、税金の使用への論旨のすり替えがあった。つまり、無料化は道路の維持などに税金を使うことになるので、少数の道路使用者に対してのみ全体を対象とすべき税金を使うという矛盾が起きるというものだ。税金の使い方にそういう考えがあるとは知らなかったが、確かに一理ありそうだ。しかし、現在の使途を見るかぎり、様々なところで一部を対象としているものが沢山あり、この主張がこの場合に限った詭弁であると思える。米国では車に関係した税金をフリーウェイと呼ばれる無料の高速道路に回しており、使途を限定した形の税金の徴収は可能である。それをそうしてこなかった矛盾を棚に上げて、逆手をとるのは規則違反と思える。ここまでは真面目に聞いていたのだが、続いて同じ人物が語ったとして伝えられた言葉に、呆れて笑ってしまった。当然現在の政府の主張は、すべてにおいて構造改革という名の実際には単なる民営化なのだが、この蜥蜴の尻尾切りの現実の姿を感じさせるような話だった。つまり、民営化をして、企業努力をすれば、借金を返すことができるだけでなく、うまくいけば無料化も可能だという話なのだ。この話が、前の話の次に来るところが笑い話と思えるところで、それでは、公のものは努力をしないのだと言わんばかりだし、さらに税金を維持に充てる話との違いはどこにあるのかと不思議に思える。元々自信たっぷりに話す人だから、トップに立つ人と同様に、何も矛盾がないように伝わり、それをそのまま流せば、とんでもないことになるわけで、このニュースが本当にそのままかどうか、夜が明けるまで待って確かめることにした。ところが、朝の新聞には一言も載っていない。まあ、そんなものかと思いつつ、あれは脚色が入ったものか、はたまた現実の発言か、このまま闇の中なのだと自分を納得させた。

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10月22日(水)−冤罪

 先日、新聞に近くの小学校での事件が掲載されていた。事件と呼べるものかどうか、そちらの方が問題だと思えるが、最近各所で話題になっている問題教師の話である。今回の件では、教室で暴言を繰り返した先生を授業を監督するなどして指導していたということで、それ自体当たり前に思えるが、生徒が不安を訴えるので担任を換えて欲しいとのことだった。
 このところ、こういった先生の話題が毎日のように取り上げられている。確かに問題を抱えている人も多く、都道府県によっては研修を行い、それでも不適格とされた人は処分するというところもある。これは指導能力という漠然としたものを対象にしているが、中には不適切な言動や行動も含まれているに違いない。上で取り上げた事件にしても、おそらく一部の父兄が学校に訴え、さらに教育委員会に訴え、それでも思い通りにならないので、マスコミという飢えた何とかのごとくのところに訴えた結果、こういう報道になったのだと思う。ほとんどのマスコミは学校の名前を伏せていたがある経済紙は堂々と明記していた。はたしてこのやり方が正しいのかどうか、どちらにしても市町村名は明記されているから、画像を見せればわかる人にはわかる話である。遠くの出来事なら、具体名は誰も気にしないが、近くの事件ならば興味が湧く。その火に油を注ぐ方法はいくらでもあるわけだ。とにかく、こういう形で被害者が様々な要求を通す事例はいくらでもある。その要求には理不尽なものもあって、被害者にすべての権利を与えてしまう感覚に問題があると言えるのではないか。10年以上前に、マスコミで話題になっていたのは大学卒業がある講義の単位が得られないために危うくなり、せっかく内定していた就職をふいにしたという話で、先生に責任があると断言する人もいた。同じように、受講者の半数以上が単位を取得できないことを問題ありとして報じたテレビもあり、落第しそうな学生が被害者として扱われていたのだと思う。どちらの場合も、実際には学生の方に問題があったと風の噂で聞いているが、その頃には熱が冷めてしまったマスコミは何も言わなくなっている。そういう態度に腹が立つのはたまたま事情を知ることができる人々だけで、大部分の人々は問題ありという時点で情報の流入が停止し、それだけが記憶に残る。ついさきごろ取り上げられていたものに、九州のあるところの小学校の先生が特定児童を虐めたという事件があったが、これも不思議な様相を呈していた。訴えられた先生がある処分を受けたわけのだが、その中に記憶にない行為が明記されており、それは濡衣であると逆に訴えたのだ。事実がどうだったのか部外者にはわからないが、こういう流れは、加害者と被害者の扱いの違いという点を考慮すると、容易に想像できることである。加害者はあくまでも悪者で、何を言われても、それが身に覚えの無いことでも、甘んじて受け入れなければならない。とにかく、罪人には反論の余地は無いというのが、この国のどこか根っこのところにある考えなのではないだろうか。火に油を注ぐのが役目と考えているかどうかは不明だが、その役割を演じているものがある以上、その行き過ぎを制する必要があるのだと思う。

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10月21日(火)−悪法

 老後のことを気にすべしと頻繁に言われている感じがする。何しろ、年金制度は崩壊したと断言してしまう人もいて、とにかく多数の年寄りを少数の若者が支えなければいけないとか、年金を納める人の数が激減しているとか、年金の財源をどうしようかとか、難問山積といった雰囲気でどうにも逃げられないことのように伝えられている。
 この問題の本質は別のところにある気がしているが、そのことはここでは取り上げない。はっきりしていることは、年金制度や健康保険制度は、本来この国が誇ってしかるべき制度であり、これをいかに明るい方向に導くかが問題ということだ。前も後も横も見ずに、ただパニックに陥って、悪い話ばかりを叫び続けている人々には、そこがわかっていない感じがする。確かに、一方で財源という現実の問題を無視することはできない。無い袖が振れないことは火を見るより明らかなのだ。年金の納め方の問題を解決する手段として、税金が考えられていることは一つの解決方法だと思うが、やり方がいくつもあるように思える。確かに、様々な理由で納めていない人が増えている状況では、本来そうでないにしても自由意志に頼るようなやり方では制度自体が成立しなくなる。そこで無理やりふんだくる、という方法を採用するのは、今の状況を見るかぎり、仕方のないところだろう。もし、嫌なら、どこかよその国へ行ってくれ、と言っているようなもので、これはおかしいと感じる人もいるかも知れないが、社会制度が整備された北欧で一部の金持ちがモナコなどの国に移り住むという話を聞くかぎり、おかしいとも言えないのではなかろうか。さて、そんな状況でどんな税金が考えられているのかと言えば、消費税なのだそうだ。まったく、困ったときの何とかといった類いで、何かと引っ張りだこの便利な税金で、多数を少数が支えると強調する理由は、負担は国民全体でという意味の消費税利用を主張するためなのだろう。まったく、何がどうしているのかわからないが、こういう安直な考え方が出てくるところが理解しがたい。ただ、では別の財源となれば、別の形の税金としての徴収となり、これはこれで反対する人が沢山出てくるのだろう。元々誰かが誰かを支えていると言いながら、支えられている人たちにも負担を、と訴えることに矛盾を感じないのが不思議に思えるのだが。ところで、消費税の引き上げは、まだ先のこととされているが、一部改正が行われることはあまり知られていないのではないだろうか。来年度から、事業者免税点の引き下げが行われる。消費税が導入されたとき不思議に感じたことだが、それもずいぶん昔のことですっかり忘れかけていた。年度の売上高が3000万円以下であれば、消費税を納める義務が免除されるというもので、その上限を免税点と呼ぶのだそうだ。店では消費税を含めて客から代金を取り、しかし納めなくても済むということは、なぜと正直不思議に思った。これが、来年度からは1000万円になるそうで、かなり多数の中小小売店などが対象になるのではないだろうか。これだけでも、かなりの税収が見込めるのだろうか。手元に残る金がさらに少なくなる人々にとっては大変な改悪と見なせるのだろうが、元々の制度の意味を考えるとこれまでの方がおかしいとも言える。

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10月20日(月)−秋実感

 この秋一番の冷え込みだろうか。指先がかじかんでいるような感覚があった。水仕事をしてから、温かいお湯を使ったりすると感じる、あれである。細かく言えば、指先の血管が冷たい中で収縮していたのが、暖かくなって急に拡張する、まあそんなことは、この際どうでもいいことなのだが。
 冷夏で大騒ぎしていたら、残暑が厳しくなり、あっという間に秋に入って、急に冷え込んだり、今年の季節の巡りはかなり忙しいようだ。そんな中で周囲を見渡してみると、この辺りでもそろそろ紅葉が始まっている。と言っても、どんな木々にも、というわけではなく、一部の木に限ったことだが。一番目立つのは、去年の今頃話題にした赤い実をつける木で、花の時期のことを思い出してみると、それらはハナミズキのようだ。他の木と比べるとちょっと早めに葉の色を変えるようで、もう既に赤く色づいている。楓の中に赤いものが見られるが、元々赤だったのかどうか、よく覚えていないのでわからない。紅葉前線がこの辺りまでやって来るのは、まだ、もう少し先のことだと思う。日が照りつける車内では、冷え込みは感じられないのだが、エンジンの回転数がいつまでも高いことから、気温が低いことがわかる。最近の車はチョークなどというものがついておらず、勝手に色々と調節してくれるからありがたいものだ。これだけ朝晩の気温が下がってくると、昼間の気温との差が大きくなるから、着るものに注意が必要だ。と言っても、オフィスビルの中で働く人々にとっては、昼間の気温はほとんど関係ないわけだから、単に職場と外との温度差、ということになるのだろうか。いずれにしても、ラジオから聞こえてくる声も何となくすっきりしないものだし、町中でも咳や鼻をすする音が聞こえてくる。そろそろ、風邪が流行り始める時期だ。温度差から来る風邪は、体の変調だけなのだが、もう一方の流行性感冒、いわゆるインフルエンザはウィルスによるもの、特に人ごみに出かけるときには注意したいものである。それに加えて、今年は去年大騒ぎになったウィルス性肺炎が再び猛威を振るうのではないかと言われている。はたしてどんなことになるのか、この秋冬は健康に気をつけたいものだ。SARSと呼ばれるこの肺炎の原因となるウィルスは、インフルエンザに比べると感染力はそれほど強くないように思われる。何しろ、密閉した空間を必要とするという意味では、ちょっと人ごみに出かけるだけで感染させられてしまうインフルエンザより防ぎようがあるように思える。また、前回の流行の傾向を見るかぎり、一部の人々の間に感染が集中したから、ひょっとすると人種などとの関連も考えられる。その辺りも、ありがたくない再流行が起きれば、もう少し詳しいことが論じられるのかも知れない。これらのウィルスの感染を防ぐには何よりうがい励行といったところなのかも知れないが。

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