何でも知りたがるというのはどうなのだろう。小さい頃に、いろんなことを疑問に思い、親に尋ねた経験のある人も沢山いるだろう。これも、知りたがることなのだが、別の知りたがりが世の中には沢山いるらしい。大人になっても、周囲で起きたことを何でも知りたがる人、そんな人が周りにいないだろうか。
井戸端会議の議題として、よく聞く話だが、それはご近所に限ったことである。一方、職場でのこんな話題もよく出てくるが、何故だろうと思うくらいで、それ以上には何も考えつかない。まあ、せいぜい物好きなのかな、と思うくらいだろうか。自分の周りの人々を思い描いたときには、そんな程度にしか印象を持たないのも、結局その人が知りたがる事柄がやはり身の回りで起きたことだからなのだろう。自分にもひょっとしたら関係のあることかもしれない、という思いを持てば、興味も湧いてくるだろうし、放置しておけない性分であれば、かなり強い反応が出てしまうに違いない。それはそれで何となく理解できるような気がしてくるのだ。しかし、世の中にはそういった考えでは理解しがたいことがある。この頃特に気になっているのは、凶悪事件や特殊な事件が起きたときに出現する知りたがりのことである。事件の捜査を行う段階で、動機が重要だとか、経過を知りたいとか、そんな話が頻繁に聞こえてくる。捜査を行う警察やその後の展開に関係のある検察、裁判所などの関係者が、人を裁くためにこれらのことを知らねばならぬというのは何となく理解できるような気がするが、それにしても、犯罪の重さが動機の違いによって変えられるというのは納得できないことも多い。同情の余地があるとか、情状酌量云々という言葉が並んだりするけれども、場合によってはそんな形で片付けるのはどうかと思うときもある。それにしても、これらの関係者に関しては理解できることでも、全く関係のない人たちがそういうことを知ろうとする気持ちは理解できない。特に未成年者の起こした事件の直後に、そこら中で話題になる動機や背景の話には、知りたがるという気持ち以外にはその動機が浮かばないからだ。皆で知ったからと言って、どんな結果や対策ができるのか、といった話は出てこない。何故なら、知ることがすまなければそこに対策が浮かぶはずがないからだ。どうも本末転倒としか思えないが、そんな主張がついてくるときもある。凶悪な事件を起こしたときの心理状態を知りたい、などと主張する人がいるけれども、それを知ったとして何が得られるのか、こちらにはさっぱり理解できない。少年、少女の事件の真相を知って、自らの子育てに役立てようと思う人がどのくらいいるのだろうか。もし、そんな人がいたら、かえってとても怖いことに思えるのはパンチだけだろうか。事件は非常識なところからしか起きない、とは言わないけれども、どれほど自分たちの生活とずれていると認識しているのか、わからないのだ。重ね合わせて考えられるとしたらそれは恐ろしいと思えるし、全く別世界のことだと思っているとしたら何故知りたいのか理解できない。知ることの目的がはっきりしていないのに、あれほどの執着を見せるのだとしたら、そこにどんな心理が働いているのか、そちらの方にこそ興味がある。まあ、どうでもいいことなどとは言わないが、知るべきことかどうか少し考えてみたらどうだろうか。狂気の沙汰が理解できるとしたら、それは何を意味することなのか。
忙しかった。前にも何度か書いたことがあるのだが、毎年10月は忙しい。普段の忙しさに加えて、次の年度に向けての準備が入ってくるので、かなりの圧力がかかるようになる。毎年のことなのだから、きちんと準備をすれば、と言う人もいるのだろうが、元々そんな性格でないから、その時にならないと動かない。まあ、どこでも聞く話の一つなのだろうが。
結局、忙しい理由ははっきりしている。文書の作成ということだけなのだ。今回、特に強く感じたのは、文字の生産量のようなものだ。物書きの人たちがどんな気持ちで毎日の生産をこなしているのかわからないが、こういうものに迫られてくると、人間には一生の間に書くことができる文字の数が決まっているのではないか、などとそんな弱気が頭をもたげてくる。仕事上のものだから、いい加減な形のものを仕上げるわけにはいかない。少しでも良いものをと思ったりするが、一方で何となく限界を感じてしまうこともある。まあ、そんな心境で、一生の間に、などという気が起こってくるわけである。何かしらの文章を書くということは、それなりに頭の中で色々と考えるわけだから、それが人それぞれ違う大きさの器を持っていて、出てくる量と質が違っているというのは、当たり前のことなのかもしれない。しかし、文書作成では、それを当たり前と片付けるわけにもいかないのだ。何しろ、次の年の命運がかかっているのかもしれないのだ。まあ、それほど大げさなことではないだろうが、とにかくいろんな形で圧力がかかり、その中でゼイゼイ言いながら、何とかそれらしいものを仕上げなければならない。誰でも、そんな状況になることはあるのだと思う。こんなことが毎日、毎月、毎年続いたらかなわないと思う。幸い、これほどのことは1年にひと月だけで、後はもう少し楽な雰囲気がある。にしても、その時は、嫌な気持ちばかりで焦ってしまう。まあ、人間なんて、所詮その程度のもの、といってしまえばその通りだろう。目の前の課題を片付けることに必死になり、それが片付いてしまうとホッとする。そんなことを日頃から繰り返し続けているのである。そういえば書く文字数もそんな限界があるけれども、もう一つそれとの相関のあるものに、おしゃべりがあるのではないだろうか。話をするのも、やはり何も考えずに、という訳にはいかない。だから、書く代わりに話す人も、そうでない人も、結局合計のところでは、同じ限界が設定されているのではないだろうか。はい、ここまで、と言われるまで、頑張り続けるしかないのだろう。
毎度おなじみのことだが、運転中にラジオを聴いているといろんなことを知ることができて、とてもためになる。生涯学習と称して、いろんな施設で教室が開かれているけれども、系統立てた学習ならば仕方がないにしても、いろんなことを知りたいというだけならば、ラジオやテレビ、はたまた日頃の周囲の人々との話でも十分だと思う。
そのラジオもこの時期はちょっと困った状況になっている。そういう時期はあって、たとえば野球中継、贔屓のチーム以外のものには興味が湧かないから、意味がなくなる。その割に長時間の放送になるから、どうにも困ったものと感じてしまう。もっと困るのは政治関連で、国会中継、時には委員会の中継もある。これははっきり言ってどうにもならない。非常に重要なことを取り上げているはずなのに、内容の劣悪さばかりが目立ち、ただ同じ答弁を漫然と繰り返す大臣、揚げ足取りに躍起になる質問議員、それを切り返して喜び溢れる首相といった状況ばかりで、何も役に立つことはない。外国のものを見たことがないので、何とも言えないが、こんなやり取りだったら、どこかから文句が出てくるのではないだろうか。少なくとも、その日の夜のニュース辺りでアンカーが苦言を呈するはず、と思えてしまう。しかし、この国では日常茶飯事、誰も何も感じなくなっている。大切な討論を粛々と進めているとは思えないが、表面的にはそう映るようにしているようだ。そんな中継が入ると逃げる場所はFMか、カセットテープしかない。何度も同じテープを聴くわけにもいかず、どちらかといえばFMに逃げることが多いのだが、移動場所が田舎だとこれもあまり入らないから苦労する。まあ、そんなことをウダウダと思いながら運転しているわけだ。しかし、このところ、これよりひどい状況が出てきた。選挙が始まったからだ。民間放送と違って、こういうものにもちゃんと責任を果たさなければならないから、政見放送がそこここにはめ込まれている。ちょっとした隙をついて、何だか訳の判らない話が慣れない話し方で進められるから、さっぱり理解できない。その上に重要なことは、長距離運転の時には、自分と全く無関係の選挙区の放送を聴くわけだから、見たことも聞いたこともない人物の話となる。これが最大の悲劇である。いい加減判らない話が、無関係ともなればさっぱりを通り越して、どうにもならない状況になる。これでは聴き続けることなど不可能である。波長を変えると、同じだが別の地方局のものが入り、そちらでは全国放送をやっている、ホッとする一瞬だ。どうも地方ごとに放送時間がずれているようで、全国版は継続して放送しておいて、地元の政見放送をはめ込んでいるようだ。いずれにしても、投票日までの期間、こんな放送がゲリラ的に入れ込まれる。重要なものだと理解しようとしても、一方であの国会中継の茶番劇が頭をかすめ、拒絶反応が繰り返される。興味を持たせるためには、やはりいろんな背景を整える必要がありそうだ。
このところ、円高、円高とうるさく報じている。三年ぶりの水準に達したとか、これで為替計算の設定を修正する企業が出始めているとか、何しろ大変な騒ぎのようである。直接の影響を受けない庶民にとっては、どこがどうしてそんなに大変なのかさっぱりわからないが、為替レートがちょっと動いただけで表面上の収益に大きな影響を受ける企業にとっては大変なことなのだろう。
昔のことと言っても、ここまで来るとさすがにわからない話なのだが、ずっと昔は外国へ旅行することもままならなかったらしい。特に大変だったのは外貨の持ち出しで、一度の旅行に持っていけるドルの額はかなり小さなものだったとのことだ。それが時代の変遷とともに自由度が増し、船でしか行けなかった国が飛行機で行けるようになって、様々な人たちが外国旅行に出るようになった。それでもその頃のレートでは1ドル=360円であり、今から見るととんでもない比率であることがわかる。現在中国の通貨の為替レートの問題が取り上げられているが、これも当時の日本と同様固定されたものであり、その比率が輸出入の額と比較したときに著しくずれているとなって、これまた当時の日本同様変動制度の導入を迫られている。日本の場合、360円の時代がかなり長く続いたようだが、これは国内産業を保護するためと、輸出産業を延ばすための方策だったようで、今の中国が問題視されているように、米国にとって大きな輸入の相手国となってくると、もうそれで十分だろうという考え方が出てきて、変動相場制の導入を半分強制的に受け入れさせられた。その直後にはあっという間に200円台に進み、そのままどんどん円高が進んでいった。といっても、途中に何度かの休憩が入った形で、240円付近で一休み、120円付近で一休みとなり、その後もズルズルと円高が進み、ある時期は100円を切るようなところまで到達した。この流れの中で、日本の高度成長は陰りを見せ始め、いつの間にかバブル崩壊というどうにも逃げ切れない状況が生まれた。これは何も為替レートによるものではなく、色んな意味での投資の問題であったというべきなのだが、たとえば海外の不動産に手を出した時期には、円高が大きな影響を及ぼしていたとも考えられるから、まったく関係ないとも言えないのだろう。ある意味、後から押してくれる風のようなものだったのかも知れない。まさかそれががけから突き落とすために一役買うとは、誰も想像しなかったのだろうが。外国に滞在している間に、為替レートが倍になるなどという経験を持つと、行きと帰りで円換算ではドル紙幣が半分の価値にしかならないわけで、こんな無茶苦茶なものはないと思う。しかし、庶民感覚からすると、せいぜいその程度であり、そのくらいの変動ではじめて気がつくわけだ。それに対して、このところの報道からわかるのは、ほんの1円、つまり1%にも満たない変動で、大騒ぎするということで、まったく別の世界の話としか思えないものである。しかし、株の動きなどを見ても、その影響が大きいようで、どこか川向こうの話とばかりも言っていられないのだろう。
毎朝、車を運転していると危ないと思うことがたびたびある。車の飛び出しやはみ出しにもひやひやさせられるが、一番困るのは自転車である。自転車の立場はかなり不安定なもので、歩道を通るべきか、車道を通るべきか、様々なところで話題になるくらいだから、やはり問題視されているのだろう。ただ、こちらが困っているのはそういう類いのことではない。何列にも横並びになる連中のことだ。
時間にもよるのだろうが、そういった行動をとるのはほとんどすべて高校生である。男女関係なく、傍若無人ぶりを発揮している。彼らが忌み嫌っている親の世代の女性、男性の傍若無人ぶりは、もう既にこの年齢で完成されていることがよくわかる。確かに、友人と話がしたければ横に並ぶしかないと思えるだろう。前後ではお互いの声が良く聞こえないから、という理由で。この現象は実は小学生の頃から見られるから、高校生からとは言えないのだろう。登下校の時の横に広がって歩く姿はただただ危なく、邪魔なだけである。大学に通っていた頃はよく自転車に乗っていたが、最近はとんとご無沙汰である。たまに乗ると足腰が痛んだりするから、やはり日ごろから鍛練をしておかねばならないということだろう。自転車といえば、もう二月ほど前のことになるだろうか、自転車にぶつかったことがある。夜、出先から戻るときに、職場の近くで暗やみから出てきた自転車とぶつかった。慌てて降りて確認したが、乗っていた中学生と思われる人物に怪我はなく、自転車が壊れただけで済んでいた。当然の成り行きだが、こちらが悪いかどうかは別にして、修理代の問題を取り上げると、前輪の交換でいくらと明確な答えが戻ってきた。相手を信用するかどうかとは別に、経費をそのまま支払うのが筋だと判断したので、修理をしたらそこで業者に支払うと提案した。その時のそぶりは別段変わったこともなかったように見えたが、こちらも慌てていたし、相手もびっくりしていると思っていたので、その程度のものかなと思っていた。結局、自転車が動かないという理由で、本人はそれを置いて、後日取りに来るということでどこかへ行ってしまった。問題はその後の展開である。結局、誰も自転車を取りに来ないのである。本人がどこの誰だか聞くのを忘れたのが失敗だったと思ったが、後から考えると色々と不審な点が出てくる。まず自転車は黒ペンキ塗り、ライトもペンキでふさがれて使えない状態である。事故の直後に警察に連絡していたら、本人はどんな対応をしたのか、残念ながらやっていないことはなんとも確かめようがない。どう見ても盗難車というべきだろうか、などと周囲の人々と話すが、証拠も何もないわけだ。そういえば、始めから修理代をきちんと答えるのも疑おうと思えば疑える。世の中、そんな子供たちが増えているのかと思うと驚きを隠せないが、それでもこちらにとっては事故である。突然のことにびっくりしたり、相手に怪我がなくて良かったと安心したり、心の動揺はかなりのものだった。だからこそ、もし仕掛けられたものだったら、こんなに腹の立つことはない。
人はものを忘れる生き物である、などと言い出すと、それはパンチが年をとって物忘れが激しくなったからだろう、などと言われてしまいそうだ。まあ、確かに、これもまた加齢現象の一つと考えられ、いわゆる度忘れが激しくなるわけだが、そんなことでは説明のできないことが一杯あることに気がついて欲しい。
ある人が自分の父親が相手の顔を間違えて、別の人物と話しているつもりになっていたという話を持ち出して、父親が惚けてきたと結んでいたという話を聞いたのだが、これもよく考えるといわゆる惚けの始まりではなく、単なる思い違いと見なしたほうがいいだろう。惚けは一般的には短期記憶が最もひどく減退するので、誰かと会って話をしたこと自体を忘れてしまい、もっと昔の記憶は比較的まともに残っているものだからだ。この場合も、もし痴呆の症状が出ているのであれば、誰かと出会ったということ自体が記憶に残らないことの方が多いと思う。さて、年齢とともに進行するものの話は別にして、元々忘れる生き物と言われる由縁の方に話を戻そう。人間誰しも良い経験はいつまでも覚えておきたいと思うが、悪い経験の方はさっさと忘れたいと思う。ただ、ことはそれほど簡単ではなく、まあどっちもどっちという状態で、忘れられないと思い込んでいる人が多いのではないだろうか。実際には、すべてを覚えている人は少なくて、かなり多くのものを忘れていくし、その場合に良いも悪いもないようだ。ただ、忘れることによる影響は悪いことの方が大きく、それを悩んで気を病むこともないし、逆に怒りが込み上げてくることもなくて済む。それよりも、目の前に山積する問題を片付けることの方が重要だし、前を見つめて進むことが人生だとすれば、後ろを振り返らせるための記憶は邪魔になるとも言える。こんなことを書いていると、なぜ今、そんなことに、と思う人がいるだろう。沢山の事例があるが、こんな例はどうだろうか。数年前に、大騒ぎをして、一部の業界がてんやわんやの状態になった事件に、狂牛病騒動がある。食肉業界は総じて商売上がったりの状態になり、不正を働く者が出たことでも記憶に新しい。記憶に新しいということは、みんながしっかり覚えているとなるはずなのだが、その時の自分たちがとった行動のことを覚えている人はほとんどいないようだ。というのも、先日あるところで新型の狂牛病感染牛が見つかったとの報道があったからだ。さて、前回の大騒動が再現されるのであれば、焼き肉屋は閑散とし、スーパーの牛肉売り場には張り紙が溢れ、ついには大臣が登場して、安全宣言となるはずなのだが、何も起こらない。なぜ、前回はあんなに騒いだのに、今回は何も起こらないのだろうか。新聞もテレビも扱い方は冷たいものである。みんなが騒がないから、煽ってみても面白くない、とでも言うのだろうか。それとも、前回の教訓から、騒いでみても始まらないということを学んだというのだろうか。結局のところ、教訓とか学習とかいった類いのものではなく、単に何を怖れて騒いだのか、を忘れてしまったところに、今回の反応の根っこがあるような気がする。つまり、根拠になるものはなかったという前回の騒ぎの本質を、さっさと忘れてしまうわけだ。根拠がないのであれば、今回も同じことが起きそうなのだが、それが起きない。騒ぐという行動の方が先行する、そんな心理状態を再現できないわけだ。これもあそこまで盛り上げた内容をさっさと忘れてしまう能力の賜物というと言い過ぎになるのだろうか。冷静に考えれば、感染がわかったときには既にその手の肉を食べてしまった後であるとなるはずで、あんな反応は手遅れというしかない。まあ、だから安全という気もないし、今回のことでも安全が確保されていると言うつもりもない。単に、発覚後の反応の違いに首をひねるだけだ。
今度の衆議院議員選挙の前哨戦と呼ばれている選挙があった。各党党首が演説に訪れて、いかにも盛り上がっているという様相を呈していたらしい。しかし、実際には、そんな盛り上がりなどどこにも存在しないとしか言い様のない結果が出てきた。あまりにも低い投票率、その中で得票率が50%にも満たないから、結局有権者の10%強の人々の賛成による当選である。
次の選挙戦が本番だから、これはちょっとしたつばぜり合い程度のものと解釈する向きもあるだろう。一方では、早々と世論調査の結果とは異なり、選挙に対する盛り上がりは単に政治家だけのものであり、有権者は冷たく見守るだけと報じる向きもあった。何がどう盛り上がっているのかさっぱりわからない者は、今回の結果になるほどと納得するわけだが、一生懸命にあおり立てようとした人々にとっては肩透かしを食わされたといったところなのではないだろうか。原因がどこにあるのかは定かではないが、相変わらず一部の人々が踊り狂うことから来ているとも思える。政策論争などと言っても、結局相手の出してきたものの問題点を突くくらいで、本質的な論争になっていないし、何が正しくて何が間違っているのかといった議論はまったく行われない。確かに政策などというものはどっちに転がろうが大した違いはないとも言えるから、その程度のところで留まっておくのがお互いに安全地帯からでないということなのだろう。それにしても、政治以外のところでの派手な振る舞いが目立つ人々にはもういい加減にしてもらいたい気持ちだ。結局ゴシップ記事に慣れてしまった人々とそれを利用しようと狡猾な行動に出る人々が組んで、舞台の上で踊り狂っているとしか思えない。今回の選挙が提示した問題は、世論調査なるものに対する信頼性なのではないだろうか。最近の支持率の数字にも信じ難いものがあるが、これも誰が判断力を失ったのかの指標であると考えれば、まあ受け入れられないわけでもない。しかし、つい最近報じられた選挙への関心に対する数字には耳を疑いたくなるものがあった。そこでは、関心のある人が70%を超えていたように思う。この数字から選挙は盛り上がるはずという結論が出されていたわけだ。しかし、前哨戦の低調さは何を示しているのだろうか。確かに、大都市圏で行われる選挙では投票率が低くなることはよく知られている。また、選挙は立候補する人々の知名度などの要素がかなり大きく作用するから、今回は大したことないと受け取られたのかも知れない。まあ、そんな要素を色々と考えれば、何とか盛り上がり説を堅持することはできるだろう。しかし、そんなことをする必要がどこにあるのだろうか。早々と別の結論に乗り移った、当の世論調査を行った局の態度も中々と思えるが、何しろもう少し冷静に数字を見直してみる必要があると思う。世論調査は通常無作為に選ばれた人々に電話なり面接なりで質問し、その結果をまとめるわけだが、無作為とはどうすることなのだろうか。この国の場合、人口密集地と過疎地の差が非常に大きく出る。そのために格差なるものが毎度話題になるわけで、小さくするにしても2倍までは許すなどと言われたりする。調査でこれらのことはどう反映されているのだろうか。対象となる地域を限るとか、地域ごとにある割合を決めるとか、色んな限定の仕方がある。普通に無作為に選べば、ほとんどの調査が都会を反映するものになるから、なるべくそうならないように「作為」を施していると思えるからだ。今回の調査はどんな無作為だったのか、そんな話を聞かずに数字だけを鵜呑みにするのでは、騙され続けることになる。