パンチの独り言

(2003年11月10日〜11月16日)
(呉越、責任所在、留学、繁殖、騙り、天然、盗難)



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11月16日(日)−盗難

 歩道を歩いていると、自転車とすれ違うことがある。危ないな、と思うこともたびたびあるし、もう少し注意して欲しい、と思うこともある。特に、歩いている人を追い抜くとき、さらに後から自転車が来ないか注意する。こちらが急に飛び出すわけだから、自転車にとっては迷惑な話だろうと思うので。それにしても、何だかどこかがずれている話ではある。
 実際には全ての歩道を自転車が通って良いわけではない。通行可と表示のしてあるところ以外は、降りて押さなければならない。横断歩道も同じことで、自転車の表示のあるところ以外は、やはり押さねばならない。でも、周囲を見渡してみてもそんなことをしている人はまずいない。自転車に乗っている人の交通規則に対する認識が無いのか、それとも広報が不十分なのか、はたまた別の理由があるのか、まったくわからないが、現実はそうなっている。先日も歩道を歩いていたら、後から何台かの自転車が抜かしていった。その中に、若い警官の乗ったものがあった。抜かしたと思ったら、急に戻ってきて、誰かを追いかけている様子だった。ところが、またすぐに戻ってくるのである。何をやっているのか、不審に思いながら眺めていると、どうも自転車を追いかけているようなのだ。それも、ちょっと古い感じの、いかにも盗まれたものといった雰囲気のものを。案の定、その時は若い女性の乗っている、紺の自転車を呼び止め、無線で照会している様子がうかがえた。おそらく、熱心に取締をしているつもりなのだろう。その界隈を行き来している感じがした。それにしても、こちらから見るとちょっと危なっかしいのだ。自転車ばかりに気を取られていて、それを追いかけようと急に方向を変える。本人は任務を果たそうという気持ちがあるから、別段不審な動きをしているとは思っていないのだろうが、周囲の歩行者から見れば、大いに不審であるし、危険である。あの様子を見るかぎり、自転車の盗難は減っていないのだろう。登録制度が導入されても、その有効期間が知らされていなかったり、元々それを調べようとする暇が無いなどというへ理屈から、中々取締が徹底されない。そんな状態がもう何十年も続いている。その結果としてどんなことが起きているのか、駅の周囲を見ればよくわかるだろう。いつまでも停められている自転車が歩道を塞ぎ、その数は減るどころか、どんどん増えていく。一年に何度かの撤去ぐらいではびくともせず、ほんの数日経過すればあっという間に増えてしまう。持ち主が使っている自転車ばかりなら、こういう状況は出てこない。たとえしばしば停めることがあったとしても、同じところに居座ることはあり得ないからだ。こんなことが起きるのは自転車の盗難が頻繁に起きていることを表している。先日の追っかけ警官の様子から察するに、その数日前に発覚した事件が影響しているように思える。大規模に盗んだ自転車をある国に輸出しようとしていた集団の事件で、これまでにも何度も行われていたと言われていた。もしそうだとすれば、盗難が繰り返されていたということであり、実際にはそれ以上の数の盗難が起きていることを想像させる。だから、取締を始めたのではないか、と思えてしまうわけだ。実際にはどうだったのかわからないが、この事件も、それ以前に問題となっていた車の盗難事件も、大規模に外国に持ち出すことが行われている。それも、正規の手続きをとった輸出の形のものが多いらしく、何故盗品がこうも簡単に持ち出せるのか不思議に思えていた。手続きの時点でなんらかの工作が行われているのだろうが、いずれにしても大した苦労もなく関所をくぐり抜けることができたわけだ。犯罪防止の観点から、盗まれないようにという考えが出てくるのは当たり前だが、もしその後の経過が輸出というのなら、別の形の規制もかけられるはずなのではないか。それが行われていないからこそ、今回のようなことが起きたと考えられないだろうか。こんなことから、一つのことに拘るのではなく、色んな形で対処することが防止に繋がるのではないかと思えた。

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11月15日(土)−天然

 鋸の歯のような形をした屋根を時々見かける。昔、この町が織物の町として栄えていた名残だ。しかし、オイルショックの頃から経営が傾きはじめ、今は数えるほどのところだけが事業を続けているに過ぎない。全国の繊維産業と同様、一度傾いた経営を同じ産業で回復することがほとんど不可能であることを教えてくれる。
 では、これらの建物はなぜ残っているのだろうか。いくつかのものはおそらくまだ中で細々と生産を続けているのだろうが、他のものには建物の横に看板がつけられている。屋根付き駐車場として利用しているようなのだ。確かに、屋根の無いところでは車の塗装が傷むとか、鳥の糞に汚されるとか、そんな被害に遭ってしまうかもしれないし、最近よく聞く車の盗難に対しても、少しは防ぐことになるのかも知れない。中に入ったことが無いから、詳しいことはわからないが、北向きの窓から入る光で、昼間は建物内の照明がいらないのではないだろうか。織物をしていたときには、直射日光が入るのを避けながら、光を取り入れるために北側に窓をつけた。だから屋根が鋸の歯のような形になっていたわけだ。これは、画家のアトリエが北向きに大きな窓をつけていることと共通する理由からなのだろう。自然光を取り入れることは、色合いを損なわないとか、いろんな理由があるのだろうが、やはり人工の光がある片寄りをもっていたために、その下ではせっかくの色の組合せが本来のものと違って見えてしまうという難点があったからだろう。最近の照明器具では、そんなことは少なくなってきたようだ。何しろ、美術館を訪ねると、そのほとんどは室内展示であり、自然光を取り入れるような仕掛けはどこにもない。こんな状況で作者の意図した色を見せるためには照明に工夫するしかないわけだ。そのためというわけでもないだろうが、照明器具の製造会社は色々と改良を重ね、自然光に近い光を出すものを作り出している。これは何も美術館だけに限らず、いろんなところで使われるようになっている。日本食のように、彩りを愉しむことが要素の一つとなっているものでは、照明が重要になってくる。外国へ行くとどのレストランも薄暗い状態であるのに比べて、日本料理の店は比較的明るいところが多い。彩りを愉しもうと思ってもそれが見えないのでは、なんともならないからだろう。ただ、昔の蛍光灯のように青みが強く出る照明では、刺し身の色が変に見えたり、赤い系統の食べ物がおかしな色に見えていたことがあると思う。まあ、慣れてしまえば大したことはない、と言えるのかもしれないが、ちゃんとした色に見せることができるのなら、それに越したことはないわけだ。人類の目が地球上の自然光に合わせて進化してきたことを考えれば、こんなことは当たり前のことなのだが、あるとき人工的なものに無理やり合わせることを当たり前とする考え方が出てきて、なんとなくおかしな具合になってしまった。自然が一番とは言い切れないが、自分たちの作ったものが一番と考えるのもどうかと思う。

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11月14日(金)−騙り

 最近、詐欺事件の話題をよく聞く。詐欺なんて、大きなものから小さなものまであるが、昔からよくある話と片付けたくなるかも知れない。しかし、最近の傾向で目立つのは老人を相手にした事件が多いということだ。以前から、羽毛布団、浄水器、消火器、その他もろもろの物品を購入させる詐欺が目立っていたが、最近は現金をそのまま奪い取るものが出ている。
 いわゆる、オレオレ詐欺などというのが典型的なのだろうが、子供や孫を可愛いと思う年寄りの心理を利用した悪質な行為だ。自らの危険は差ほどでもなく、元手もほとんどかからないと来ているから、気軽にやれると思うのだろうか、急増していると聞く。別段、この現象が世相を反映していると無理やり結びつけることもないのだろうが、こういった事件に情けが感じられなくなってきたのは、世相そのものに人情が感じられなくなったからだろうか。どんな世界でも、周囲を騙してでも手柄をとろうとする人々が増えているようで、単純に信じ込むことの危険性を示している。詐欺行為は、その典型的なものなのだが、詐欺と一般に呼ばれなくてもそれと同じか近い心の動きで行われている行為が色んな世界に溢れているように思う。たとえば、様々な補助金や交付金を騙し取ろうとする人々、弱者を守るために設けられた制度を悪用しているわけで、呆れるばかりだ。この手のことは、障害者の雇用などで話題になっているが、同じようなことが色んな場で行われている。一時期話題になったのは、大学の研究室の大学院生や研究員に対して支給された金を教授が管理しているという話で、師弟関係であることから難しい関係になるのだが、奨学金や給与は本人に支払われるものであることを考えると、許される行為ではない。白い巨塔という小説が最近再びドラマ化されているが、大学の医局という存在も外から見るととても不思議なものに見える。上下関係が明確で、それに従うことが絶対である世界が、少しのほころびで崩れていく。小説の中だけではなく、現実にも様々な事件が起きているのを思い出すと、さらに驚きが増してくる。医療現場だけでなく、医局では研究も行われているわけで、その場合にも同じような不思議が展開されているらしい。ずいぶん昔の話になるが、ある製薬会社の研究所で行われた研究がある有名研究雑誌に掲載されたが、そこに不正があり撤回されるという報道があった。中で使用された図表に偽りがあったとのことだが、詳しいことはわからない。関与した人々は退職したと聞くが、その後の消息はどこにも出てこない。研究上の不正は業界内でかなり大きな問題になっているらしく、データの改竄、捏造、その他何でもありという状態らしい。全ての論文にある実験を確認することなど不可能だから、不正をする気のある者にとっては何も難しいことはない。出してもいない論文を業績として報告する輩まで出ていると聞くから、どこまで堕ちているのか計り知れないところだ。正義などと大上段に構える必要はないのだろうが、これほど様々なところに及ぶようになってくると、ちょっと心配になってくる。

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11月13日(木)−繁殖

 たとえ意見を持っていても出しにくい話題というものがある。若年層の犯罪に関する家庭教育の問題がその一つで、加害者の親も被害者という感覚から、弱い者虐めは良くないといったことになり、根本的な問題を論じられない。もう一つ気になるのは、生殖医療に関する話題である。子供を持つことの権利と義務という複雑な社会状況と個人的な問題との何とも言えぬ組み合わせだ。
 これまでも生殖医療に関しては、色んな機会に話題になってきた。ある産婦人科医が患者のためという論法から、様々な最新医療を施して話題になったこともその一つだろう。この場合の患者のためとは、子供を欲しいと言っている、ことがその中心的なものであり、個人の欲求を満たすためである。欲求という言葉を使うとどうしても身勝手な行為のような印象を持つが、別にそうとは限らず欲し求めるものという単純な意味に過ぎない。子供を持つ権利とは誰でも自分の子孫を持つことができるという意味で、たとえ肉体の機能に満たされない部分があったとしても、それを満たすための施術を受けることによって可能になるならば、実行することは構わないといったものである。これには矛盾があるように思えるが、欲している人たちにとっては権利主張が当然のこととなっているのであろう。ただ、こういった場合の治療にはかなり多くの段階があって、それぞれにどこまでが妥当で、どこからが逸脱したものかという判断がしにくい事情がある。そのため、実際には世界でも国ごとに制限のかけ方が異なり、特に医療の最先進国と言われる米国ではほとんどの治療が認められている。排卵誘発、体外受精、人工授精、代理母など、何でもありということになる。ここに列挙したものに関しても、一緒にするなと言われる場合があり、どこまでが認められるのかは人それぞれの判断によるところが大きい。そんな事情から、患者のためという考えで治療を行う医師が出てくるわけで、場合によってはなんらかの法的措置をとるべきところに来ているのかも知れない。患者にとっても、そこまで自分を追い込むのは、単に自らの欲求だけではなく、周囲からの義務を果たすようにという圧力も関係している。夫婦は子供を持つのが当たり前という伝統的な考えが個人の両肩に重くのしかかるわけで、経験した人にしかわからないものだろう。ある意味余計なものであるこういった周囲からの圧力に関しては、それぞれの人々の良識に期待するしかなく、何ともならないといった状況なのではないだろうか。そんな状況下で、生殖治療の結果、死んだ夫の冷凍保存精子を使った授精により生まれた子供の父親の認知が、認められなかった判決が出たという報道があった。民法の規定では、父親の死後300日を経過した後に生まれた子供の認知ができないことによるようだ。しかし、こういう場合を想定していない時代に作られた法律では、何ともならないことは事実である。早急に法整備をと訴える人々もいるだろうが、根本的なところから考えて欲しい。つまり、死人の遺した生殖細胞を用いたものを認めるかどうか、という点から考えるべきなのだ。とにかく、生殖活動に関してどこまでの治療が認められるのか、いまだに法的には決められない状況は、個人の権利を重視することによるのかも知れないが、生む権利ばかり保障されても生まれる権利の保障が無い状況では、矛盾が出てきてしまう。権利の話をするのであれば、全ての権利を満足させるか、そうでなくすかのどちらかを選ばねばならないだろう。人間だから特別に、という考えを持つ人たちもいるのだろうが、あくまでも生物一般と同じと考えて、そういう行為が人間という集団全体にどんな影響を及ぼすのかを考えて欲しい。行き過ぎた選別は、優生政策の様に忌み嫌われるものになるが、行き過ぎた治療は、その逆を目指しかねないという点にも注意を払う必要があるだろう。あくまでも、個人的なことのように見えるのだが、本当にそれだけですむのかどうか。

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11月12日(水)−留学

 国内にいる留学生の数が10万人を突破したそうである。そんなニュースが流れても、ほとんどの人にとって興味のあるものではないだろう。身近にそういう人がいるわけでもないだろうし、これまでに接した数も大したことないだろうから。それよりも、最近の凶悪事件のニュースのように、外国人の関与したものが増えていることがこの増加と関係あるのかどうかの方が気になるのではないだろうか。
 実際に、最近起きている事件の中にも、留学生や元留学生が起こしたものがあり、強盗殺人事件が含まれていることからも、その凶悪化が取り沙汰されている。隣の国で酒の席とはいえ、羽目を外した行為を行い、尾ひれのついた報道から大騒ぎに発展した事件が取り上げられていたが、この国でも同じような見方が起きたらどんなことが起きるのか、想像したくないものだ。一を見て全てを断言するというやり方には、正しいところはまったく無いにも関わらず、いまだにそういう行動に出る高学歴の人間がいる国には警戒心を解けない気持ちになったりする。留学生の話に戻すと、20年ほど前になるのだろうか、記憶が定かではないが、先日議員引退を勧告された当時の総理大臣が留学生10万人計画という今一つ理解に苦しむ方針を打ち出した。計画の意図として、アジア圏における教育の向上に役立つものといった考え方があったのだろうが、問題はそれを実現するための方策にあまり考えが及んでいなかったことにある。つまり、人数さえ増やしてしまえばそれでよく、増えた人数の人々がどんな処遇を受けようとも大きな問題とはならない、といった考えが中心にあり、数だけを追い求めようとした印象があったのだ。その後、確かにそういった方針は実現に向けて、様々な働きかけが行われるようになったと聞く。その一つとしてよく聞こえてくるのは、大学に対して圧力がかかり、まるでノルマのような人数設定が行われているという話である。どんな形で実行されているのかはわからないが、その後留学生の数はうなぎ登りといった様相を呈してきた。その結果として、今回の突破のニュースに至ったわけだが、当然ながらそこには大きな歪みが生じることとなっている。はじめに話題に出した凶悪事件を起こす人々がこの国にやって来るきっかけを与えたことになったわけで、そこには勉学のためと希望を持ってやってきた人間が挫折した結果という場合もあるのだが、一方ではじめから就学ではなく不法就労のためにやって来る人も出てきて、制度上の問題点を指摘する話も出ている。この背景には、生活援助制度の整備が不十分であり、奨学金を受給できない留学生の数が非常に多いことがあり、その辺りの見込み違いが大きな原因といわれている。確かに、不況に入ってそういう社会貢献への関わりが難しくなったこともあるのだろうが、元々留学生に対する奨学金制度そのものへの関心が無い状況で、こんな計画を推し進めようとしたことに無理があったともいえる。現在も、多くの留学生が不法就労を行っているようで、その問題を解決する手段も見つかっていない。今のままでは、不法行為の温床となる留学生制度自体を無くそうとする動きが出てくるのではないだろうか。やっと目標を達成したと言っても、そこにはかなりの歪みが存在する。このままでは、アジアの大国としての役目さえも果たせないことになってしまうだろう。

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11月11日(火)−責任所在

 選挙の結果に安心(?)したかのように、株価は大幅に下げているようだ。憶測を飛ばそうと思えば、何とでもなるような情勢だが、それは下げを止めることにはならない。単に、分析を繰り返すだけで、その場しのぎのものにしかならないわけだ。とは言え、そんな形の納得を欲する人も多く、そのために分析屋が存在しているのかと思えるほどだ。
 世の中、様々なものの流通が整えば整ったで、それを織り込んだ期待が広がる。情報社会と言われる時代が来てから、情報の溢れている状態が当たり前となり、何も情報が無いという状態は危機感を募らせてしまう。そんな時代になってくると、種々雑多な情報が満ちあふれることになって、その中には劣悪なもの、無駄なもの、詐欺まがいのもの、混乱を招くもの、等々、多くの歓迎されないものまでが含まれてくる。というより、おそらく、増えた分のほとんどはこんな情報によって占められているといっても過言ではないだろう。つまり、情報社会などと言われていても、そこには情報とは名ばかりのガセネタが敷き詰められているわけだ。そんな中で重要となるのは、取捨選択の能力ということになる。情報は万人共通の場所に供給されるが、その中で何をどう選ぶかは個人に任されているわけで、雑多なものの中から気に入ったものを選ぶやり方もあるだろうし、逆に無駄とか偽とか嘘とか、というものを捨て去って残ったものを見るやり方もあるだろう。いずれにしても、見る前にある程度の選別をするわけで、そのときのやり方次第で、後の出方が変わってくることもあるから、注意が必要であり、この段階の能力が大きく影響すると言える。特に、インターネットの普及で、何の選別もなされていない情報が無制限に流れている状態が達成されているから、この中では他人による選別を期待することは不可能で、唯一自分だけが頼りになることになる。逆にこんな状態では、他人の選択を全面的に信用するのは、かえって不自然であり危険極まりないとも言えるわけだ。意外に気づかないことが多いが、現状では新聞、テレビ、ラジオといったマスコミはここで言う選択をする他人であり、そのフィルタを通してなんらかの選別がなされた情報を目にしていることを意識しておいたほうが良いだろう。以前の状況であれば、それが当たり前だったから、信じるか信じないかという判断しかなかったわけだが、逆にネットを利用することで他の情報を集めることができる点が大きく変わったところだろう。それを上手に利用すれば、自分なりの情報収集ができ、自分なりの判断が細かくできるようになるわけで、そこに情報社会になった恩恵があるとも言える。しかし、そういった使い方をする人はまだ少なく、どちらかといえばネットに関しても小さな窓から何かを覗き見るといった感覚で利用している人の方が圧倒的に多い。小さいことを意識していればましで、それ自体が世界であると信じる人には小さいも大きいもない。単に、井の中の蛙の典型であるというだけなのだが、文字通り自らが井戸の中にいるかどうかを意識できるかどうかが肝心となるわけだ。例として適切かどうかはわからないが、これから他人になりすまして情報を操作しようとする人々が増えてくるのではないだろうか。情報を管理する人の責任はどんどん増すけれども、それに対してそれを確実に実行することは困難となり、いい加減な管理を放置してしまうことが増えてくるのだと思う。一方で、そういった裏のことを意識もせず、ただ目の前に展開されることを鵜呑みにするだけの集団が増えているだろうから、そういった人々を煽動するのはさらに容易になる。はたして、それを防ぐ手だてがあるのかどうかはっきりとはしていないし、制度的な締めつけも十分とは言えないだろう。何しろ、他人になりすますことに対する刑罰も明確でないものが多いだろうし、どこまで意図的なものかを測る手段もない。現状では受け手の責任があまりにも重いような気がする。

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11月10日(月)−呉越

 急に寒くなってくると、そろそろ暖房器具のことが気になり始める。と言うより、もう既にどこかの店に駆け込んでいる人もいるのではないだろうか。昔なら、せいぜい火鉢、家によっては掘炬燵などあってありがたいと思ったくらいだが、最近は様々なものが出回っている。石油ストーブが定番だった時代ははるか昔のことになり、最近は石油ファンヒーターといったところか。
 家電量販店やホームセンターなどの広告を眺めていると、石油や電気を使った製品の宣伝が載せられている。割安とか便利とか安全とか、まあそんな言葉が並んでいるのだが、ふと気がつくのはガスを使う製品が掲載されていないことだ。理由として考えられるのは二つある。一つは、コンロなどと違ってファンヒーターのような製品は安全性の問題から専門店だけが扱えるようになっていること、もう一つは都会と違って地方に出ると都市ガスを使うところは少なく、大部分が液化プロパンガスを使っているために、暖房など定常的に使うものには不向きと考えられること、である。どちらにしても、そういう店に行っても展示してないのだから仕方がない。灯油を使おうとした場合、集合住宅では部屋までどう運ぶのかが問題となる。そんな点からガスの方が楽なのにと思いつつ、さてどこで購入しようかと考え込んでしまった。おそらくそういう消費者の心を見透かしたものなのだろうが、都市ガスの供給会社はこの時期にガス展と称する展示販売会を開く。景品などを出すことで、さらに多くの人を集めようという魂胆が見え見えなのだが、それにしても沢山の人々が来ていた。そこで、暖房器具と給湯器具を購入することにしたが、まあお値段はそこそこ、たとえバーゲンなどと言われても、やはりこういうものはそれなりの値段なのだ。そこでの話でわかったことが一つある。暖房器具の話ではなく、都市ガス供給会社のことである。西の方のある会社は、テレビで宣伝を大々的に行っている。理由は簡単で電力会社が同様に大々的なエネルギー関連の広告を行っているからだ。雰囲気のよく似た二人の女優がそれぞれに起用されているが、広告の中身はそっくりである。要は、家庭で使うエネルギーを統一しましょうという論旨である。電気の場合、ガスと比べて最も苦手とするところは発熱機能である。一番の問題はコンロにあったが、最近は電磁調理器なるものが出てきて、かなり巻き返してきた。給湯に関してはかなり前から深夜料金なるものを設けて、給湯タンクにお湯を貯めておく方式をとっているから、それほど問題にはなっていなかった。一方、ガスの方はと言うと、それは一番の問題は電気である。ガスが電気の代わりになるはずはないというのが、電力会社の最大の論点だったのだが、それに対して旗揚げされたのがガスによる家庭発電設備の設置である。そこまでやらねばならないのかと感心しきりだったのだが、どうも本気のようで宣伝に力を入れている。と言っても、太陽光発電と同様に家庭で使う電気のすべてを供給できるほどではないらしく、補助電源程度のものらしい。いずれにしても、相手の守備範囲を互いに侵そうとするほど激烈な宣伝活動と製品開発を行っているわけで、別の見方をすれば企業努力をしていると見ることができるだろう。そんな中で東の方を見ると、発電施設の不備を隠し、その発覚から対処に追われている電力会社が相手では努力する気も起こらないのか、都市ガス供給会社の広告は男優によるごく普通のものしかない。当然ながら、上に書いたような観点からの製品開発は表に出てなく、果たして行われているかどうかもわからない。まあ、色んな事情があるにせよ、相対的なものといった感覚がこれほど強いものとは思わなかった。相手が弱っていれば、努力も必要ないといったところだろうか。

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