連休になると、ラジオの交通情報の話題は高速道路の渋滞に集中する。東京にしても、大阪にしても、名古屋にしても、程度の違いはあれ、都心部から地方に繋がる高速道路に必ずと言っていいほど渋滞が発生する。原因はほとんどの場合交通集中、つまり自然渋滞である。何故これほど多くの人がどこかへ出かけようとするのか不思議である。
高額な高速料金を取っていてもこれほど混雑するのだから、ただにしたらとんでもないことになると言われそうだが、たまの休みにどっと出かける人々にとって、今の高速料金が高額なのかどうかはわからない。高額と感じている人の多くは毎日、毎週使う人々であって、月に一度とか連休の時だけという人ではないだろう。政策論議としては興味深いものだったようだが、実施となるとまあ難しいというのが大方の意見なのだろう。首都高速は近々夜間料金なるものを導入するそうだが、より快適に通行できる夜間が駐車場などと揶揄される昼間より安くなるのは何とも皮肉なものである。通行量の少ない時間により多くの車に使ってもらおうという魂胆なのか、しかし必要性とは別の次元の話のようだ。東名高速や名神高速は、ある時期あまりにも渋滞がひどくて、どうにもならない状態が続いていたが、車線の数を増やしたり、バイパスを設けるような形で、今はずいぶん緩和されてきた。それを更に進めようとするのが、第二という名がついた高速道路の建設で、かなりの反対の声が上がっている中で、最後の追い込みのような建設が進められている。建設費との関係を論じるべきかどうか、ここまで来てからではという意見と、ここで止める勇気こそという意見が激論を戦わせていたようだが、結局のところ止まることはなかったようだ。渋滞が嫌なら使わねばいいという論理もあるのだろうが、そうもいかぬ人たちもいる。また、こういうシステムがあるからこそ、他のシステムとのバランスがとれるという考え方もあるだろう。この手のことに絶対的に正しいものはなく、それぞれをどう動かすかによって、より良くなるか逆の目が出るかといったところなのだと思う。そういう意味では、首都高速の試みはちょっと首を傾げたくなるところもあるが、面白いものの一つだと思う。ただ、実際に始めてみるといろんな混乱がありそうで、その辺りにも興味がある。一つだけ注意せねばならぬことは、これまたETC搭載車に限る制度であることで、この辺りも勘ぐりを誘っている感がある。日頃の渋滞は仕事という面が感じられるから仕方がないにしても、連休などの行楽を目的とした渋滞にはちょっと考えさせられる。車でなければ出かけられない場所へ向うという人には何も言えないが、ちょっと便利だからとか、歩かなくてもいいから、といった理由で自宅から目的地までという気持ちでいる人も多いだろう。確かに、何人も乗れば高速料金も安く見えてくる。いろんな兼ね合いとは言え、目的地に着いたらもう夕方というのもおかしな感じだ。金より時間というはずの高速道路が、時間より金となっている。結局は、休みはどこかへ、という考え自体を考え直すべきなのかもしれない。
オフ会というのは、普段インターネットを介して接している人々が、ネットとは違う実社会で接する会という意味だと聞いたことがある。人と人との触れ合いが面と向かうものであった頃と違って、最近は相手の名前も顔も何も知らずに触れ合うことが可能となり、そちらの方が当たり前と思う人も出てきたのではないだろうか。
確かに、自分の正体を知らすこともなく、いろんな情報交換ができるというのは、相手の素性ばかりを気にするようになった時代として、別の意味で重要な手段の一つなのかもしれない。有名な人の言うことは正しく、そうでない人のものは大したことがないとか、聞くべき価値が人の素性によるなどと主張する人々が多くなってくると、大多数の人々には発言権が与えられず、ただ人の言うことを聞くしかなくなる。しかし、実際にはそれぞれの人々全てが個々の意見を持っているはずで、その内容を聞く前にその価値が決まっているはずはない。にもかかわらず、そんな先入観丸出しの態度に接すると、誰でも意見を述べたくなくなるものだ。それに対して、ネット上では素性が知れていなくても、何らかの意見を提示することができて、多くの読み手はまず読んでみようとする。だから、意見の内容そのものが評価の対象になるわけで、意見を書いた人の社会的地位が対象とはならない。どうしても、そうしたい人々は地位を明記することにこだわるが、それとても信用されるかどうかは定かではない。こんな状況では、そこに書かれたものだけが重視され、その内容の高さや言葉遣いの良し悪しが判断の材料となる。だから、書き手にとっては、とても良い場を与えられていると考えていいはずなのだが、そう思えないことが多いのはなぜだろうか。素性が知れないから、何をしてもいいという仮面をかぶった人々にとっては、普段使えないような下品な言葉や相手を罵倒する言葉を並べられることが快感となるのかも知れないが、仮面をかぶっているから自分の心には何も影響がないと思う人の神経がしれない。快感を得るということは当然心に与えられるものがあるからで、それによっていろんなものが変化していることは明らかである。にもかかわらず、実社会とは違う世界での出来事と思うことで、何も影響は受けないとする人々ほど、危ういところにいるのではないだろうか。掲示板での罵り合いを見ているかぎり、これらの人々の心に何かが生まれていることはよくわかるし、ただからかっただけというにはあまりにも興奮したやり取りからは、何か別のものを感じざるを得ない。こういう異次元の世界だけで生きていくのなら別だが、そんなことをできる人などいないわけだから、少なくとも実社会とあまりにもかけ離れた行動に出ることだけは避けるべきなのではないだろうか。ゲームの一つだと断言する人々に、普段の行動との乖離を確かめたくなる。同じことをしないからこそ、ゲームなのだろう。ただ、ゲームと言い続けるには、そろそろ無理が生じているようにもみえる。
初めて訪れた見知らぬ街を歩くときには、道のことがわからなくて困ることがある。街路案内のような地図が歩道に設置してあると助かるが、それさえない場合は人に聞くしかない。ちゃんと順序立てて教えてくれる人もいれば、要領を得ない人もいる。右と左を間違える人も多くて、うっかりそんな人に当たったときは不運と諦める。
歩いている場合は、ちょっと間違っても大したことはない。元のところへ戻ればいいだけだから。と言っても、それができない人もいるだろう。今来た道を戻りなさいと言われても、どれが今来た道なのかわからないというわけだ。これが結構多いらしく、頭の中に地図を作って、それを逆向きに見ることができるとか、通った道を逆から見たとき、どんな風に見えるのかを想像できるとか、そんな能力が必要であるなどと言われている。実際には、頭の中で起きていることだから、自分自身でもよく理解できないことがあるわけで、何が一番大きな役割を負っているのか、はっきりとはしていないのだと思う。道案内も同じことで、案内する人も、される人も、頭の中に地図をこしらえながら、話が進んでいく。お互いに全く違った形の地図のはずなのだが、似た面がある時には理解しやすく、かけ離れている場合には全くどうにもならないことになる。話の中での想像図という場合には、まあ仕方がないとなるのかもしれないが、目の前に実際の地図が現れる場合にはそうもいかない。最近流行りのナビゲータもその一つだが、これは場合によってはじっくり見ることもできるわけで、まだ余裕がある。それに対して、これまでにも何度も世話になった道路上の案内板は一瞬の勝負である。高速道路の場合は、どこで下りるかという程度の問題だから、大した問題にはならないだろうが、都市高速はそうでもない。右車線か左車線か、という問題から始まるから、油断は禁物である。まあ、それでも、ちょっと注意しておき、事前に下調べをしておけば、大抵のところは何とかなる。しかし、一般の道路はそうもいかない。右に行くのか、左に行くのか、はたまた直進か、いろんな案内が書かれている。ところが、こういう案内板に書かれていることが分かりにくいのだ。時には、遠くの目的地が書かれているし、時には、近くの目的地が書かれている。これが混在していると、すぐには理解できないことがある。先程まで書いてあった目的地が、あるときどこかに消し去られることもあり、一瞬道を間違えたのかと思ってしまうこともしばしばだ。道路を管理している側から考えれば、ごく当たり前と思えることでも、その道を初めて走る人から見れば、全く違ったものに見えることがある。どうすればいいのか、ということをすぐに結論づけることはできないが、もう少し工夫のしようがないのか、と思うことがある。これまで何度も指摘されているはずなのに、改善されないところも多いのは、中々良い案が出てこないからなのだろうか。試験的に、ということで、変な形のものを見せてみるというわけにもいかないのだろうが、何とかして欲しいものだ。たとえば、案内板には受け取れる情報量の限度がある。だから、字数を増やしすぎるわけにもいかないから、手短な説明となる。それが不親切と感じられる情報になることもあって、この辺りが難しい。その場合に、情報の中に重い軽いの関係を取り入れることはできないのだろうか。近くの目的地は大きく、遠くの目的地は小さく書くとか、字の色を工夫するとか、簡単ではないかも知れないが、やってみる価値のあるものもあるだろう。統一することが第一という考えがどこかにあるかもしれないが、その前に何がわかりやすいものなのかを済ませておかないと、悪いものに統一することになる。ちょっとした工夫を積み重ねることで、もっと分かり易いものができるのならば、試みて欲しいものだ。
ちょっといいお天気が続いていたと思ったら、また雨である。この週末まで雨が続くかどうか、連休なのでハラハラしている人もいると思う。既に残念に思っている人もいるようで、近くの神社のゑびす講なるものには、どこかのものと同様に商売繁盛を願う人々が集うはずなのだが、この雨で人出が少なくなりそうだ。
こういう神社の祭りのようなものには夜店がつきものである。一年に一度の大きな催しということもあって、周辺の道路を封鎖してまで、多くの屋台が繰り出す。お祭り気分の人々が集まっている場合には、まったく気にならないのだろうが、祭りと無関係な者たちにとっては何とも邪魔な存在と感じられる。確かに祭りを盛り上げるための重要なものであることには違いないのだが、それを出す人々、そこに集う人々の中には、問題を起こす人もいて、交通の妨げになるような行為も多く見られる。そこは祭りのことだから大目に見て、というのが当然という態度でやられると、何とも言えない気持ちになるものだ。お互いに相手のことを気遣いつつ、という形式がそのまま通用していた時代と違い、最近は相手に気遣いをさせるのが当たり前のようになっているから、おかしなことが起きてくるのだと思う。まったく次元の異なった話だが、会社の中での責任の果たし方についても、そんな雰囲気が感じられる。誰かが責任をとるはず、という思い込みを全員が持っているのではないかと思えるような無責任な行状を繰り返すとか、たとえば補助金を受ける資格がないのに無理矢理受けようとする詐欺まがいの行為とか、責任感の感じられない行為が巷に溢れるようになってきた。こういうことが起きる土壌はどこにあるのかと考えてみると、多くの人は会社組織とか社会の問題と結論づけるのではないだろうか。既存の社会に問題があるから、そこに育った人々には責任がないという、先人に全責任を負わせる考え方も同じような土壌で培われたものなのではないかと思うのだが、どうもそういった考え方が大勢を占めているように思える。ある意味当然のことなのだが、誰しも自分に責任が降りかかるようなことはしたくない。それよりは、他人、それも自分に責任が及ばないような存在に責任を押し付けたくなるのだと思う。しかし、実際には、責任感を持たない人々の多くは、社会に出てからそうなったのではなく、もっとずっと以前からそういう状態にあったと言ったほうが正しいように思える。学校に通っている頃から、そんなことは当たり前という状態だったのだろうし、その後もそれが変わることなく社会に出てそのまま通しているわけだ。さて、そうなると、いつからそれが始められたのか、おそらく社会性をもつ組織に出る前、つまり就学前からの積み重ねと言わざるを得ないだろう。これまた、誰しも触れられたくないものの一つであるが、今を見ているかぎり、もっと真剣に取り組むべき問題に思える。犯罪を無くすには罰を重くすればいいとか取締を厳しくすべきという考え方には、他のものに頼ろうとする思いがあるが、実際には自ら律することの方が大切だろう。先日優良企業云々という本の紹介で、自発性という内から出てくる力を強調する話があったが、これもその一つと考えられる。最近特に強く思うことの一つに、こういうごく当たり前の言葉が共感をもって受け止められ、話題になることがある。何故、当たり前が受けるのか、世の中にとってそれが当たり前にならなくなったからだとすると、これほど恐ろしいものはないと感じる。
一部の人たちを除いて、何がどう深刻な問題なのかわからないものが沢山ある。今回の鯉の大量死に関しても、そういった感覚を持っている人が多いのではないだろうか。始めは養殖されていた所での大量死が報道され、その後そこに端を発したと思われる地方での感染魚やその死の報道が続いた。いまだに報告が続いており、どこまで増えるのか見えてこない。
鯉が沢山死んだからといって被害を受ける人々がいるのかどうか、一般市民には今一つピンと来ないものだと思う。確かに関係している養殖業者やそれを取引している業者に被害が広がるのはわかるが、それ以外の人々にどう広がるのかちょっと分かりにくい話のような気がする。実際には、鯉こくや煮物として市場に出回っているけれども、それほど大量でもないし、鯉こくを自宅で食べる人もいないだろうから、狂牛病の時の牛肉の大騒ぎとはまったく違った状況になるのも納得できる。それにしても、こういうての騒ぎが次から次へと起こるものだと感心させられる。どこかにその原因があるはずで、その問題をもっと真剣に取り上げるべきと思うのだが、どうも目の前の問題にばかり気持ちが行って、その奥底にあるものにまで目を届かせようとする人が少ないようだ。逆に言うと、そんな根本的な問題に取り組むよりも、今現在困っている人たちの救済が先ということなのだろうが、個別の問題の解決ばかりに追われていて、根本的な解決を図らなければいつまでもこれを繰り返すことになるということも事実だと思う。どちらが優先されるのかが問題ではなく、どちらにも気を配ることが全体として重要なのだろう。鯉の大量死の話を聴いたときにふと思ったのは、金魚の話である。自宅で金魚を飼っていたころ、ある学園祭か何かで金魚すくいがあったので、そこで数匹の金魚を手に入れてきた。もう少し注意深く取り組めばよかったのだろうが、ついそれらの金魚を先住民と同じ鉢に入れてしまった。その後の経過は経験者ならよくご存知の通りである。先住金魚は全滅、あとからやって来た金魚がもっていた寄生虫、微生物、ウィルス、のどれかに感染して、あっという間にやられてしまったわけだ。金魚の飼育の心得として、たとえ購入したものでも、数日間は別の鉢で飼っておき、様子を見てから一緒にせよというものがある。大体、よそから来たものには何か別の病原体がくっついていて、それとは別の集団と一緒にすると感染するだけでなく、死に至る場合が多いというのだ。これは、別段金魚に限ったことではなく、ほとんど全ての人間が育てる動植物に言えることである。理由の一つは、人間が育ててきたものは同じ系統のものが多く、同じ病気に感染しやすい状況にあることで、もう一つは、同じ系統とは言え、別の環境に育てられたものは別のタイプの病気に感染していることが多いということである。こんな状況は自然に育っているものにはほとんどなく、人間が育て上げたものに顕著に見られる。結局育種とはある特性をもったものを育てるわけだから、病気に対する感受性に関しても一定の特性をもちあわせることになる。天然種は、そういう人為が入っていないので、もっと別々の特性をもった個体の集団であり、そうでなければ絶滅の危機に瀕してしまう。今回の鯉ヘルペスの話にしても、全国で飼われている鯉の大部分が同じ系統のものであることがこれほどの大流行の原因の一つと考えられる。これは鯉に限ったことではなく、あらゆる養殖されている動植物に言えることで、養殖にはつきもののことと言える。こんな考えからすれば、今回の事件も人間の都合に合わせることが生んだ悲劇と言うべきものなのかも知れない。
先日、ある講演会に出かけてみた。なんともとらえどころの無いものだが、主催者の言葉を借りれば、アートとサイエンスの融合、心理学と芸術の結びつき、といったところだろうか。今回で7回目ということらしいが、毎回新しい見せ物の試みをするというのも、特徴らしい。
こういう講演会は、色々とあるのだと思うが、それぞれポッと出てきて、パッと消え去るといったもので、長続きするものではないようだ。この頃は何らかの形で勉強したいと思えば、それに適合したものが講演会やら何やらの形で供給されているから、とても便利な時代になったものだと思う。ただ、一方では、そういう状態になると玉石混交といった状況になるわけで、何かの勧誘やらと組み合わされていることもあり、注意しなければならないこともある。まあ、自分が注意し、変な誘いに乗らなければ、そんな企画と出くわすことがあったとしても、大した被害を受けることはない。どうも、周囲に依存する体質が身に付いてしまったせいか、そういうことを他人に期待する向きが増えていて、被害を受けてしまう人が増え、こういう怪しい企画をする輩は減りそうにもないようだ。自分自身が注意し、守るという基本さえもっていれば、どうということが無いはずなのだ。さて、講演会の方は、心理学でよく用いられる確率の問題やネットで政治問題を供給する仕事をしている人の話など、それだけを読むとどう繋がるのかさっぱりわからないものが出てきて、面食らっていたが、後半は人の心の問題やごく普通の心理の問題を提示する話が出てきて、なんとなく心理学の話なのだなと思わされた。では、芸術との融合というのはどこにあるのかといえば、それぞれの講演の間に行われたパフォーマンスにあるという説明があったが、どうも今一つ理解できない。視覚心理をうまく操るような見せ方を試みたという話だが、これがうまくいったとは言えないもので、試みという看板がそのままといった印象であった。一番困るのは、狭い会場で大音響の音楽の中でこういうものを行うことで、音に敏感なものにとっては、苦痛となる。音も効果の一つなのだろうが、苦痛となるようでは効果は期待できないだろう。印象に残った話の一つは、自分の心と他人の心に関する話で、他人が考えていることを自分が考えるのは、どのくらいの年齢からなのか、といった話であった。ビデオで二人の子供の行動を被験者である子供たちに見せて、次に起こる行動を予想させるものだったのだが、三歳児ではそこに展開される寸劇を観たまま信じ込み、それに基づいた予想をするのに対し、五歳児ではそこに登場する子供たちがどう思うのかを考えた上で予想をする。この違いが、他の人たちの心の動きを考えるかどうかから来ていると結論付られているそうで、三歳と五歳の間に多くの子供がそんな能力を身に付けるのだそうだ。これほどはっきりとした違いがあるとは思っていなかったから、ちょっと驚いたが、ごく当たり前の試験の一つであり、自閉症の子供に対しても行われるものらしい。心の動きに関しては、他人のものが初めに芽生え、その後に自分のものが芽生え、次々に入れ子になっていく形で複雑な心の動きができ上がるのだそうだ。分析的に話を進めれば、こんなことになるわけで、お互いの心の動きはかなり複雑に入り組んだものとなる。実際、相手が何を考えているのかを考えすぎるとわけがわからなくなる。そんなことをこの入れ子構造は示してくれたと言えるのだろう。わけがわからない、ということに変わりがないのが残念だが。
相場の方向感がはっきりしないから、というわけでもないが、そんなときに訳のわからない話も一興かと思う。SFを読んでいると、時々異次元空間だの、四次元の世界だのと、理解不能な話題に誘われることがある。見たことのないものを想像する能力に長けている人にとっては、どうということもない話でも、そんなものを持ち合わせていない者にとっては混乱を来す。
次元というのは、昔を思い出せば数学の世界で使われるものという感覚がある。一次元、二次元、三次元という流れで、それぞれ、線の世界、面の世界、空間の世界といった感覚で受け止めていた。しかし、その上の四次元となると、はて身の回りの何に当てはめてよいのか、さっぱり思いつかなくなる。実像として頭の中に出てこないものを想像するのは、かなり特殊な能力が必要らしい。数学の世界で、n次元と呼ばれる多次元を相手にしている人たちは、こういう能力を持っているらしく、こちらから見ると雑作もなく処理しているように見える。実際にどうなのかはわからないが、とにかく難しいことには変わりがなく、凡人には近寄りがたいものとなる。その割には、小説などに出てくるところを見ると、わからないものとは言え、どこか興味を持ちたくなるものといった感じなのだろうか。そう思っているときに、ふと手に取ったSFの中で、なるほどと思える説明がなされていたので、ここで紹介しようと思う。わかるかわからないか定かではないが、こんな説明もあるという程度のものである。三次元空間に住んでいる人間にとって、四次元世界を想像することは難しい。同じように、ある次元から一つ上の次元を想像するのは、そこに別の要素を入れないといけないから、とても難しいことなのだ。たとえば、一次元の直線世界に住んでいるものにとって、二次元の図形はどう見えるのか考えてみる。どんな図形でもいいのだが、円を使ってみる。円が直線と直角に交わりながら過ぎているとすると、直線上では点が現れ、消えていくようにしか見えない。一方、直線と円の平面が重なるように過ぎていくと、点が現れ、それが徐々に長くなる線となり、また徐々に短くなり、点になり、消える。次に、二次元世界で三次元の図形を見たらどうなるのか。これも、例として球を考えてみると、点が現れ、それが徐々に大きな円となり、また小さくなって、点となって消える。球が二次元世界の平面と垂直に動けば、こうなるし、ちょっとずれた動きとなれば、円の中心が移動することになる。さて、それでは三次元世界で四次元の図形を見るとどうなるのか。同じように四次元世界の「球」の場合を考えると、点から大きさの変わる球になり、また点となって消えるわけだ。はて、では四次元の「球」とはどんな形か、それが想像できるのだったら、数学者になれるかも知れない。ここでの説明は、空間という次元の代わりに、時間という次元を使うことで、わかりやすくしようとしている。四次元空間というと困るけれども、三次元に時間を加えたものとすれば、何となく映画やビデオの世界となって、わかるような気がするのと同じことだ。それにしても、時間を取り入れればわかるけれども、それを絵として表現する方法が見当たらない。結局は、自分自身が住んでいる三次元空間を超える表現が見つからないからなのだろう。時間とともに変化する風景を同じ画面に同時に表現する方法は、まだできていないようだ。ちょっと話が飛ぶが、次元を下げて表現する方法が色々と考案されているのだが、逆のものはあまりない。たとえば、糸を所々色んな色に染めても、そこに模様を想像することは難しいが、布に織れば模様が見えてくる。これは一次元のものを二次元にすることによって、理解できるものを作り出したと言えるだろう。同じように上の次元にすることで、他にもこんなものが出てくるのかも知れない。