パンチの独り言

(2003年11月24日〜11月30日)
(上書、綴り、無医村、贋物、回想、真意、自然食)



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11月30日(日)−自然食

 季節外れとか、例年になくとか、今年は何度も聞かされているような気がする。それほど、天候不順となっているわけだが、今のところ、この冬も例年になく暖かい日が続くのではないかとか、太平洋側の雨が多くなるのではないかとか、そんなことが言われている。長期予報を出す気象庁は別段予言屋ではないから、きちんと傾向を分析して発表しているのだろうが、はたしてどうなるのやら。
 季節外れという話題を出したのは、まさにお天気の具合がおかしいからである。この時期に大型台風に対する警戒を聞くことはまずないし、このところの気温の上下にも異様な雰囲気がある。秋から冬にかけて、農作物の話題は少なくなっていくとはいえ、それでも冬を迎えるにあたって準備万端にするための野菜がいくつかある。昔の記憶を辿ってみると、大根を干す風景とそれに続く漬物の仕込みの風景がこれから年末に向けてのものだったような気がする。大根と白菜、冬には欠かせない野菜だが、最近では季節感が無くなってきて、いつでも見ることができる。それでも季節ごとに違いがあるもので、大根は夏は辛味が強く、冬は甘味が強いと言われる。今でも、そういった傾向は残っているのではないだろうか。そんなことを思い出させてくれるもう一つの野菜はほうれん草だ。これも昔は夏場にはほとんど見かけなかったものだが、最近は酷暑の真夏にまで市場に出ている。たぶん冷房の効いたビニールハウスの中ででも作っているのだろう。ただ、その頃のものと冬が近づいてきた今頃のものとは明らかな違いがある。夏場のほうれん草は葉も茎も弱々しく、すぐに傷んでしまう。それに比べると今の時期のものは、さすがに元気が良く、葉は厚く、茎も丈夫な感じがする。それらをゆがいてみるとはっきりとした違いが見えてくる。やはり自然のものが一番だなと思ったりするが、はたして今の時期に出回っているものがそれに当てはまるのかはわからない。少なくとも夏場のものよりもしっかりしており、そちらの方がほうれん草らしいと思えるだけである。冬は寒いもので、特に太平洋側では乾燥するのが常である。ただ、変だなと思えるのは、前の日に比べると10℃近く気温が上昇しており、台風のせいなのか非常に湿度が高い。人間の体の方も、こう変化が大きいとついていけなくなるが、体だけではないのだなと思えてきた。例年通り、渋柿を採ってきて、干し柿を作っているのだが、今年の具合は良いとは言えない。まず、全般的に気温が高いこと、それよりも困るのは雨の日が多いことである。干しているのだから、一応太陽の光も重要なのだろうが、乾燥も必要である。縮んできた柿の実の外側が乾いてきて、そこから糖分が滲み出てくる。これがもう少し乾燥すると白い粉となって、干し柿の完成となるのだが、そこまで干しておく必要はない。ある程度縮んだところで、干すのを止めて、形を整えてから、少し放置しておくと、自然に粉を吹いてくるのだそうだ。これはある有名な干し柿の作り方として聴いたものだが、干すのはほんの2,3週間だそうで、その後は室内の作業になるのだそうだ。もうそろそろと思ったころから雨の日が続き、その上高い気温と湿度である。表面がべとべとしてきて、さすがに心配になったので、意を決して取り込むことにした。さて、その後の経過はどうなるのか、予想はつかない。じとっとした梅雨を思わせる天気では干し柿が上手くできるわけもない。自然が作るものだからこそ、こんなこともあるのだろう。

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11月29日(土)−真意

 四文字熟語の話になると張り切る人もいるのではないだろうか。受験に向けていろんな対策を講じたことで、それから何年も経過してもまだ覚えている人も多いと思う。また、もっと若い世代の人たちにとっては、漫画か何かと絡ませて小さい頃に読んだ本を思い出す人もいるだろう。いろんな示唆に富んだ話が含まれていて、面白いらしい。
 これらの熟語の多くは中国から伝えられたものだという。漢字の総元締めだから、当たり前といえば当たり前だが、その中に様々な物語が含まれていて、そちらの事を知るのが楽しいという話も聞く。先日、テレビで流れていた項羽と劉邦の話もその一つとしてかなり有名である。ただ、四面楚歌がその中でも注目されてしまったために、他の言葉には余り関心がもたれていないようだ。それにしても、秦という時代から漢という時代への移り変わりの頃に話題になったことが、それから2000年以上のときを経ても、使われているということには驚かされる。言葉はそれほどの寿命をもっているということに驚くわけだが、一方でほんの一年だけ巷を騒がせるものもあり、最近は流行語大賞などという催しがあって、盛り上がっているから余計にそういった感じがしてくる。ある年だけにはやって、次の年からはさっぱり聞かれなくなった言葉も多く、調べたことはないが、これこそ流行り廃りの典型という気がしてくる。言葉は生き物であると言われるが、上手く言い表していると思うと共に、一方でいつまでも生き続けるものがあるのが不思議である。それだけ面白い逸話が含まれているとか、他に言い表しようがないとか、いろんな事情があるのだろうが、いずれにしても、そこまで長い命をもつための要素というのははっきりしていないだろう。また、もう一つ面白いと思うのは、本来の意味と違った意味で伝えられるようになり、そちらの方が正しいという形で受け取られているものがあるということだ。先日、本願寺のサイトで紹介されていたものは、当然仏教に関係したものだが、他力本願という言葉である。今では他の人々の力に期待するとかそんな意味に使われているのだが、本来はまったく違った意味だったのだそうだ。興味のある人は、本願寺で検索すればすぐに見つかるので、実際に調べて欲しい。宗教がらみのものは、それ自体を知っていないと中々解からないものが多く、色々と難しいものだと実感させられる。確かに、それを知っていてこそ、本来の意味がわかるのかもしれないが、言葉の元々の意味を知らなくてもわかるように作られた新しい意味の方が結局受け入れられてしまったという話も面白い。言葉がいろんな形に変わるといわれるが、一方で意味の方も流動的なわけだ。極端な場合には、人それぞれで解釈が違うときもあるだろうから、そんなときにはお互いに納得しながら、全然違うことを考えてしまうこともあるだろう。情けは人のためならず、という話も、ちょっとした誤解の上に理解していると、まったく違った方向に受け取られるものの一つだ。説明を省くために作られた言葉が、かえって誤解を生むというのも言葉の難しさを象徴している。

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11月28日(金)−回想

 昔は、工業製品でメイドインジャパンと言えば、粗悪品の代名詞だったそうだ。昔と言っても、せいぜい40年ほど前の話である。この話は米国にのみ当てはまることなのかも知れないが、ゲーム機などの伸びが今一つで勢いを無くしている例の会社が進出し始めて、それほど時間が経過していないころである。おしなべて言うと、あまり良くなかったということなのだろう。
 それがいつの間にかメイドインジャパンと言えば、高級品とか質の良い製品とか、そんな褒め言葉の代名詞となった。しかし、その勢いが増せば増すほど、米国では風当たりが強くなり、特に自動車には厳しい規制がかけられたし、一部の都市では日本製の車に乗ることは危険と思われた時期もあった。工業製品の多くは、元々米国や欧州から輸入されたり、製造方法が伝えられたものだったが、製品管理の手法や従業員の意識の違いなどによって、均質の製品を作り出すことが可能となり、さらにそれが高品質、高機能といった、高いという言葉がくっついた表現で呼ばれるものの開発に繋がっていった。しかし、その中で、元々のものを開発したのは欧米であり、日本の技術者はそれをより使いやすいものや高い機能をもったものに改良しただけという意見が出されるようになった。ただ乗りという、とんでもない表現が使われたり、日本人には独自性がないなどと揶揄されたのも、その頃だ。一方で、日本の成長には陰りが見えなかったことから、すぐに米国を追い抜いて世界一になるとまで言われたが、実際にはその途端に急落して、長いトンネルをくぐらねばならなくなった。いずれにしても、どんな表現方法を使われようとも、自分たちのできることには何の変化もなく、それをそれなりのやり方で続けていかねばならない。今生き残っている産業の多くは、これまでのやり方を踏襲しながら、さらに工夫と改良を重ねてきたわけで、昇りつめたと思い込んでしまった人々はどこかへ行ってしまったのかも知れない。こういう流れを改めて見直してみると、時流に乗って上手く伸びた人が常に得をするというわけでもなく、地道に努力した人もそれなりに生き残っている。特に、バブル全盛と言われた時代には、そういう流れに乗れない人はだめなやつと言われたようだが、今となってはどちらにしてもあまり大差はないように見える。だから、と結論づけたりするのも、無理な話なのだが、結局のところ、自分のやり方を信じて進んだ人たちはこんな状況であり、一方で他人に乗せられ、振り回された人たちは疲弊してしまったのではないだろうか。一概には言えないと思うのだが、どうもそんな感じがしてしまう。バブル期にまだ学校に通っていた世代では、その後の下り坂の影響をもろに受けてしまったわけだが、その責任を上の世代にぶつけたいと思う人が多いようだ。確かに、先を見極めなかった人々の責任は大きいのだろうが、あれ以降さらに伸びを続けていたら、また下降がやって来たはずだ。そう考えると、時期がずれたとしても、結局は同じことなのではないだろうか。良い時代を過ごしたがために、それより下の生活を忌み嫌う気持ちもわからないではないが、上があると思えばそれまた違って見えるのではないだろうか。他人の手によって与えられたものと、自分で手に入れたもの、どちらにより大きな価値があるのかはわからないのだけれども。

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11月27日(木)−贋物

 この頃、盗難の話を聞かない朝はない。最近の流行りは病院の盗難で、内容を聴くかぎり、かなりの額の現金が保管されていることがわかる。その他、事務用のパソコンなども盗まれるようだが、これが診察用のものとなれば個人ファイルも持ちだされることになり、様々な問題を生じることになる。ファイルの保管方法なども含めて、早急に対策が講じられることを望む。
 今朝の盗難の話題で面白いと思ったのは、絵画の贋作が大量に盗まれたという話だ。本物があるから偽物があるというのは簡単な話だが、本物そっくりなものが贋作と思っていたら大間違いのようだ。描き方を似せて描いたものであれば、本人の未発表の作と見なされる場合もあるそうで、それを狙って流通させることがあるのだそうだ。それにしても、絵画の価値とは不思議なもので、似せて描かれたものには価値がなく、本人が描いたものには価値があるというわけだ。逆の見方をすれば、今現在巨人として扱われている画家のかなりの人々が生前恵まれない生活を送っていたのは、その価値が認められなかったわけで、場合によってはひどい技術とか、ろくでもない作品とか、当時の批評家に酷評されたものもあったようだ。それが、今では素晴らしい作品と言われるわけだから、芸術に対する人の感性などというものは信用ならないものということになる。まあ、そんなことを言っていても、自分自身のことを考えてみれば、好き嫌いで判断しているわけだから、そんなところに流行り廃りが入る余地は十分にあるだろう。別の人種には、他人が褒めたらそれは良い作品という判断基準を持つ人もいるようだから、情報社会と言われる世の中ではあっという間に有名になることもできるのではなかろうか。昔も今も、芸術家は金に困るものらしく、自らの作品につぎ込む金をどう工面するかが一大問題である。絵画の場合、絵の具にかける金がかなりのものであったらしく、一部の顔料はゴールドと同等の価値をもつとまで言われていたそうだ。当然、そのためには別の職業を持つか、金持ちに取り入ってそこから様々なものを供給してもらうしかない。古今東西、そういう生活様式が存在していたようである。最近はあまり目立たなくなってきたから、どんな様式がとられているのかわからないが、昔の欧州では王侯貴族に取り入るのが一つの方法だったろうし、昔の日本では殿様がその対象だったのだろう。安土桃山時代から江戸時代にかけて栄えた絵画の流派には、狩野派があるし、琳派がある。今眺めても、あの見事さや派手さは独特のものだ。この前、応挙の展覧会を見に行ったが、昆虫などの写生が見事だった。立派な作品はもちろんだが、こういう小品に触れることはあまりないから、そんなものを見るとなるほどと思うことがある。それにしても、昔は見たままを描くことは良くないと言われていたらしく、とても不思議な感じがしてしまう。今では当たり前の遠近法も、古い手法ではなく、日本に入ってきたのは江戸の頃だろうか。ただ、あれは正面に立ってこその技法で、その絵画を独占できる状況だからこそ生まれたのではないかと思う。ある城にある虎の襖絵は、どの方向から見てもこちらを睨んでいるように見えるという。遠近法でないからこそのものかも知れない。

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11月26日(水)−無医村

 新聞、テレビが僻地の医療が危機状態にあると報じていた。過疎の村の診療所の医師が病気になってしまい、代わりがいないというのだ。医師が一人しかいない診療所ではほとんどの作業を自分でやらねばならないし、他に病院がないということは休みもとれない。そんな状態が長く続けば、よほど強靱な体の持ち主でもないかぎり、自分の方が参ってしまう。
 僻地に診療所を設置できるかどうかは、そこに住んでいる人たちにとっては死活問題である。都会で病院の間をたらい回しにされて、手遅れになってしまったという話もあるが、無医村では回すことさえできない状況であり、救急車の手配もままならない。そんな状況を打破するために、自治医科大学が創られたのだと思うが、実際には何十年も経てもなおこの重大問題は解決に至っていない。経営面から見れば、人口の多い地域にある病院でさえ苦しい時代であるから、過疎の村にある診療所が成り立つはずもない。それだけが理由ではなかろうが、多くの診療所は一人しか医師を置くことができず、それによって過大な負担を強いる結果となる場合も多い。ほんのたまに、町の大学病院の医師が訪問するようなところもあるのかも知れないが、根本的な解決に繋がるわけではないだろう。村が税金で支えるといっても限界があり、必要不可欠と認めながらも、十分な環境を整えるのは困難なのだろう。誰でも当然自分の働く場所には希望を持っているだろうから、劣悪とわかったところに赴任することには抵抗を覚える。そんなところでもある程度の覚悟を決めて医療に従事する人たちがいることには、何となくだが安心させられるものがある。ただ、現実はそういう甘い言葉だけで済まされるものではなく、いかに意欲があろうとも無理は無理という状況があるのだと知らされる。この問題の解決には、これから先も様々な方策が講じられるのだろうが、はたして終着点というものが見つかるのかどうか、確信というものはない。病気そのものに比べるとまだ余裕のあるものに歯科医療がある。こちらはおそらく緊急性が低いためだろうか、僻地で開業する歯科医師は非常に少ないはずだ。別段サービス産業ではないのだろうが、あれば便利だがなくても何とかなるといった類いのものだけに、公的支援もあまり受けられず、そんな状況では、成立しないというしかない。では、村の人々は歯科治療を受けるために、町まで行かねばならないのだろうか。多くの場合はそうなのだろうが、そうでないやり方を実行しているところもあるようだ。先日、目の前を走っている車に歯科診療車という文字があった。ベンツの特別仕様のバンだが、初めて見るものだ。検索をしてみると、2万件以上のヒットがあり、僻地での歯科治療に使われているようだ。それらのサイトとは別に、改造を手がける会社のものもあり、国内でも数社がそういうことをやっているようだ。中には診療台とともに、レントゲンの装置もあり、通常の歯科医院の小型版といった様相である。義歯など、すぐに作成できないものに関してはおそらく後日となるのだろうが、それでも近くで診療を受けられるのはありがたいことだろう。緊急性が低いからできると言ってしまえばそうなのだろうが、それでもこういうやり方を導入しているとは知らなかった。体の病気の方に同じようなやり方ができるとは思えないが、ちょっとした工夫が助けになることもある。市町村合併も僻地医療の問題解決に繋がるような議論があればいいのだろうが、霞が関の方ばかり見ていて、どうもそちらには顔が向いていないようだ。

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11月25日(火)−綴り

 ラジオの聴視者からの投稿で、パソコンを購入し、インターネットに接続したという話があった。まったくの初心者で使い方もわからず、人に聞くのも苦手なので、これから四苦八苦の連続だと言い、うまくいったら電子メールを送るのだと今後の抱負を述べていた。年配の人と思うが、そういう意欲があるかぎり、ネット関連のものは何とかなる。
 コンピュータに取り組むとき、始めに問題となるのは入力である。実際には二つの方法があるのだが、ほとんどの人は一つしか使わない。ほぼ全員が使っているものがキーボードと呼ばれる元々タイプライターに使われていた配列の入力装置である。それ以外にあるのかと不思議に思う人もいるだろうが、マウスと呼ばれる画面上で矢印を動かす装置を使って、画面にキーボードなどを表示させて入力する方法もある。どちらにしても一本指しか使わないのなら、同じことというわけだが、さすがにこちらは面倒らしく使っている人はほとんどいないだろう。障害者用の入力装置も人によっては使いたいと思うものがあるかも知れないが、はたしてどうなのだろうか。視覚障害者用のものは入力時に発音を出すそうなのだが、うるさくてかなわないと思う人もいるだろう。さて、キーボードでの入力と言っても、これまた二つの方法がある。多くの人はローマ字入力を利用しているだろうが、一部にはかな入力を使う人もいる。後者や秘書などの訓練施設で学んだ人に多いのだが、日本語の入力速度に明らかな違いがあるそうだ。しかし、英字の並びと同様に、かなの並びも何だか規則性に乏しいもので、取っつきにくいということもあり、どちらかといえば分かり易そうな英字を使ったローマ字入力から始める人の方が多いようだ。英語も入力せねばならぬときには、ローマ字入力だけ覚えておけばいいから、それも理由の一つになるのかも知れない。どちらもパッと見た感じからはどんな法則に則って並べられたのか解らない代物である。単に指の動きを基準にして、動きやすさを追求しただけという話だが、その真偽は不確かだし、実際に使い勝手が良いとも言えないから、何ともならない。いずれを使うにしても、漢字を入力する場合には、まずかなを入力してから変換することになる。漢字の読みを知らない場合には、それぞれの音を入力して繋いでいく方法をとる人もいるだろうが、見た目は正しいものでも本人は理解していないという不思議な状況を作りだす。これと似たような話に、音の区別というものがある。小学校の時に習った、「おお」と「おう」の違いを覚えているだろうか。大きいは「おおきい」であり、王様は「おうさま」である。この辺りは確かな人も、「通る」となると、怪しくなる場合がある。何度入力しても出てこないと思ったら、自分が間違っていたというわけだが、最近の変換ソフトは何とこんな間違いにも対応するのだそうだ。「とおる」と打ち込もうが、「とうる」と打ち込もうが、通ると変換される。何と便利な世の中になったことか、間違いに気付かせることなく、一生を送らせるわけだ。実はもう一つ引っ掛かることに「づ」と「ず」の違いがある。気付くは「きづく」であるが、「きずく」と思っている人もいる。「きずく」と入力すると、大体築くが出てきて、おやと思うらしいが、気づくを気ずくと書く人もいるだろう。気がつくから来ていることを考えれば、気づくが正しいことになる。全てがこの方式で片付けられるわけではないが、片をつけるとかそんな具合だ。また、漢字が当てはめられていたら、発音もそれに従うべきという話があり、固有名詞でも、会津は「あいづ」だし、米酢は「こめず」である。ただ、ローマ字表記にすると突然怪しくなり、「Aizu」としたりして、おかしな具合になっている。人の名前でも、水野と美津濃は、「みずの」と「みづの」であるにも関わらず、どちらも「Mizuno」になっていたりする。外国人に弱い性格からなのか、いまだにヘボン式が公式となっているようだが、こういうところに日本語独自の方式を日本人なりに導入することが必要なのだと思う。

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11月24日(月)−上書

 情報が巷に溢れてくると、それに対していろんな意見を言う人が出てくる。たとえば、情報の取捨選択が重要であり、どれが必要でどれが不要かを見極める力が必要だとか、情報の源に対する見極めが重要で、誰が発した言葉なのかを重視せよとか、そんな類いの意見である。極端なのでは、自分の目で見たことしか信じないというのもあるようだ。
 この極端に対して、ちょっと違う方向から見る人たちは、見えないものを信じないのであれば、本人が目を閉じているときに起きたことは何も信じないことだと、警告を発しているようだが、言った本人がそういう考えを持っていたのかどうかは定かではない。いずれにしても、噂とか流言とか、その中にある真実と嘘の区別をすることは並大抵のことではない。何しろ、真実は一つではないという意見もあるくらいで、立場が違えば違う真実があるという話があるくらいだ。いずれにしても、自分の目で確かめられるのであれば、そうしたほうが良いだろうし、たとえ狭い視野しか持っていなくても、他人が設定した狭い視野で見るのとは明らかな違いがある。ただ、一方で、その場に行きさえすればそれで良いというわけではないことも承知しておかねばならない。記者達が現場を見ずに記事を書くことを忌み嫌っていた時代は遠い昔となり、他の人々からの情報を繋ぎあわせることで話を作るようになってからは、昔を知る人々からは現場に行けという指示が出てくることもあるようだ。ただ、この指示のうわべだけを理解する人々は、その場に居合わせるだけでやはりそこからの情報のみを伝えることに腐心する。結局、現場と編集室の両方の見方を合わせてこそ、より正確な情報を伝えられるはずなのに、どちらにしても一方のものしか伝えない。その姿勢に問題があるのではないだろうか。当局の情報を鵜呑みにして伝えることに危機感を募らせている関係者もいるのだろうが、現状を見るかぎり他の資料に目を通す時間と暇を持つ記者は少ないようだ。現場を見るにしても、事前の下調べが必要だし、いろんな情報とのすり合わせが必須となる。にもかかわらず、そういう姿勢が見えてこないというのは、職業意識の問題なのか、それ以前の問題なのか、気になるところだ。大した事件でもなかったのだが、あるケーブルテレビ局が地震の直後から放送を伝えられなくなった話があった。元社長が電源を切ったということだったが、何とも不可思議な話である。法律上、公共の電波を扱うためにはかなり大きな責任を負わされるから、当然罰則も課せられたのだろう。地震関連で、全く違う形だが、気になることがあった。ひと月ほど前のこと、ネットニュースで地震の知らせが入った。海の底の地中深くを震源とするものだったが、第一報は津波の心配なしと伝えていた。しかし、その後入った情報では津波注意報が出されていた。おやと思い、元の記事を探したが跡形もなく上書きされていた。当然のことながら、お詫びなどの注意書きはついていない。おそらく始めのニュースを見たのは少数の人々だろう。しかし、それを見ることで安心させられた人がいたとして、その後に実際に津波が起きたら、このニュースに責任はあるのだろうか。更に、上書きという裏技により、証拠隠滅をしたとするべきなのだろうか。記事を伝える人々のこういう一見目立たぬ行為が何を意味するものなのか、考える必要がありそうだ。

(since 2002/4/3)