パンチの独り言

(2003年12月1日〜12月7日)
(私欲、伏在、停車場、先達、表示、強制、無常識)



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12月7日(日)−無意識

 他人が何を考えているのか、気にしない人は少ない。自分の考えに拘りがあったとしても、それに対して他の人がどう思うのかを気にする人が多い。まったく違った考え、ずれてしまった考え、などを持つ人もいるが、ほとんどの人は他の人たちとどこかで繋がっている考えを共有する。それが精神的な安定に繋がり、社会の中での自分の役割を自覚したりする。
 同じような考え方を社会を構成する人々が持つとき、それは社会の常識となる。みんなが知っていることだからこその常識であり、どんなに論理的に正しいことでもそれが知られていなければ常識とはならない。そんな認識を持って常識というものを捉えていたのだが、最近どうもその辺りが怪しくなってきた。原因の一つはある本が爆発的に売れたことで、さらにその続編とも思える同じ著者の本が同様の売れ行きを示し、ついにはベストセラーの上位を占めるようになった。始めの本には相手の気持ちや意見を理解しようとすることについての話が判りやすく書いてあるそうで、大変読みやすい語り口もあって、あっという間に話題になった。その後の本は著者の考えが前面に出てくるもので、社会に対する見方を示したものなのだろう。いずれも読んでいないので、詳しい内容はサッパリである。しかし、書評や人々の感想を見聞きするかぎり、これといって新しい感覚を受けるものが無い。逆に言うとそんな評判を聞けば聞くほど、読もうという気持ちが起きてこないのだ。では、そんな印象を受けるものが何故これほどの評判になるのか。というより、評判自体がすごいとも思えないのに、何故売れるのか。この人の書いたものだけでなく、他の人たちの書いたもので最近目立つ傾向がある。エッセイのようなものが多いのだが、書いてあることの一つ一つに納得できることである。頷くということは、反論が出ないことであり、つまりは自分の考えとさほど違わないということになる。注意して欲しいのは、なるほどと思うわけではない、ということだ。こんな考え方があるのかと感心したとき、なるほどという気持ちが出てくる。しかし、この手の本に書いてあることは、今までに見たことも聞いたこともない、といった代物ではなく、ごく当たり前に普段から接しているものがほとんどなのだ。では、何故、そんなものがこれほど多くの人に感銘を与えるのか。これが理解できたら、たぶん自分も本を購入するのだと思う。それこそが相手の気持ちを理解できないということなのかも知れないが、しかし、どうしてなのだろうか。ここは無理矢理結論づけてみようと思うが、一つには書いてある当たり前のことがある人々にとっては当たり前ではないと感じられるのではなかろうか。読者の全てがそういう人々とは思わないが、多くの人がそういった感想を持っているように見える。以前は、そして著者達の世代では、みんなが共有していたはずの考えを持たない人が増えている。そんな風に考えると、何となく理由が見えてくるような気がするのだ。ただ、何故共有されなくなったのかを考えると、答えは中々出てこない。何故だか理由はわからないし、おそらく沢山の事柄が複雑に入り組んだ結果として、こんな状況になっているのだろうが、今の世の中を見渡すとそんな様相を呈しているように見えるのだ。共有するものに反する行為をすれば、社会から指摘されるが、そのものが無くなっていたら、さて、どんなことが起きるのだろうか。それを知るためには、今社会で起きていることをじっと観察すれば良いのかも知れない。

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12月6日(土)−強制

 骨董品を扱った番組が好評を博して、古いものを大切にしようとするようになっただろうか。単に古いということではなく、何か別の要素があり、それを満足してこそ価値が出てくるという考え方がある。何百年も経過したものには価値があるが、数年では価値がないというのもその一つだろう。
 古ければ良いというものではないと思えるのは、最近の電化製品の動向を見ているとよくわかる。次から次へと新製品が出され、それを買う人々がたくさんいる。作る側から言えば、新しい製品が必ず売れるという状況は、ある一定の収益を見込むことができるから、大変良いものとなる。一方で、買う側から見ると、新しい機能を手に入れることができて、それによって満足が得られるのかもしれない。しかし、よく見てみると、新機能とか新技術とか言われるものの多くは、ほとんどの使用者にとって使いこなせない代物で、場合によってはかえって邪魔をする存在になりかねない。周囲の電化製品を見てみると、押したことの無いボタンがあったり、新しい機能を操作しようにもボタンを押す順番がわからなかったり、そんな状況にあるものが多いのではないだろうか。買うときの気持ちとしてはそこにある新しい機能に興味を持ったはずなのに、一二度使っただけでそれ以降ほとんど触ることが無いことも多いし、実際にそんな新機能の必要性を感じていない自分を発見したりする。たとえば、冷蔵庫は冷やせれば十分だし、洗濯機も洗えればいい。そこに様々な機能が加えられたとしても、その意義を意識することはほとんど無く、購入するときの気持ちとその後の気持ちの違いにははっきりとした違いがあるようだ。それでも、世の中はこういう流れで動いているようで、生産者側は次から次へと新しい機能を付け加えていき、消費者側はそれに興味を持ちつつ新しい製品を買っていく。そういう流れをつかむために、企業は宣伝に力を入れ、いかに魅力的な製品であるかを訴え、それが消費者の琴線に触れると売れ行きが伸びる。こういう状況は冷静になってみるととても不思議なものに見える。なぜ、使いもしない新機能に気持ちが動いたのか。ところが最近、これとは違った動きが出てきた。テレビはブラウン管形式であれば、20年以上ほとんど問題なく働く。そうやって使ってきたのだが、それができない状況が生まれようとしている。地上デジタル放送の開始で、数年後にはアナログ形式の放送は無くなるのだそうだ。そうなれば旧式の機械はただの箱となる。使えても、使えないという状況が生まれるわけだ。これは今までに無い動きで、付加しているだけなら、古いままでいることもできたが、全体の系が全く新しくなると古いものは使えない。どうしたものか、消費者には選択の余地が無い、これも不思議な状態だ。

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12月5日(金)−表示

 食料品を買いに行くと、物価の動向がよく判る。などと、調査をしに行くわけではなく、単に食べ物を買いに行くだけなのだが、一つの物品に限って気にしていればある程度の動向は判断できると思う。生鮮食料品にデフレの影響が出ているのかどうか、長期的な視野がないのでさっぱり判らないけれども、とにかく安ければいいと思ったりする。
 ただ、そんな思いから、商品の値段ばかり眺めていてもいけないのかと思うときがある。包みに書かれている様々な注意書きをみると、何か重要な情報でもあるのかと思えるのだ。ということで、値段だけで選んではいけない、何か自分の健康に影響のあるものかと、時々注意して読んだりするのだが、分かりにくいものが多いのには閉口する。成分表示には見たことの無い化合物が並んでいたりするし、ここ数年話題になっていた遺伝子組み換えの話題など、書いてないものがあるなら理解できるが、全てが使用していないとなると、何の意味があるのかと思えてくる。この表示が目立つのは、豆腐、醤油、味噌など、大豆を原料としたものである。米国の企業が開発した遺伝子組み換え大豆はある特定の農薬に対する耐性を獲得させたもので、その大豆以外の植物を生育できないようにするための方策の一つである。以前であれば、生産対象となる大豆を枯らさずに、雑草を駆逐する方法が難しかったのに対して、これでは特定の農薬で処理するだけで大豆だけが生育する環境を作り出せる。そんな謳い文句から一気に広がると思われた品種も、環境問題を取り上げる団体などからの反対の声によって、肩身の狭い思いをさせられているようだ。遺伝子組み換えの危険性を唱える人々の論理には矛盾点が多くて、それだけでも困ってしまうが、さらに科学的根拠として示されるデータが意外な盲点をもっているとなると、どこまで危険なのか素人には判断がつけられない。いかなる食べ物も過剰に摂取すれば危険を伴うことに気がつかずに議論に加わると、とんでもない結果を生んだりするから要注意だ。以前、トマトか何かの話を書いたような気もするが、たとえば無くてはならない食塩に致死量があるのを知っているだろうか。少しずれるが江戸時代に醤油を一升飲み干す猛者がいたという伝えがあるが、その後に必ずなんらかの処置をしたそうだ。そのまま放置すれば死んでしまう量だからとか。遺伝子組み換えのトウモロコシの花粉を昆虫に食べさせたという話も、量的な問題として捉えるべきであると思う。まあ、大抵の食品添加物はとんでもない量の摂取での安全性を問われるから、同じことと思えばそうなのかも知れないが。それにしても、大豆関係のものには全て組み換え体を使用せずという表示がある。もし、使用したらどこまで安価になるのか、見てみたくても市場に出回っていない。企業の印象を悪くしたくないという思惑から、取り扱い自体を避けているからだ。消費者は安全を購入しているといえばそうなのかも知れないが、選択する機会も与えずに高価なものを押しつけているとは言えないだろうか。もし、危険性があるとしても、それを覚悟で安い物を選ぶという消費者がいたとしても、現状では選べないのである。もう一つ気になっているのは、これだけ大々的に導入された遺伝子組み換え大豆がどこに行ってしまったのかということである。依然として生産は続けられているだろうし、それが何かに使われているはずである。目に触れないところで、自分たちの生活に入っているのだとしたら、そちらの方が恐ろしい感じがする。

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12月4日(木)−先達

 人にものを教えるというのは、どういうことだろう。自分が身に付けた知識を他人に分け与えるということなのだろうか。基本的にはそんな雰囲気のもので、それを系統立てて行っているのが学校ということになるのだろう。一方で、そんな形式にとらわれずとも、普段の生活で教え、教わることは多い。家庭もその一つだろうし、最近は社会の役割も重視され始めている。
 自分の持っている知識を次の世代に受け継いでいく形式は、ヒトを始めとする数世代の個体が同じ社会を構成する生き物に当てはまるものである。堅苦しい言い方を避ければ、年寄りから学ぶべきものが多い、といったところだろうか。それに加えて、文字という媒体を手に入れたから、直接的な接触が無くても、知識の伝搬ができるようになった。おそらくこれが一番大きな要因だろう。では、ここで言う知識は常に正しくなければならないのだろうか。間違ったことなど学びたくない、という意見が即座に返ってきそうだが、自分の育った状況を考えてみて欲しい。常に正しいことしか教わらなかったろうか。間違ったことや、あとから間違いだとわかったことも、中にはあったのではないだろうか。教えるという作業において、間違ったことは決して教えてはいけない、という呪縛に囚われている人がいるようだ。それが間違いだと断定するつもりはないが、正しいことを教えようとすればするほど、渦の中に吸い込まれるような、そんな雰囲気が感じられる。そういう立場に立つ人々の多くが、今現在自分が持っている知識に基づいて、正しいことの判断をしていることが多いのは、何かの偶然だろうか。人は知識を徐々に身に付けながら成長していく。その過程で、何が正しくて、何が正しくないか、ということがはっきりとしていなければ、成長できないわけではない。成長過程に応じた教育が求められているはずなのに、成長しきった人々が先回りした正しい教育を押しつけようとしているのではないだろうか。理科教育の問題を訴えているあるホームページを見ると、学校教育で習う多くの事柄に間違いを指摘している。確かに、思い込みからの行き過ぎた記述もあるのだろうが、読んでいて不思議に思うことがいくつかあった。習った後で問題として生じてくるものを先回りして問題を解決しておこうとする、そんな動きがあるからだ。まるで、親が子供に向かって、あれをしてはだめ、これもしてはだめと、自分の苦い経験に基づく余計な助言をしているようなものだ。経験してこそ、意味が出てくるものを、その機会を奪うことにより、意味を無くすようなものである。過程に応じたということで興味深いのは、社会という科目の教え方である。今はどうなっているのか知らないが、昔聞いたのは、子供が成長する過程で、自分の生きている社会が徐々に大きくなっていくので、それに応じて教える社会の大きさを変えていくというものだった。つまり、低学年の頃には自分の周り、住んでいる町の話題を捉え、それが徐々に大きな都市の範囲となり、さらに国が出てきて、ついには世界を対象とするようになる。小さな社会で正しいと思えることでも、国の単位になると当てはまらないことが多いだろうし、まして世界となるとあまりにも多種多様なものとなって、まったく正反対のことも出てくる。しかし、身の回りから徐々に世界を広げていくことによって、自分の考えが成長するのに合わせた知識の広がりが得られるわけだ。それに、後で間違いとなることでも、それは多様性の証明という形で納得できる場合も多い。社会に比べたら理科には真実は一つしかない、という人々がいるが、本当にそうなのだろうか。捕まえた虫の見かけはその虫の特徴であるが、昆虫全体の特徴とはならないことがある。それでも、まずは小さな対象から始め、それを広げていくことが大切なのではないだろうか。それがたとえ物理とか化学になっても、同じような例が沢山あるのではないだろうか。正しいものを教えることが、マニュアルにあるものだけを学ぶことに繋がるようだと、間違った方向になってしまうのだが。

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12月3日(水)−停車場

 このところ、やっと冬らしく冷え込み始め、目の前の山の木々もその彩りが赤みを深くしている。斑に見られる青々とした木々は人の手が入ったことをはっきりと見せてくれるが、この時期には良い対照となって、紅葉を一段と引き立てる役をしてくれる。例年に比べるといささか見劣りがするそうだが、冬の訪れを告げるいかにも日本的な風景だ。
 こんな時期には、どこかに出かけたくなる人もいるのではないだろうか。もう少しすると雪が降り始めて、それはそれで美しい風景を作ってくれるのだが、車での遠出となるとちょっとした障害になる。目的地に向かって一直線に行こうとすれば、高速道路を飛ばすのが一番なのだろうが、運転している者にとっては景色を楽しむこともできず、気乗りのしないものとなる。確かに、そこに行けば当初からの目的であるものがあるわけだから、それで十分という考え方もあろうが、一方でそこまでの道程で予想もしない新たな発見があるかも知れないから、そういう楽しみ方もあっていいだろう。高速道路と違って、一般道は防音壁も設置されておらず、運転中も周囲の景色を楽しむことができる。といっても、わき見運転ばかりしているわけにも行かないから、ところどころで車を停めて、ゆっくりと景色を楽しむのがいいだろう。高速道路では、そのためというわけではなく、一定間隔での休憩を促すために、サービスエリア、パーキングエリアが設置されており、レストラン、給油所などが整備されている。長距離の運転となれば給油も欠かせないが、一般道と違って道端に給油所を設けるわけにも行かないから、こんな形の整備をしたのだろう。これはこれでとても良い方法だと思うが、料金を取らない米国の道路ではどこでわき道に逸れても問題はないので、こんな方法はとられていない。町に近づけば、そこに店の集まっているところが出てくる。ただ、それだけなのだが、長距離ほとんど建物さえも見えないところを運転していると、そんなものを見ただけでホッとするものである。それと良く似ていると言えるだろうか、この国の一般道にもちょっとした施設が造られるようになった。それが、道の駅である。鉄道に駅があり、そこで列車が停車するのだから、道にもそんな存在があってもいいのではないか、という声が聞こえ始めたのは、平成に入ってからなのだそうだ。その後検討を重ねて、はじめに声が上がった中国地方に初めての道の駅が設置されたのが、平成3年、但しこのときは試験的なもので、これがうまくいったので登録制度が導入され、第一号に認定されたのが、山口の阿武町にあるものだそうである。今では全国津々浦々にあり、長距離運転に出る人々の憩いの場となっているそうだ。元々、休憩、情報交換、地域連携といった意図をもって始まった制度なのだそうだが、その後の伸びをみているかぎり、うまくいっていると言えるのだろう。この制度の案が出て、それが実現した頃に担当していたのは、某公団の総裁として悪名をはせたあの人だったのだそうだ。この一年の彼の言動や行動を見るかぎり、どうにも暴君的な印象ばかりが目立っていたが、実際には実務派で行動力のある人という話も聞こえてくる。確かに、マスコミが流す画像や会見内容には、そんな雰囲気は微塵も感じられないが、それだけでは事務次官に昇りつめることはできないから、確かに仕事のできる人だったのだろう。そんな話はさておき、道の駅は休憩所を供給するだけでなく、その地方の特産を世に売り出す場を提供するものとして、町おこし、村おこしという今流行りの地方活性の先駆けとなるものだったのではないだろうか。ほんの小さなことから始めることの大切さをこんなところからも見ることができるようだ。

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12月2日(火)−伏在

 不良債権という名の重荷に、風船をつけて軽くする妙案というものはないようだ。返還の見込みの無い公金注入によって、一時しのぎはできたのだろうが、その後の経過は依然としてゆっくりとしたものに見える。こんなことを気にする理由の一つに、金融機関で働く人々の高給があり、噂ばかりで実態が見えないということもあるのだろう。
 そんな中で、ついに地方銀行の一つに処分が下った。10年以上前から危ないと噂になっていた会社で、その後も旧財閥系からの支援があるとか、やっぱりだめだとか、色んな噂が飛び交っていた。今回の騒動も、その流れを汲んでいて、事前に様々な憶測が飛び交うことによって、相場はかなり混乱したようだ。結果として、無価値の紙切れを攫まされたことになった人々の衝撃は計り知れない。最終段階で一獲千金を夢見て投資した人々も多かったようだが、こういう人の多くはリスクを承知していたと言えば言えなくもない。一方、地元の企業や資産家達が様々な方面からの要請によって支援に乗り出した成果はゼロになってしまった。地元の企業を地元で支えることが本来の姿、などと言う人はいないと思うが、今回の例ではそういった方策が実を結ばなかったことになる。銀行業務ということで、預金の問題が最優先され、そちらの方は全額保証されたようだが、株主の方には何の保証もなかった。それが、株主としての責任と言われればそうなのかも知れないが、預金者と株主がどのような責任の違いをもつのか、考え方が色々とありすぎて、すぐには適当な答えが見つからない。今回の経過を見るかぎり、今年の春に下された別の銀行への処分が下地になっていることは確かなようだ。だから、前の例と同様の処分を期待する向きが動き回り、それが裏目に出る結果となった。ただ、報道の流れを見るかぎり、マスコミも前例同様という思い込みがあったことは否めない。元々、決算報告がある前に外部から情報のリークのような形で公金注入の噂が流され、それに対して否定とも思える見解が出されていた。これは実際には否定ではなく、調査中であることを強調するものであったが、ある担当大臣の発言として掲載されたものには否定とも受け取れるものがあった。そんな中で、株価は迷走していたが、最終的には処分決定後急落することになった。当然、迷走中に購入した人たちは屑篭に投げ入れることになってしまった資金のことを悔やんでいるだろうが、この一連の流れの中で、ところどころ首を傾げたくなるような動きがあったような気がする。言葉だけで伝えられるものとは言え、注入を前提に情報が流されていたことは事実であり、処分が決まった当日、直前まで、そういった線で話が進んでいたように思う。それに対して、処分は期待を裏切る形に決定され、地元でもかなりの衝撃が走ったようだ。噂が流され始めた頃からのある経済紙のネット上の記事を見るかぎり、その時点から直前まで注入されるという前提の下で記事が書かれていることが判る。しかし、後日の報道では一切その判断の基準は示されず、一方で担当大臣は法律に照らし合わせて妥当な決断だったと断言している。期待を持つあまり現実を直視していないと言われればそれまでなのだが、それにしても法律の解釈とは難しいものだ。こうして批判的な意見を書くことは簡単だが、実際に関わるに当たってどちらが正しいかを判断するのは並大抵のことではない。あとから考えれば、あれが伏線だったのか、と言うこともできるが、その場では見えていないからこそ伏線と言うのだろう。いやはや、近寄らないのが一番、といったところか。

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12月1日(月)−私欲

 世の中には訳のわからない言葉が溢れている。それらに接しながら、成長段階で何となく分かったような気になって、いつの間にか自分でも使っていたりする。言葉の獲得ということからすれば、これは当たり前の過程なのだが、ではそれでその言葉の意味が本当に分かっているのかとか、その言葉は本当に正しい意味で使われているのかということになると、いたって怪しいものだ。
 初めて、「業務上」という言葉に接したときのことは、はっきりとは覚えていない。しかし、今でも思い出すのは、何故、業務なのだろうという疑問が浮かんだことだ。業務上という言葉を使う場面は、大きく分けて二つあると思う。一つは職業上のものという意味で、たとえば業務上横領とかはそういった意味で使われる。もう一つは、たとえば車の運転中に起きた事故などを指すときに使う。業務上過失という形で、事故の加害者の罪を説明しているのだが、これがすぐには理解できなかった。何故、運転が業務なのか、業務が職業上のことなら、職業運転手ならまだしも、休みの日の運転が何故業務になるのだろうかと。それが解決するのには結構時間がかかったような気がするが、結局は車の運転には免許が必要で、そういう免許を与えられた上で行っている行為は業務となるということだと判ったのは、自分が運転免許を受ける年代になった頃だ。確かに、事故を起こして、相手方に怪我をさせたり、死なせてしまったとしても、そこには過失があるだけで、相手を傷つけようとする意志があったわけではないとするためには、業務上過失致傷とか、業務上過失致死とか、そんな言葉を使って、一般の傷害罪とか殺人罪と区別する必要があるのだろう。そういえば、殺意がなくて、相手を傷つけるつもりだけだったのに、殺してしまったときには、傷害致死罪が適用されるから、この辺りの区別は罰則を定めるときに重要な要素となるのだろう。ただ、最近の自動車事故の話を聞いていると、時々業務上と限る必要があるのかどうか、怪しくなるときがある。日常的に飲酒をした上での運転を繰り返す職業運転手が起こした致死事件や取締を逃れるために暴走した結果起きた致死事件の場合、そこにたとえ殺意がなくとも、このままいけば大事故に繋がるのではないかという推測があれば、何か別の罪に問えるのではないかということだ。そんなことが話題になった結果、意識的に暴走運転をした場合に違った形の処罰が下されるようになった。そんなことが日常的に話題になるようになってから、もう一つ気になることが出てきた。同じように免許という制度で様々な制約がある職業があり、人の命に関わるという点で、最近特に問題視されているものに、医師がある。医療事故の話題を聞かない日はないというくらい日常的になってきたのは、結局もみ消しが少なくなり、他人の目に触れる機会が増えたからだけという話もあるが、実際にどうなのかは判らない。何しろ昔の資料は無いに等しいからだ。その中に、手術の際に、処置を取り違えたとか、器具などを体内に残したとか、そんな過失的なものがある一方で、始めから事故を予期していたのではないかというものも増えている。ほとんど経験が無いのに、ある特殊な手術を試みたというのがその例として挙げられるだろう。この場合、世界で初めてのものというのであれば、仕方がないというか、開発過程として踏まねばならない一歩であると理解できるが、様々なところで行われているものだが、医師本人は初めてといったものの場合、そこに患者を治そうとする意志以外に何か別の意識があるのではないかと思えてくる。世界初を望む人々がいるのは当然だが、それ以外にも選ばれしものになりたいと思う人もいる。その意識をもって、経験の無いものに臨んだ場合、そこで起きた間違いは過失となるのだろうか。それ以上の意味を持っているのではないだろうか。業務上という括りを使うことで、ある程度仕方なかったのだという意味を持たせるのが本来のものだったのだろうが、最近のこういった事件を耳にすると、金が欲しかったから強盗をしたという欲望から起きたものと、どう区別できるのか判らなくなる。

(since 2002/4/3)