後から物売りの声が聞こえてくる。「いしや〜きいも〜〜」という、あれである。確かにそんな季節だが、車を走らせているときに、拡声器から流しても、買いたいと思う客の呼び止める声など間に合わない。一体全体、何のつもりなのかと思いつつ、それにしてもそんな車に追いかけられるのはどうも落ち着かないものだ。
この国ではサツマイモの人気はかなりのものである。外国へ行くとほとんど見かけないから、ある意味特殊な事情があるのかも知れない。芋といえばジャガイモという国があったり、タロイモを主食にする国があったりと、芋は人間の生活に深く入り込んでいる。但し、同じ芋という名前を持っていても、それぞれは種類としてはまったく違ったもので、ジャガイモはナス科、タロイモはサトイモ科、そしてサツマイモはヒルガオ科である。土の中に食べるところができるものを芋と呼ぶ場合が多く、そんなところから同じような名前になっているが、植物の素性としてはまったく違ったものである。米国に行くとサツマイモとよく似た形の芋が売られているが、これはヤムイモと呼ばれ、芋の色が違うだけでなく、サツマイモのほくほくとした触感とはまったく違っていてどちらかといえばどろっとした感じの水気の多い芋である。当然ながら、サツマイモに慣れた日本人にとってはちょっと違った食べ物といった感じがする。焼き芋にしたり、天ぷらにしたりと、あの独特の甘味と食感がたまらないという人も多いだろう。蒸したものを薄切りにして天日で干した干し藷の独特の風味がたまらないと思うのだが、昔ながらのお菓子として懐かしい人もいるのではないか。国内では茨城産が有名だが、最近は中国産も出ているようで、干し柿同様どんな作り方をされているのか、ちょっと心配になることもある。サツマイモにも色んな品種があるようで、ベニアズマが有名だが、四国に行くと鳴門金時をよく見かける。甘味が強く、蒸したり焼いたりしたときのとろっとした感じに違いがあるようだ。正月には欠かせないサツマイモの料理といえばきんとんで、栗の甘露煮を入れたりするが、サツマイモ本来の甘味を愉しもうとするものだ。もう一つ大切な要素は色のようで、鮮やかな黄色が出るように梔子の実を入れるのがコツとのこと、そこまで凝ったことはないが、スーパーでサツマイモのそばに売られているのを見ると、使っている人が多いのかも知れない。いろいろなところでもてはやされる食べ物なのに、他の国に行くと見かけないのはなぜなのか、ちょっと不思議な気もするが、この国特有の事情があるのかも知れない。そういえば、サツマイモは寒さが苦手だから、欧州のように寒い土地では作りにくいことが理由の一つになりそうだ。米国でもジャガイモの生産量は多いが、サツマイモはヤムイモも含めて少ないのは、そのせいかも知れない。日本は温帯気候というか、かなり熱帯に近い気候だから、サツマイモの生育に適していたということがあるのだろう。江戸時代には土の中に実ができるから、隠れて栽培されたという話があるようだが、実際どんなものだったのだろうか。年貢の取り立てに苦しんだ農民達の間で広がったという話が伝えられるくらいだから、かなり深刻な問題だったのだろう。今では栽培が当たり前のこととなり、秋には幼稚園児の芋掘りがニュースとして取り上げられるくらいである。何もなさそうなところから、大きな芋が顔を出すことが収穫の喜びを実感させるものとして子供たちに人気があるのだろう。こんなことを書いていると、熱々の焼き芋が食べたくなる。
街中に出てみると、いつも混んでいるところは混んでいて、暇そうなところは人通りが少ない。どこからその差が出てくるのはすぐにはわからないが、何か人を惹きつける力の違いがあるのだろう。もっとも、最近の場合は、街がもつ魅力よりも、それを紹介する媒体による影響の方が大きいような気もするが。
それにしてもなぜこんなに人が集るのだろうか。元々集団生活を好む動物だから、というのも理由の一つに違いない。誰かが面白いと言えば、自分も行きたくなる。遊園地もその一つで、何がどう面白いのかわからない人にはわからないものだが、面白いという気持ちを共有することができる人々にとってはとても魅力的な場所になる。ただ、最近の動向を見ていると、どんな遊園地でも同じというわけではなく、そこに大きな違いがあるようだ。ここでも、集るところにはもっと集り、閑散としているところはさらに少なくなる傾向があるようだ。ちょっとひねくれた人たちには、こういう状況はかえって都合よく働くこともある。つまり、ゆっくりと遊びたければ、閑散としたところを選べばいいだけなのだから。ただ、そういう考えがある一方で、やはり皆が楽しんでいるものを自分もという気持ちも働くから、そんなに簡単ではなさそうだ。平均的なところばかりであれば、こういう時に悩む必要は出てこないのだが、平均してみるとさほど変化のないときでも、伸びているところはさらに伸び、減少傾向のところは歯止めがかからない。なぜ、そんなことが起きるのか、色んな原因が考えられるが、質とかの違いだけでなく、変化の癖みたいなものが影響しているとも考えられる。よく言われることだが、変化は振り子が振れるような動きをする。ちょうどいいところがあったとしても、そこに踏みとどまるようなことはなく、あっちへふらふら、こっちへふらふら、止ることがない。増加傾向や減少傾向でも、どこかにその時の適正なレベルがあるはずなのに、そこで止らず、ついどちらかに大きく振れてしまう。場合によっては、振り子なら戻ってくるのに、戻ってこないこともある。行ってしまったまま、それでおしまいというわけだ。関係者は何とかちょうどいいと思えるところにとどめようとするが、そうはいかないことの方が圧倒的に多いような気がする。変化するものが、ちょうどいいからと止ってしまったら、動きが無くなっておかしな具合になるからだろうか。その辺りのことは簡単にはわからないが、どうも、そんな雰囲気である。人の動き、街の盛衰、そして経済もそんな傾向をもっている。
気が向いたときには、難しそうな話をしたりするが、内容の難しさくらいなら何とかなるときでも、微妙な話になると取り上げにくいものだ。政治の話でも、取り上げやすいものとそうでないものがある。社会問題にしても、そんな気がしている。その辺りが入り組んだもので、最近話題になっているものの一つに拉致の問題があるようだ。
以前からも、最近でも、この問題を取り上げようとすると、何となく躊躇していた。理由がどこにあるのか、一言では説明できないし、たぶん自分の立場を説明できたとしても、それが相手に理解してもらえるのか自信はない。言い方が悪いのかも知れないが、変に誤解されるようならば、何も言わないほうが良いという考えなのかも知れない。ただ、その後の経過を見ていると、時々疑問に思うことが出てくるのも事実で、それを言い出しにくい環境が作られているのは、この国特有の雰囲気というものがあるからかも知れない。弱者はあくまでも弱者であるとか、悪者はあくまでも悪者であるとか、何となくだが、どんな気持ちを持ちながら目の前の問題に取り組んでいるように見える。詳しく書く気もないから、問題として取り上げなければいいのかも知れないが、ちょっと気になっていたので、あえて書いておくことにする。拉致問題と言っても、そのものずばりのことに言及するのではなく、実際には他の問題と絡めたときの話である。だから、弱者とかいった問題ではないと思う。ついこの前のことのように思えるのだが、選挙があった。この国ではマスコミが選挙について取り上げるときにある決まりがあるのではないかと思っていた。つまり、立候補者の名前や顔を選挙期間中にはなるべく出さないようにするといったものである。事実、地元の選挙を取り上げるときには、演説の時のマイクを映したり、沿道の選挙民の姿を映すだけで、立候補者本人の顔や名前が出ないような工夫がされている。ただ、最近の動きを見ていると、期間中でもある程度の配慮を入れることで立候補者の顔が出てくるようになった。新聞などは選挙区ごとの予想を立てて、なるべく盛り上げようとしている。それだけ関心が薄れているのだと思うが、予想屋が出てきただけで盛り上がると考える方もどうかしている。そういった盛り上げの一端なのかも知れないが、今回の選挙ではちょっと特殊な動きがあったように感じた。そこで拉致の問題が浮かび上がってくる。ある候補者が選挙活動の一つとして行った演説での発言を、話題として取り上げられた人々が窘めたものなのだが、そのことがニュースとして流されていた。選挙と無関係なところであれば、別に気にならない程度の、よくある意見交換だと思うのだが、選挙運動と絡めて考えると単純でなくなる。候補者の名前が堂々と紹介され、その内容がさまざまな立場から分析される。これは、選挙運動の一環として捉えられないのだろうか。反対の立場でも、賛成の立場でも、どちらでも構わないのだが、大衆に向けてのアピールの一種と言えないのだろうか。そうだとすれば、賛成、反対に関わらず、選挙運動の形態として許されていないものの一つになるのではないか。そんな感覚を持ちながら、選挙の行方を見守っていた。結果は、予想通りなのか、件の候補者は圧倒的とは言えないまでも勝利を収めた。発言を咎めていた人々は目的を達成できなかったのかも知れないが、それによって何か不利益を被ったとも言えないようだ。また、一方で、こういう結果になってみると、候補者の方にも不利益があったとは言えなくなる。だから、どうでもいいことなのだ、と結論づけることが良いとは思わないが、はたしてどうなのだろう。単に発言の間違いを指摘しただけ、と主張すればその通りだろうし、それを単にニュースとして流しただけ、と主張すればその通りだろう。しかし、それがある制限の下でも正しい行為だったと言えるのだろうか。単純な問題ではないので、何となく気になった。
書いているものがほぼ完成というところにあって、突然無くなるというのはかなわない。今朝も独り言を書いていたら、何の予兆もなく突然ブラウザが終了して、それまでの苦労が水の泡である。紙に書いているものならそんなことは起きないのかも知れないが、まるで北風に飛ばされてしまったような感じである。
下書きをせずに書いていくやり方をしているから、こういうときに元の文章を呼び戻すのはほとんど不可能に近い。それでも、これまでに数回こんなことが起きたから、そういうときには始めから書き直していた。同じ文章は二度と出てこない。不思議に思われるかも知れないが、じっくり考えて、下書きをして、それをさらに推敲してという手順を追えば、そんなことも可能なのだろうが、思いつきを書いているだけなのだから、同じものが出てくるはずもない。今日の場合は、飲酒の話を書いていたのだが、もう一度書く気持ちが起きてこなかった。それほど重要な問題でもない、と言ってしまえばそうなのだろうが、とにかくその気が起きないものは仕方がない。と言うことで、こんな文句つらつらの文章が出てくるわけである。このところ、ブラウザが突然終了することが何度も起きている。原因はまったくわからないが、一つの可能性はあるサイトが行っているメッセンジャーというサービスである。チャットというブラウザを通して行うおしゃべりがあるが、それとは別に専用のソフトを使うことで、個人の間での会話を成立させるものがあるのだ。便利なことは、個人的な会話として使えることと、相手を指定することができるから、チャットで待ち続ける必要がないことだろう。ソフトによっては、相手が不在でもメッセージを残しておくことができるから、これもまた便利と言えば言えなくもない。しかし、あるソフトのあるバージョンが問題を起こしているように見える。指定した相手がアクセスしていると、何度も入室した知らせがやって来るのだ。実際には入室したままになっているにも関わらず、どこかで途切れてしまうらしく、繰り返し知らせがやって来る。当然無視することになるわけだが、それが積み重なると何かしらの問題が起きるようなのだ。これが唯一の原因というわけでもないのだろうが、問題が起き始めると何度も繰り返し同じようなことが起きる。コンピュータはそんなものだと言ってしまえばその通りなのだが、まったく使う側からすると困ったものである。問題があるのなら、使わなければいいと言われれば、これまたその通りで、新しいバージョンが出ているから、そちらを使えばいいだけのはずである。ところが、そうも行かないことがある。新しいものは新しいもので、別の問題を抱えているのだ。まったく、にっちもさっちも行かない状況にあるというのだろうか。便利なものを手に入れようとして、不便を強いられている感じなのである。ソフトのバージョンアップにはこんな問題がやたらと転がっていて、その度に悩まされる。作る側と使う側の立場の違いがまともに出ている気がしてくるが、文句を言っても何も起きない。立場に上と下があるからなのだろう。まったく、とぶつぶつ言いながら、諦めるわけだ。
冬だから寒いのは当たり前のことなのだが、それでも何となく寒いと強調したくなるようなここ数日の気候である。山の木々も葉が色づいたと思ったら、急に落ち始めて、枝が目立つようになってきた。里の木々も同じことで、この季節誰も取らなかった柿の実の色が目立っている。最近はガキ大将もいないから、実が放置されているようだ。
子供たちに代わって、熟れた実をとっている生き物がいる、鳥たちである。場所にもよるのだろうが、カラスが現れたり、ヒヨドリが現れたりする。小さな鳥たちは遠くからでは目立たないからよく分からないが、色々といるようだ。面白いのは、ある時期まではどの鳥も寄りつかないのに、ある日突然やって来ることだ。たぶん、その周辺で一番熟れていておいしそうな実を付けた柿の木に皆集まって、競うように食べたり、場合によっては大きな鳥が小さな鳥を追っていることもある。そんなに競争しなくても他の木に行けばと思うのは人間の勝手なのだろうか、同じところに集まる習性でもあるのかと思えてくる。その木に付いた実が無くなると、次の良さそうなところへ、といった具合に移動を繰り返し、たぶん年が明けるくらいまで、探し続けるのではないだろうか。これだけ寒くなってくると、他の木はもう実を付けていないから、この時期の柿の木は鳥たちにとって大変ありがたい存在なのだろう。今日見かけた鳥は、最近あまり見ていないものだったので、すぐには思い出せなかった。オレンジ色のくちばし、顔の辺りに白いものが目立ち、全体としてはくすんだ色の鳥で、ヒヨドリと同じかちょっと小さいくらいだ。何羽も柿の木に群がって、実をついばんでいた。よく考えてみると、群れになって行動する鳥、ムクドリである。この頃、夕方になると電線に等間隔にびっちり留まっているのを見かけるし、群れになって飛んでいるのも見かける。その数を考えるとちょっとぞっとするが、映画のように襲ってくることもないから、心配はしていない。子供の頃にはほとんど見かけなかったと思うのだが、いつ頃からだろうか、町の方にも出てくるようになった。数も半端じゃなく、時々大発生しているような報道が流れる。はたしてそういった類いのものかどうか分からないが、とにかく集団で動く鳥のようで、ちょっと気味が悪い感じもある。環境問題が大きく取り上げられるようになった最近では、絶滅が危惧される動物や植物の話題がよく出される。森の破壊が進んで、さまざまな動植物がその姿を消しつつあるようだ。鳥で言えば、オオタカなどの猛禽類がよく話題になる。彼らにとって、森が営巣の場であるだけでなく、獲物がいる場所も含めて、全体として重要な生活の場である。それが人の手が入ることで乱されて生存が危うくなることが問題視されているわけだ。しかし、一方で町中のカラスやドバトの増加が問題になっているし、ムクドリも場所によってはかなり増えているのではないかと思う。どちらにしても、人間が自分たちの生活の場を整備することで画一的な環境を作り、それが適したものたちは増え、適さなかったものは消えるといった図式のようである。こういう現象を見ていると、減ることだけを問題にするだけでなく、増えることも環境の破壊と関連することを意識しておいたほうが良いのかも知れないと思えてくる。
筆無精だからか、知り合いに宛てる葉書は年に一度と決まっている。そういう意味で年賀状という習慣はとても助かるもので、何となく周りから強制的とも言える雰囲気で押しつけられつつも、近況を知らせる便りを出すことができる。この習慣はへんてこなものだと言う人もいるようだが、筆無精が増えているこの頃、自分にはとてもよい習慣のように見えてくる。
そんな調子で、師走に入るとだんだんその圧力を意識し始めるのが例年のことだったのだが、今年はそうも行かないことになった。喪中ということで、欠礼の挨拶状を出さねばならなくなったからだ。この習慣もまた不思議なもので、年賀状などを習慣としているから、こんな面倒なことまでやらねばならぬという人もいるだろう。しかし、一方で家族に不幸があったことを知らせぬまま過ごしてしまったときには、これが初めての知らせとなることもある。習慣とはある見方からすると余計なものに見えることがあるが、別の見方をするとなるほどと思えることもある。はて、そんなものかと思いつつも、実際には欠礼の挨拶は、相手が年賀状をしたためる前に届かねばならぬわけだから、さらに締め切りは近くなる。まったく、筆無精にとってはえらい迷惑な話とも言えるわけだ。と言っても、様々な事情から結局自分で宛名書きをすることもなく、何となく文章の校正などをしただけで済んでしまった。どうも、今一つ実感の湧かぬまま、時間だけが過ぎてしまったようだ。自分がこういうものを出すことになってみると、改めて感じることなのだが、この頃特に喪中葉書を受け取ることが増えてきた。自分の場合も含めて、親の世代がそういう年齢にさしかかってきたからだろうか。あそこからも、ここからも、といった具合だ。その時感じるのは、先ほど触れたことで、送り主に不幸があったことなど露知らずという状況に置かれている自分のことだ。こういう機会でもなければ、そんなことを知る由もない。知らされぬものなら、知る必要など無い、と言ってしまえばそれまでだが、そうも行かぬ場合もある。自分のことも含めて、誰か身内が死んだときにはあたふたするものだから、全ての知り合いに知らせることなど無理である。だから、少し落ち着いてから知らせるのだろうが、そうなると何となく機会を逸してしまったような気がして、また躊躇したりする。こんなことが繰り返されるわけでもないが、先送りしている間に、この時期が来てしまうわけだ。そんな意味で、この習慣は役に立っていると思うわけだ。ただ、受け取ったときにどうすべきか、これが今一つ理解できていない。ものの本によれば、受け取り側からも年賀状は出さぬものとあるが、どうも納得できない面もある。欠礼の意味が難しいというのか、あの文言は分かりにくいところがある。いずれにしても、無難にこなそうとすれば、何もせぬことが一番。ちゃんと礼を失しないようにしようとすれば寒中見舞いとか、これまた面倒なことがまた増えてしまう。まあ、習慣とは面倒なものに違いないのだが。
いよいよ本格的な冬の訪れのようだ。北から雪の便りが聞こえてきたと思ったら、あっという間にかなりの積雪との話だし、次は南の方から初氷や霜柱の便りが聞こえてきた。畑の土は黒土が多く、よく耕されているからすき間も多くて、水が溜まりやすいのだろうか、立派なものをよく見かける。子供たちにとってはバリバリと砕けるあの音が何とも楽しいものらしい。
今年は季節外れという枕詞がよく聞かれるが、冬に関してもご多分に漏れずで、各地のスキー場が師走に入ってもまだ積雪を見ず、どうなることかと思われた。今回の寒波でちょっと安心できそうだが、このところの気候の変化を見ていると、いつまた暖かい日が戻ってくるとも限らない。今のうちにたっぷりと雪を貯めておかないと、大変なことになってしまうかも知れない。以前なら、ただただ自然任せで、たとえ寒い日が続いても雪雲がやって来なくて、雪ごいをしなければならないことが多かったが、今は人工降雪機なるものが登場して、足らない分を補ってくれる。テレビで流れている映像を見るかぎり、まるでかき氷機の親玉みたいなもので、小さな氷の粒を吹き飛ばしているように見える。実際どんな仕掛けになっているのか調べたことはないが、雪というより氷と言ったほうが近いのではないかと思っている。今では人工降雪機は当たり前になったけれども、人工降雨の方はまだまだなのかも知れない。何しろ、水不足を補うために必要なのだろうから、映画の撮影のようにホースで水まきをするわけにも行かない。雲の核になるようなものを飛行機などで上空にまき散らして、雲を発生させるという方式が考え出されて、様々な物質について試されたと聞いたが、どの程度上手く行くようになったのか、その辺りの話はとんと聞こえてこない。たぶん、上空の水分が不足していれば、たとえ核を供給したとしてもそこに肝心の水が凝結するわけもなく、そんなに簡単な話ではないのだろう。それに比べると、雪の方は水がたっぷりあっても、雪の形で落ちてこなければ意味がないのだから、水をどこかから持ってきて、氷の形で降らせれば十分となるのだろう。但し、気温の影響は大きくて、この冬のように暖かい日が続けば結局効果は期待できない。人工降雪で思い出すのは、雪を人工的に作ったお話で、記憶を頼りに書いてみようと思う。今まだあるのか判らないが、北海道大学の低温研究所に中谷宇吉郎という教授がいて、雪の形の研究をしていた。この人は、漱石の小説によく出てくる人物のモデルと言われる寺田寅彦の弟子の一人で、この研究も寺田一門らしいものの一つかも知れない。始めのうちは、雪が降ってくると慌てて外に出て雪を採取し、それを顕微鏡で観察していたらしいが、それではこんな雪が降ってきましたというまるで絵日記のようなものにしかならない。物理学者としては当然ながらどんな状況でどんな雪の結晶ができるのかを論じるべきだから、そんなことから中谷も人工的に雪を作らせる研究に向かっていったそうである。しかし、実験箱の中を水蒸気で満たし、温度を下げてみても雪はできない。たぶん、壁に氷ができるぐらいだったのではないだろうか。結晶を作るにはその核となるべきものが必要であることは既に知られていたので、核となりそうなものを片っ端から探して試してみたらしい。結局、世界初の人工雪の生成ができたのは、ウサギの毛を使ったときだったとか。その辺りの経緯は色んなところに書いてあるだろうが、記憶を頼りにするとこの程度が精いっぱいである。何でも試してみることは必要だが、その前に必要なものがあることを教えてくれているような気もする。まあ、後になってへ理屈をこねれば、何でも言えるのだけれども。