サイトの管理をしていると、時々迷惑だと思うことがある。明らかに広告だと思われる書き込みをする人々がいることだ。自分のホームページを宣伝する人々も、リンクという形で依頼が来れば、何となく理解できることもあるが、ただ書き込むだけ、このサイトとの関連も無いのにと思う。
中にはもっと悪質なものもあって、以前も何度か書き込まれたが、いわゆるねずみ講的なもの、これは明らかに違法行為であって、ネットのように最終的には誰が行ったものかが特定されるようなものでは、自分のことを考えれば最も危険な行為の一つと言えるだろう。それ以外にも、儲け話を貼り付けて行く人々がいるが、これらもほとんどが違法行為かすれすれのものが多いと思う。地道に働くことに嫌気がさしてしまった人々なのか、はたまた生来の詐欺師なのか、相手の顔が見えないから何とも言えないが、自分中心的な考えに基づき、騙されるのが悪いという考え方が根本にあるのではないだろうか。利便性の追求において、利益ばかりが強調されるが、実際にはその中に不利益を被る可能性があることを、もっと強調してよいのではないかと思うことがたびたびある。便利な世の中というのは、その裏で不便を強いられている人々がいるということなのだ。当然、そういう道具を使っている人たちに、こういう犯罪の被害者が出てくるわけで、便利を手に入れたがために、害を被る結果となったとも言える。昔であれば、こういう罪を犯そうとする人々も、何らかの形で広告する必要があり、そのためにある程度の先行投資が必要であった。しかし、今ではネットの普及により、あらゆるところに無料で合法違法に関わらず、自らの営業内容を宣伝することができる。情報を受け取る側から見れば、種々雑多な情報を気軽に手に入れることができるから、これほど便利なものはないに違いない。その上、情報を手に入れる際にかかる費用はほとんどの場合ゼロである。つまり、ただで有用な情報を手に入れることができる、と言うこともできるわけだ。このことが、ネットの普及によって皆が手に入れることのできた恩恵の一つであると主張する人々もいるが、その一方でこんなことが発端となって、様々な詐欺事件が起き、更に多くの犯罪が起きていると主張する人々もいる。どちらの意見もある面から見れば正しいものであるが、そこにある違いはこの利便性を利用して、広告活動をする人々の違いにあるのではなく、それらの広告から情報を得ている人々の違いにあるのではないだろうか。雑多な情報を手に入れたときに、それを整理し吟味するのは手に入れた本人以外にはいない。ところが、そこで行うべき吟味を抜かしてしまう人々が世の中には多過ぎるようなのだ。そんな状況が現状をうんでいるような気がする。有料か無料かで情報の価値が決まるわけでもないが、少しは違いがあるかもしれない。またそれだけでなく、どんな情報にも正しい部分と間違った部分があり、それをどう前処理するかで見え方が違ってくることも明らかである。そんな部分を自ら吟味することを忘れてしまっては、自分にとって有利な判断などできないだろう。ただで手に入れたものに、金をつぎ込むことは、何を意味するのか。考えてみることには、お金がかからないのだから、そうしてみても良いと思うのだが。
案の定と言えば、その通りかもしれない。九州のある地方銀行に関するデマが飛び交い、混乱したという報道が流れていた。デマは携帯電話のメールを使って流されたらしく、混乱によって様々な人々が被害を受け、銀行側は容疑者不明のまま告訴するとのことだ。やっぱりと思いながらニュースを眺めた人もいるだろう。
今年は銀行の破綻を伝える報道が何度も流されただけに、メールを受け取った人々の心理は何となく理解できる。但し、破綻の度に元本保証制度が説明されているにも関わらず、不安のほうが勝ってしまう心理の方は理解できない部分が大きい。中学の頃だったろうか、社会科の授業で戦前の銀行破綻の事件を習ったことがある。同じようにデマが飛び交い、それによって預金者が殺到することで、それに見合うだけの現金を銀行が用意していなかったために、潰れてしまったというようなものだったと思うのだが、はっきりとは記憶していない。預金者全員の預金を常に用意しているようであれば、銀行は何も運用していないことになり、銀行業なるものが成り立つはずはない。にもかかわらず、極度の不安から興奮した預金者にはそんな論理が通用するはずもなかったのだろう。今回の事件も、そういった心理が作用したものだと思われるが、当時の事件との大きな違いはデマの流れる経路である。当時は当然人から人への口と耳を介した情報伝達しか方法がなかった。当たり前のことだが、当時でも新聞がそういうデマが流れるのを促したわけではない。それに対して、今回の事件の場合、携帯電話のメールという方法がとられたから、一から多数に向ってかなりの広がりを見せたのだと思われる。まるで、拡声器で街中を宣伝して回ったようなものである。舞い込んできたメールをそのまま他の人々に転送すればいいだけだから、余計な憶測が入ることもなく、まったくそのままの形で情報が流れたのだろう。発信元としては、思い通りに事が運んだと言えるのではないだろうか。しかし、対象とされた銀行はたまったものではない。単純に事実無根であることを伝えるだけでもかなりの労力を要するのに、他にも様々な障害が起きていたに違いない。当然ながら、有形無形合わせてかなりの被害を訴えることができるのではないだろうか。テレビや新聞で流れる情報はある程度法律での規制の下で制限されているのに対して、一般の経路ではそんな制限などない。しかし、最近では同等かそれ以上の力を持つようになっているとも言える。こんな中で起きた事件だけに、加害者の特定と厳重な処罰を求める声が大きかった。マスコミもあまり声高に言えないくらい不確定な情報を流しているが、問題は受け手にもあり、見知らぬ人がテレビで話す言葉を信じ込むのと同様に、見知らぬ相手からのメールを信じ込む人々が増えているのではないだろうか。確かめる方法はいくらでもあるにも関わらず、それをせずに行動に移る。一度流れ始めたデマはそう簡単には止まらないことは皆知っているはずだが、何もしない。結局、こんな繰り返しがこのような事件をうむわけだ。単に、処罰を重くするという対応を所轄官庁などに望むだけでなく、皆が自らの対応の根本を考えるべきではないだろうか。
クリスマス休暇にテロが起きるのではないかと、イラク戦争に深く関わっている国々ではかなり警戒しているようだ。いつ、どこで、どんな形で起きるか予想できないテロに対しては、防ぐ手だてがないのではないかと思えるが、大掛かりであればあるほど、情報が漏れる可能性が高く、何とかなるものらしい。
そんなことを言っても、実際には同時多発テロは衝撃的なものだった。中東では自らの命を絶って、周囲の人々を巻き込む爆弾テロが当たり前になっているとはいえ、まさかバスではなく飛行機を使って、更にビルに突っ込むなどとは想像しなかったのだろう。まったく、宗教的な背景が変われば、考え方も変わるものだ。そんな状況を思い浮かべれば、次に何か起きたときには、もっと凄惨な事件が勃発するのではないかと思えてしまう。だから、国を挙げて注意を払う方向に進んでいたはずだ。ところが、思わぬ方向から、別の形の事件が起きてしまった。この場合、個人の生命というより、国の経済というある意味で更に大きな対象が被害を受けることになる。BSE、いわゆる狂牛病に感染した疑いのある牛が検査の結果初めて見つかったというニュースが飛び込んできたのだ。英国から始まり、欧州諸国に飛び火した牛の病気は、その後日本やカナダなども巻き込み、全世界的な広がりを見せていた。ただ、肉牛の大生産国である米国と豪州に関しては、元々の発生地域から地理的に遠いという事情もあって、これまで発生することはなかった。それが初めて、疑いがあるとはいえ、検査の結果陽性となった牛が出てきたわけだ。どちらの国も、肉骨粉などの伝染の危険を帯びた飼料を与えることなく、牛の飼育を行っているので、感染が報告された国々とは事情が違うという主張が通っていたのだが、今回の報道を聞くかぎり、どこでどう感染したのかまったくわからないという状況らしい。こういう話が聞こえてくると、つい想像してしまうのだが、本当にこの病気は伝染性のものなのだろうか。感染源が特定されれば、確かにそうであったことが確認できるのだろうが、この国で起きた感染に関しても最終的な特定に至っていないものがあり、どうも腑に落ちない点が多い。逆に言えば、伝染性のものでなければ、取り扱いなどを変更しなければならないわけで、非常に大きな問題であるわけだ。まあ、その問題は後回しにするとして、今回の事件は農業主体の経済で成り立っている米国にとってはかなりの打撃を被るものとなるだろう。その証拠に、役人や高官達の対応には論理を逸脱した行為が目立っている。夕食に牛肉を食べると述べた長官や危険はないと証拠もなく叫んだ外交官など、まるでどこかの国の大臣を見るような雰囲気である。こんな非常識な論理からは、検査体制などについても目茶苦茶な対応が予想されるらしく、既にそれに向けて対応の準備をする国も出てきている。大騒ぎの割に、拙い対応ばかりが目立つのは、実は日本だけのものではないことが明らかになり、安心してしまい、もっとひどい対応がなされるのではないかと危惧する向きも出てきそうだ。
通常の電話と違って、携帯電話は電源を切ることができる。電話線で繋がっていないから、外からわずかな電気を得てというわけにはいかないからだ。人それぞれだろうが、寝ているときには電源を切る人もいるのだろう。お互い寝るときは寝るわけだから、そんな時間に電話が入ることなど想定しないからだ。
時期が時期だけに、予期せぬ人から電話が入ると楽しいものである。寝ている最中だろうが、そういうこともあるかも知れない。まさか、そんな期待を抱いているわけではないが、電源を切らずに寝てしまうと、時々真夜中、早朝に着信があったと表示されていることに気がつく。見たことの無い番号、そんなことがもう何度もある。別にこの時期だからと、特別なことはない。そういうときに、以前なら返信して、相手を確かめることもあったのだが、最近は別のことをする。あるデータベースで調べてみるのだ。それは、ワンギリ電話データベースというもので、一時大流行りになったワンギリを行っている番号を記録してあるところである。あれだけ、大騒ぎになり、電話会社も対応措置を捻り出したのに、また最近増えてくる傾向にあるのではないだろうか。まったく、懲りないやつらだ、と思えてくる。こういうときの対応方法として、電話会社が採る手法は、ある一定の制限をかけるものだから、そこまで行かないように機会を設定すれば、何も心配することはない。おそらく、そんなやり方を編み出す人々がいて、新手の儲け話を持ちかけているのではないだろうか。他人の金をふんだくる、彼らから言えば正当に購入していただく、ことにかけては、出てくる知恵には限りが無いようにも見える。結局、刑事処分が下されるような措置が講じられないかぎり、やり得の感は否定できない。このような行為が横行するきっかけとなったのは、番号通知の導入なのではないだろうか。元々、勧誘電話などに悩まされた人々からの要請で、送信側の番号を受信側に通知することが始まったのではないかと思うが、特に、携帯電話では便利な機能として多くの人々に歓迎されていた。それに、へんてこな勧誘電話に関しては、怪しい電話には出ないようにすれば、余計なことをしなくて済むから、役立つと思われた。ただし、実際には公衆電話からのものや、外出先からの電話も、同じように排除されることになるから、現実的ではないことも起きて、導入前ほど評価は高くないようである。だからなのか、最近番号通知機能の広告が目に付くようになった。今回は、知人からの電話だとわかることが重要と、別の角度からの評価を求めているようだ。色んな形で、世の中のシステムが便利になるにつれ、それに乗じた悪徳商法を展開する人々が出てくる。これらを事前に予想して、対策を練っておくことができればいいのだろうが、想定外のことが起きるわけで、中々うまくいかない。便利とは、ある特典を手に入れることなのだろうが、それとともに何かしらの支払いを要求されることが常なのではないだろうか。無料の便利を手に入れ、別の形で多額の支払いを要求される、という図式が横行しているようにもみえる。電話だけでなく、ネット社会にも、そんなものが蔓延り始めている。
今日は、連日の話題から始めてみることにする。オゾンは何からできているのか。こんな質問をしたら、どう答えるだろうか。オゾンは、オゾンからできている、という答えが返ってきそうな気もするが、学校で習ったことを思い出して欲しい。この世界にある色んなものは原子が集まってできていて、それを分子と呼ぶという具合に習ったのではないだろうか。
そんな話が始まった途端に、このページを閉じてしまう人もいるだろう。確かに、学校で習った化学とか物理には、人を遠ざける作用があるのではないかと思えることがある。その理由をここで論じるわけにもいかないから、ここは話を元に戻して、オゾンの話題である。オゾンの分子は、酸素原子が集まってできたものである。酸素分子、我々が吸い込んでいるのはこれだが、は、酸素原子が二つ結合したものであるのに対し、オゾンはそれが三つ結合したものである。酸素は我々にとっては欠くことのできないものだが、最近話題になっているように、体内でできる活性酸素は逆に体にとって悪い作用を及ぼすこともある。過ぎたるは及ばざるが如しというわけで、空気中の通常の酸素濃度が高くなりすぎても、良くないらしい。酸素は、病院で見かける酸素ボンベ、ちなみにボンベというのは英語でbombと書くものだから誤解を受けることがある、英語ではcylinderと言うべきらしい、また逸れてしまったが、病院でしか見かけなかったものが、最近は町中でもよく見られるようになった。買い物カートのようなものに小さなボンベを載せて、そこからチューブを出して鼻に差し込んでいる人を見たことがあると思う。呼吸の効率がなんらかの原因で落ちてきた人々が、こんなものを持ち歩いているのだが、以前なら病院や自宅に閉じこもっていなければならなかったのに、ちょっとした工夫で出歩くことができるようになったわけだ。そんな形で日常の風景に入り込んできた酸素ボンベだが、高圧のガスがつめてあるわけだから、取り扱いには注意しなければならない。さすがにそれぞれの使用者に免許を要求することはないのだが、容器の管理には注意が必要であり、そちらのほうは免許を必要とする。ここまで来ても、酸素はやはり病人のものといった感覚が強かったのだが、その後ちょっとした変化が見られるようになった。酸素をつめたスプレー缶のようなものが市販されるようになったのだ。これは酸素ガスそのものをつめたのではなく、空気よりもわずかに酸素濃度が高い、窒素と酸素の混合ガスをつめたものらしい。病人だけでなく、健康な人々でも、酸素が不足する環境に暮らすことも多くあり、それによって体調が崩れるという話があるのだそうだ。その問題を解決するという話から、こんな商品が売り出されたらしい。元々は、激しい運動をしたあとに酸素を多量に吸い込むと回復が早くなるという話から、一部で使われていたのだが、日常生活においても利用価値があるとすることで、市場を広げてきたとのことだ。まったくよく思いつくものだと思うが、効果があるという話が出てくると、つい自分もと思う人が出てくるのだろう。体内のエネルギーの燃焼を促進する、これは間違った用法にも思えるが、という効果を前面に出して、減量に結びつけるなど、売るためには何でも考えるものだと思う。米国から入ってきたビタミン剤などのサプリメントの流行とともに、酸素関連の商品もかなり売れているそうだが、これも一種のサプリメント、補助的役割のものと考えるべきだろう。生活に余裕が出てきて、さらに上の何かを求めているときに、こんなものがもてはやされることになるのだろう。
学生の頃、友人と西日本のある都市に出かけたときのことである。食堂に入るたびに、普段なら水を飲む友人が出された水に手を付けない。不思議に思って尋ねたところ、返ってきた答えは、こんなまずい水は飲めない、というものだった。確かに、無味無臭ならまだしも、臭いとも思える水は日本アルプスから流れ出す美味い水で育った人間にとっては、拷問とも映ったのだろう。
ずっと昔のことで、その後あまり気にしていなかったのだが、最近その都市の水に関して、話す機会があった。臭いと思われたにおいはほとんどなくなり、以前に比べたら飲めるようになったとのこと。水道水の取り入れ口には変化がなく、上流の水質にしても、以前よりはずっと良くなったとはいえ、まだまだ良いとは言えない程度のものである。何が変わったのかといえば、水の処理方法が変わったとのことなのだ。ずいぶん昔に何かで読んだことがあるのだが、この国で主流となっている水の処理方法は、特に殺菌を目的とした塩素処理である。それに対して仏パリの水道水の処理は、塩素を使わずにオゾンで行っているとあった。オゾンも細菌を殺す作用を持っているが、それに加えて残存することが少なく、あとに残る独特の臭いもないというのだ。塩素は、殺菌力は強いのだが、どうしても残存臭が気になり、さらに他のにおいと混ざると表現しがたいものになる場合もある。それがおそらく、昔友人が拒否した水の臭さの原因だったのだと思うが、冷やしてもなお漂っていたからかなり強いものだったに違いない。これに比べると、オゾンはそういった副作用的なものはないし、色んな話を総合すると原水のもつにおい成分をも分解する作用があるようだ。そんなわけかどうか知らないが、ある時期から原水をオゾン処理するようになり供給することとなってから、臭いという苦情が減ってきたらしい。ただ、オゾンだけの処理では不十分との指導があるようだから、未だに塩素処理も行っているのではないだろうか。この状況と似たものに、水泳プールがある。昔のような屋外のプールは極端に減って、最近はほとんど屋内プールとなっているが、ここでも大勢の人々が使うものとして殺菌などの管理が必要となる。塩素が主流となった処理では、水道水とは比べ物にならないくらいの高濃度の塩素が使われているから、においもきつく、人によっては目が痛くなるという。そこで登場したのが、オゾン処理なのだそうだ。水道水の処理にオゾンが使われるようになったことはどこかで聞いていたが、それ以外にも用途があるとは知らなかった。全国の屋内プールに使われるようになれば、かなり大きな市場で、進出する価値もありそうである。そう思って調べてみると、かなり多くの企業がプールの浄化用の装置を製造販売していた。ここでも単に浄化作用が認められるだけでなく、消毒用に使われた塩素を分解する作用があるそうで、においを和らげ、目を痛めることも少なくなるとのこと。水泳教室の講師達にも人気があるそうで、故障するとすぐに連絡が入るのだそうだ。それは、においという要因だけでなく、透明度という指標にも影響があるからなのだとか。有機物の分解も効果の一つとして取り上げられているそうで、何でもありなのかと思えるほどだ。最近は、両極地のオゾンホールの問題でしばしば取り上げられるオゾンだが、自然界では紫外線による発生が主であるのに対し、工業的にはそれ以外にも水の電気分解のような形での発生を利用するものもあると聞く。さすがに、オゾンホールを閉じるほどの生産量は望めないから、やはりフロンなどの削減が重要となるのだそうだ。
遠くにある山もすっかり冬の装いである。ただ、まだ雪の量が足らないらしく、木々の枝がしっかり見えているから、何となくごま塩頭のように見えてしまう。里の方でもさすがに寒さも一段と増してきて、残雪が凍りついて危うく転びそうになる。景気はどうだか知らないが、季節はちゃんと巡っているようだ。
これだけ寒くなってくると、具合がおかしくなる人も増えてくるだろう。そうなればお世話になるのは医者であり、病院だ。全国の病院の通信簿のようなものが発表されていたが、全体的なものはあの数字がそのまま現れているのだろうが、入院患者や通院する人から見れば、毎日接する特定の看護婦や医者の雰囲気が全てを決めることになる。この調査は特に大きな病院を対象としたものだけに、診療科間の連携を重視するものとなっているように見えた。図体が大きくなればなるほど、隅々まで情報を行き渡らせることが難しくなるし、また一方で陣取り合戦のような縦割り的な気持ちが前面に出ることも多くなる。それらの要素が反映されるのが、科間の連携、連絡の緊密度であり、それを指標にした調査はそれなりに評価できる。しかし、一方で大病院を抱える大都市を念頭においた調査という印象も否めない。普段医者にかかっている人々は、頻繁であるがゆえになるべく手近なところに通おうとする。その病院が主に内科しかなくても、日々の具合の悪さを診てもらうためには十分であり、大病院へ行くことで気力、体力ともに消耗し、さらに悪化させるよりもましだからだ。となれば、身近なところに病院があるかどうかが、日々の生活にとって重要な要素の一つとなる。大都会だからといって、そういった個人医院の存在は確定しているわけではなく、医科大学の病院を抱えている地域ではかえってそういった身近な存在がない場合も多い。病院の数を決める要因に何があるのかよくわからないところもあるが、一般には入院する場合の指標としてベッド数があり、人口当たりのベッド数が医療の整備の度合を示す値となっている。しかし、大病院だけが存在する地域がはたして心のこもった医療がなされているところかと考えると、どうもそうでもないことがわかってくる。そういう場所には他の地域の人々がやって来るわけだし、それらの人々に混じって診療を受ければ、それだけ時間も体力も消耗してしまう。それよりも、個人医院へ行ける環境の方がずっと良いものだと言えるのではないだろうか。高度な医療を受けるためには大学病院などの大病院である必要があるが、毎日のものとなればやはり近くの顔見知りの医者の方がずっと頼りになる。そんな観点で周りを見回してみると、古くから栄えていた町は思ったよりも多くの個人医院が開業しており、新興住宅地はそれほどでもない。色んな制限が課せられる前のこともあったのだろうが、最低限を目指す最近の傾向からすると、こういった結果が生まれるのも致し方のないところだろう。個人が開業している場合には、時が経過するにつれ様々な問題が生まれてくるのだが、それを何とか解決できれば、今後も十分な医療を受けることができる。効率だけを考えてきたここ数十年のことを振り返ると、このままでは衰退の一途を辿るしかないのだろうが、家庭医を無くさないためには別の考え方が出てこなければならないだろう。