パンチの独り言

(2004年1月12日〜1月18日)
(連休、物相、時流、荒廃、畜育、回避、現)



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1月18日(日)−現

 言葉は時代の変化とともに移り変わり、あるものは忘れ去られ、新たに作り出されるものもある。平安時代から鎌倉時代にかけて作られた文章は高校時代に古文で習わされたが、かなり苦しめられた人も多いのではないだろうか。同じ日本語のはずなのに、まったく意味がわからないことも多かったから、それだけ変化してきたということだろう。
 こういう状況は近代に入ってからも同じで、明治時代に書かれた小説などの文章でも時々わからない言葉が出てくる。確かに、漢字や仮名遣いが変わったことによって読めなくなったところもあるが、見たことのない単語が並んでいることもある。小説では前後関係から何とか想像することもできるが、専門的なものになるとお手上げのことが多い。岩波文庫はずいぶん古くからあるらしく、昭和初期に出版されたものが最近復刻されている。おそらく当時のものをそのまま復元しただけのようで、印刷が不鮮明なところもあり、せっかくの名著が寂しいものだと思ったりするが、待ち焦がれていた人々にとってはそれでも十分なのかもしれない。言葉遣いなど今とはちょっと違った雰囲気があり、今では間違いと言われてしまいそうな用法を見つけると、おやっと思ったりする。面白いのは、同じような言い回しが時代により正しくなったり、誤りになったりすることで、言語には絶対的な正解というものが無いのではないかと思える。最近の話題はなんと言っても「ら」抜き言葉なのではないだろうか。見ることができる、という意味で、「見られる」が使われてきたのだが、最近では「見れる」と話す人々が増えている。使う人が増えているにもかかわらず、公式には認められていないといった感じがするのは、アナウンサーなどの話すことを職業とする人々の間ではほとんど使われていないことと、テレビで使われる字幕に時々話をしている本人は「見れる」と言っているにもかかわらず、「見られる」と表示されることなどによるのだろう。これが気になり始めると、実は他の言葉にも「ら」があるべきなのかと惑わされるようになる。「入る」の可能を表す言葉は「入れる」であって、「入られる」ではないのだが、一度引っかかり始めると、どうも気になってしまう。「上がる」もそうだし、「帰る」もそうだ。では、同じ「かえる」でも、「変える」はどうだろうか。これはまた、「変わる」という言葉もある。こちらではどうだろうか。まったくややこしいものだ。自分が使ってきた言葉が正しいのかどうか、自信がなくなってくる。結局、規則がどうなっているのか考えずに、音のつながりの雰囲気で判断するからいけないのだろう。では、どこに規則があるのか。調べてはいないが、おそらくこれかと思うのは。否定形がどう言われるかというところの違いである。「見る」の否定形は「見ない」だが、「入る」は「入らない」、「上がる」は「上がらない」、「帰る」は「帰らない」という具合に、違いがある。「変える」と「変わる」は、「変えない」と「変わらない」である。前者は「見る」と同じ変化、後者は「入る」と同じである。そこからすれば、「変える」は「変えられる」であり、「変わる」は「変われる」となる。規則は規則、言いやすければそれでいいと考えれば、こんなことはどうでもいいのかもしれない。こんなことが気になるのは、流れに乗れないからなのか。

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1月17日(土)−回避

 色んなことが思い出せなくなっているように感じる。気にすればするほど、そういうことを実感してしまうから、ある程度脇に置いておくわけだが、時にそのひどさを痛感してしまい、あれまあと思うしかない。これも加齢現象の一つと受け取ればそうなのだろうが、実際に年齢を重ねればひどくなるものかどうか、比較したことがないからわからないものだ。
 一晩寝れば忘れられることを自慢していた人がいたようだが、忘れて欲しくないと思っている人たちにとっては、反感を覚える発言だったのだろう。ただ、報道を通して伝わってくることには前後関係の欠落があるので、これだけで何かを言うべきではないのだろう。それにしても、10年近く前のことになるとはいえ、すっかり忘れていたことがあった。神戸付近を襲った地震のことである。早朝の出来事で、被災した人々の多くは寝ていたようだが、地震で起こされた人も、起きていてその恐怖を味わわされた人も、ああいった恐怖経験を忘れることは難しいのだろう。逆に、恐怖感から何かを出来なくなることも多いから、心の中の痛手は計り知れない。そこまでの経験をしたことがないが、地震ほど経験によるものはないと思う。地震大国と呼ばれる国に育った人々は、大なり小なり経験があるから、少しくらいの揺れに対してはある程度の免疫が出来ている。ただ、この免疫は限度を超えるとまったく役に立たないから、予想を超えるような揺れがやって来るとどうにも対処できない場合が多い。それでも毎日どこかが揺れているような国に育てば、地面が動くことに対して何の違和感も持たなくなる。ところが、世界中を見渡してみると地震が起きない国も沢山あり、そういうところに育つと地面とは揺らがないものといった感覚が出来上がる。近年になってこれだけ移動が激しくなると、自分の育った国だけで暮らす人もだんだん少なくなり、よその国に出かけたり、そこで生活を営む人たちも増えてきた。土地が変われば、環境も変わるから、生活の仕方も色々と変わってくる。毎日の生活様式はその土地に合わせた形で変化し、それに対応するのだが、ほんとたまに起きる天変地異の場合、備えが不十分になっていることが多い。そこで生まれ育った人々でさえ、その状態にある場合が多いわけだから、よそ者にとっては、心の準備さえも整っていないのだろう。ほんの少しの揺れ、たとえば震度で言えばやっと体に感じられる震度2程度のものでも、青ざめてしまったり、パニックに陥ることがある。経験者から見れば何のことはないものでも、未経験者にとっては大事件に感じられるわけだ。あらゆることに対処できるような心を育てて、などと言うのは簡単なことだが、経験に基づくものに関しては、対処の方法を伝授するのは難しい。地震で言えば、揺れを人工的に作りだす施設や移動施設を使うことで、ある程度の体験を提供することもできるが、まったく地震が起きない国でそんなものを設置するのは無理だろう。生まれたときから持っている危機対応能力もある程度はあるのだろうが、やはり経験に基づく危機対応能力の方が大きな割合を占めるのだと思う。実は、忘れることもそういった能力の一つかも知れないのだが、危機に対するものだから、誰かさんの場合、何かを危機と感じているのかも知れない。

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1月16日(金)−畜育

 このところ人間が食べるために育てている家畜などの感染症が問題となっている。海の向こうで牛が問題になったと思ったら、こちらでは鶏に問題が起きた。ちょっと関係ないように思えるが、コイヘルペス問題もその一つとなるだろうし、最近話題にはならないとはいえ、豚に関してもいつ報告されるか心配になるくらいだ。
 このような感染症が問題となってしまうのは、発生すると一気に蔓延してしまう怖れがあるという理由と、もう一つは人間にも感染する怖れがあるという理由がある。豚やコイの話はどちらかといえば前者の例であり、感染の広がりを防ぐためには感染動物の廃棄などの処置をとらねばならない。これに対して、牛のBSE(Bovine Spongiform Encephalopathy、牛海綿状脳症)、いわゆる狂牛病の場合は、人間に感染する可能性が指摘されており、後者の例として警戒されている。この場合も可能性というだけで、決定的ではないにも関わらず、かなり大げさな報道もされており、受け取り方の難しさを感じる。一方、これらの両方の例にまたがるような形で考えられそうなのが、このところ話題になっている鶏インフルエンザの話である。高病原性のウィルスに感染した鶏はかなりの確率で死亡するらしく、今回の例はそちらに属すようだ。その中で、インフルエンザといえば人間にも感染し、猛威を振るったものではかなりの死者が出ていたから、その可能性に言及する報道が多くあった。但し、このウィルスの場合は人間への感染の前例はほとんどなく、おそらく感染した鶏に直接接するようなことでもなければ起きないと報じており、消費者にある程度の安心を与えるような形になったようだ。興味深いのは、ないという報道をするときには、かなり慎重な言い回しを使っており、ありそうな場合の断定口調とは大きな隔たりを感じさせられたことだ。あると言ってなかった場合には問題にならないが、ないと言ってあった場合には訴えられるという心理がそのまま表に出たものだと思う。実際にどんなことになるのか、今のところわからないと言っておくのが安全だろうが、それでは報道する意味がないということになるのだろうか。何とも不思議な感覚と思うが、それが業界のやり方となれば仕方のないところだろう。いずれにしても、これらの事例からわかる通り、食用として育てられたものには、病原体による感染がつきものである。原因として考えられることは幾つもあるだろうが、たとえば次のようなものが挙げられる。同じ動物の同じ品種を飼育すること。これは、肉質やら育てやすさなどから採られる選択肢の一つだが、同じということはある病原体に対する感受性も同じということで、感染が広がりやすくなる。また、収益の向上を考えたときの一つのやり方として採られる大量飼育、これも問題を大きくする。感染の速度を高める作用があるだけでなく、おそらく飼われている側の体調にも影響しやすいのだろう。養殖魚で何度も取り上げられている問題だが、商売として考えれば避けられない問題のようだ。飼育環境の改善といった形での解決策を講じるのも一つの方法だが、ほとんどの場合は別の形の策を講じている病原体の死滅を目的とした抗生物質の使用である。それが食べる側にどんな影響を及ぼすのか、色んな意見が色んなところで出されているから、ここで取り上げる必要もないだろう。ただ、狂牛病のように感染源の除去以外に感染防止の方策がない場合には、感染の報告があるたびに処置するしかないようだ。それにしても、牛も鶏も様々な方面への影響が心配されているが、はたしてどんなことになるのだろうか。食べなきゃいいと、ベジタリアンに言われてしまいそうだが。

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1月15日(木)−荒廃

 強風が吹き荒れている。発達中の低気圧が北海道沖にあり、という天気予報の解説を聴いて、妙に納得してしまうわけだが、風と雪の二重の障害に遭って、さすがの空港も全面閉鎖となっているようだ。先日取り上げた風による体感温度の低下について、他の数値もあり、秒速4メートルで1℃低下するという説もある。念のために付け加えておく。
 吹き荒れているといえば、最近若者の無法ぶりが目立っているようだ。ちょっと前まで、今日は成人の日であり、全国で成人式が開かれていた。見たことも聞いたこともない来賓の祝辞を我慢しながら聞くという光景は今も昔も変わっていない。長々とした訳のわからない話を聞いていると、祝辞じゃなくて訓示ではないかと思えてくるほどだ。しかし、最近はものわかりのよい年寄りが増えたせいか、簡単な挨拶程度のもので済ます場合が多くなったようだ。それに比べると、若者のものわかりの方は低下の一途を辿っているようで、祝辞が始まったか始まらないかの瞬間に怒号を浴びせたり、大声で叫んだり、ついには壇上に上がって暴れたりする者もいる。我慢できないほどのものなら、参加しなければいいのに、と思うのは昔の感覚らしく、子供が駄々をこねているというより、目立とうとする気持ちが動いているらしい。では、そちらの方は理解の範囲内かといえばとんでもないことで、何か肝心なものが外れているように思えてならない。ものわかりの良い悪いで判断するのはおかしいのかも知れないが、とにかくその場だけでもなどという気持ちで対処しているのがそもそもの問題のように思える。自分もやっているから大きな声では言えないことだが、見て見ぬふりをすることが大きいように思える。振り子が振れるように、こういう社会的な傾向は適度なところでは留まらず、どちらか極端な方に振れるようだ。以前は互いに強すぎるほど意識することからおとなしく行動していたものが、今では逆に片方を怖れる意識が強くなり、放任する傾向にある。だから、社会的に成熟していないとなるのはある意味当たり前のことで、個人だけが存在するわけだからそれが集まる単位まで思いが至らないはずである。ここでも、ものわかりの良い人々は今の若者が育った環境を分析して、責任をそちらに転嫁しようとする。自分たちの関わりを無くす方向に思考を働かせるのは、社会という単位を考える時にはしてはならないとある程度わかっているはずなのに。自由と責任という言葉のセットを組として考えるべきか、別個のものとして考えるべきか、という議論も色んなところで行われているようだが、どうも結論が出ないらしい。端から結論などというものはないような気もするが、何となく議論をすることで良しとする傾向が強くなっているようだ。確かに、罰則を厳しくすることで抑止するやり方もあるのだろうが、厳しいものにも限界がある。そこに達するまで振り子が振れるのか、はたまたその前に振り戻しがやって来るのか、時に任せるような気持ちでは危ないような気もする。さて、どうなるのやら。

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1月14日(水)−時流

 トレンドという言葉がある。辞書で引くとちゃんと載っていて、流行、趨勢とあった。元々の意味は、と思い、英和辞典を引いたら、方向、傾きから始まって、趨勢、時代の風潮などある。set a trendとくると、流行を創りだすとなるから、時代の方向を決めるということが関連しているのだろう。
 古いものが復活して流行することもあるが、ほとんどの場合は新しいものが出てきて、その中に多くの人々に受け入れられるものが出てくることで、流行になるのだと思う。だから、流行の先端を行くためには、常に新しいものに手を出さねばならない、と考えている人もいるようだ。次から次へと出てくる新製品に手を出し、何しろまずは試してみるという人がいる。バブルがはじける直前には色んなところにいた人種だが、最近は先立つものがなくなったから、継続することが難しくなっている。それでも、一部の製品に関してはその気持ちを貫いていて、新しいものに飛びつく習性は変わっていない人もいるだろう。さすがに、自動車のように高価なものにはそういう行動を示さない人も、携帯電話くらいのものだったら何とかなるのだろうか、会うたびに違う機種を振り回している人を見かける。初期の携帯電話では電池の寿命や記憶容量の向上が大きな因子になっていたから、何となくだがそういった行動も納得できる部分があった。しかし、iモードの出現辺りから、理解できない部分が増えてきたように感じる。周辺整備が不完全な時代には、せっかくの新機能もあまり役立たないことが多い。特に、閲覧などの機能の場合は相手となるものが必要だから、初期段階では対して役に立たなかったのではないかと思える。しかし、新しいものに飛びつく人にとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。他人が持っていないものを持ち、それを使っているというだけで満足感が得られるのかも知れない。そんな光景を眺めているうちに、あっという間に流行の先端にいることになったから、先駆者的な存在として見られるようになったかも知れず、それはそれで結果よしということなのだろう。その次は何だったろうか、あまり気にしていないのでよくわからないのだが、たぶんカメラ付きの登場だろうか。これはこれで、携帯電話業界の内部でさえ、評価が分かれていたらしいが、今となっては勝ち組である。だから次には、動画を処理する機種まで登場している。まったく、何でもかんでもてんこ盛りにすればいいといった考えなのだろうか。テレビも載せ、ラジオも載せ、今のままでは様々な機能を盛り沢山に搭載した万能移動電子機器なるものになっていきそうである。そういった傾向をあまり歓迎しない気持ちがあるのは、おそらく多機能機種を使いこなせない世代ということがあるのだろう。一部しか使わないのであれば、無用の機能を廃した機種を選択できるようにして欲しいと思うのは、時代の流れに乗り遅れている証拠だろうか。つい先日、長年使ってきた携帯電話に異常が発生した。液晶画面の表示に不具合が出始めたのだ。iモード以前の世代の機種からの転向は難渋を極め、先送りにしてきたが、どうもそろそろ年貢の納め時のようである。

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1月13日(火)−物相

 「モダン・タイムズ」という映画を覚えているだろうか。チャップリン演じる工場の従業員がベルトコンベアの上を流れていく製品を組み立てる様子を、機械に使われる人間という形で風刺したものだが、戦前の作品とはいえ、ついこの間までこの国の組立工場で見られた光景であり、単純作業を揶揄する対象となっていた。
 効率化の名の下に考え出された分業制と流れ作業は、確かにある程度の効率の向上をもたらした。多種類の作業をこなさなくてもよいから、新参者でもすぐに何かの作業につくことができるし、一つの作業の熟練者となりやすいから、効率の向上も目覚ましいものとなる。そんな形でもてはやされた仕組みだったが、最近はちょっと違った方向に動いているようだ。携帯電話やコピー機の製造会社で行われているのは、ひとりの人間が一つの機械を始めから終わりまで組み立てる方式で、以前の考え方から言えば何とも非効率的なやり方に思える。どこに違いがあるのかと言えば、大量生産と製品の質に対する考え方のようだ。昔は同じ製品を大量に生産することによって、経費を削減していたのだが、この頃は消費者側が多種類の製品の中から選ぶようになり、生産者側も多くの違った種類の製品を作らねばならなくなった。このため、流れ作業で一つの製品工程を流すことができなくなり、そのため異種の製品が流れるようになったのでは、流れ作業の意味がなくなる。そこで、一人ひとりが違う製品の全工程を担当するようになったわけだ。また、一方で流れ作業による工程分担が別の影響を及ぼしてきた。分担することによって、製品の質の維持に対する責任感が薄れてきたようなのだ。実際にはどうなのかわからないが、これも全工程を担当すれば、一つ一つの製品に対する責任が出てくるだろうから、品質管理の観点からもいいだろうということで始められたようだ。ちょっとした考え方の違いで、全体の仕組みががらりと変わってしまうわけだが、人間の能力を活かすために色んな方策がありうることを示しているのだろう。ちょっと違う話だが、機械の方にもちょっとした動きが始まっているようだ。パソコンを使っていると、使いもしない機能が搭載されたソフトなど余計なものと思うことが多い。同じことが家庭電化製品にもあり、特に顕著なものといえば電子レンジに代表される調理器だろう。電子レンジに、オーブンの機能をもたせ、さらに蒸し器の機能をもたせ、といった具合に多機能化しているが、多くの人がご飯を温めるくらいにしか使っていないのではないだろうか。沢山の機能を搭載したものが優れているわけではなく、それによって故障の頻度が増えてしまうのなら、ある意味余計なものとなる。テレビにビデオを組み込んで、というものも出てきたが、それぞれが新製品を次々と出していく時代には、かえって邪魔なものとなっていた。ところが、最近の傾向を見ると、その辺りの事情が変わりつつあるようだ。テレビにパソコンの機能を載せてしまうだけでなく、もっと多機能なものにしようとする動きが急で、それに乗り遅れまいとするコンピュータ関連企業の動きから、かなり賑やかになっているからだ。テレビ自体の質の向上がそこにはあるのだろうが、一方で多機能搭載型を望む声が大きくなっていることもあるのだろうか。特にこの国で見てみると、その傾向は携帯電話の世界から始まっているように思える。何でもかんでも載せたが勝ちと表現したくなるほど、次から次へと機能が付加される。どこまで行くのか誰にも予想はできない状況だ。一度しか使わない機能を手に入れてどうするのか、そんなことを考えているようでは、時代の流れに乗り遅れると言われそうだ。

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1月12日(月)−連休

 習慣というものは恐ろしい。この時期に成人式と聞いてもピンと来ないからである。以前から、就職や進学のために町を離れる人が多い市町村では、生家に戻ってくる時期である盆や正月に成人式を行うところがあったが、ほとんどのところは国で定めた成人の日に行ってきた。感覚のずれはその日が毎年違っているところに端を発している。
 規則を厳格に定め、守らせるという考え方が、ずいぶんと昔から受け継がれてきたからか、様々なことに細かな規則を適用しているのが、この国の特徴である。しかし、決め方が厳格なわりには内容は笊のようであって、すり抜ける道は沢山あり、要領の良し悪しが生活の質を決めているところもある。そんなことは頭でわかっていても、一方でお上のお達しという絶対的な存在にひれ伏す慣習はなくならず、結局のところそのままズルズルと流されているのが現実のようだ。月曜日の休みが増えたのは、ひとえにそういった規則によるもので、連休を増やすことが何かの活性化に繋がるという信念から作り出されたものに思われる。どんな意図があったのか、今となっては思い出すこともできないが、とにかく作られてしまったものは守らねばならない。そんな状況下で、昨年は月曜日が休日になっていたのが七日、今年は五日ある。以前と比べたらどうかといえば、この制度を導入しない場合を想定して数えればいいわけだから、昨年なら四日、今年は二日だけになる。制度によって増えた月曜休日がどんな使われ方をしているのかよくは知らないが、おそらくどこにも出かけずただ休んでいる日とも多いと思う。実際には、それ以前に導入された振替休日なるものをさらに除けば、月曜日と祝日が重なるのはほんのわずかとなり、他の日とほとんど変わらなくなることは考えるまでもないことである。いずれにしても、こういった休日を定める法律の整備によって、月曜日がブルーマンデーとなる回数は減ったが、結局それは火曜日に代わりをさせるだけだし、連休になったからといって遊びに出かければ逆に疲れがたまるだけという場合も多い。そんなことなら、ゆっくり休んでしまえばいい、というわけでどこにも出かけないことになってしまう。元々ハッピーマンデーなる制度を導入しようとした目論見には、確か外出の機会を増やす効能があったはずなのだが、これではまったく何の意味もなくなってしまう。この辺りの調査がどの程度なされているのか知らないが、自分の行動を見るかぎりは普段の休みと変わりなく過ごしているから、はて、休みが増えたわけでもなし、連休で混むかも知れない外出は避けるし、何の意味があるのかと考えてしまう。逆に、どんな悪影響がでたのかを考えると、月曜日に何かの行事を定期的に開こうとすると障害がでることがまず挙げられるだろう。定例何とかという類いの集まりを毎週月曜日に、という考え方は最近では難しくなっている。何しろ、約一割の月曜日が休みになってしまうからだ。もう一つは特定の日の話だが、体育の日の決め方とハッピーマンデー導入後の経過を見ると、その悪影響が理解できる。晴れの特異日の一つとして、東京オリンピックの開会式の日となった10月10日はその後も晴れが続いて、職場や学校の親子運動会の日として使われてきた。しかし、それが月曜日と決められた途端に、雨の日になったように思えるのだ。きちんとした数字が算出されたわけではないが、こんなことでは困るという人もいるだろう。会社でも工場を抱えたところでは休みがどこにあっても関係ないし、海外との取引ではどのみち国ごとの休日のずれから意味をなさないだろう。そうなると、はてさて、誰が歓迎すべき制度だったのか、ますますわからなくなる。

(since 2002/4/3)