パンチの独り言

(2004年1月26日〜2月1日)
(真ん中、普通、元栓、養成、直感、危殆、対価)



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2月1日(日)−対価

 揉め事が起きたときの解決策は何だろう。小さなものなら近所のご隠居さんに、というのは落語の中だけの世界になってしまったが、今でも仲介者に入ってもらって、という人もいるだろう。それが難しい時には専門家の手に委ねるしかなく、場合によっては裁判という形式をとるしかなくなる。
 裁判と江戸時代の奉行所によるお裁きとを比べると、大きな違いがあるように思えるがどうだろう。大岡越前や遠山の金さんの時代劇を見ているかぎり、そこでの裁きは絶対的なものであり、訴えた方も訴えられた方もたとえ不満があっても文句が言えなかったような気がする。実際には、何らかの救済制度はあったのかも知れないが、お上のなすことに不服を申し立てるなどという不届きな行為は許しがたい、といった風潮があったようにも思えて、とても成立していた制度とは思えない。それに比べると現代の裁判の制度はまったく違ったものに思える。確かに裁判官が上から下に向って裁きをすることには変わりがないのだが、裁きの絶対性が薄れている。裁判所にランクがあり、その下から上に向って、同じ案件を違った角度から検討する制度となっていて、下のランクでの裁きに不満があれば、その上のランクにお願いするという形式になっているからだ。お上の言うことは絶対であるという考え方はこういう形式ではかなり薄れたものとなり、最高機関での決定が絶対的になるとはいえ、何もかもすべてが正しいとしていないところに大きな違いがある。そういう制度に慣れてしまったせいか、最近の判決の記事が出ても世の中はすぐには反応しなくなっていると思う。第一審の判決であれば、すぐに第二審が始まるだろうし、もし二番目なら最高裁での裁判が遅かれ早かれ始まると思う。そんなことだから、殺人事件の判決で死刑と出ても、無期懲役と出ても、また懲役刑になったとしても、その場で一喜一憂することはほとんど無い。確かに、被害者の遺族であれば、当然判決に対する反応が示されるが、世間の方は冷静というのか、何となく聞き流しているような感じがするくらいの反応になってしまうことが多いようだ。そういう風潮があると思っていたが、最近の発明に関する裁判については例外だったようで、マスコミが大騒ぎをし、それに対して企業側も反応する結果となったようだ。発明は、単に発明だけであれば無価値に近いものだが、それが製品として日の目を見ると価値のあるものとなる。その発明が画期的であればあるほど、それを使った製品は売れることになり、開発した企業には莫大な金が入ることになる。そこで問題となるのは、発明した本人には一体どれだけの金額的価値が認められるのかということで、対価という言葉で表現されていたようだ。以前、同様の裁判で発明者の訴えがほとんど評価されなかったのに対し、今回は訴えた以上の評価がなされ、この種の裁判では聞いたことの無い程の額が提示されていた。それがマスコミの大騒ぎに繋がったのだろうが、これは第一段階での決定に過ぎず、すぐに第二段階が始められるのである。予想しなかった結果だから騒ぐのは当然なのかも知れないが、それにしても普段の反応との違いには驚かざるを得ない。このまま行けばお互いに最後の段階まで行くことは必至で、互いに引き下がれない状況に追い込まれるだろう。いわゆる仲裁といった形の解決策も模索されるかも知れないが、今のところはちょっと考えにくい。まあ、いずれにしても、この段階でこれほど大騒ぎする必要があるとは思えず、こんなところで無関係のものまでもが一喜一憂するのはおかしくも思える。特許が絡んだ裁判ではどの国でも不思議なことが起きているが、これもそのうちの一つで裁判官の対価試算が妥当かどうか、首をひねりたくなる。まあ、それこそが裁判制度、なのだろうが。

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1月31日(土)−危殆

 大寒を過ぎて寒さも峠を越した感がある。すぐに立春だから、春はすぐそこまでやって来ているのかも知れない。確かに、道端の木々を見るかぎり、枝の先が膨らみ始めて、春を迎える準備が整っているように見える。とは言え、まだまだ寒い日が続くから、油断は禁物、風邪だけでなくインフルエンザも流行りそうな雰囲気もある。
 寒くなってくると厚着をして何とかしのごうとするが、外に出る部分に関しては別の対策が必要となる。手に手袋をはめるのは寒い地域ではごく当たり前のことだが、もっと熱を奪われやすいところといえば頭である。毛糸の帽子を被ればずいぶん違うのだが、雪国でもないかぎり見た目の異様さが目立つかも知れない。頭のことで忘れてはならないのは首で、こちらは脳へ向かって血液を供給する頚動脈が通っているから、ここでの放熱も大きいようだ。そこで登場するのが首巻き、マフラーである。太い毛糸をざっくり編んだふわふわのものから、細い糸をしっかり編んだものまで色々あるが、服との組み合わせを楽しむ人もいるようだ。カシミヤでできたものなどは薄手でとても暖かそうには見えないが、実際に巻いてみると意外に暖かいのでびっくりする。保温力はその中に空気をため込むことで作られていると聞くから、薄いのに何故と思えるが、その中にきちんと空気の層ができているのだろう。それに、編み込みがしっかりしているから、風が通ることもなく、北風の強い時でも頼りになる。マフラーの巻き方にも色んなスタイルがあるようで、それ自体がファッションの一部となる場合もある。だから、格好良く巻いて、颯爽と歩きたいとなるのだろう。長いものを首に巻いて、余った部分をだらりと垂れ下げるのもその一つだが、意外に危ないことに気がついていない人が多い。歩いているだけでは危なくもないのかも知れないが、同じ格好で自転車やバイクに乗る人がいるから恐ろしい。羽のように後になびかせて走るのは見栄えが良いとでも言うのだろうか、何かに引っ掛かったらどうなるかを考えると見栄えを重視する気持ちが理解できない。以前、遊園地のゴーカートにその格好で乗って、後のモーターにマフラが引っ掛かり、首を絞められて死んでしまった女性がいた。係員が注意すべきという意見もあるが、本人の責任が一番大きい。同じようなことは、バイクや自転車でも起こりうる。なびいている先が後輪に巻き込まれてしまえば、あっという間に引っ張られて転倒するに違いない。そんなことは自分の身には起きないと考えるのは勝手だが、転んだ人にぶつかる車の運転者にとっては災難以外の何ものでもないのだ。車のミラーに引っ掛かりはしないかと心配しながら追い越したことも何度もある。マフラーを巻いた本人が勝手に転んで怪我をするだけではないということも含めて、もう少し危険性を考えて欲しいものだ。上着やコートの中に入れれば、そんな危険を避けることが簡単にできる。服が膨らんで格好が悪いと言い返すのかも知れないが、自分にとってだけでなく、他の人々にとっても危険をばらまいていることをわかって欲しいものだ。

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1月30日(金)−直感

 一獲千金、誰でも夢と描くものかも知れない。できるだけ楽に、簡単に、大金を手に入れる手だてはないか。時代が移り変わろうともそういう願いを持つ人々は無くならないようで、様々な国で宝籤が売られ、競馬などの賭が行われ、カジノを持つところもある。競馬の賭はデータの分析が入るので単なる運ではないが、他のものは運によるものだろう。
 身近に宝籤を当てた人がいると運が強いとか、強運の持ち主とか呼びたくなるが、単に運だけによるものとは限らない。ある確率で必ず当選者が出るわけだから、籤を買う枚数を増やせば当然可能性が大きくなる。単純に言うと二倍買えば、確率も二倍になるわけだ。ところが確率が非常に小さなものだと、たとえ二倍になったとしても大した違いには感じられない。それよりも無駄になる金が増えるだけと、そういうやり方を批判する人々がいる。確かにその通りで、損をする額は増えることになるが、一方で当選確率は理論上はちゃんと増えている。この辺りが、感覚的なものと数値的なものの違いで、確率を論じるときに難しさを感じるところでもある。昔聞いた話に、カジノでブラックジャックなどのカードゲームをやるときに、手持ちの金を一回のゲームに賭けるのと、多数回に小分けにして賭けるのと、どちらが素人にとって有利かという問題があった。相手はプロであり、こちらはずぶの素人である場合、ゲームを続ければ続けるほど負ける確率が高くなるそうで、一度にポンと勝負するのが良いのだそうだ。どんな数式からそれが言えるのか聞くのを忘れてしまったが、即座には納得できない話である。それとは違うが、貨幣を投げて表裏を当てる賭けの場合、何度も表が続いたらその次には裏に賭けるのが良いと。その場で思う人が多いそうだが、これも心理的なもので表裏が同じ確率で出るのなら、何度同じ側が出続けたとしても、次の確率は半々なのである。頭で考えるとわかったような気になることでも、その場では違った方向に思考が動く、心が占める割合の大きさを実感する場面だ。それ以外にも、確率の話を難しくさせているものがある。学校で習った確率の問題で、状況の説明のあと、その状況下である事が起きる確率は、と問うようなものがある。普段の生活の感覚で直感的に思いつく数字と、計算に基づいて出した数字が違うのを示して、人間の感覚とはこれほどずれたものだと紹介されることが多い。たとえば、先日読んだ本の中に、こんな問題があった。「ある夫妻に子供が二人いて、一人は男の子であるとき、もう一人が女の子である確率は?」、もう一つは「ある夫妻に子供が二人いて、上の子は男の子、では下の子が女の子である確率は?」とある。まず始めの問題を解かせ、50%と答えさせることで、間違いであることを指摘する。その上で、次の問題では、50%となることを示し、さらに困惑させる。こういった類いの問題を示すことで直感のずれを実感させようとするのだが、その一方で気になるのは、状況説明の際に使う仮定のことだ。仮定のおき方で確率を出すために使われる場合の数の考え方がまったく変わってしまう場合があり、それをうまくちりばめることで相手を惑わすことができる。確率の話の厳密さを紹介しようとするあまり、単に取っつきにくいだけと思わせてしまうことが多いのである。確かに数字を操作するだけで意外な結果が導けることは、ある人々には興味を起こさせるのだが、多くの人々はそんな話を聞いただけでもう結構となる。何しろ日々の生活において、確率が机上の空論であることを何度も実感しているのだから。

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1月29日(木)−養成

 二月に入る頃になると、都内のホテルの予約が難しくなる。大学受験の季節になり、地方から首都圏の大学を受験する学生がどっと押し寄せるためだ。以前に比べたら財布のヒモが堅くなったのか、無い袖が振れなくなったのか、その数はずいぶん減少したらしいが、それでもなお大口の客であることには変わりない。様々な大学へのアクセスに適した交通の便のよいところはほとんど満室だ。
 それでもただ待っていればよかったホテル側も、上京する受験生の数が減ってきたせいか、様々な対策を立て始めたようだ。昼食用の弁当の注文を受けるところや、落ち着いて準備できるように夜中に戻ってくる酔っ払いがいない別の階に配置するなどの工夫がなされている。そんな中で違った方向への展開を図るところも現れたようだ。大学を受験する人向けでなく、会社を受験する人向けの企画を打ち出したところがある。ここでもやはり経費を減らすために、地方から上京する大学生の多くが前泊することを止め、夜行バスを利用するようになっている。その場合、早朝に到着して、就職セミナーなどの面接に向けて身だしなみを整えてから現地に向かうそうだが、着替えに駅などのトイレを利用する人が多かったらしい。それを駅近くのホテルの一室で行ってもらおうと場所を提供するところが出てきたのだそうだ。シャワーを浴びたい人には、別料金で提供するようで、面白い企画だと思った。バブル期には、多くの企業が面接のための旅費の支給をして、学生の方はほとんど負担をせずに済んだが、今はどちらの側にも金がない。そんな中で、都内のホテルを長期に借りて在籍する学生に格安で斡旋する大学や、都内までのバスを運行する大学なども現れてきた。それだけ、就職活動自体が難しくなってきたのと、内定を勝ち取ることが容易でなくなったのだろう。さらに、少子化のあおりをまともに受ける私立大学にとっては、一流企業などへの就職率が宣伝のために大きな要素となるから、活動に便宜を図ることも重要な企業戦略となる。色んな意味で厳しい世の中になったものだと実感させられる。特に、関与する学生本人、大学、企業全ての人々にとって厳しい状況であるから、今までの様子とはかなり違っているのではないだろうか。それにしても、ここで紹介している就職活動は誰が何のために行っているのか、こちらの方にも以前とは違う面がでている。この時期に活動する学生は、以前ならばどこからも内定がもらえず、数ヶ月先の卒業を控えて、焦っているという印象があったが、今現在活動している学生は3年生であり、来年3月の卒業に向けて着々と準備を進めている人々である。企業の求人活動に様々な制約が課されていた時代と違い、今は何でも自由になっているらしく、時期もかなり早まっているとのことだ。以前の状況でも、理系学部の場合、卒業研究に関する質問ができないほど早い時期に面接が行われていたが、そんな話はどこにもない状況まで来てしまった。文系にしろ、理系にしろ、配属される研究室やゼミが決まったか決まらないかの時期に活動が始まっているわけだから、大学で何を身に付けたかという質問もずいぶんと様変わりしたのかも知れない。ひょっとしたら、企業にとっては、目の前に座っている学生本人の問題であり、彼らが大学で何をしてきたのかは問題とはならないのだろうか。確かに、最も重要な部分はどんな資質を持った人を採用すべきかであり、どんな大学で何を学んだかではない。しかし、大学を卒業することを必要条件と見なしている以上、大学に何かを要求しているのではないだろうか。今の様子を見ていると、教育機関全般に何かを期待する対象とは見なされていないように思えてしまう。

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1月28日(水)−元栓

 大地震や洪水などの自然災害に襲われた現場の様子を伝える画面によく登場するのが自衛隊である。自衛隊とは何かについては、学校で習った程度のことしかわからないが、それとはまったく別の任務に思え、不思議に思うこともあった。しかし最近では幸いなことにその本来の役割を活かす機会もなく、こういった災害復旧の現場で活躍することが本来のことと思えてくる。
 本来の役割とか、成立の経緯とか、確かに重要なことかも知れないが、別の形で役に立っているのなら良いではないか、という考えは一部では警戒されるらしい。以前起きた大地震の時に、出動要請を出さなかった知事に対して色んな意見が出されたらしいが、この辺りの事情もそれまでの歴史を検証しないと理解できないものなのだろう。防衛という形の戦力を準備するものとして捉えられていたのが、まったく別の形で災害復旧や毒ガス事件、はたまた不発弾処理などの現場で活躍する組織となってきた。どれも結局は通常では考えられない事態ということだから、戦場を想定し訓練を重ねてきた人々にとっては、それほど異常な事態と捉える必然性はない。そんな中で、今回の海外派遣も考え出されたものなのだろうが、依然として組織としては戦闘行為を行う者の集団となるから、解釈の難しいところだろう。適当に言葉を並べて、口先で誤魔化し続けようとすれば、どこかで破綻を来すだろうし、そうならなくても現実が予想と違った様相を呈するようになれば、言葉だけの論理では通用しなくなる。そんな心配をする人々と、別の思惑を抱いた人々のせめぎ合いはかなりの期間続いたが、結局のところ、先遣隊、本隊と派遣が続いていくようだ。そんな最中、定例記者会見という情報発信の場に制限を加える見解が出され、それを拠り所にする人々から反対意見が持ち上がっている。制限を加えようとする人々にとっては、無制限に情報が発信されるようでは、現場にいる人々に危害が及ぶ怖れがあるとする気持ちがあり、それに反対する人々には、情報を渡す際に機密にすべきと伝言されれば、不特定多数に伝達することを控えるのが原則だから、情報を流す大本での制限は情報操作に繋がるとして警戒しているようだ。まあ、どちらの意見ももっともと思える部分もあるし、結果がどう出るかによって見解が異なってくるのもやむを得ないだろう。その辺りも、それまでの記者会見の流れや関係者の発言などによる部分もあって、そんなに単純に考えられるものでもないと思えるが、そんなことを議論しているうちにさっさと話が進んでいってしまうから、要するに上流にいる者の方が主導権を握ることになる。情報発信する側から流す情報に制限を加えずにマスコミには全てを伝え、その中でさらに下流に流してはいけないものに関してはその条件を付け加えればマスコミはそれに応じるという情報の受け手側からの意見は、論理的で理性的なものに映るが、実際に情報の漏洩が起きてしまえば単なる空論、空想の産物となってしまう。そういう行為を行う人が出てくるかは仮定の話にしか過ぎないから、そんなことを前提にするのはおかしいのかも知れないが、結果としてそんなことが起きればそれによる被害を受けるのは情報を漏洩した人でなく、その情報の本題に関わる人々となる。もしそうなったら、誰が責任をとるのかを議論するのも良いが、もっと上流の方でそんなことが起きないようにすべきと考えるのも、一方の論理だろう。こういう状況は一部の人々にとっては戦時中の情報統制を連想させるものになり、その危険性を警告しなければならないのだろう。はたして当てはまることなのかどうかはわからないが、敵を欺くためには、という話もある。どちらにしても、どうなるのか注意して見守るべきものなのだろう。

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1月27日(火)−普通

 最近ベストセラーを次から次へと出しているある著者の母親の著した本が、先日のラジオの書評コーナーで取り上げられていた。既にこの世に亡い方だが、その一生を紹介した内容は、出演していた評論家とアンカーが二人そろって高く評価していた。波乱万丈の人生を紹介したこととその子供との関係に興味が持たれていたようだ。
 本の内容は、まだ読んでいないので紹介のしようがないし、彼らの話の一部を紹介するのも何となく気が引ける。何しろ運転中のラジオから聞こえてきたものだから、細かな点で誤解している可能性が大きい。でも、とにかく、子供との関係で評論家が強調していた点だけは、強い印象を覚えたから大きくは逸れていないと思う。今や出版する本のほとんどがベストセラーとなるこの著者は、大学の解剖学の教授をしていたが、定年を前にして私立大学に移り、今はそちらの教授をしているようだ。彼の小さな頃の話として紹介された話の中には、他の子と比べて様々な能力の発達が遅れているように見えたことから、母親が不安を抱いていたことがある。結局は、そんなに深刻にならずに、その子の発達を見守ることになったらしいが、母親が医者だったことからすると、やはり人間というのは自分の子供も含めて「普通」に育つことを望むのだということが見えてきそうだ。何が普通なのか、ということは別にして、何しろ他の子と比べて大差ないかどうかが肝心なようだ。言葉を発するのは幾つくらいの時か、ハイハイを始めるのは、歩き始めるのは、などなど、次から次へと課題が出されるわけで、そういう子供たちを見守る親としては、自分の子供のことが気になるだけでなく、その子のことを色々と気遣ってくれる周囲の人々の言葉が気になることもある。他の子に比べたら早いという言葉は嬉しいものだが、遅れているという言葉は逆の効果を生む。そんなことで一喜一憂するだけならまだしも、それが高じてくると悩みが大きくなる。この子は何かの発達が遅れているのではないか、その遅れは到達点が低くなることに繋がるのではないか、そんな思いがよぎり始めると、不安が不安を呼ぶようになってくるから、それを止めることが難しくなる。数年後の結果は、ほとんど変わらぬものになり、心配された子供の大部分は他の子供と一緒にグラフの分布図の中に入ることになる。その頃には、心配したことなどすっかり忘れてしまうのだろうし、もっと後になると自分の孫達を見て、同じような「普通」からの外れ方が気になったりする。まあ、そんなものなのかもしれないから、心配しなくてもいいと考えるのは簡単そうに見えるがそうでもないようだ。昔読んだ育児書にあった著者の言葉の多くは、そういう両親に発せられたもので、まずは心配しなくてもよいとし、さらにその中で本当に心配せねばならない症状とはと続ける。その流れは、心配から先に入らせる多くの育児書と比べて、大きく違っているように思えた。発達の遅れや早まりにも当然個々の違いがあり、それが分布しているわけだから、その子がどこにいるかによって、いかにも違っているように見える。しかし、それは結局集団が作り出す広がりに過ぎず、平均値が正しいことを意味するものではないから、そういうずれは起きて当たり前なのではないか。目の前の問題と理論上のものを、同じように考える事の難しさは、誰にとっても同じようなものらしい。

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1月26日(月)−真ん中

 バブル全盛期の頃だったろうか、日本人の意識調査をすると多くの人々が、自分たちの位置を中庸と表現していた。その頃に比べると今は、どうもそういった様子が見られなくなっている。悲観的な表現が好きなせいか、経済の上昇が停まっているように見えるときには、もっと下に見るようだ。どちらが正しいのか、誰にもわからないことだが。
 個人主義の台頭で一時ほどではなくなったにしても、平均思考の強さはかなりある。個人を対象にして物事を考えているにも関わらず、集団の中の位置を常に測ろうとする。そういった性格は個人に根づいたものというより、この国に生まれ育った人すべてに植え付けられたもののようにも見える。では、平均とは何かと尋ねると、真ん中くらいという返事が返ってくるのが関の山である。確かに、全てのデータを集計して、それをデータ数で割れば平均が導き出されるのだから、真ん中くらいという表現は正しいように思える。しかし、データによってはそうとは言いにくいものもある。たとえば、試験の点数で考えてみると、平均点が50点が色んな場合から導き出されることがわかる。総計40人が試験を受けたとして、全員が50点、半分が0点で残りの半分が100点、50点が20人いて残りが40点から60点の間にいる、など思いつくかぎり書き出したらきりがない。どれもが平均50点となるが、実際には0点と100点しかいない集団では、50点をとった人は一人もいないことになる。誰もいない平均を皆が意識するというのも変な話ではないか。統計を扱う人々は、こういうことに気がつき、別の指標を加えることでこれらの場合の違いを表現する方法を編み出した。その一つが標準偏差と呼ばれる指標で、データ全体の分布を表すものである。これを使えば、少なくとも全員50点の場合と色んな点に分布している場合を区別することが出来るし、その分布の仕方の違いもある程度推し量ることが出来る。いかにも便利な数値のようだが、絶対的なものではないようだ。分布は様々、種々雑多なものになるのに、数値は一緒となることがあるからである。多数のデータを少ない数字で表現しようとするのだから、そんなことは当たり前と言ってしまうと元も子もないが、そんなものなのだろう。これから派生したものに、偏差値と呼ばれる数値があり、模擬試験の成績表でよくお目にかかるあれである。この数値はデータに含まれる集団の平均値からの外れ方を表しているから、自分がどの辺りの位置に属するのかを推測する指標となる。当然ながら、この指標と大学などの入試との相関を導き出すことも可能で、それを使って大学ランキングが作られたりする。実際には、色んな要素が入り組んでいて、その数字をそのまま信じることは危険であるにも関わらず、多くの受験生やその親達が振り回されているのは不思議なものだ。世間的にも、これによって大学の優劣を判断する風潮があるから、関係者だけの問題でもないのだろう。いずれにしても、平均的であることを望む人々は、平均値であることに安心する。当たり前のように思えるこのことも、実はおかしなことのように思える。個人は個人であり、集団に属したからと言って、皆が平均になるわけではない。にもかかわらず、自分は平均にいるべきと思うのは矛盾している。この考え方の基には平均=普通というごく一般的と思える連関があり、平均から外れることは普通でないことを意味するから怖れるということなのかも知れない。中途半端な意識に基づいた個人主義が矛盾を以前よりも大きなものにしているように見えるが、集団の中のばらつきに気がつかない限り歪みはなくならないだろう。

(since 2002/4/3)